表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

私心中夜

作者: 悟正龍統

 童のドラキュリアが、その鬼才を露わにしたのは一九九九年、現在のヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ベツレヘム、イエス・キリスト生誕の地であった。そこら一帯のありとあらゆる生物を殺し尽くし、血に身を沈め高らかに嗤う幼き獣は、空の遥か向こうにある衛星のレンズに視線を定め、一言嘯いたのだ。去ねよ古き者供よ、と。それが現在を以てして終わらぬ戦いの嚆矢であった。太陽を克服した鬼子の名はローズレッド、真紅の人喰い薔薇。恐怖の大魔王すらも怯え霞む狂悖の童は、生まれのヨーロッパを散々に蹂躙しても未だ満足を覚えることはなく。我が身一つの化物になす術を持たぬ弱者を、今日も好き勝手に強者は弄ぶ。そうして戯れに殺めた一匹が、巡り巡って己を殺すことをドラキュリアはまだ知らなかった。

 アリス・セイバーハーゲンはシスターだった。過去形だ。先月まで孤児院で暮らしていたが今は一人、放浪の日々を送っている。理由は書類上の保護者の一人に狼藉を働いたからだった。簡潔に言えばムカついたからぶん殴って股間を蹴りあげてやった。カエルみたいな声を上げた神父の顔は思い出しても笑えてくる。本当に、クソッタレな野郎だった。テメエをキリストと思い違える傲慢さには反吐が出た。なにが戦わないだ。戦えないの間違いだろう。誰も彼にもアリスはムカつきを覚えずにはいられない。大人は皆々嘘つきだった。どうしようもない臆病者だった。彼奴らが身を捧げたのは断じて神ではない。悪魔か、それかあの吸血鬼なのだろう。天にまします我らが父よ。あなたの子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子の子くらいの大バカ息子供の不始末はどうか『私』がつけますから、どうぞ見守っていてください。それでも駄目だったらいっそ大洪水でお願いします。そうして祈りを終えた少女は今日もマウンテンバイクに跨る。目指すはベツレヘム。ドラキュリアの根城と化した神子の大地、そこで己は大罪を犯すのだ。

「「腹が減ったわ」」

 呟きは同時だった。まったく、なんなのだこの家畜は? ローズレッドは生まれて初めての困惑を少し楽しんでいる自分に気がついた。コレを見つけたのはつい先日のことだ。我が君臨する大地を、まるで恐れることなく進むその姿に怒りより先に興味を覚えた。そうして戯れに観察を続けていたが、どうやらコレはシスターの端くれらしい。もっとも食事の度に己の腕に注射針を突き刺すコレを、シスターが同業者と認めるかは甚だ疑問ではあったが。シスターとは人にとっては偉大なる神の使徒であり、ドラキュリアにとっては外れのなかった食材である。愚かな豚は己が身の安全のみに気を取られ、真っ先に生贄を差しだしていた。騙されたと知るやいなやの生娘の絶望は、いつだって童の目と舌を楽しませた。だというのに。コレはそんな素振りをいっさい見せぬ。まったく愉快な玩具を拾った。そうローズレッドは嗤った。

 さてはて野蛮な獣と聞いてはいたが、アリスの前に現れたドラキュリアはどういった戯れか、己の首筋を噛み千切ることもなく。言葉を交わす内に、気づけば少女は童の根城へと連れ込まれていた。途中、怖くて目は開けられなかった。けれどもバイクよ、舞い上がるにともなって地上と熱い抱擁を交わすことになったお前の犠牲は忘れない。うん。しかし参った。この童はまったく本当に化物だった。空を飛べるとか、そんな些細事じゃない。人じゃあ勝てない訳だ。何かといえばナイフが脇腹に刺さらなかった。抱きしめられている分には柔肌としか思えないというのに、突いた瞬間に刀身が折れた。どんな理屈だ。さらに続いたあくびである。痛覚が機能していないということは、本当に痛くないのか。しかし諦める訳にはいかない。チャンスはある。あるはずだ。絶対に。だから与えられた食事を少女は口に運ぶ。今は雌伏の時だった。それにしてもこの童、容姿に見合わず料理が美味い。少し悔しかった。

