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夜八時。
宿直の署員だけ残して閑散とした恵美須署に原田が戻ると、一階の受付では佳織が馴染みの女性警察官と楽しそうに話し込んでいる最中だった。
話し相手の巡査が原田の姿を認め敬礼すると、佳織は踵を返して小走りに彼のもとに駆け寄ってくる。手には小型のトートバッグ。
「お帰り、はいこれ」手渡されたその中身を覗き込むとバンダナに包まれた四角い箱、恐らく夜食の弁当「ありがとな、あとで頂くわ」と、礼を言う。
「聞き込み、どやった?なんかええ話拾えた?」まるで上司の様な娘の問いに、一瞬言葉を詰まらせたあと「まぁ、まぁ、かなぁ」と曖昧な返事。
「なぁんや、ピリッとせんなぁ!そんなこっちゃったら、ホシ挙げられへんで」と、またまた上司みたいな叱責を、いたずらっぽい笑いを浮かべ投げたあと「ほな、帰るわ」
「おう、気ぃ付けや、変質者なんかに捕まんなや」と、冗談めかした父親の注意に対し、
「大丈夫、もし遭うたら『ウチのお父さんは見かけはぼーっとしてるけど、ホンマは大阪府警最強のデカなんやで!』って脅したるわ」
そう切り返して手を振りつつ署の玄関を飛び出して行った。
細っそりした背中が消えるまで見送ったあと、トートバッグ片手に四階のデカ部屋へ。ここも人影は疎ら、原田の部下らはみんな岸川清子の事件か、質屋強盗の件で聞き込みに出かけている。
自分のデスクに着くと、まず弁当の包を開けた。まっ先に目に飛び込んだのは黄色も鮮やかな薄焼き卵と、ケチャップで書かれた「カンバレ係長!」の文字。思わず笑みが溢れる。
スプーンで卵の膜を破ると、中からは真っ赤なチキンライス。つまり、弁当箱いっぱいのオムライスと言う訳だ。実に佳織らしい大胆なアイデアと、原田は再びニンマリ。
甘いケチャップと、隠し味のチリパウダーの辛さを味わいつつ、ショルダーバッグからメモ帳を取り出し、開けて今日一日聞き込んだ中身を確認し、頭の中で再構成してみる。
佳織には、まぁ、まぁ、と、答えたが、本当は実りの多い一日だった。ただし、彼女には聞かせたくない話のオンパレード故に、思わず口篭ってしまったのだ。
岸川紗江子の少女時代は、今の佳織と恐ろしいくらいに境遇が似ていた。
佳織の母、つまり、原田の妻は、娘が五歳の時に家を出た。理由は『やっぱり育児に興味が持てない』との、事。
彼女とは大学で知り合った。父はそこの教授で、原田は彼のゼミの生徒。逆ナンパみたいな感じで引っ掛けられ、四年間付き合い大学卒業後、警察官に任官する直前に結婚。
地方公務員の妻という立場も、官舎暮らしも、今まで経験したことのない異世界の暮らしを楽しむノリでこなし、結婚一年目で産まれた娘も赤ん坊の頃はまるでペット感覚で育児を楽しんできたが、よいよ自我が現れる四歳ころから嫌気がさしたのか、育児放棄が目立ちだし、ついに一年経って結婚というものにも飽きが来て、別居が始まった。
そして、彼女の父親が、娘の破天荒さをかつての生徒であり義理の息子の前で土下座して侘び離婚が成立。原田の手元には、妻によく似た娘と、ノンキャリアの警察官には分不相応なマンションが残ったという次第。
つまり、佳織は母親に捨てられた子、という事になる。
紗江子も、そんな母親に捨てられた子だった。
彼女は今から三十年前和歌山市内で、地方銀行の融資係で務める父と、不動産会社長の次女である母の元に産まれた。正になに不自由の無い暮らしを演出するには十分なアイテムばかりの環境と言えたが、ただ、問題は母親の性格だった。
元から家庭的な女性では無かったらしいが、結婚五年目、紗江子四歳の時に、学生時代に付き合っていた男性と不倫を始め、それが発覚するとさっさと離婚し夫と娘を捨てて家を出てしまった。
それ以降、男手一つで娘を育て上げた彼の甲斐甲斐しさは、今回の捜査の主な情報源の一人であった紗江子の叔父、つまり父親の兄に言わせると『涙無しでは語れへん』物だったと言う。
彼女が幼かった頃はバブル景気の上り坂。地銀とは言え融資係は花形で、相当な激務だったはずだが、彼はそんな合間を縫って子育てを行い、残業の時などは支店長の許しを得て職場に娘を連れてきて、仕事をこなしながら彼女の面倒を見たという。無論、再婚の話は幾度となく有ったが、女性に余程懲りたのか全て断り、仕事と育児に没頭する。
