ラウンド15(代々木健介)
(代々木健介)
審判がカウントを数え始めた。
「1っ!2っ!…………」
ぼんやりとする意識の中で、俺はそのカウントを聞いた。なんだか遠く聞こえた。
立たなくては。早く立たないと負けてしまう。
しかし、体に力が入らない。全身の筋肉が、戦うことを拒否している。
ずぐり、と折られた足に重い痛みが走った。
その瞬間、俺の中の弱い心がにじみだしてきた。
もう、いいじゃねえか。
このままじっとしてろ。
負けちまえよ。
負けて楽になれ。
「3っ!4っ!……」
カウントは進む。
浮かんできた弱い思考に、俺は心の中で舌打ちをもらした。
俺は、空手を続けることで、肉体的な強さを手に入れることができた。しかし、弱さという感情を、完全に消すことはできなかった。
今日のような逆境、ギリギリの状況に陥ると、奥に潜んでいた弱さは、俺の心を蝕む。
だいたい立ってどうしようっていうんだ。戦えやしないだろう。足の骨が折れてるんだぞ。
……その通りだった。
もう、俺は勝てやしないのだ。だったら無理に戦うことはない。このまま寝ていればいい。
そうだ。それでいい。
俺の中の、弱い俺が、にやりと笑う。
体から、力が抜けてゆく。
……なんで、俺、空手なんて続けてんだろ?
ふと、思った。
強くなりたいから?殴り合いが強いからなんだってんだ?俺が強いからって、誰が喜んでくれるっていうんだ。
……そういえば、五歳くらいの頃、空手を始めたばかりの頃は、俺が技を覚える度に、母さんが喜んでくれていたな。頭をなでて、ほめてくれた。それが嬉しくて、俺はもっと強くなろうと思ったんだ。そうだ。それが、空手を始めたきっかけ。
でも、母さんは、俺が十歳になった時に、癌で死んでしまった。それ以来、心の中に、大きな穴が開いたようになった。
その後も空手は続けた。強くなった。でも、それを喜んでくれるひとはいなかった。心に開いた穴は埋まらなかった。俺を恐れるヤツが増えてゆくだけだった。
俺は荒れた。
町の不良に片っ端から喧嘩を打ってぼこぼこにしてやった。親父に半殺しにされた。自分の強さがむなしくなった。
「5っ!6っ!……」
カウントが半分まで進む。
俺は、あきらめた。
もう、いい。負けよう。このままじっとしていれば、あと五秒で試合が終わる。
もう、俺は、強くなくてもいい。この試合が終わったら、空手をやめよう。
俺は、目をつぶった。
そのときだ。
「健介君っ!」
叫び声が聞こえた。
「お願いっ!負けないでっ!健介君!」
俺は、目を開けると、声のした方に顔を向けた。
リングサイドで、南斗さんが、目に涙を浮かべながらこちらを見つめていた。
ああ、そうだ。
いた。
俺の強さを喜んでくれるひとが、ここにいた。
南斗さん。
南斗晶さん。
彼女との修行の日々は、楽しかった。
何度もプロレス技を受けて痛かったけど、彼女と一緒にいるだけで、心が満たされてゆくのを感じた。
俺が、南斗さんの技をうまくかわしてみせると、彼女は輝くような笑顔を見せてくれた。
それを見て、俺は、胸が熱くなった。
空手をやっていてよかったと思えた。自分の強さを誇りに思うことができた。心に開いた大きな穴が、埋まるのを感じた。
……そうか。
ようやく、自分の気持ちに気付くことができた。
俺は、南斗さんのことが好きなんだ。
「立ってっ!健介君っ!!」
南斗さんが、泣きながら叫んだ。
誰だ?彼女を泣かしたヤツは?
俺か?そうだ。俺が負けようとしているから、南斗さんは泣いているんだ。南斗さんは、俺なんかのために、涙を流してくれているんだ。
「7っ!8っ!……」
意識がはっきりとしてきた。審判のカウントもはっきりと聞こえる。
南斗さんを泣かせてはいけない。南斗さんは、笑っている顔が、一番似合う。一番素敵なんだ。彼女の涙を止めなければいけない。それにはどうすればいいか。
「……勝つしかねえな」
俺は、起きあがった。全身に激痛が走る。痛めているのは足の骨だけではない。
「だああああああああっ!!」
しかし、俺は、その激痛を力に変えた。
そして、勢いよく立ちあがった。
「9っ!……………」
審判が、驚きの表情を浮かべてカウントを止めた。
観客のざわめきが聞こえた。
田山が、信じられないといった表情でこちらを見ていた。
リングサイドで、南斗さんは呆然としながら俺を見上げていた。
その目から流れる涙は、止まっていた。
「…………よし」
俺は、小さく笑みを浮かべ、拳を握りしめた。