「ねえ、ローズレッド。貴女はどうして人間を殺すの?」

「……家畜の分際で我が名を呼ぶなんて、よっぽど死にたいのかしら」

「じゃあ、ローラ」

「おい」

「別にさ、殺したかったら殺せばいいじゃない。こっちは最後の晩餐なんだから、どうせなら疑問を解消してから死にたいんだけど?」

 ローラ。ドラキュリアはこの馴れ馴れしい家畜の呼んだ愛称を何度か自身の中で反芻した。悪い気分ではない。しかし何故だ? 普段はなんとも思わぬ家畜風情に、どうしてこんな感情を覚えるのか。思考をいくらか巡らせれば答えは出た。つまりペットか、そんなところなのだ。犬猫が好きな者がそれを邪険には扱わない。同じことだ。ならば食後の戯れにローズレッドは、しばらくこの金毛青目のペットに付きあってみようという気分になっていた。飽きたら殺せばいい。それだけの話である。ゆったりと居住まいながらドラキュリアはその口を開いた。

「それが〝定め〟だからよ」

「……なんの?」

「血の、……いえ、これは星の定めともいえるわね。この世にはたった一つのルールがある。家畜のお前にわかりやすく伝えるならばそれは――そう、弱肉強食」

「ずいぶんと野蛮なことを」

「そうかしら? このシステムがあったからこそ、貴様ら家畜は我が表立つまで星の支配者を気取っていられたんじゃない。この星は誕生以来、けして支配権の分割保持を認めたことはなかったわ。ホモサピエンスとネアンデルタール人の関係とでもいえばわかりやすいかしら? ……かつて二万年は昔。貴様ら家畜は近縁種であるはずのネアンデルタール人を、生存分布が違うにも関わらず徹底的に追い詰め、そして遂には殺し尽くした。ただの一匹も残さず、ね。これがどれだけ異常なことかわかる? 星の全体もわからず、まともな言語体系すらもなく、さらには単純な筋力でさえ劣っていたというのに、世界中のありとあらゆるホモサピエンスは、脳髄の大きさが一定値を超えた途端、まるで申し合わせでもしたかのように〝当然と〟己らに当時一番近しかったネアンデルタール人を抹殺した。そして現在においてもDNAにおいては極めてヒトと呼んでさしつかえない類人猿たちを、貴様ら家畜はけしてヒトとは扱わず、動物として飼育したり保護したり、はたまた〝うっかり〟絶滅させてしまったりしているのよ?」

「……違う」

「ふふふふ、それは何に対しての否定かしら? こうまで言えば流石にジャンキーなお前でも理解できるでしょ、ねえ? ――ネアンデルタール人さん」

 かたかたとテーブルが揺れる。それが恐怖からだと思ったのだろう。眼前のドラキュリアはにんまりと化物らしい笑みをアリスへと向けた。まったく。押さえろ、と少女は自身の両肩を抱いた。まだだ。まだ、……攻勢の時ではない。ゆっくりと懐に伸ばした腕を、さも面白げにローラは見送る。そうして現れた注射に、童は意外そうな顔をした。かまわず、少女は震えた腕のまま、その針先を自身の浮き出た青白い血管につぷりと突き刺す。つう、と中の液体が、体内へと入り込み、そして間を置かずに激痛が襲ってきた。額に脂汗が浮かび、吐き気を催しながらも、かつて〝作業機〟と呼ばれたシスターは、気丈にも童へと向きなおった。

「……あのね。わかってはいたけれど、こうもあからさまに鎮静剤を打たれると興醒めよ?」

「煩い、ハンデよハンデ」

「ふうん。まあ、いっか。……じゃあ、これでお前の質問には答えたわけだし、もう殺してもいいんだけど、……そうね、せっかくだから我からも一つ質問させてもらおうかしら?」