そんな彼の元で育った紗江子の、父に対する思慕の情が如何に厚い物だったかは、容易に想像できよう。
実際、成長してからの彼女の人生は父に対する恩返しに専念したような物で、家事を手伝いながら持ち前の頭の良さで小、中、高と学年最高の成績を納め、ついに奨学金を受け地元の国立大学に入学、卒業後は県の職員として採用され将来を嘱望される様になる。
彼女の学生時代を知ろうと思い、中学時代や高校時代、大学の同窓生などを当たったが、これが恐ろしく難航した。
実に友達の少ない少女だったらしく、何とか高校生の時、同じクラスに所属していた同窓生に会うことが出来たが、彼女の持っていた印象も頼りないもので、曰く。
「登校して来た思うたら黙って席に着き黙々と授業を受けて、学校が終わると黙って家に帰る。たまに下校時姿を見かけたら、スーパーのビニール袋を前かごに積んだ自転車に乗って、猛スピードで家方向に走ってる。彼氏?そんなの彼氏の『かの字』も気配は無かったですよ、美人やったけど、だれも近づけへん雰囲気が有って、そもそも同性の友達も居らんかったんちゃいますか?」
県庁時代の同僚にも何人か話を聞けたが、高校時代とそうは違ったところは無く、似たような生活パターンを送っていたらしい。つまり、友達や彼も作らず、ひたすら職場と家の往復。
紗江子には家しか世界はなく、父しか関係を紡げる人間は居なかったのだ。父自身がそうだった様に。
密やかで閉じた世界は、今から七年前にその父が世を去ったことで突然終わる。
当時の紗江子の様子を叔父は。
「葬式ん時は、親戚一同気が気で無かったわ、もう、紗江子ちゃん、魂が抜けたみたいに成ってなぁ、皆で一晩中見張ってたわ、変な気ぃ起こせへんかいうてな」
彼女が和歌山を捨て、大阪で貿易会社の事務をしながら一人暮らしを始めたのは、父の死から間もなくの事。父が居なくなった街も、父に誇れると思って入庁した職場も、その彼が居なくなれば無意味ということだろう。
新しい職場でも彼女の印象を聞くため何人かから話を聞いたが、答えは学生時代や県庁時代と全く同じ、周囲が注目するほどの容貌を持ちながら、黙々と仕事をこなすだけ。
そんな彼女が、なぜ聖山遥拝講に入信したのかは今のところ解らない。
ただ、父が健在だった頃、よく二人で山歩きに行っていたのは、叔父やクラスメイトからの話で解っている。親子がよく行ったのは、和歌山から遠くない奥高野や大峰の山々で、聖山遥拝講の根本道場がある天川村洞川もよく知っている土地であったろうから、そこから繋がりができたであろうことは十分考えられる。
そこで、のちの夫になる岸川涼一と出会う。当時、彼は四十歳。商工会議所に務める団体職員で、大人しく引っ込み思案な性格ゆえか結婚もしておらず、資産家の母親と二人暮らし。
以前、岸川家で見た遺影は、実にその性格そのままの、細面で優しげな大人しそうな容貌だったが、捜査の途中で紗江子の叔父から魅せられた彼女の父の写真を見た時、兄弟では無いかと疑うほど二人が似ていたのには正直原田も驚いた。
彼女は、間違いなく、岸川涼一に亡き父の面影を見たのだ。つまり、紗江子は夫を得たのではなく、父親の代用品を獲得したという事だ。
しかし、その彼は母の強い支配下に有った。
彼も幼い時に父を亡くし、母一人子一人の環境で育ち、逃れ難い絆の下にあった。それは、彼を父のように慕う若く美しく才にも長けた紗江子でも容易に打ち破れないものだった。
やがて、その強すぎる絆が、涼一を死に追いやる。そう、清子の行き過ぎた母性が、紗江子から再び愛する父を奪ったも同然なのだ。
この時、彼女の中でどんな感情の嵐が吹き荒れたか?警察官の職を拝命して十二年、様々な人の心の暗黒面と向き合ってきた原田なら、ある程度推測できる。
夫を奪った新興宗教を、一年もの間、信仰している様に見せかけ、その一方で教団において先輩格である義母を凌駕する知識を身に付け、自分の言葉に説得力と強制力を持たせ『御仙水』を尋常では考えられないほど多飲させ、薬を飲ませ排出を滞らせ、水中毒による死に追いやる。
気の遠くなる様な遠大な計画を、考え実行しやり通すモチベーションを、紗江子はその時身につけたのだ。つまり殺意を。
原田はそう確信し、メモ帳と弁当箱を閉じた。