序
乾きの殺意
序
不快な質量を持った暑さが巷を支配する夏の日。
建設中の超高層ビルに見下ろされた我孫子筋の横断歩道を、萌黄色の作務衣を身にまとった老婆が歩いていた。
背中には、彼女の背丈には大きすぎるバックパック。肩からは作務衣と同色のズタ袋
方向は、JR天王寺駅から近鉄あべの橋駅へ向けて、足取りは、弱々しく頼りなく。
津波のような人の群れの中、それに棹さすような遅さで歩み、惚けたような表情で、ただ『近鉄あべの橋駅』の看板だけ見つめ進んでゆく。
思い出したように立ち止まり。手にしていた何のラベルもないペットボトルを口にする。
透明な液体を、乾きが耐えられないのかの様に一気に喉へ流し込み、容量五百ミリをあっとゆう間に飲み干す。
背後から来た明るい灰色のスーツを身に付けた若者が、彼女の肩にぶつかる。
「邪魔じゃ、クソばばぁ!」
長髪を振り乱し、思慮の欠片もない怒声を張り上げたのは、突然立ち止まった彼女への怒りか?まとわりつく暑さへの苛立ちか?
だが、彼は途端に青ざめる事になる。
老婆が、接触の反動で推されたのかの様に、その場に崩れ落ちたのだ。
そして、そのまま路上に倒れこみ、小刻みに震え始める。
歩行者信号が赤に変わろうがお構いなしに人垣が出来る。
携帯を取り出し一一九に電話をする女性、同じく携帯を取り出し震える老婆を写真に撮る学生、気味悪げに見下ろすだけで何もしない中年男。
クラクション、ざわめき、場所を告げる甲高い声、無機質な合成のシャッター音、それらの雑音が、周囲のビルに木霊し、炎天の空へ駆け上る。
あべの橋駅から駆けつけた四人の制服警官が、人垣をかき分け老婆に近づく。
二人は老婆に声を掛けながら脇の下と足首を持ち、比較的距離が近かった天王寺駅方面へ運ぶ、残った二人は大声と警笛で人垣を崩し、車の動きを再開させながら、老婆の近くにいた数人を確保する。後で事情を聞くためだ。
老婆を連れて行った二人は、天王寺駅のコンコースの床に彼女を横たえさせ、呼びかけ続ける。
巡査部長の階級章を胸につけた年配の警官が、耳を口元に近づけ呼吸を聞く。
彼は、硬い声でつぶやいた。
「呼吸、してないぞ」
もう一人の巡査は、半ば反射的に胸骨圧迫を開始。巡査部長は駆けつけた駅員にAEDを要求する。
けたたましいサイレンが鳴り響き、回転灯を煌めかせ、救急車が到着する。
不織布のジャケットを身に付け、オレンジ色のバッグを担いだ救急隊員が駆けつける頃、彼女の倒れていた場所では、あのペットボトルが行き交う車に踏みつけられ、形を失って行く。
アスファルトに流れ出た水は、盛夏の日差しに曝され、昇華していった。