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1-1

 騒然たる蝉の鳴き声と、まるで灼熱の炎にでも囲まれているかのような暑さに僕は目を覚ます。視界に広がる薄暗い天井――ベッドの上に上半身を起こすと汗が頬を伝うのを感じた。寝間着も下着も汗を吸って湿っており、何だか気持ち悪い。呆然とする意識の中、首を動かして僕の部屋のベランダへと続くカーテンへと視線を向ける。締め切られたその2枚の布の間からは太陽の光が差し込んでいた。


「……暑い」


 呻き声を漏らしながら、ベッドの上の充電器に繋いだスマートフォンで現在の時刻を確認する。普段僕はアラームで起床する時刻を決めているのだが、その時刻の1時間も前に目を覚ましてしまっていた。どうしてこんなことが起こったのだろうと一瞬考えたが、すぐに答えは出た。騒音のような蝉の鳴き声に加えてこの茹だるような気温の高さである。こんなサウナのような部屋でこれ以上寝ていては危険だと僕の体が危険信号を発してくれたのだろう。まさに体内アラームである。


 ベッドから下りた僕は勉強机の上に置いてあるリモコンを手に取るとエアコンの電源を入れた。赤外線によって信号を受信したそれはその指示通りに室内に冷気を送り始める。エアコンの冷房の風を1分ほど真正面から体で受け止めて砂漠のオアシスにいる気分を味わった僕は乾き切っている喉を潤そうと部屋を出て1階のキッチンへと向かった。


欠伸をしながら階段を下りて、冷蔵庫から麦茶を取り出し、それをコップに注いで飲んだ。乾き切っていた喉が潤いっていく感覚――それはまるでゲームを得たゲーマー、いや、好きな小説のアニメ化が決まったラノベ読者、じゃなくて、水を得た魚……何か上手いことを言おうとしたが特に何も思いつかなかった。1時間も早く起きていることでまだ頭が寝ているらしい。思えば、水を得た魚という言葉もそういう意味ではなかったはずである。


 何はともあれ、水分補給を終えた僕は再度階段を上がって冷房が効いているであろう自室の扉を開ける。すると、先程僕がオアシスの気分を味わっていた丁度冷房の風が当たる位置で彩楓さやかが涼んでいる姿を発見した。冷風で微かに揺れる茶色を帯びた彼女の短髪――余程暑かったのか、彩楓は身に纏っている洋服を何と胸の辺りまで捲り上げている。しかし、彼女はこちらに背を向けていたため、僕からは露になっている背中の一部しか見えなかった。誠に残念である。いや、洋服と洋服の間から見える背中というのもスカートとソックスの間に見える絶対領域的な感じで風情があるかもしれない。そんな結局頭が働いているのか否か分からないようなことを考えていたら彩楓が僕の存在に気付いた。


「ちょっ! な、直斗なおと!」


 顔を真っ赤にしながら急いで捲り上げていた服を下ろす彩楓。


「ノックくらいしてよ!」


「いやここは僕の部屋だ」


 即座に言葉を返す。彩楓の背中に目を奪われていて気付かなかったのだが、ベランダに続く窓がいつの間にか開いていて、そこから外の風が吹き込み、カーテンを揺らしていた。おそらく――というか、確実にまたこいつは向かいの躑躅森つつじもり家のベランダからこの萩嶺はぎみね家の僕の部屋のベランダに飛び移ってきたのだろう。全く、我が幼馴染ながら無茶なことをするものである。まあ、もう何年も前からのことなのでもう慣れてしまったが。


