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川岸家は天王寺七坂の一つ、口縄坂の東の端にある。
曽根の案内で、かなり急な石畳の坂を原田は、夕暮れの名残の熱気に汗を当てられ、額に汗を吹きつつ登る。
ふと振り返ると日本橋の電気街、いや、今やオタク街は、ベッタリと赤い陽に染まり夕闇に落ちつつあった。
腕のセイコー5を見ると六時十分前、清子の義理の娘、紗江子が指定した時間が迫る。
「織田作さんの石碑から暫くのところが岸川さんの家です。もうすぐですよ」
立ち止まっている原田を気遣い、曽根は振り返って言った。片手を上げてそれに応える。
織田作之助の文学碑を過ぎると、立派な石組みの法面とコウヤマキの生垣に囲まれた一隅が現れた。曽根は『ここです』と指を挿す。
瓦屋根を頂いた格子戸の門は一間半ほど、古風な構えには似合わない最新式のCCDカメラとLED照明を備えたドアフォンを押すと『はい』という落ち着いた女性の声。
「あの、今朝、お電話差し上げた恵美須署刑事課の曽根です。上司の原田と参りました」
そう、よどみなく名乗る曽根。ルーキーとは思えない落ち着きぶり。
『どうぞ』と応える声に導かれ、敷地内に入る。
蘇鉄、山茶花、コウヤマキ、松・・・・・・。よく手入れされた庭木のあいだに敷かれた敷石を踏んで玄関を目指す。
そこには、既に彼女が待っていた。岸川紗江子。亡くなった清子の義理の娘、つまり息子の嫁。
丁寧に引っ摘められた長い黒髪、ほっそりとした輪郭の顔、伏し目がちな眼差しは大人しげだが、なぜか口元だけは肉感的な印象が強い。
華奢な体を包む萌黄色の作務衣は、清子が死の直前に身につけていた物と同じ『聖山遥拝講』のユニフォームみたいな物だと、事前に当たっていた資料には有った。
一礼しあたと、曽根と原田は警察手帳を灯ったばかりの玄関灯にかざしながらそれそれの氏名と階級所属を名乗る。
「兎も角、中へどうぞ」と、紗江子は白い手で開け放たれた玄関の奥を示し、二人を家の中に誘った。
黒光りする堂々と太い柱や梁に囲まれた十帖ほどの客間に通される。
開け放たれた襖の向こうは仏間。五十号ほどの楠らしき唐木仏壇と、前に設えた祭壇の清子の遺影、この仏壇も『聖山遥拝講』は一台五六百万で信者に売りつけるとの事。
ただ、これは清子の為に買ったものではないらしく、仏壇の上の鴨居には別の遺影が掲げられている。
四十代半ばの大人しげな男性。優しい微笑みをたたえ客間を見下ろす。
清子の祭壇に二人並んで手を合わせた後、背後で待つ紗栄子に曽根はたずねた「失礼ですけど、こちらの男性は?」
「私の主人です。一年前に信心の甲斐もなくがんで亡くなりました」と答えた後、彼女は寂しげな伏し目使いで。
「お義母さんも逝きはったし、これで私も正真正銘の一人ぼっちに成りましたわぁ」
彼女と、刑事二人の間に重い静寂が居座る。少し紗江子が俯いたのは、涙を隠すためだったのかもしれない。
暫くして、その場の空気を吹っ切るように「冷たいものでもお持ちしますわ」と、彼女はその場をそそくさと立った。
漢詩が書かれた襖を背に重厚な座卓を前にしばらく待つと、塗り物の盆に載せた湯呑二つを持って紗江子は再び現れた。
正座のまま再び腰を折る二人「いいえ、お構いなく」と社交辞令を言って上げた視線の前には、透明な水に満たされた湯呑。
「総先達様の有難いご祈祷で清められた『御仙水』です。どうぞ、召し上がって下さい」
そう言う彼女を前で、一瞬互を観る原田と曽根。まっ先に「では、ご馳走に成ります」と口をつけたのは曽根、続いて意を決して原田も湯呑を取る。
よく冷えて、残暑に蒸し上げられた体には有難い口当たり、少し重い感じはするがクセは無い。要はただのミネラルウォーターの味。
