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女奉行捕物帖  作者: 浅井
後の祭り
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天神祭の夜

 天満橋の通りは人でごった返していた。

 時は暮れ八つ。夜更けにもかかわらず幼い子供までもが水あめを手にして辺りを跳ね回っていた。

 かつての権力者であった太閤秀吉の奥方であった淀の名が付いた川では、日の本の中心であった豊臣時代を思い起こされる豪華絢爛さをを持っていた。山車の乗った舟遊びの提灯や、通りという通りに掲げられた竿燈に照らされた川面は夜空の星星を忘れさせ、半刻に一度は何十発もの花火が打ち上げられる。

 江戸でいうならば、両国の花火大会と浅草の三社祭がいっぺんにやってきた様なもので、これ以上ないぐらいの馬鹿騒ぎである。

 これも上方の気風の良さたる所以なのかもしれない。


「……ほらほら、気を付けて。そんなに酔ってちゃ川に飛び込んじゃうよ」

「ああ? わしゃぁ、酔っとらんわ! ほれみい、こうやって真っ当にやな……」


 忠春が宥めるように言うも、男は千鳥足を滑らせて天満橋を転げまわった。周りで見ていた人々はケラケラと笑い声をあげる。


「ったく、言わんこっちゃない……」


 町人達が楽しそうにしている姿を見ているのは悪く無い。しかし、こうやって介抱する側に立つとなれば話は別だ。

 時候は文月。忠春ら西町奉行所は月番のため、通常の職務を半ば放棄して天神祭の警備を担当させられていた。

 普段は事件が少ないうえに、祭りに最中に起きることといえばスリや喧嘩騒ぎ程度のものなので容易く鎮圧出来る。大した仕事で無いと言えばそうなのだが、やっていて楽しいものでも無い。それは忠春の浮かべる疲れ切った顔が全てを物語っていた。


「……分かってはいたけど来る日も来る日も酔っ払いの介抱か。傍かすれば見世物を見てるようなもので楽しいかも知れないけど、それをどうにかしなきゃいけないとなったら悲しいぐらいに面倒くさいわね。手当たり次第に川に突き落とせばいいのに」


 忠春は天満橋の欄干に腰掛けて夜空を眺めると、大阪中を包む轟音と共に満月を背景に大輪の花が咲いた。


「まぁ分からなくもないけども、誰かしらこういう仕事をしなきゃいけませんからね。それが俺たちだったってことですよ」


 大阪西町奉行内与力の小峰義親は言う。スリやかっぱらいの標的になるので酔っ払いをそのまま放置する訳にもいかない。

 となると、酔っ払いの介抱は巡り巡って市中の見廻りと警備をしている奉行所の仕事となる。


「それくらい分かってるわよ。愚痴ぐらいこぼさせてよ。面倒事はもっとあるんだからさ」


 忠春が花火を眺めながら言う。義親は肩をすくめて欄干にもたれ掛かると言った。


「まさか高井様が窮地に立たされていたとは予想外です。それも、私たちの活躍でですから」

「義親、正直に生きるってのも辛いのね。こんな風になるなんて考えつかなかったし」


 花火がもう一発打ち上げられて大きく弾ける。周囲では歓声が沸くも、忠春らの間では深いため息しか出ない。

 大輪の欠片に照らされて忠春の顔が見える。口をへの字に曲げ、どこか憂いたように花火の消えた眺めている。


「町奉行は二人居る以上、片方の活躍によってもう片方の評価が決まる。仕方無いと言えばそうなのかもしれないけど、だったらなんなの? 私を曲げて生きなきゃいけないの?」


