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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春風吹く
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貸しと借り

 南町奉行所では、屋敷に植えられた桜の花弁が風に吹かれ、提灯の明かりに照らされ舞う。そんな絵とお門違いな野暮ったい男二人が南町奉行所の門前で話している。


「ったく、さみいなあ。早く囲炉裏に行きたいな」


 髷を結わない坊主頭の侍が呟く。この男の名は小浜忠兵衛といった。


「寒いよなあ。こんな夜中は誰も来やしないんだから、さっさと中に入りたいよなあ」


 肩ほどまで髪を伸ばした総髪の侍も同じように呟いた。名前は平梨義之丞という。


「しかし、昼間は驚いたな。まさかガキが新しい奉行だったなんてな」

「ば、馬鹿野郎っ! 忠春様をガキって言うなよ、聞こえてたら飛んで来て、また失禁しちまうぞ。しかし、俺らよりも年下の奉行だなんて聞いて事が無いね」


 小浜と平梨の年は共に二十であった。二人とも南町奉行所の同心を先代から務め、奉行所の門番をしていた。昼間に政憲と義親に殺されかけたのはこの二人である。

 平梨の言葉に小浜もため息交じりに言う。


「馬鹿、この距離じゃ聞こえないし、漏らしてもねえよ。ほんのちょっとだけちびっただけだって。しかし、何がどうなって奉行になったのかね。裏では将軍に春を売ってたりするんじゃないのかね」


 最後は下品に笑いながら小浜は言う。


「ったく、んなことは知らねぇよ。でも、あの可愛さじゃそれも有り得るかもね。あの顔立ちと家柄じゃ将軍の妾には申し分ないしね」


 平梨は小浜の言い方に嫌悪感を示し答えるが、話自体には乗り気である。


「確かにそうだよな。ここで大きい声じゃ言えないけど、あの将軍は毎晩良家の御令嬢をとっかえひっかえって話だからな。それも美人ばっか集めてさ。なんか変な薬まで飲んでやってるって話だよな」

「あれだろ? オットセイかなんかの陰茎を粉末にして飲むやつだっけ?」

「そうそうそれそれ。まったく、俺なんか金を払ってまでやってるってのに不平等な話だよな。まあ、俺は飲まなくても真っ当に勃って、ヤれるけどな」


 そう言うと大声で小浜は笑いだした。


「お前の話はどうでもいいよ。そんなこと言ってるうちは一生かかっても苦労するんだよ」


 平梨が呆れながら小浜の肩を小突く。すると奉行所内で歓声が上がる。忠春の言葉に反応した時であろう。


「お、なんか奉行所内が盛り上がってんな」

「ったくよう、俺らもあっちに加わりたいなあ。さっさと囲炉裏に当たりたいな」


 小浜と平梨は羨ましげにそう語る。そうこうしていると二人の男女が奉行所の前へやって来た。





「ちょっと、大岡忠春に会いたいんだけど」


 背丈の低い女が小浜を呼びとめる。


「ああ? 忠春様は今忙しい。それにもう夜更けだ。明日また来い」


 小浜は面倒くさそうに応対する。そして、手で払う仕草しながらぶっきら棒に行った。その対応に腹を立てた女は小浜に喰い付く。


「何がああだ? さっき奉行所内で歓声が聞こえたわよ? いるんだったらさっさと呼びなさいよ。このハゲ!」

「ああ? これはハゲじゃねえぞ。こういう髪型なんだよ。口の聞き方に気をつけろよこのガキ。後ろの奴と共にさっさと帰んな」


 小浜はハゲという言葉に過剰に反応する。丁寧に自分の頭を指差して言う。小浜は平手で女の子の頭を叩きながら言った。


「ちょっと、痛いじゃないの! それに、あんたは誰に向かって言ってんの? 口の聞き方に気を付けなさいよ。さっさと忠春を呼びなさい」


 小浜は怒り、わなわなと震えている。青筋を立てた小浜を脇にどけて、平梨が代わりに女の子に話しかけた。


「あのね、このハゲの口の聞き方は確かに悪かった。でもな、南町奉行の大岡忠春ってのは、あんたみたいなお嬢ちゃんがお散歩気分でやって来て簡単に会えるような人でも無いんだよ。それが分かったら早くお家に帰って、お母さんのおっぱいでもしゃぶってな」


 背の低い女に合わせてしゃがみ、女の頭を平梨は撫でた。小浜に対しての話しぶりに辟易をした平梨は、少しからかってやろう程度にしか思っていなかった。女の子は無言で下を向きながら両手を震わしている。すると、男が歩きながら言う。


