随園食単
榊屋で料理勝負を取り付けた翌朝のことだ。
「よよよよ、義親様!」
忠春と並んで歩く義親の元に、息と動悸を上がらせた龍三郎が慌ただしくやって来た。
義親は榊屋で一筆書かされた後、龍三郎が起きるのを待たずして役宅に帰った。その話を聞かされた龍三郎はさぞ焦っただろう。
「どうしたウリ坊。お前の言いたいことは大体察しが付くが、文句を言う権利は無いぞ。さっさと受け入れるんだ」
「ま、まぁ、あの場では色々とお世話になったんでええです。せやけど、料理て…… なんでなんですか」
出会い頭に先手を打たれた龍三郎は目を伏せつつ言葉を震わせた。
「何か食わせたいってお前が言い出したことだろ? わざわざ店の方も協力してくれてんだ。断る理由なんて無いはずだ。いや、断りようが無いに決まっている」
「よ、義親さまぁ……」
龍三郎はいつぞやの猫なで声で哀願する。見知らぬ人が見たら羽織袴を着込んだ女にしか見えないかもしれない。
しかし、義親は学んだ。それは通用しない。
「……無き落としはもう効かないぞ。ちなみに料理の腕はどうなんだ?」
「武士の嫡男が料理なんて出来るはず無いやないですか。さっぱりもさっぱりです」
「だったら母親にでも習え。期限は来週末だから10日はあるぞ」
「んなこといったって、刀すらからっきしなのに包丁なんて無理ですよ」
龍三郎は尚もすがった。そこで義親の怒りが暴発した。
「……腑抜けたことを言ってんじゃねえぞ龍三郎! てめえの尻拭いのために、俺がどれだけ働かされたと思ってんだ! 無理なら習えばいい。死ぬ気でやればなんとかなるだろ」
義親は大声で言い放つ。奉行所内の動きが一瞬止まり、何事かと義親らの元に同心たちが集まって来た。
事の成り行きを隣で静観していた忠春だったが、何事かと義親を宥める。
「ちょっとちょっと、どういうことなの? アンタ達が喋っている内容も、義親が怒ってる理由も意味が分からないんだけど。とにかく落ち着きなさいって」
初めて見る剣幕っぷりに忠春も肝を冷やして義親を宥めすかす。どっちが上役か分からない有様だった。
一通り言い切ったからか義親も落ち着きを取り戻した。俯いて深呼吸すると義親は毅然と言う。
「……忠春様、この一件に関しては私に任せてくれませんか。いずれ話す機会は作ります。ですので、申し訳ございませんがそれまで何にも無かったことにしてもらえませんか」
「よ、義親様……」
決死の表情に忠春も悟ったらしい。義親に向かって苦笑すると足早に去っていった。
「ほ、ホンマにすんません。忠春様にまでこんな風になって」
「……こうなった以上どうしようもない。ったく、面倒事ばかり起きる」
義親はため息を付く。それから周囲に人がいないのを確認すると話を続けた。
「しかし料理か。ウリ坊、お前に何か手立て無いのか?」
「さっきも言った通りさっぱりです。それに、湯屋にはよく行きますが、飯屋はよう知りません。それこそ、古株の与力や同心に聞いた方がええかもしれませんね。長く住んどるからその分知識もあります」
「古株の同心か。となると……」
古株の同心。義親と龍三郎の頭にはあの3人組の姿が思い浮かんだ。
○
「義親様やないか。どうしたんですか。ワシら3人に話って」
料理屋で話を聞くのが最も手っ取り早いかもしれない。大阪に生まれついて40年余り。大塩平八郎組下松橋主税・岡部又兵衛・新藤三郎のずっこけ同心3人組がいの一番に思い当たった。
そこで奉行所に出仕してきた平八郎に声を掛けて老同心3名を呼んでもらった。
心底嫌っている衛栄や文は当たり前、ましてや忠春までに普段は尖った平八郎だが、なぜだか義親には気を許している。話は滞りなく進んだ。
「すみません。この忙しい中、平八郎殿にこのようなことを頼んでしまって」
「別にかまいません。義親殿であれば大丈夫です。彼らになんでもお申し付けください」
腕の方は鍛えるしかないが、凛の祖国である台湾人がどのような料理を好んでいるかがさっぱりと分からない。
勝負に関しては面倒事になるであろうから4人には伏せた。とりあえず、清国風の料理屋がないか聞いた。
「……清国風の料理屋か。間違うなく長崎に行きゃあるんやろうけど。おい三郎、何かあるか」
「急に話を振るなや。ま、まぁ、高麗なら分かるかもしれんけどな。おいデク、どうや」
「あかん、全く思いつかへん。すんませんなぁ義親様」
答え方は三者三様ではあるが、とにかく情報は得られない。
これには義親も弱った。台湾の料理なんて分かるはずもなく、目となり耳となる古株の同心たちでさえ知らないという。
「……清国といえば漢方。薬種問屋が多い道修町に行けばわかるかもしれませんよ。もしくは、輸入図書を扱う書店でもいいです」
平八郎は言う。老同心三名は露骨に嫌な顔をした。