 事の次第は先週にまで遡る。





 異様とも言える長梅雨が終わったのは文月の中ほどだった。

 それからは雲一つない青空と熱い日差しの日々である。日の本中に降り注ぐ熱気は心地よさを運んでくる思いきや、大阪の町に悲劇をもたらすことになる。


「……上方一円の収穫高見込みは前年の半分以下か。これってかなり危ないでしょ」


 大阪西町奉行所の熱気が籠もった一室の中、各庄屋から提出された文書を見た忠春は顔を青くして頭を抱えた。

 長梅雨の後は猛暑。お天道様の気まぐれはどうしようもないとはいえ、そのまま何もせずに手を拱いている訳にもいかない。


「江戸にいる政憲様からの情報によると、上方は酷暑というのに、東北の穀倉地帯はかなりの冷夏になっているとか。これじゃ全国規模で危ういですよ」


 義親の言葉を受けて忠春の気分はさらに淀んだ。

 淀川の小魚が茹で上がるんじゃないかというぐらいに熱い大阪なのに、義親の言葉でこの部屋の空気が一気に冷え込んだ。


「これでは大飢饉は待ったなしでしょう。はっきり言って天神祭なんかやっている場合ではありません。直ちに中止の命令を下すべきです」


 西町奉行所与力の大塩平八郎は毅然と言う。とんでもない言葉を放っても表情一つ崩さない。いい所であり悪いところでもあった。

 上方でも京の祇園祭りと双璧をなす大祭「天神祭」は絶賛開催中であり、夏の日差しを忘れようと辺りの通りは浮ついている。

 突拍子の無い言葉にため息を交じりに忠春は口を開いた。


「いやいやいや、それはあり得ないから。でも、ほんとに祭りなんかやってる場合じゃないのかもね。平八郎、何か打開する策があるんでしょ?」

「当然あります。各藩に蔵米を解放せよと通達しましょう。そうすれば各藩の蔵で眠っていた米を市中に開放することができます」


 喫緊の事態に備えて幕府や藩は蔵米と呼ばれる非常事態用の物資を持っていた。その米を市中に流して流通量を多くすることで、大飢饉を回避しようというのが平八郎の策であった。


「確かに。流通量が多くなりゃ米の値段は下がる。なんだったら焚きだしでもやればいい。そうすりゃ米は町人達の手に渡り易くなるって話だよな」

「そうだ髭男。お前の小さな頭でも理解できたか」

「お前の口のきき方はこの際黙っててやる。だが、お前の策には大きな問題点があるだろ」


 平八郎は眼を合わそうともしない。衛栄は青筋を立てながらも堪えて言った。


「連中も収穫高が目減りするってのを分かってるだろうし、その影響で米の値段が跳ね上がるってのもわかってる。そんな時においそれと米を供出すると思うか?」

「そ、それは……」


 怒りを押さえながらの衛栄の言葉に平八郎は口ごもった。

 平八郎の献策には大きな問題点がある。それは衛栄の言葉の通りで、奉行所の指示に各藩が従うかどうかということだった。

 淀川の中州である堂島には米会所と呼ばれる先物取引所があり、そこで各藩で獲れた年貢米を換金していた。そこで得た金で藩の財政を回している。

 増加傾向にある人口に対して、大飢饉で米の供給が減れば米の値段は跳ね上がるのは間違いなく、金欠で苦しんでいた各藩からすればこの大飢饉は大金を手にする好機である。


「確かにそうですよね。東北から上方にかけて飢饉ということは、各藩で一部の米を供出しなければなりません。衛栄殿の仰る通りではあるのですが、幕府の命令となれば供出しない訳にも行きません。まぁ、各藩の我々に対する心証は悪くなるでしょうが」


 義親も言う。ここで平八郎の自信に満ちた表情は崩れ落ちる。

 ここ数年間、日の本全体での米の収穫高は芳しく無かった。飢民を出す訳にもいかないので市中に米を放出していたので幕府の蔵米は少なく、同様に蔵米を切り崩して飢民対策を行っていた諸藩もそれは同様だろう。