「ふう。奉行所の侍と言うのは人を見た目でしか判断できないのですか。ったく、こんなクズなんかが同心だなんてね。まったく、奉行所も堕ちたものですね」


 女の背後に控えていた男がため息交じりに話しながら、平梨の目の前に立つ。男のその言葉に小浜が噛みついた。


「おうおう、カッコのいい事言ってくれるじゃねえか。天下の奉行所を愚弄するとはいい度胸だなあ。ほら、掛かってこいよ」


 小浜は指で誘い男を挑発する。すると男も一つ微笑み小浜に言い返した。


「それではお言葉通りそうさせていただきます。耀蔵、やっていいぞ」

「承知しました」


 下を向いていた耀蔵は刀を抜き小浜に飛びかかる。小浜に飛び掛かった耀蔵の表情は無邪気な童と同じであった。しかし、決定的に違うのはその童が真剣を握 り小浜に飛び掛かってきている。小浜もなんとか刀を抜き、一合、二合と打ち合うが耀蔵の勢いに圧倒される。そして、耀蔵の一撃が小浜の右腕に命中する。大柄な小浜だが、利き腕の怪我に少しよろめいてしまう。


「おい、小浜大丈夫か!」


 平梨が驚き小浜に呼び掛ける。小浜は自分の力量を分かっていたようだ。このままでは確実に殺される。そこで平梨に伝えた。


「おい、平梨、このままじゃ俺たちは斬られるぞ! 俺は忠春様に報告に行く、どちらか一方が確実にこの状況を伝えるんだ! 早くお前も行け!」


 小浜は刀を持ち替え、腕に負った傷を押さえ門の中に駆け込もうとする。


「おいおい、そこのハゲよお! さっきは威勢のいい事言ってたくせに敵に背中を見せるとは立派だねえ!」


 耀蔵は門内に入り、太刀の剣先を石畳に引きずりながら逃げる小浜を追う。金属と石の擦れる不気味な音をなびかせ微笑みながら追う耀蔵の姿は尋常ではない。言うならば「妖怪」であった。小浜の言うとおり同心達を呼びに行こうとしている平梨だが、腰は引けてロクに動く事が出来ない。しかし、闘志は失ってい ないようだった。


「お、お、おい。あんた達は、な、何者なんだ」


 腰が引きながらもかろうじて抜刀し、構えているする平梨の姿に、男は笑いながら言った。


「ハハハ、私達ですか? 私は江戸幕府で将軍様の奏者番をやっている水野忠邦というものです。それで、あなたの同僚を追いかけているのは同じく奏者番の鳥居耀蔵といいます。御存じなかったですか?」


 抜刀をし、微笑みながら歩み寄ろうとする忠邦を見た平梨は、小浜と同じく奉行所の中へ逃げ帰ろうと走り出す。その直後、サクっという肉の絶つ音がした。 それとほぼ同時に小浜の悲鳴が響いた。しかし、傷の痛みよりも忠春らに報告をせねばと言う責務感、彼らに対する恐怖心の方が強かったのだろう。小浜はよろ けながらも忠春らのいる部屋へと向かった。


「おいっ! 小浜! 大丈夫か……」

「ハハハハ、確かに楽しいですね、忠邦様! 人を斬る刺激はたまりませんね! あ、でも忠邦様との閨もそれ以上に楽しいですよ!」


 小浜の返り血を浴びて恍惚に笑いながら耀蔵が話しかける。


「ハハハ、まだまだです耀蔵。中ではもっと楽しい事が待ってますよ」


 二人の会話を聞いていた平梨は腰を抜かしながら奉行所の中へと戻っていった。





 御用部屋では熱気が立ち込めていた。先程の忠春の言葉で、誰もの興奮し顔を紅潮させていた。外で起きている事態に誰もが気が付いていないようだった。


「はあ、はあ。た、た、忠春様! 大変です」


 またしても襖の開く音がする。「今度は誰が来たんだ?」と誰もが期待をしていたが、そこに立っていたのは小浜だった。


「何よいい所に来て。空気の読め無いハゲね」


 忠春が小浜を小馬鹿にしながらそう言う。他の者も、なんだ小浜だったのか、と残念に感じているようだ。忠春も何か言い返すのだろうと期待をしていたのだが、小浜の様子はどうもおかしい。不思議がる者も徐々に出て来た。