「お義母様のご葬儀は、お済みになられたみたいですね」
彼女の肩ごしに見える祭壇の清子の遺影を眺めながら曽根。
「はい、講中の皆様にお集まりいただいて、先達様にお経を上げていただいてしめやかに、あとは根本道場にお骨をお納めしたら一段落ですわ」
『講中』とは信者『先達』は教団幹部『根本道場』とは天川村の教団本部の意味と、脳内変換しながら原田は彼女の話を聞く。
「所で・・・・・・」そう切り出したのは曽根。
「お義母様、どこに行こうとしてはったかご存知ですか?私ら警察は、あべの橋駅へ向かってた事と、今、紗江子さんがお召しのと同じ作務衣を着てはった事から、吉野の天川村に行こうとしてはったと考えてるんですが」
「予定は聞いてませんでしたけど、多分、お察しの通りや思います」と答えた後「逆にお伺いしたいんですけど」と、既に差し出した二人の名刺を手に取りしげしげと眺めた後、紗江子は。
「強行犯捜査係て、なんか怖い名前ですけど、何を調べはる係りなんですか?」
と行き成りの逆質問、しかし、曽根は湯呑をおいてにこやかに応える。
「殺人や強盗、傷害、つまり人身に直接害を及ぼすような犯罪を取り締まる掛かりです」
少し驚いたように目を見張り「まぁ」と小さく驚いた後。
「何でまた、そんな係りの方が、お義母さんについて調べはるんですか?」
「交通事故以外の事故死や原因不明の死亡事案も一応私らの仕事でして、で、お義母様のお亡くなりに成り方が、水中毒いう特殊な原因でしたんで、なんでそんな事になったか言う経緯を明らかにせんといかん言うのが、私らの考えなんですわ」
そう応える曽根を、眉を顰めつつ見つめる紗江子。暫くして。
「なんでそんな事になった言われはっても、聞きたいのは私の方ですわ。お医者さんから死因は水の飲み過ぎや言われて、そんな事、有るはず無いやないですか『御仙水』は総先達様が神変大菩薩からお授かりに成った神通力を込めた有難い水ですよ、人の命を救うことは有っても、奪うやなんて、絶対にありえへんです」
先程までの穏やかさは何処かへ吹っ飛び、突然饒舌になって『御仙水』の擁護を展開する。
また、原田と曽根はお互い顔を合わせた。
「まぁ、落ち着いてください。私らはまだ『御仙水』が悪いと決めてる訳やないですから。ただ、下された診断が水中毒で、お義母様が信心されてた教えが水を飲むことによって心身を清めるいう中身やったから、その教えと、死亡原因のあいだに因果関係は有るのか無いのかだけを調べたいんです」
原田がそう諭すと、紗江子は形の良い肉厚の唇をへの字に曲げ、拗ねたように視線を逸らせながら。
「因果関係やなんて。そんなん無いに決まってるやないですか?だいたい、水飲んで死ぬやなんて、そんな話聞いたことないですわ」
「まぁ、私も恥ずかしながらこの事があるまで、水の飲み過ぎで死ぬことも有るやなんて初めて知りましたわ」
そうヒョイと頭を垂れて原田。その後、続いて質問を投げる。
「と、言うことは『聖山遥拝講』からもそう言う注意は無かったんですね?」
「常識から言う手無いに決まってますやん」
「では一日何リットル飲みなさいとか言う指示も有りませんですか?」
「そんなん、有りません。ジュースやお酒の飲むんやったら、有難いお力が込められた『御仙水』を飲むように、お茶を入れるのもお米を炊くのも、パンの生地を練るのも『御仙水』を使いなさいいう御講話は、総先達様からお聞きした事はありますけど」
そこまで言うと、紗江子は口元に手を当て、しばらく考えたあと。
「でも、お義母様、最近、今まで以上に『御仙水』をようさん飲みはるように成ってましたわ、このところ持病の高血圧が少しひどなって、目眩がするとかいうて・・・・・・」