 そんな中に幕府から指令が下ったらどうなるだろうか。当然、要らぬ出費に幕府へのよく無い心証は更に悪くなるだろう。


「ならば、我々幕府が買い取ればいいではありませんか。それならば諸藩も納得するはずだ」

「馬鹿言え。そんな金がどこにあるっていうんだ。俺たちの一存で自由に動かせるのは、せいぜい大阪城の蔵米だけだろう。各藩の供出分はオマケ程度に思うしかない」


 大阪の胃袋を東西奉行所一人で賄うなどどだい無理な話だった。

 場が荒れて来た所で忠春は声を掛ける。


「……とにかくみんなの意見は分かった。忠邦の野郎に掛け合って蔵米を放出させるように取り合ってみる。一応、諸藩にも声を掛けてみるから」


 忠春の一声でなんとか収まった。与力同心達はわらわらと部屋を後にするが、平八郎だけは衛栄を睨み続けていた。


「忠春様! 大阪城から緊急の文書です!」


 そんな折の話だった。汗をダラダラと流しながら走り込んできた同心が一通の文書を手渡した。

 差出人は大阪城代。キザな細い文字だけで気分が悪くなる。その内容は忠春の気分をもっと悪くさせた。


「どのような要件でしょうか」

「”大阪城に至急出頭せよ”か。多分、情報に聡いヤツのことだから飢饉についての話なんだろうね。まぁ、面倒ゴトは勘弁してほしいんだけど」





 この日の忠春は実に冴えていた。忠邦に開口一番に問われた内容は奉行所内で話しあっていた内容だった。


「大阪西町奉行大岡忠春、近いうちに訪れるであろう未曾有の大飢饉についてどう思う」


 江戸からの情報は大阪城にも届いていたらしく、忠邦のいけすかない顔がいつになく曇っている。


「このままでは上方中に飢餓民が大量に生まれるわ。それに、冬を越せない農民たちは大阪にやってくるだろうから治安は著しく下がりそうね」

「ふん、悪く無い状況判断だ。それでお前はどうしようと思っている?」

「即刻大阪城の蔵米を供出すべきよ。少しでも多くの農民を救うべきね。それに、上方の諸藩にも蔵米の一部を出すように命じた方がいいわ」


 ついさっきまで奉行所内で会議していたことを全て話した。忠邦の反応も悪く無い。


「それについては両町奉行で詮議した上で行うがいい。大名家への催促も勝手にしろ。つべこべ抜かすようなら大阪城代の委任とでも言っておけばいい」

「アンタにこんな事を言うのは最初で最後かもしれないけど、ありがとう。呼び出したのはこれが理由でしょ? それじゃ失礼を……」

「何を言っている。そもそも、今日お前を呼び出した理由はこれだけじゃない」


 これは想定外だった。突然の話に忠春は面を食らう。


「これ以上何を話すって言うのよ。喫緊の事態はこれぐらいでしょ」

「お前が詮議すべき相手の話だ」

「は、はぁ?」

「物分かりの悪い奴め。東町奉行、高井実徳の処遇についてだ」


 あっけに取られていた忠春だったが、その一言で目の色を変える。


「……実徳殿をどうしようっていうの?」

「この半年ほど東西奉行所の動きを見ていて分かったことだが、ヤツはもう歳だ。ここいらで潮時だろう」


 忠邦は言う。実徳は前に50近いと言っていた。働き盛りの年齢とも言えるし、体の調子は下り坂半ばとも言える時期だ。体は確実に弱くなってゆく。

 実徳は大阪町奉行暮らしが長いので仕事に慣れてるとはいえ、体を崩しでもすれば一大事に陥る可能性もある。

 しかし、忠春は即答した。


「どう考えても反対よ。実徳殿は私から見ても良くやってると思う。新光門の時だって東町奉行所の協力なくして事件の解決は無かった」


 忠邦の言葉に理が無かった訳ではないとはいえ、忠春にとって到底納得できる内容では無い。

 これまで東町奉行所は表立った行動は取っていなかったが、新光門についての情報・資料提供といった水面下での合作は多いに行われていた。

 その後も、時には東西合同での踏み込みや、取り締まりを行うなど、かつて無いほどに東西奉行所は綿密な行動を取っている。


「水面下で何があっても俺は知るはずもないから何とでもいえるだろうよ。ただ、大阪市中じゃお前の話ばかり聞くらしいな。奈良奉行の一件や新光門に大相撲、なかなか面白い裁きをするじゃないか。『西町の奉行は面白い裁きをする』なんて話はよく聞くぞ」

「……いきなり何を言い出すのよ」


 思いがけない言葉に調子を崩された。忠春の強張った顔がほのかに揺らぐ。

 だが、忠邦の口から続けられる言葉は厳しいものだった。


「ただな、続く二の句はいつもこれだ。『それにひきかえ東町奉行所はなんなんだ』ってな」


 忠邦の言葉に偽りは無い。今まで出会った人は口を揃えてそう言っていたのは知っているから、忠春らにとって誇らしい所でもあった。

 かといって東町奉行所は何もしていない訳ではないが、傍から見ればそう思われても仕方が無いのかもしれない。


「確かに私たちの仕事ぶりは抜きんでてるかもしれないけど、実徳殿だって堅実にやってるでしょ。そもそも比較するのが間違ってるのよ。事実、大阪の治安は悪く無いし……」

「あくまで俺は事実のみを喋っている。市中の治安が収まっていようがいまいが、実徳はお前に大きく水をあけられているのは間違いない」


 忠春は忠邦を睨みつける。忠邦は気に止めずに言葉を続けた。


「それに、その新光門の裁きの時、実徳という男の底が見えた。共同戦線を張っていた盟友が堕ちて行く瞬間を見ただろ。あんなのを見せられたら望みなんて無いも同然だ。お前らが俺を嫌おうそんなことは大した脅威にはならないがな」