「ていうか、何で僕の部屋でお前が涼んでいるんだよ」


「いやー、直斗の部屋に来たらクーラーがついてたから思わずね。朝のジョギングやって、シャワーは浴びたんだけど中々体の熱が取れなくてさ」


「朝のジョギング、か。よくやるよお前は」


「空手部――だけじゃないけど、全部活今日から再開だし、ウォーミングアップしておかないとね」


「ウォーミングアップなら部活の前くらいでいいんじゃないのか?」


「直斗は部活に対する意識が低すぎだよ! ものすごく低い! この低血圧!」


「低血圧は関係ねえだろ」


 そもそも僕は低血圧ではない。いや、正確な数値を計測したことはないけども。朝は比較的起きることができるタイプの人間なので低血圧ではないはず、多分。


「まあ、仮に僕が低血圧だとしたら、お前は高血圧だけどな」


「……直斗は何を言っているの?」


「お前が最初に言い出したんだろ!」


 小首を傾げて怪訝な表情をする彩楓。どうして僕が一人で勝手に変なことを言っている的な雰囲気になっているのだ。


「何に対しても準備をするというのは大切なんだよ? そして、その準備というのはいつからやっても遅くないの。ほら、よく言うじゃん? 転ばぬ先のぬえって」


「それを言うなら転ばぬ先の杖だ」


 突拍子もなく鵺を割り込ませるな。


 ことわざと鵺がキメラの如く混ざってしまっている。鵺だけに。


「ていうか、鵺って何?」


「知らないまま言っていたのかよ……まあ、言い間違ってはお前の言いたいことは大体分かった。確かに、事前準備は大切だよな。ゲームのイベント前とかアイテム貯蓄したり、レベリングしたりで準備が大変だしな」


「ゲームのことはよく分からないけど直斗に伝わったようであたしは嬉しいよ」


「しかし、シャワーか。僕もジョギングはしていないけども、寝起きで汗びっしょりだし、シャワー浴びてもいいな。時間もあるし、目も覚めそうだし」


「そう言えば」と彩楓は僕のベッドに腰を下ろす。ベッドには低反発のマットレスを敷いているため、座った時の反動で彩楓の体が軽く上下に揺れた。そして、彩楓の胸も揺れた。相変わらず大きいが、また大きくなったのではないだろうか。いや、僕が心配するようなことではないけれど。


「最近、この家のお風呂場行ってないな」


「お前が行く理由がないしな。昔はよく一緒に入ってたらしいけど」


 小学校に入る少し前くらいまで僕と彩楓は一緒にお風呂に入っていたらしい。両親からの情報だが。


「あたしと直斗が一緒にお風呂入ってたなんてねー、全く憶えてないや」


「僕もだよ。小学校の頃の記憶ですら既に曖昧なのに、それ以前のことなんか憶えてないな」


「直斗今からシャワー浴びるんでしょ? 憶えてないけど、久々に一緒にお風呂入ろっか?」


「え? マジで? 是非お願いします」


「何の迷いもなく即答された!? じょ、冗談だよ! い、一緒に入るわけないじゃん! 恥ずかしいし!」


「……し、知ってたぞ?」


「嘘! 絶対一度は本気にしたよね!? 今、一瞬だけど間があったし!」


「全くもう……」と顔を赤らめたまま少し怒ったように頬を膨らませた彩楓はベッドから立ち上がると風に靡いているカーテンをくぐり抜けてベランダに出た。


「それじゃあ、直斗。あたし、先に学校行くから」


「もう行くのか?」


「部活の朝練があるの。そろそろインターハイも近いし、できるだけそれまでに練習しておかないとね」


「あー、なるほどな」


 そう言えば、彩楓は今年のインターハイに出場するのだったか。夏休み中にあるらしいし、後で日程を聞いて応援にでも向かうか。しかし、まさか高校1年生でインターハイに出場してしまうとは、流石は彩楓である。よく知らないけれど、高校1年生でインターハイに出場するというのは中々凄いことではなかったか。


「部活の朝練があるなら仕方ないな。頑張れよ、彩楓」


「ありがと、直斗。それじゃあ、いってきます」


「おう、いってらっしゃい」


 ベランダの柵を蹴って、向かいの彩楓の部屋のベランダに彼女が降り立つのを確認してから、僕は自室を出て再び1階へと向かうのだった。



 ◆ ◆ ◆



 シャワーを終えた僕はリビングの時計を仰いだ。壁に掛けられたそれの二本の針が指し示す時刻を見て、家を出る時間までまだ少しあることに気付く。録画したアニメでも観て今日1日のモチベーションを上げようとリビングのソファーに腰を下ろそうとした時だった。不意にインターホンが来客の知らせを家中に轟かせたのだ。


「宅配便か……?」


 特に通販で何かを注文した記憶はなかったのだが、こんな時間から僕の家に訪ねてくるような人物は他に思い付かなかった。両親は相変わらず社畜で、僕が寝ている間に帰宅して寝ている間に家を出ているだろうし、また深夜まで帰ってくることはないだろう。そんなこんなで、来客の予想がつかないまま玄関に向かった僕は扉の小さな覗き窓から外の景色を捉える。扉の向こう側に立っていた人物に納得しつつも、どうしてこんな時間に来たのだろうと怪訝にも思いながら僕は玄関扉を開けた。


