第一の犯行
旅館に着くと、既に先客がいた。
先客は三人。
メガネを掛けたハゲた長身のおじいさんと、恋人らしきカップル。
おじいさんは新聞を額にしわを寄せながら読んでいる。
カップルはいちゃついているが、僕はカップルの男性の方がおじいさんを睨んでいるのを発見した。
まるで親の敵を見ているような視線に、背筋に冷たいものが走る。
「遥。お客はわたしたちとあの四人だけだってさ」
榎本が、だから、と続ける。
「女将さんが、一人一部屋でいいってさ」
榎本の後ろでは女将さんがニコニコして立っている。
女将さんがやって来て、簡単に旅館について説明してくれた。
「ここは私と料理人とお手伝いさんの三人で運営しているの。この近くには遊び場がないから、離れに絵を描いたり木工工作が出来る建物があるのよ。よかったら何か作っていくといいわよ」
「はい、ありがとうございます」
僕らは夜も遅いので先に風呂に入ることにした。
旅館は温泉だと相場が決まっているのだが、残念ながら普通の風呂だった。
風呂に入った後、自分の部屋に入る。
ドアはオートロックではなく、普通の鍵を掛けて開けるタイプのものだった。
内側からなら鍵を使わずに閉められる。
「な……!?」
部屋に入って驚く。
まず、部屋の天井が異常に高い。
軽く八メートルはあるだろう。
そして、一メートル四方の窓が一つ、床から七メートルの高さのところについている。
「流石に窓に鍵はついていないか……」
窓を開け閉めすることなどあるのだろうか?
いや、無いだろう。
だから、鍵がついていないのかもしれない。
気分転換に離れに向かう。
外から旅館を見た時に、あの異常に高い部屋の理由が分かった。
こちら側、つまり客が泊まる部屋は部屋の半分が地下に埋まっているのだ。
だから、外から見ると普通の部屋に見える。
「なるほどな……」
得心した僕は離れに向かう。
離れでは先ほどのおじいさんと狗神が絵を描いていた。
おじいさんもだが、狗神の絵も上手い。
風景画らしきそれは、デッサンの時点でプロだと言わざるを得ない出来栄えだった。
とりあえず、おじいさんに声をかける。
狗神は完全に絵に集中していて、邪魔するのがはばかられたからだ。
「あの、おじいさん?」
「なんだね?」
おじいさんは穏やかな声で返事をした。
「なんの絵を描いているんですか?」
言ってから、愚問だと気付く。
風景画ならこの建物から見えるあの湖の絵しかない。
離れのすぐそばには小さな湖があり、おじいさんと狗神は同じ風景を描いているのだ。
「湖の絵だよ」
心の中でおじいさんにすみません愚問でしたと謝りながら、話題を探す。
そして、おじいさんが新聞を読んでいたことを思い出した。
「おじいさんはなぜあんなにも真剣に新聞を読んでいたんですか?」
おじいさんは新聞を床から拾い上げた。
そこには悪質な銀行についての記事が大きく書かれており、おじいさんの写真がモノクロで印刷されていた。
「私はね。法律を守って金を稼いできた。だけど、法律は常に弱者の味方じゃない。それでも金を稼ぎ続けた結果がこれだ。金利を少し上げただけで三十の会社が潰れた」
「はぁ……」
おじいさんは悪人には見えない。
だが、善人でもないのだろう。
「だから、気分転換にここに来て絵を描いている。君は絵を描くかね?」
言われて、どう答えたらいいか迷う。
「まあ、ほどほどには……」
おじいさんは笑った。
「ははっ。面白い子だね」
褒められているのだろうか?
