仲夏一番!
「……出来ました。これを食べてくれ」
「こりゃぁ、また地味なモンを作るのね」
徳兵衛が声を上げて驚くのも無理はなかった。
出されたのは底の深いお椀に盛られたのは薄茶色をした汁物である。具は干しエビ数匹と白髪切りにされた生姜のみ。作り方も盛りつけも簡潔そのものだった。
「これがオレの料理や。小峰様や内山様も冷めないうちに飲んでください」
目の前に出されると、貝と生姜の香りが鼻孔を刺激した。先ほどの濃い料理とうって変わって龍三郎の料理は淡白そのもの。
なのに、それがまたよい。初めて見るはずなのにどこか懐かしい。味つけは違えど、幼い日に飲んだ味噌汁を思い出させるような心地にさせた。
「なんやこの汁は。なんでこんなもん食べさせたいんや」
「御託はええ。お前もさっさと飲めや」
横やりを入れた晋太郎にも無理やり飲ませた。口に含んだだけで義親・彦次郎・晋太郎の目の色が変わる。
「……こりゃぁ、すげえ。信じたくないけどめちゃくちゃ美味いぞ」
「なんてこった。あんなに濃い味のものを食べたって言うのに、ここまでしっかり味がするのか」
「凄いわ。味が濃いって訳じゃないのに、エビ・ハマグリの味がする。なかなかやるじゃなないのさ」
彦次郎・徳兵衛・晋太郎と三者三様の反応だが、一口飲んだだけで料理の凄みを感じたのだろう。目を閉じて
「凛、これが食べさせたかった料理『蛤羹』や。飲んでくれ」
凛は龍三郎から器を受け取ると匂いを嗅いだ。
「……懐かしい匂い」
器からのぼる湯気をひと嗅ぎしただけで、凛の茶色い瞳から涙がこぼれた。
「……いただきます」
それから添えられた陶器のレンゲで汁を掬って口に含んだ。瞳から更に涙がこぼれる。
「ハ、好吃…… 好吃っ!」
「な、なんで泣いてるんや。そんなにまずいもん食わせたんか」
「よかったわ。これで合ってたんやな」
凛は涙をこぼしながら何度もレンゲを口に運ぶ。何度も鼻をすすり、顔をぐしゃぐしゃにしても凛は羹を口に運ぶのを止めない。
「なるほど。面白い料理を作ったんやな」
「内山殿はお気づきになられましたか」
「あの男は凛を心から見ていたらしいな。晋太郎、残念やけどお前の負けや。こっちが凛の故郷の味だろうよ」
泣きじゃくりながら羹を啜る凛の姿をぼんやりと見ていた晋太郎だったが、彦次郎の声を聞くとすぐさま我に返って詰め寄った。
「ひひ彦次郎様、なんでですか! あの本を読んでこっちがええといっとったのに」
「考えてみいイナッ子。あの遊女の生まれはどこや」
「台湾の花蓮とかいう村やろ。んなこというても、色んな人に聞いたって花蓮なんて村は知らんて言ってたじゃないですか」
「確かにそうや。せやけどあの子の話を思い出さんかい。あの遊女は漁の最中に難破して我らの国に辿りついたはずや。だとすりゃ、海沿いに住んでいたというのは容易く思いつく」
彦次郎の言葉に龍三郎は詰まる。握り拳を震わせながらすごすごと自分の調理台へと戻ってゆく。
「結局アレやな。どっちが真摯に凛の事を考えていたかに尽きるんや」
「……何ゆうとるんですか。オレも凛のことを考えて作りましたて」
「中々言うやないか。それなら聞くけど、お前はなんで美味いもん食べさせたかったんか?」
「そ、そりゃぁ、ワシは料理が得意やから、こっちに来て寂しい思いしとる凛を勇気づけようとやな……」
晋太郎は言うが、喋って行くうちに尻すぼみになってゆく。
「ほれみい。結局お前は自分本位なんや。心意気はええし、確かに腕は立つかもしれん。せやけど、真に凛の事を考えとったんは相手の方や」
