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女奉行捕物帖  作者: 浅井
仲夏一番!
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ある男の秘めごと

 梅雨である。

 日の本全土で雨がしとしとと降り続き、外を出歩くのに雨傘が欠かせない。

 大阪西町奉行所内部は洗濯物で溢れかえっていた。

 傘を差したとしても、袴の裾までは隠せないので市中を見廻れば泥を巻き上げて汚れる。そのお陰で洗濯物は増えても、この降り続く雨のせいでそれらを乾かすのが追い付かない。この需要と供給の釣り合わなさと、それに対するどうしようもなさは江戸での旗本奴事件以上に厄介であった。


「義親様、相談があるのですが……」

「ちょっと待って下さい。これを干してから応対するので」


 そんなことがあって、大阪西町奉行内与力である小峰義親は洗濯物に忙殺されている。

 私邸の使用人を使おうにも、奉行所内部には見られてはならない文書の類いが多すぎた。そうなると、持ち込まれる洗濯ものは奉行所の与力同心が干さなければならなくなる。その役に義親が当てられたのだ。


「すみません義親様。私も手伝いますので……」

「それはありがたいな。それじゃ龍三郎、この袴をそこに掛けてください」


 義親に相談を持ちかけた同心の名は瓜原龍三郎。奉行所にこの春元服した同心であり齢16の最年少。女子にも見えるほどのあどけなさを持った童顔の若い男である。背丈は義親より数寸低く、義親へ向けられた視線は自然と上を向いた。

 普段は同心たちが溜まっている御用部屋も、中央で交差するように四方から紐が掛けられて洗濯ものを干す場に変わっている。


「は、はい。これでいいんでしょうか?」

「そうそう。それじゃ、その一枚を取って。それが最後だからさ」


 丁寧な口調だがこの男も上方育ち。語尾が上を向いている。

 龍三郎は洗濯物の最後の一枚を俯きながら手渡すと、目線を義親へと合わせる。


「……いやぁ、こんな仕事を手伝わせて悪いね。それで龍三郎、何か用でも?」

「はい。誰に相談しようか色々と考えたんです。衛栄様や平八郎様。忠春様だっておりますが、この一件は義親様に相談するのが一番いいかと思ったんです」

「忠春様よりも私を信頼してくれるなんて嬉しい話だな。それで、相談っていうのは?」


 義親は袴を干し終えると龍三郎の方を向いた。急に視線を逸らす。


「……その、ここじゃ話しづらいので別の場所でもええでしょうか」

「いいですよ。仕事も一段落したので昼飯がてら休憩でもしましょう」


 朝から干し続けていたので、ちょうど昼頃だろう。もじもじとする龍三郎の手を引いて義親は廊下に出た。


「忠春様、お帰りなさいませ」


 廊下には義親と同じく内与力の根岸衛栄を連れて歩く大阪西町町奉行、大岡忠春が居た。


「義親、洗濯は終わったの?」

「はい。龍三郎が手伝ってくれたのですぐに終わりました」


 隣にいる龍三郎は頬を赤くしながらちょこんと頭を下げる。


「こんな仕事まで頼んじゃって悪いわね。ここずっと天神祭の準備に借られちゃってさ。江戸でもそうだったけど、祭りってやっぱりいいわね。話を聞いてるだけの私でも気分が乗って来ちゃうし」


 梅雨が明けた頃に大阪随一の祭りである「天神祭」が行われる。

 江戸の三社祭り・京の祇園祭りと並んで日の本三大祭りとも言われる大きな祭りで、一年の大半をこの祭りに費やす男だっている。

 天神橋の架かる淀川は屋形船で溢れ、夜になれば花火が夏の夜空に大輪の花を咲かせる。上方中の活気がこの町に注ぎ込まれるのだ。


「色々とお疲れ様です。私と龍三郎で飯でも食べに行ってきます。それじゃ失礼を……」

「へえ、ウリ坊と義親なんて不思議な組み合わせね。私もついていっていい?」

「た、忠春様も来られるんですか?」


 忠春の何げない言葉を受けて龍三郎の顔が正気を失いつつある。

 龍三郎からわざわざご指名をもらっての相談事だった。慌てた義親は間髪いれずに言う。


「龍三郎を私に頼まれたのです。忠春様は適当にくつろいで下さい。絶対に来ないでいいですから。別にフリとかじゃないですよ。ここでくつろいで下さい」

「……そこまで言われるのはちょっと癪だけど、まぁ、こんな仕事を頼んじゃったしいいわ。行ってらっしゃい」


 忠春は呆れにも似た笑みを送ると、同じように不思議そうにこちらを見つめる衛栄を連れて髪を揺らしてその場を去っていく。


「色々とすみません。それじゃ、行きましょう」


 横で濡れた狆のように震える龍三郎の姿に義親は一抹の不安を持ったが、忠春からの公認を得た以上行かない訳にもいかない。玄関先で蛇の目傘を手にすると奉行所を出て行った。