「お、おはよう、萩嶺君」


 扉の向こう側に立っていた来客の正体は宝船だった。その朝の挨拶はどことなくぎこちなくて、どこか彼女は緊張しているように見えた。


「ほ、本日はお日柄もよく、また足下が悪い中」


「どっちだよ」


 何というベタな緊張の仕方だろう。ベタとか言いながら二次元の世界でしか聞いたことはないが。


「お前が緊張していることも気になるけど、まずお前はどうしてこんな時間に僕の家を訪ねてきているんだ」


「ほら、朝一緒に学校に行くのって何だかその……友達っぽい、じゃない?」


「それはそうだけど……」


 そう言えば、2週間くらい前にこいつから友達宣言をされてしまったのだったか。あれ以来、何かと友達同士がやるようなことを積極的にし始めた宝船なのであった。しかしながら、僕も友達がいない――もとい、少ない人間なので彼女のその行動が正解なのかはいまいちよく分かっていない。


「来るのは構わないけど連絡してくれれば良かったのに。言っておくけど、今日は偶々起きていただけで普段この時間僕は寝ているからな」


「勿論、それを見越してちゃんと打開策を考えていたわ。まずはスマートフォンを出して」


「なるほど、それで僕に連絡して目を覚まさせるわけだな?」


「それを萩嶺君の部屋の窓ガラスに向かって投げ込む」


「電話を掛けろ!」


 何だその斜め上の発想は。


「何でそういう方法に至ったんだ。スマートフォンのそもそもの用途を言ってみろ」


「……アプリゲーム?」


「あながち間違ってはいないけどそうじゃない」


 小首を傾げながら言う宝船である。確かに最近のスマートフォンは色々と多機能だけども。


「ところで、萩嶺君何だか頭が濡れているようだけど、どうかしたの?」


「ああ、これか? 起きたら汗びっしょりだったから、シャワーを浴びたんだよ」


「萩嶺君……高校生でおねしょはちょっと」


「汗だって言ってるだろ」


「ごめんなさい、聞き逃したわ」


「大事な要点をピンポイントで聞き逃すな!」


 態とじゃないだろうな。いや、態とに違いない。


「ていうか、一緒に学校に行くのはいいけどどうしてこんな時間から何だ? まだ学校に行くには早いだろう」


「そ、それはあれよ……」


 口籠りながら僕から視線を逸らしつつ宝船は言う。


「……さ、30分前行動って奴よ」


「意識高すぎだろ」


 というよりも嘘をついているのがあからさまである。


「それで? 本当のところはどうしたんだ?」


「……は、萩嶺君の家でアニメが観たくて」


「やっぱりか……まあいいけど。先にリビング行って観てていいぞ。その間に着替えてくるから」


「あ、ありがとう萩嶺君。それじゃあ遠慮なく……お邪魔します」


 靴を脱いで僕の家に上がった宝船はそのままリビングへと直行していった。その後姿を見送ってから僕は学校へ向かう準備を整えるべく2階の自室へと向かうのだった。



 ◆ ◆ ◆



 寝間着から制服へと着替え終えて、鞄を肩に掛けた僕は1階へと向かう。宝船が何のアニメを観ているかは知らないが、時間的にそろそろBパートに突入する頃だろうか――そんなことを思いながらリビングに足を踏み入れる。しかし、リビングのテレビ画面は未だ録画された番組の一覧表で停止しており、アニメは流れていなかった。


「あら、遅かったわね、萩嶺君」


 テレビのリモコンを片手にソファーに座っている宝船は言う。


「何でアニメ観てないんだ? 今期のアニメは大体録画はしているから、お前が観たい奴が何なのかは知らないけど、録画リストにあるはずだけど」


「ええ、録画リストにはあったわ。でも、1人でそれを観るのは何だか味気ないなと思ったから、あなたを待っていたのよ」


「味気ない?」


「そう、味気ない、よ。最近、そう思うようになったの」


 リモコンを操作して、録画リスト上のカーソルを移動させていく宝船。


「前は――萩嶺君に出会うまでは私ずっと1人でアニメを……いや、アニメだけに関わらずオタク趣味全般をやってきたから。でも、最近は萩嶺君と一緒にアニメを観ることが多くなって、趣味を共有できるようになて、気付いたの。同じ趣味を持っている人と一緒に同じことをするのはこんなにも楽しいんだなって」