「アタシも同じ感想よ。本当はアナタを食べちゃいたかったんだけど、龍三郎の方が美味しかったわ。それに、あの子の顔を見なさい。気苦労が晴れるってことはあらへんけど、今飲んだ一杯で心は晴れたようよ」
徳兵衛は言う。この一言で決着がついた。龍三郎は肩の荷が下りた様に足を折って地べたに座り込む。
「しかし小峰殿、この料理を作れってアイツにゆうたんですか」
「いえ、特に何を作れとは言っていません。ただ、異国に来て何を食べたいかとウリ坊に聞きました」
「……なるほど。そういう風に。私はあくまでも算盤が専門の与力。そっちの方は不得手やったんかもしれんな。しかし小峰殿、あなたは頭の方もなかなか切れとりますね」
「いや、それほどでも……」
彦次郎は笑みを浮かべて義親を手放しで褒め称えた。恥ずかしそうにして受け答えると、彦次郎はすぐさま表情を切り変えて言う。
「それじゃどうしますか。どっちがが凛の身柄を引き受けますか。龍三郎が買ったんやし、東町で処理しますか?」
二人の対決は龍三郎に軍配が上がった。そもそも、その一件と凛の処分については関係が無い。義親は言った。
「勝負に勝ったとはいえ月番は東町奉行所。凛の処分に関しては東町奉行所で手続きするのが道理でしょう。ここで私情を挟む訳にはいきません」
「清廉潔白。功名うんぬんよりも道理を選ぶんか。さすがは江戸で名を馳せた大岡様の内与力やな」
義親の言葉を受けて彦次郎は口角を上げて言う。その嫌味っぽさは無い。彦次郎は素直に感心している。
「ま、悪いようにはしません。ちゃんとした手続きは踏みますよ」
彦次郎はそう言い残して、肩を落とす晋太郎を引きずって去っていった。
梅雨の切れ間の日差しを浴びて、勝者である龍三郎と凛は向かいあって微笑んでいる。その地味な幕切れに見物人達はつまらなそうに帰って行くが、これでよかったのだろう。
この一杯で境遇が変わるなんてことはあり得ないことは凛本人も分かってるだろう。身柄の処分も奉行所に送られて詮議のため、どうなるかは定かでない。
とはいえ、慣れない境遇続きに巡り合えたこの一杯は、郷愁の念をかき立てる。それが生きて行く糧になるだろう。
○
「義親様、御相談があるんですが……」
新町遊廓での決闘を終えた仲夏の末。暦の上では梅雨が明けている文月の頭だが、大阪の長梅雨はまだ明けていない。
ジメジメとした御用部屋の中で義親が汗を浮かべながら洗濯ものの束を抱えていると、聞き慣れた声がその動きを止めさせた。
「……ウリ坊か。何の用だ?」
「その、前はほんまにありがとうございました。それで、また御相談があるんやけど……」
「なんだ。またそんなことを言ってるのか。まぁいいさ。この山を干すのを手伝ってくれ。話はそれからだ」
手にした羽織やら手拭いやらを龍三郎に手渡すと、仕方なさそうに微笑んで作業を続けた。
一人から二人に増えたので作業ははかどった。半刻も経たずして洗濯ものを片づけると、番傘を手にいつぞやに立ち寄った茶屋へと入っていった。
店内は相変わらず閑散としている。この店の経営が心配になってしまうほどだ。
「それで相談ってのはなんだ。もう恋絡みなら引き受けないぞ」
「ま、まぁ、当たらずも遠からずです。凛はどうなったんですか。それが気になってしゃあないんです」
「凛は長崎に送られたそうだぞ。これも内山殿の配慮だろうな。礼の一つでも言って来い」
その後、榊屋の遊女凛は東町奉行所で数日間の勾留された後、長崎の唐人屋敷へと送られた。
凛を売った女衒だが、榊屋からの情報もあって処分され。似たような事案が十件近く上ったらしい。
この一件に関して東町奉行所でどんなやり取りがあったかは義親らの元へ届いていない。だが、このような寛大な処分になったのは内山彦次郎の配慮があったと見るのが正しいだろう。
