大一番
「……なんでそう思ったんですか。それに、投げ文て何の話かさっぱりで」
肌寒くなる街路に暖色の明かりが灯る夕暮れ。
茶屋の長椅子に座った小汚い柴犬のような笑みは虎徹山から消え失せ、いつになく神妙な面持ちになる。
「これよ。これ。見てみなさい」
忠春が右手を振り上げると、背後に控えていた同心が筒状の物を手渡した。
「見てみなさい。これが答えよ」
「……こりゃぁ、前にお渡しした掛け軸ですか」
掛け軸には天津風部屋所属の力士の手形と自筆の署名が書かれていた。
特に凝ったものは天桧山のものぐらいで、後の力士は普通に名前が書かれていた。
「あなたの文字がさ、似てるのよ。前にもらった掛け軸の名前と、八百長について書かれた投げ文の文字とがさ」
手相の皺一つ一つが見える手形の横に書きなぐられた筆文字。投げ文の文字と見比べると、筆跡が酷似していた。
「かなり癖のある字を書くのね。投げ文でそれは致命的な失敗だと思うけど」
忠春は虎徹山の眼を見据える。虎徹山は愉快そうに大声で笑い始めた。
「ハハハ、バレバレでしたか。そうです。ワシが投げ込みました」
「なんだ、すんなり認めるのね」
「そりゃぁそうです。八百長を明かしたい気持ちで書いたんやし。ワシん所にやってきたんが下っ端の下男やったら適当にごまかしたかもしれへんけど、お奉行様直々に来られたんならしゃあないです。ちゃんとワシの願いが伝わった訳やからな」
横に居た同心はムッと顔をこわばらせたが、忠春は言う。
「なんでこんな事に及んだのよ。私が言うのもなんだけど、35だなんてまだ老けこむような歳じゃないでしょ」
「いやぁ、世間じゃそうやろうけど、この年じゃ相撲はもう取れません。ケガしたってのはホンマですよ。まぁ、お奉行様がみられた取組は八百ですけど」
忠春らの直感は当たっていた。
「膝を壊した時から体が思うように動かんのです。ずっと休場が続いて親方からもせっつかされました。そんな折に瀬戸海が見舞いにやって来たんですわ。あの顔は忘れられません。見下すような、蔑むような、とにかく憎ったらしい目をしてましたよ」
「それって、じゃぁ、あなたが怪我したってのは……」
「さっきはああ言いましたが、その時分かりました。ヤツはワシの膝をわざとやったんやろうな。優勝は掻っ攫われるわ、大怪我はするわでホンマ災難です」
力士生命を絶たれかけた挙句に八百長に関与させられる。どうしようもなかっただろう。
「だったら外部に告発してしまえば……」
「それにそん時はまだ相撲を取る自信がありました。せやけど、ケガが思った以上に酷くて番付は面白いように下がっていきます」
強靭な上体と足腰を支える膝は相撲を取るにおいて最も重要な体の一部だろう。
重い体を支えなければいけないだけでも大きな負荷が掛かっている上に、ケガで満足に動かないとなれば真っ当に戦えるはずが無い。
虎徹山の取組が、出会いがしらに相手の勢いを挫くぶちかましに重点を置く相撲だというのもうなずける。
「ワシかて最初は断りましたよ。舐めるのもええ加減にせえ、俺はそこまで落ちぶれちゃいない、て。今度やってきたのは親方でした」
「瀬戸海は陸奥海部屋だから、向こうの親方が来たの?」
虎徹山は首を横に振る。
「大阪相撲会所の年寄連中。陸奥海だけやなくて、天津風や楠、南川もそうでした。投げ文に書いてあった通りです」
「……部屋ぐるみでやってたのね。まぁ、それぐらい横断的に協力していないと八百長が成立するはずもないか」
「さすがに心が折れましたわ。受け入れなきゃ引退せいって抜かしおりましたし。膝壊した状態で放り出されても生活は成り立ちません」
「でも、その時は人気があったんだから、あなたを応援する人は沢山いたでしょ。だったらなんとかなったんじゃ……」
「引退ならまだしも、解雇なったらどうしようもあきまへん。親方連中もそういう所にいらんこと吹聴しますから。唇噛んで従うしか無かったんです」
計算ずくだったのだろう。
「なんやかんやありましたけど、ちゃんと御上まで伝わったんならええです。色々と整理が付きましたわ。まだ千秋楽とお奉行様が勧進された相撲もありますが、全部休場しますわ。それで引退がええですな。わざわざ来てもらってホンマにすんません。それじゃ私はこれで……」
虎徹山はそう言うとそそくさとその場を後にしようとする。
だが、忠春はそれを一喝した。
「……待ちなさい。千秋楽に勧進相撲でしょ。別に出てもいいわよ。いえ、全部出なさい。これは命令よ」
忠春の凛と透き通った声に虎徹山の足は自然と止まる。
「な、なんでですか。ケガして以来、ずっと八百長やっとったからあきまへんでしょ。なんでそんなこと言うんですか」
「過去10年分の成績を見させてもらったけど、ほとんど負け越してきて、ギリギリになって勝ち越してって感じでしょ」
「……そういう取り決めやったんで」
「今日までの成績は5勝5敗。明日勝てば勝ち越しで春場所を終えられる」
「まぁ、そうなりますね」
「千秋楽の相手は誰だっけ?」
「……天桧山です」
「まずそれに勝ちなさい。これも命令よ。相撲のことは詳しく無いけど、命を賭けた勝負なら何度もしてるの。わざと手を抜いたってそれぐらい分かるわよ」