「そう思ったの」と宝船はとあるタイトルにカーソルを合わせて、そのアニメを再生させる。


 確かに彼女の言う通りかも知れない。今まで僕も1人でオタク趣味に関わってきたが、宝船が僕と出会ってからそう思ったように、必然的に僕もまた彼女と出会って――宝船と同じ趣味の時間を共有することでそう思えてきているような気がする。とてもキャラが動いていて作画の良いシーンや声優の演技が素晴らしいシーン――そういう名場面は他の誰かにも見せたくなるものだ。


「……そうだな」


 画面上で流れ始めたアニメのオープニング映像を横目に僕は言う。


「そういうの、何となく分かる気がするよ、僕も」


 それから、アニメを観終えた僕と宝船は学校へと向かうべく家を後にした。彩楓と一緒に自宅から学校に向かうことは今までも何度かあったけれど、今日隣にいるのは宝船である。家を出た直後はその新鮮さと違和感を覚えながら歩いていたが、駅に着き、プラットホームで電車を待つ頃にはそんな感情などどこかへ飛んで行ってしまっていた。何故なら、出発前に観たアニメの考察や感想を僕と宝船で互いに語り合っていたからである。


「やっぱり、ここは王道パターンで来ると思うのよ」


 プラットホームの椅子に座っている最中、すぐ隣の席で宝船は言った。


「主人公の力覚醒!的な感じでバーンと」


「覚醒なあ……でも、来週最終回だろ? まだまだ主人公の力は分からないことも多いし、そういう展開って良いのか?」


「大丈夫よ。私好きよ、理由も過程も何もかもが不明瞭な能力」


「まあ、確かに僕もそういうの好きだけどさ、訳の分からない力みたいな奴」


「それに、あのアニメって分割2クールでしょ?」


「え? そうなの?」


「いや、これは私の願望だけど」


「お前の願望かよ。ちょっと嬉しくなっちゃったじゃねえか。でも、続編はありそうだよな。主人公の力の仕組みもよく分かっていないし、色々と伏線っぽいこともあったし、まだまだ終わらないって雰囲気は確かにある」


「でしょう? オリジナルアニメだから少し不安だったけれど、何だかんだで今楽しめてるし、結果的に観て良かったと思える作品だったわ」


「僕も右に同じだな。制作も制作だから安定して作画良かったし、声優陣も良かったし、文句なしのアニメだった」


「まあ、まだ最終回すらあっていないんだけれどね」


「だな」


 と、そこまで会話が終わったところでプラットホームにけたたましいベルが鳴り響く。そして、アナウンスの直後、それなりの人ごみを乗せた車両が僕達の目の前に到着した。


「とりあえず、このアニメの話はここで一旦中止だな」


「え? どうして?」


「お前、自分がオタク趣味を周りから隠していること忘れてるんじゃないだろうな」


「あっ」


 僕の指摘に宝船はしまったと言わんばかりの表情で口に右手を当てる。そう、彼女のオタク趣味は世間には秘密なのだ。僕の前でオタクキャラ全開なのは僕が彼女のその秘密を知っているからである。まあ、偶然それを知ってしまい、それを言いふらさないか監視するというような形から僕達の関係は始まり、今に至るのだが。


 電車のドアがゆっくりと左右に開く。通勤通学時間と重なっていることもあって、電車から降りてくる人はほとんどいなかった。僕と宝船は電車に乗り込む。しかし、空いている座席がなかったので、乗り込んだ向かいのドアの前――横一列に並ぶ座席と座席の間のスペースに左右に分かれてそれぞれ立つことにした。


 ゆっくりと僕達を乗せた車両は動き始め、段々とそのスピードを上げていく。窓の外で物凄く速さで流れていく景色を横目に僕は宝船を一瞥した。彼女は無言でスマートフォンを弄っている。何か話題を振ろうと思ったが、オタク関連以外だと何を話していいのか分からなかった。いくつかの駅を経る間、沈黙の時に身を委ねる僕。


 毎回彩楓と一緒に登校していたわけではない。というか、彩楓は部活の朝練があったので、ほぼ僕は毎日1人で登校していたと言ってもいい。家を出て、電車に揺られて、駅を降りて、学校へと向かう――その間の時間は可もなく不可もなくそれ以上でもそれ以下でもない何でもない時間だった。両耳にイヤホンを挿し込んで音楽を聴きながら歩いていれば、気付けば目の前に校舎が見えていた――というようなレベルで、その時間を特に意識したこともなかった。


 ……そうか。


 この時間は、こんなにも長く感じるものだったのか。

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