 義親と龍三郎は傘を並べて本町橋を渡ると、男女で肩を寄り添わせて歩く色とりどりの傘数本を抜けて通り沿いにある茶屋に入った。

 茶屋はこの雨のため閑散としていた。話をするにはもってこいである。


「……それで何の話ですか」

「その、私、好きな人がいるのです」

「なんだ。そんな話だったんですね。もっと重大な話だと思ってまたので安心しました。まぁ誰だって好いてる人はいますよね」

「は、はい、そんな話です」


 義親がホッとして答えると龍三郎は耳まで顔を赤くする。

 好きな人が居ると言うだけなのに、こんなところまで連れだそうとする。この男は純真すぎる。目の前でもじもじとする龍三郎を見て義親は内心で和んでいた。


「ちなみに誰なんですか。町人の娘ですか。それともいい所の武家のお姫様ですか?」

「そそ、その、恥ずかしい話なんですが、町娘でも武家の娘でもないんです……」


 龍三郎の声色はみるみる弱くなっていった。


「……し、新町の遊女です」


 前言を撤回しよう。振り絞る龍三郎の声を聞いて、道理で自分に話が来たのだと義親は思った。

 この相談相手が、ふざけたような人間代表の衛栄やその他の与力であればふざけた話になるだろうし、逆に生真面目すぎる平八郎であれば遊女という言葉が出た時点で会話は終わり説教が始まる。忠春にはそんなことを言えるはずもない。

 必然的に、相談できる真人間は義親ぐらいしかいない。


「……なるほど。確かに奉行所じゃ言えませんよね」

「はい。それでご相談というのは……」


 外で降り続ける雨音の方が強いぐらいの声量で龍三郎は答えた。


「その遊女に、何か旨いものを食べさせてあげたいんです」


 そのさっぱりとした内容に義親は閉口する。外から聞こえてくる街路の土を濡らす雨の音が気持ちいい。


「……だったら食べさせてあげればいいじゃないですか。その子に好きなものでも聞いてでも」

「そうはいかないんですよ。だって新町遊廓ですよ。あそこに食べ物の類いを持ちこめるはずもありませんし、遊廓という籠の中から連れだすことも出来ません。ほんま、オレはどうすればいいんでしょうか」


 その熱弁ぶりに義親は弱った。龍三郎も本気らしい。溌剌とした言葉と龍三郎の潤んだ目を見て要らぬ相談を受けたと本能的に感じた。


「だったら諦めてくださいよ。龍三郎、ありきたりな話ですけど、世間にはどうしようもないことは多数ありますし……」

「そうはいきません。好いとるんです。本来であれば仕事を放り出してでも会いに行きたいんを、仕方なしに我慢して出仕しているぐらいですから」


 義親は宥める。だが、今の龍三郎にそんな一般論は通じない。 


「お願いします。衛栄殿や他の与力なら確実に馬鹿にした上でこんな話を真面目に聞いてなんてくれません。忠春様にこんな事をいってしまったら私は終わりです。せやから、義親様しか残されていないんです!」

「んなこと言われたって……」


 この時ばかりは自身の品行方正な性格を恨んだ。

 とはいえ、武士の遊廓通いは一歩間違えれば改易処分に繋がるし、目の前で哀願する龍三郎の眼が危うい。ここまで思いつめたら新町遊廓で何をしでかすかも分からない。

 ただでさえ面倒事を抱えた西町奉行所というのに、ここで新しい問題を抱えるのは得策ではない。何か問題が起きてしまうと、主君である忠春の身にも関わってくるので、この男を放っておくわけにもならない。

 梅雨の湿っぽい時期に抱えた香ばしい火種を解決するのに、義親が取る手段が一つしか残されていなかった。


「お願いいたします。義親様だけが頼りなんです……」


 哀願する龍三郎をなだめつつ、苦笑する義親が仕方なさそうに言った。


「……分かりました。その遊女にどうやって食べさせるか。一緒に考えましょう」


 義親が浮かべた諦めにも似た笑みの中に、事態を打開する発想や工夫など一つもない。

 さてどうしようか。気の弱い龍三郎の頭を犬ねこに接するように優しく撫でる手の動かすたび、義親の口からは自然と嘆息が生まれた。

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