「…………何を」

「どうしてお前は我の前に現れた?」

 こんこんとテーブルの端を、〝おてて〟と表現できるローラの細い指先が叩いた時だった。不意に、アリスが瞠目した。カッと見開いた目ん玉はそれまでのジャンキー特有の胡乱さなど微塵に振り払ったかのような力強さで以て、このドラキュリアの瞳を射抜いたのだ。ペット、いやただの畜生如きが、だ。そうしてようやく自身の勘違いを童は悟った。少女が震えていたのは恐怖からではない。怒りだ。それも薬物で頭の中が腐りきってもなお、けして掻き消えることのない己への明確なる怒気、すなわち殺意。碌な武器が無かろうが、そんなことは少女には関係なかったのだ。向かわずにはいられない。その思いだけを抱いて薬で心を狂わそうが、こうして確かに少女は童の前に立っていた。この太陽を克服した鬼、ローズレッドの眼前に。なんと愉快なことか。このとき初めて童は少女を認識した。

「さあ! 我に聴かせるのだ、〝アリス・セイバーハーゲン〟」

「…………証明するためよ」

「ほう?」

「人はドラキュリアを殺せるってことを」

「…………」

「父が死んだのは先月のことよ。『私』の父は、教会内でそれほど政治力があったわけではないけれど、それでも知る人は知っている本物の神父だった。金に惑わず、祈りを欠かさず、いつだって誰かのために本心から悲しんで涙を流すことができた。『私』とは違ってね。『私』はどうにもそういう真似が昔から性に合わなかったから。だから心の底から尊敬していたの。……だというのに。父は死んだ。いいや、殺された! ローラ。貴女にじゃないわ、貴女に媚びを売って身内を生贄に奉げていた背教者に、……父は襲われたのよ。神の名の下に集ったはずの仲間に最後の最後で裏切られた! どうして? どうして父は、〝父さん〟は殺されなければならなかったの! 『私』にはまったく納得できなかった。だから調べたの。そして知った。父はね、ローラ。――貴女を殺す方法を見つけたの」

「――――っ」

「それが『私』がここまで来た理由よ、ドラキュリア。さあ、茶番はおしまいにしましょう? あらかじめ宣言してあげる。『私』は手も足も使わないし、まったく抵抗もしないわ。けれども死ぬのはお前だよ。真紅の人喰い薔薇、ローズレッド。お前は死ぬ、いや『私』に殺される!」

 アリスの言い分が終わらぬ内に、跳ねるように童のドラキュリアは少女の元へ肉迫していた。瞬きの後に少女に掴みかかり強引に立たせる。その背中を大きく反らせた様は社交ダンスにも似ていたが、違ったのは男役の童は見た目だけならば女子だったこと。そしてその体勢のまま少女の首筋に牙を突き立てたことだった。もはや語る必要もなく、ドラキュリアは少女という外敵を己が血肉とせんと、容赦ない吸血を開始し――。

 

 直後、声一つなく死に絶えた。

 

「………………は、」

 目前に山積む童のドラキュリアだった灰を眺めながら、アリスは小さく嘆息した。少女は確かに勝利した。しかし既に死にかけである。血が足りないとか、そういう問題ではなかった。己の命はあと数分も持たないことを少女は理解していた。次に意識が落ちたとき、それが己の人生の最後である。

「やったよ、父さん。けど……やっぱり痛いよ」

 独り言とともに流れるアリスの血涙は不自然なまでに、窓から差し込む夜光に対して煌めいていた。その色は銀、――そう銀である。ドラキュリアの領土に踏み込んでから少女が注射によって体内に取り込んでいたのは、けっして鎮静剤などではない。それはただの銀粉だった。けれどもそれこそが、武器持たぬ少女が父から継いだ対ローズレッドの秘策であった。太陽を克服したドラキュリア。そのいかなるものも通さぬ皮膚は其を絶対の鬼神と、人々に錯覚させてきた。しかし外表をいくら硬化させたとして、果たして臓腑まで変わったとどうして断言できるだろう? 父の疑問は当然で、しかしその所属故にそれはサタンの所業として断罪されざるを得なかったのだ。教義は自殺を認めていない。それは忌むべき悪だ。けれども成した少女は満足だった。大罪を胸に死にゆくその面には、確かにシスター崩れらしい笑顔が浮かんでいた。


私心中夜/終了


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