 威勢の良く話していた忠春は閉口する。以前、この部屋で曹乙の処遇をここで決めた際の実徳の打ちひしがれた顔は忘れられなかった。忠春の心の隅に新たな町奉行を求める気持ちは無い訳でも無い。


「とにかく反対よ。この時機に実徳殿を解雇したら大阪に疎い人間しか残らない。それは市中、いや幕府にとっても良い結果は残さないでしょ」


 それでも忠春は必死に言葉を紡いだ。忠邦は薄く微笑むと言う。


「……まぁいい。この件については追って沙汰を出す」

「当たり前でしょ。そもそも人選は老中が持ってんだからアンタや私の一存でどうこう出来る問題じゃないし」


 そもそも大阪町奉行職というのは老中配下にあり、大阪城代は将軍直属の部下なので忠邦の指示でどうこう出来る話では無い。

 忠春が得意げに語るも、忠邦の顔は涼しかった。


「生憎だが、町奉行の人選については老中主座からの諮問があった。つまりは俺の匙加減一つといってもいい。それに、ヤツはこの暑さにやられて体調を崩したと聞いたぞ。案外先は短いのかもしれないな」


 忠邦の話す言葉、全てが寝耳に水だった。

 江戸からは南町奉行の筒井政憲から情報が逐次入って来るようにはしている。だからこそ大飢饉の危機が来るという情報を得ていた。だが、政憲からの情報の中に大阪町奉行の人選について聞いていない。

 それに、高井実徳の病気については、ここで初めて聞かされた。この一件が最も大きな衝撃だったかもしれない。


「じょ、冗談でしょ?」

「残念だが事実だ。これ以上何か起きればヤツの席は無いと思え。要件は以上だ。お前も職務に励め」


 忠邦は表情を崩さないまま部屋を後にした。

 老中首座は水野一派の親玉である水野忠成なので、送られてくる人間は必然的に水野派の人間だろう。そうなると忠春の大阪での立場は危うい。

 ぴしゃりと襖が閉まると余計に忠春の心胆は涼しくなる。うだるような暑さも関係なかった。ただただ、背中に冷や汗が滴りおちる。





 こんなことがあっただけに忠春の顔は物悲しげである。

 夜空を見つめる視線に迫力は無い。ただただ。呆然と花火へと視線を送るのみだった。


「……残念ですが私には分かりかねます。ただ、これだけは言えることがございます」

「言ってみなさい」

「何があっても私は忠春様を支えます。それだけは確かです」


 再び夜空に大輪が咲くと、義親は毅然と答える。

 花火に照らされて忠春に映った義親の目には邪心などひとかけらもない。大岡越前守忠春に対する忠誠心と敬愛する心のみだ。


「そ、そんなのは当たり前でしょ。何を今さら言ってんのよ。馬鹿じゃないのっ!」


 忠春は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。そんな場面を衛栄も見ていたのだろう。薄ら笑いを浮かべながらのそのそとやって来て言う。


「おうおうおう、このクソ暑い中、お二人の仲は燃え盛ってますねえ。私の存在はお邪魔でしたか」

「ったく、この未曽有の大飢饉一歩手前だってのに呑気な男ね。文ちゃんと遊んでないでさっさと仕事しなさいよ」


 鋭く毒づいた。いつもであれば適当に二言三言冗談を言い返す衛栄だが、この時は違った。

 汗ばんだ額を掻いて苦笑すると、真剣な表情に戻る。


「残念ですけど呑気じゃありません。大事件ですよ。川下で大変なものが転がってました」

「何が転がってたのよ」

「死体ですよ。至急、奉行所に戻ってください」


 泣きごとの一つでも言ってやりたい忠春だがそうもいていられない。大輪の花火の中でため息を一つつくと奉行所へと帰って行った。


「……分かったわ。端から祭りを楽しもうなんて思って無かったけど、私には大阪の情緒を味わう余裕もないようね。ほら義親に衛栄、行くわよ」


 激務に変わりは無いが、それでも顔つきは悪く無い。気落ちしていた先ほどとは違って目は輝いていた。


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