「うわ、私らの前でそれを言いますか。さすがは平ちゃん。容赦ないわ」
「まだ傷が癒えてないってのに、それを言いますか。ホンマ怖いわ。平ちゃん怖いわ」
又兵衛と三郎が言って見せると平八郎の目の色が変わる。
「……じょじょじょ、冗談ですって。ま、確かに漢方しっとるやつに聞けば清国料理の話も聞けるかもしれませんな。元は向こうのモンやし」
「なるほど。確かにそうかもしれませんね。お時間を貰ってありがとうございます。私らはこれで失礼します」
義親は礼を言うと速足で奉行所を出た。
外は相変わらず雨が降り続いている。しかし、雨が降ろうが槍が降ろうがそんなことは関係ない。義親は番傘を手にすると道修町へと駆けだした。
○
「龍三郎か。料理の方はどうだ。少しは上達したか?」
「義親様、おはようございます……」
決戦の日まで残り一週間を切った昼のこと。
呼びとめた龍三郎の目の下には深いクマ。若くつやのあった肌に張りがない。
「ボチボチです。ホンマようやってますわ……」
龍三郎はため息交じりに答えた。月番は東町奉行所なので西町奉行所の仕事量は少ない。とはいえ、日中は雑務をこなさなければならず、夜は料理の腕を鍛えている。体の方は大分応えているらしい。
「指先も酷いな。これじゃ水洗いは厳しいだろう」
「言ったや無いですか。料理はからっきしやって。まぁ、包丁一つまとに扱えへんからしゃあないです。お袋の凄さを思い知りましたよ。よう器用に扱えるなぁ」
指先には細かい切り傷。龍三郎の料理の腕は本当にからっきしだったらしい。力無く微笑みながら言った。
「それで義親様の方はどうですか。何をつくりゃええんでしょうか」
「道修町で面白い話を聞けたからなんとかなりそうかもしれない」
「ホンマですか。そりゃええやないですか。なら早く聞かせてください」
「ただ、そこで内山殿の姿を見かけた。きっと同じ策に出たのかもしれないな」
一昨日の話だ。道修町で清国台湾について話を聞いていたところ、せわしく歩き回る彦次郎の後ろ姿を見かけた。
立会人という立場の手前、彦次郎に話しかけられなかったが、供の同心は誰一人としていなかったのから察するに同じ算段で来ていたのだろう。両者とも片一方に与しているからある意味で平等だ。
「義親様らの策ってのが何なのかは分かりませんけど、それが被ったんならどうするんですか」
「とにかく話は聞けたから問題は無い。それに面白い本を教えてもらった」
不安げに見つめる龍三郎だが、義親は懐から一冊の本を取り出して見せた。
「『随園食単』……? なんなんですかこりゃ」
「私も良く分からないのだが、本屋の主人が言うには清国の料理好きの詩人が書いた本らしい。野菜・魚・肉その他と、清国料理の様々な料理法が載っている」
平八郎の助言は完璧に当たった。道修町でその情報を得た後、義親は書店と貸本屋を走り回った。その結果、心斎橋筋の安堂寺町の大店「秋田屋」でこの一冊を手にすることができたのだ。
龍三郎は口をポカンと開けて話を聞いていた。この存在には義親自身も驚かされたので当然だろう。
「平八郎殿に相談した甲斐があったな。衛栄殿じゃこうはいかないだろう」
「ほんまに義親様に頼んで正解でしたわ。これさえあれば向こう料理を再現できます。こりゃ、勝負も余裕やろうな」
「……確かに。だけど、決定的な問題点がある」
義親は見つけたことを誇るどころか口調が弱弱しい。
「何弱気になっとるんですか。こんなええ本があるんだから何の問題も無いやないでしょ」
「……とりあえず読むんだ。そうすれば簡単に分かる」
本自体は学者が読解して翻訳していたので問題無く読める。
それに内容も素晴らしい。清国料理の基本的な点、料理をする上での注意事項、食材ごとの調理法などが網羅されている。これさえ読めば清国人の食に対する考え方が一発で分かるといっても過言ではない。
しかし、大きな問題があった。
梅雨が明けた後の青空のように明るかった龍三郎の顔色も、義親から手渡された本を読み進めるにつれて元の鉛色の曇天に戻ってゆく。
「確かにええ本ですね。せやけどなぁ……」
「そうなんだ。数が多すぎて何をつくればいいのか全く思いつかない」
この中から何かを選ぼうにも、書かれている種類が多すぎた。
料理の腕に関しては龍三郎の気合いにかかっているからまだいい。もっとも肝心な「作るモノ」が全く分からなかった。
あくまで料理集であり、回答が載った本では無い。散らばった中からどれかを選ばなければならないのだ。それが当たるという保証もない。
「アカン、こりゃアカンわ。読みやすいし、おもろいんやけど散らかり過ぎや。どうすりゃええんですか義親様」
龍三郎は泣きつくが、当の義親もどうすればいいか分からない。
一難去ってまた一難。梅雨のこの時期。義親に休まる時など無かった。