旗本奴の水野忠之と何度も斬り合いをしてきた。それは文字通りの真剣勝負であったし、江戸では剣術指南役の佐々木秋とも何度も稽古を積んできた。
戦うということについて、忠春は本能的に知っている。だからこそ、海鴎との取組は八百長だと分かった。
「私たちが勧進する相撲の番付は明日の終わりに各部屋へ配るわ。あなたの現役を最後に面白いサプライズ、用意してるからさ」
「さ、さぷら……」
「その意味はいずれわかるからどうでもいいの。情けないアンタでも、必死になって戦ってさ、アンタが勝つのを信じて必死になって応援する子らがいるんだから。最後の最後に男を見せなさいよ。それが力士ってものじゃないの?」
寅子や野次を飛ばしていた親父連中は、虎徹山の負ったケガの酷さは知っているだろうし、わざと負けているというのも薄々気が付いているかもしれない。
「何にもしないまま逃げるなんて許さないわ。アンタは送られた声援に応える義務があるの。わかるでしょ?」
「そんなご配慮まで、ほ、ホンマにすんません、お奉行様、ホンマにすんません……」
「泣くのは勝ってからよ。ほら、さっさと帰りなさい」
帰り際に何度も頭を下げる虎徹山。明日は千秋楽。
しがらみから解放された虎徹山の取組は楽しみな一戦となった。
○
迎えた千秋楽。会場の高津宮は超満員だった。
10勝0敗と、今場所の全勝優勝が懸かった天桧山。対するは5勝5敗の虎徹山。
「虎徹山! 今日は頑張らなくてもええで! 天桧山に華持たせてやれや!」
花道を歩く虎徹山に野次が飛んだ。これが会場の総意であるのは間違いない。
親方衆もそう思っているだろう。大阪相撲希望の星が若くして全勝優勝、そして綱取りになる物語。これが低迷中の大阪相撲を救う数少ない手立てになるからだ。
「何抜かすねんおっちゃん、虎徹山! ヤツは同門やからって手え抜いたらアカンでっ!」
「そうやそうや! 久方ぶりの勝ち越しが懸かっとるんや! 真面目にやれ!」
今のは寅子の声だろう。それに続くようにいつぞやの親父の声も聞こえた。
「義親に衛栄、アンタたちはどっちが勝つと思う?」
鳴り止まない声援の中、溜まり席に座る忠春は衛栄と義親の二人に聞いた。
「そりゃぁ、天桧山でしょうよ。周りからの援護があったとはいえ、勢いに乗っているのは明らかに天桧山。指示とはいえ5連敗中の虎徹山にそれを負かすのはかなり手厳しいな」
「私も同感です。八百抜きにしても実力は若い天桧山の方が上ですし、会場も天桧山に勝てという一念しかありません。こんな雰囲気で虎徹山が勝つだなんて、そんな筋書きは出来過ぎてますよ」
揃って「天桧山の勝ち」を答える。普通ならそうだろう。
「ねえねえ、私には聞かないの? 寅子ちゃんから相撲を学んだ私なら、ちゃんとした分析が……」
「ほら、花道から天桧山が出て来るわよ」
今度は東から天桧山が登場。
天桧山に注がれるのは、前に聞いた黄色い声援の比では無い。天桧山も初の無敗優勝のかかった大一番。兄弟子だからといって手を抜くようなマネはしないだろう。
力水を漱ぎ、土俵に塩を撒くと土俵に上り四股を踏む。
蹲踞の後、腰を落として両者は向かい合った。会場は自然と静まり返る。視線の全ては二人の立ち会いに向けられた。
しかし、虎徹山は水面のように動かない。
まだか、まだなのかと、場がどよめき始める。
焦らされた天桧山が両拳を土俵について先手を仕掛けようとしたそんな中だ。
「はは、はああああっけよぉおぃぃぃい、のこったああぁ!」
行司の掛け声に遅れが出る。そのほんの前に虎徹山が得意のぶちかましを仕掛けた。
1秒に満たない些細な時間差。だが、それは勝負を決定づけるのには十分すぎる時間であった。
体勢を立て直した天桧山がすぐさま反撃に出るも、虎徹山は簡単にそれを受け流すと右腕を掴んで投げつける。決まり手は肩透かし。勝負ありだ。
「おおおおお! あの虎徹山、やりやがった!」
「すごい、こんなことがあるんですか……」
衛栄と義親は立ち上がり抱き合って喜ぶ。忠春の顔には自然と笑みが浮かんだ。
高津宮は大いにどよめいた。期待はしていても実現するとは思えない結果である。寅子でさえも目をぱちくりと開いたり閉じたりとするのみで、声一つ出ていない。
今場所、虎徹山が残した成績は通算13回目の6勝5敗。だが、この6勝5敗は重みが違う。なんたって真剣勝負で勝ちとった大金星だ。
「ねえはつちゃん、最後の最後さ、天桧山は手抜いてなかった?」
「……文ちゃん、アンタってほんとに相撲はからっきしなのね。ほら、天桧山の表情を見てみなさいよ」
忠春は花道へ移ろうとする天桧山を指差した。
土に塗れて涙を流す天桧山は男振りは崩す。いや、これはこれでカッコいい姿かもしれない。天桧山は握り拳を固めてその場から動かなかった。
「本気で悔しがってるのよ。今日の負けを糧にした天桧山の成長が楽しみね」
それから天桧山は土俵に拳を何度も叩きつけると花道を去っていった。
その後ろ姿に負けた事実への悔しさはあっても、負けたことそのものへの後悔は無い。敬愛する兄弟子との真剣勝負はさぞ楽しかっただろう。