反応に困る言い方に僕は悩んだ。
そして、
「じゃあ、僕は木工工作でもしますね」
木工ボンドとノコギリ、木の欠片を持って二人の邪魔にならない位置に移動する。
「なにを作ろうかな?」
ふと、視界の端に彫刻刀を発見する。
「そうだ……」
僕は狗神と榎本のことを考えて、彫刻刀を手に取った。
二時間後。
「完成した」
僕が作ったのは榎本と狗神のミニ人形だ。
木彫りで荒削りだが、初心者なのだから仕方ない。
狗神も絵の続きは明日にするようで、片付けを始めていた。
一方、おじいさんはまだ描き続けるつもりらしい。
携帯電話で時刻を確認する。
二十三時だった。
道理で眠いわけだ。
「狗神」
狗神にミニ人形を渡す。
「これをあの短時間で彫ったんですか?」
狗神は素直に感心しているようだった。
「荒削りだけどね」
狗神は、大事にしますね、とミニ人形を抱きしめた。
なんだか狗神が普通の女の子っぽく見えてドキドキしてしまう。
つり橋効果?
いや、違うな。
最初からだ。
最初、出会った時から僕は狗神に、惚れていた。
「榎本にもミニ人形を渡さないと……」
狗神と別れ、榎本の部屋に向かう。
コンコン。
ドアをノックする。
「だれ?」
榎本が出てきた。
部屋に入る。
やはり榎本の部屋も僕の部屋と同じ構造のようだ。
「榎本。離れで作ったんだけど……」
そう前置きしてミニ人形を渡す。
榎本は一瞬驚いて、瞬きをした。
「べ、べつに欲しくないわよ」
僕は榎本に強引にミニ人形を押し付けるとじゃあと言ってドアを閉めた。
僕はゲームの主人公みたいに鈍感ではない。
だから、榎本が本当はミニ人形が欲しかったことにも気付いたし、榎本の僕に対する気持ちも知っている。
だけど、今はこの距離感が心地いい。
だから、僕は榎本とも狗神とも、これ以上の関係になるつもりはない。
「そろそろ寝るか……」
部屋に備え付けてあるテレビを何気なく見る。
『非常に強力な台風が向かってきており……気象庁は周囲に警戒を……』
台風か。
珍しい。
僕はそんなことを考えながら、眠りについた。
俺は、やつが一人きりになったのを確認して離れに向かった。
途中で人の気配がしたが、気のせいだろう。
俺はやつの後ろから忍び寄る。
ザッ……。
「誰かね?」
やつは絵を描いていた手を止め、後ろを振り向いた。
「君は、旅館にいた……」
持参したナイフを持つ手が震える。
「俺は……お前に潰れた会社の、社長の息子だよ」
「そうか」
やつは何かを悟ったように俺を見た。
それが気に食わない。
「許せない。許すものか!」
「いいのかい?」
やつは聞く。
「君はまだ若い。まだやり直しがきく。だから、私を殺して将来を棒に振るようなことはするな」
ふーん。なるほど、命乞いか。
「俺はお前を殺す。そう決めてここに来た」
「だが、いいのかな? 私がその気になれば君の会社を復興させることも……」
「戯れ言を言うな!」
お前が潰しておいて、そのセリフはないだろう。
「俺はお前を殺す。これは決まっていることなんだよ」
俺はやつに近付く。
「親父は首を吊って死んだ。母さんも後追い自殺をした」
「そうか。可哀想なことをした」
「分かったか?」
やつはだが、と反論する。
「君まで人生を狂わせることはない」
はぁ?
なにを言っているんだこいつは。
「親御さんのことは残念だった」
「だけど、俺が犯罪に手を染めることはないってか?」
「ああ」
ナイフが揺れる。
「そうだな。確かに俺が手を汚すことはない」
「……」
「新聞に悪事が書かれたんだ。俺がなにもしなくても、お前は終わりだ」
「では……」
やつが心の中であざ笑う。
それがよく分かった。
「じゃあ、俺はお前を殺さない」
「……」
やつはこのやり取りを脅迫として警察に俺を突き出すつもりだ。
だから、
「……なんて、言うと思ったか?」
ナイフを、刺す。
右胸に刺さったナイフは骨の間を通り、やつの心臓を貫いた。
「ぐ……は……」
返り血を浴びないようにナイフから手を離す。
やつは、自分がさっきまで座っていた椅子に崩れ落ちた。
「へへへ。いい気味だ」
俺はそう言うと、その場を逃げ出した。