「他に、何かお義母様の行動に変化は有りませんでしたか?例えば薬を飲むように成ったとか」
正座した自分の膝上あたりに視線を泳がせ、原田の続いての問いに紗江子は答えた。
「あの・・・・・・お手洗いが近う成った言うて、薬局に薬を買いに行かされましたけど。尿意を抑える作用があるいうのを」
曽根が目配せを送り、原田が小さく頷いて応える。抗コリン剤の話が出てきた。服用は清子自身の判断だったのか?念のため原田は突っ込んで聞いてみた。
「お薬の服用は、お義母様ご自身のご意志ですか?誰かから勧められたからとかでは、無いですか?」
答えは強く振られた頭。
「今までは講の教えに従って『御仙水』だけに頼ってはりましたけど、最近急に」
座卓の上に出していた手帳を仕舞いつつ、原田は。
「概ね、お伺いしたい話はお聞きできましたんで、晩御飯の支度も有りはるでしょうし、今日はこの辺で失礼させていただきます。お時間、有難うございました」
と、改めて向き直り紗江子に頭を下げる。続いて曽根もそれに従う。
「晩御飯やなんて・・・・・・。もう私一人だけですし、近所で出前でも頼みますわ」
そう寂しげな苦笑を湛え彼女は応える。そして、深々と彼女も腰を折った「こちらこそ、こんな時間を指定しまして、すんませんでした」
客間を発って玄関へ、見送る紗江子に原田は靴を履きながら振り返り、奥の仏間へ視線を投げながら問う。
「あ、そうそう、お義母様の所持品の中にお経の本が二冊有ったんですけど、何時もお出かけの時は両方持って行きはるんですか?一冊は文庫サイズの小さいので、もう一冊は金糸銀糸の豪華な装丁のやつでしたけど」
一瞬、右の眉が痙攣させ、紗江子は怪訝な表情を浮かべる。
「いいえ、常に携帯するのは小さい方で、大きいのは必ず家に置いておくもんです。私もご祭壇に無かったんで慌てて探したんですよ。お義母さん、なんでそっちの方まで持ち出しはったんやろ?」
そう、実に不思議そうに小首をかしげる紗江子。
「まぁ、少し気になったんでおたずねしたまでです。それでは私らはコレで失礼します。お気落としの無い様に」
ふたり揃ってまた深々と腰を折り「何にもお構いもできませんで」との声に送られつつ岸川家を辞する。
門の外まで送ってくれた紗江子に最後の黙礼で応じて帰路につく。
すっかり暗くなり、街灯を頼りに坂を下り途中で曽根が言う。
「教団の関与らしい話は出ませんでしたね。て、言うか、するはず無いですわね」
対して原田は「う~ん」
「こりゃ、白川さんと小磯もええ話は拾えてないでしょうね」
そう再び振って来ているにも関わらず、やはり原田は「う~ん」
「ねぇ、係長?なんか気になることでも有るんですか?」
たまらず問う彼に、原田はまたまた「う~ん」と唸った後「娘さん、寂しそうやったなぁ」
「そりゃぁ、そうでしょう。ご主人に続いて姑さんも亡くなりはった訳ですから、ご本人も一人ぼっちや言うてましたやん」
曽根が応じると、原田は不意に立ち止まり、岸川家を眺め呟いた。
「そやけど、お義母さんの話をしてる時は、あんまし寂しそうとか悲しそうな感じはせぇへんかったけどなぁ」
ギョッとして曽根も立ち止まる。その顔を眺めつつ原田は。
「岸川さんの家族の周辺、ちょっと洗ってみよか?」
「この地区の前の自治会長さん、僕が地域課に居った頃世話なった人なんですけど、古くからここに住んどられる方で街の生き字引見たいな人です。その人やったら岸川家の事情をよう知ってはる思いますわ。おまけに防犯の役員もしてはったから口も硬いし、僕らが話聞きに来た事も、間違いなく黙ってくれます」
原田は、そう即座に応える岸川の肩を叩く。
「すまんけど、今からその人の所、連れてってくれるか?今居てはったら話聞こ」