事実、この処置を聞いた義親はそう考えていた。
「ホンマですか。そりゃありがたいです。でも、凛はどうなったんかは」
「あの遊女だって言葉の通じる者同士で暮らしているはずだから安心出来るだろ。そのうち国にも帰れるんじゃないか」
当の凛については、大阪に立ち寄った廻船の話によると、数名の清国人を乗せた船が台湾へ出航した。と、いう噂を耳にはさんだぐらいである。
その清国人の中に凛が居るかは定かではない。龍三郎に出来ることといえば、数人の中に含まれているのを願うしかないだろう。
「……そうですか。文も書きようが無いですからね。しゃあないです。達者で暮らしとるんならええです」
龍三郎は机に肘を付いて儚げに格子窓の外を見た。空は暗く雨が降り続いている。
その目は元気が無い。義親は息を吐くと言った。
「曇っているけどこの空はどこまでも続いているんだ。きっと、凛の住む所にもね」
「何言っとるんですか。そんなんを求めてる訳でも無いですし、そんな言葉で感動とかしませんって。さすがに古臭すぎますわ」
にやりと口を曲げた龍三郎の小馬鹿にするようなもの言いに義親は顔を赤くする。
「う、うるさいな。気を遣ってやってるのに酷い言いぐさをするんだな」
「冗談ですって。ホンマに色々と迷惑掛けてすんませんでした。んで、ここからが本題なんですが……」
「さっさと言えよ。私だって暇じゃないんだから……」
「また、好きな人が出来たんですよ」
龍三郎は俯いて頬を上気させる。いつぞやの乙女のような笑みを浮かべた。
その瞬間、嫌な予感が義親の脳裏をよぎった。面倒なことになると直感で分かった。すぐさま腰を浮かして側に置いてある番傘に手をやる。
「……もう二度と聞きたくないぞ。もう帰るからな。言ったはずだ暇じゃないと」
「ちょっとまってください。大丈夫です。異国の遊女とかそういうんやないですから」
「今度は何だ? いい所の武士の娘御か? それとも大店の主か? もう嫌だ。お前の色恋沙汰に関わるといいことなんか一つもない。もう御免だ。帰るからな!」
義親は声を荒げて軒先で番傘を広げた。しかし、龍三郎は即座に羽織の袖を掴む。
「そうやないですって。大丈夫です。カタギの娘御じゃないですんで」
「だったらなんだ。また遊廓の女か? だったらカタギの娘御の方がはるかにマシだ。いつになったらお前は学ぶんだ」
袖にすがる龍三郎を振り払おうとするも、細腕の力は強かった。どう足掻いても振り払えない。厨房から店主が迷惑そうにこちらを眺めている。
「だから大丈夫ですって。今度の相手は真っ当で立派な人ですから」
「じゃあさっさと言え、でも面倒事はゴメンだぞ」
力負けした義親はそのまま店内に尻もちをつき、それにあおられた龍三郎が馬乗りになり顔の両脇に両手をつく形になった。
目を潤ませた龍三郎が大きく息を吸う。
「……いや待て、やっぱり言うんじゃない。聞きたくない。なんか嫌な予感がする」
背中がじっとりと濡れた。地面がこの長梅雨でしけっていたというのもある。でもそれでは無い。皮膚の穴という穴から冷や汗が滴り落ちたのだ。
その予感は的中した。龍三郎は顔を赤くして口ごもりながら振り絞った声で言う。
「その、その、義親様、お慕い申しております。この一件で完璧に惚れました。本気や無くてもええです。一回でもええんで……」
「……はぁ?」
気の抜けた義親の声が店内を通り抜けると、耳まで赤くした龍三郎は包丁傷だらけの細い指先で両手を隠す。
外では雨が降り続いている。この長梅雨の間は気苦労が晴れることは無いだろう。義親はそれも直感で分かってしまった。
仲夏一番!(完)