「忠兵衛か。お前は門番を仰せつかってただろ。どうした」


 衛栄は不思議に思い聞いた。小浜は性格は悪いが自らの職務を放棄してどこかへ行くような男では無い。その裏返しなのが。小浜は忠春の方を向き。


「や、や、や、奴が、奴が来ました……」


 部屋の中にいる奉行所の面々を見て安堵をしたのだろう。どさっと言う音と共に小浜はうつ伏せに倒れた。背中には真一文字に斬られた傷があり、どくどくと血が流れている。


「や、奴って誰よ。その背中の傷はどうしたのよ!」


 忠春が小浜の元へ駆け寄り問い詰める。しかし、小浜は気を失ってしまったために反応は無い。背後からは廊下を這って平梨がやってきた。


「た、忠春様。た、た、ただく……」

「おい、平梨! しっかりしろ!」


 平梨は、名前を言いきる前に、背後にいた女に斬られた。


「今度は奴とは失礼なクズね。ったく、ここの奉行所は幕府の重臣が来ても満足な出迎えも出来ないの?」


 そう誹り、倒れている平梨につばを吐き捨てる。女の行為を見て衛栄は憤慨する。


「てめえ、何しやがる!」

「……待って、衛栄」


 刀を抜き、女に飛びかかろうとする衛栄を忠春は手を出して制止した。


「あんたは、鳥居耀蔵じゃないの。……何しに来たの」


 忠春も耀蔵を睨みつけ威嚇をする。すると、後ろから笑顔で男が入って来る。


「いやいや、何やら盛り上がっている所恐縮ですね。忠春殿お久しぶりです」

「た、忠邦!」


 部屋にいる皆の驚く姿を見て忠邦と耀蔵はニヤリと微笑む。部屋の者は全員刀の柄を掴んでいる。忠春が一声「やれ」と号令さえすればいっせいに斬りかかる事だろう。


「おやおや、何やら物騒な雰囲気になりましたけどどうかしたんですか? 私たちはただ幕府の高官に無礼な態度を取った為にそれ相応の処置を与えただけです。別におかしな行為はしていませんよ?」


 忠邦は笑顔でそう答える。既に何人かは抜刀をし、刀身には行燈の明かりが当たり赤く見えている。


「何が無礼打ちだ! こっちだって幕府の高官だ。南町奉行所の同心だぞ! ふざけたことばっかり言いやがって!」

「そうだ、上等じゃねえか! 俺達は一戦交えてやったっていいんだぞ!」


 部屋に集っている与力・同心たちから声が上がった。一触即発。何かの拍子に簡単にはじけ飛んでしまうだろう。


「刀をしまうのです!」


 政憲が凛と声を上げた。これには忠春以下全員が政憲の方を向く。


「……満足な出迎えも出来ず、申し訳ございませんでした忠邦殿。さて、本日は何のご用でしょうか」


 政憲が笑顔で対応する。しかし、笑顔の底には敵意が剥き出している。流石にこの非道は政憲でさえ我慢がならない。


「先日でしょうか、我が家中の者が、どこかの遊女を殺しましてね」

「な、何?」


 全員が驚いた表情をし、声を揃えて反応をする。まさか、遊女殺しについてこの男からその言葉が出るとはだれもが思っていなかった。それを見た耀蔵は口をおさえ小刻みに震え、笑いを吹き出しそうになるが我慢をしている。忠邦は満足げに語り出す。


「そのものは普段から素行の悪いものでしてね、明日そちらへ引き渡しに行きますので、そちらから一人ほど都合してもらえませんか?」

「ええ?」


 奉行所の者らは更に驚いた表情をする。耀蔵は腹を抱えて地面に横たわり、声を上げて笑いだした。それ以外は呆然としていて、部屋には耀蔵の笑い声以外聞こえない。忠春が話をした。


「そ、そうなの。協力に感謝するわ」


 忠春も驚くが、かろうじて返事をする。それを見て忠邦はますます笑顔になり話す。


「いえいえ、市中の平和の為なら我々も協力を惜しみませんよ」


 そう言うと忠邦は忠春の方へ右手を差し出した。


「何よその手は」

「何って、握手ですよ。西洋の上級階級の間では友好の証にするそうですよ。我々の友好の証にどうですか?」


 忠邦は微笑みながらそう言った。


「そう。またよろしく頼むわ」

 忠春も右手を差し出して握手をする。すると、忠春は悲鳴を上げる。

「痛っ!」


 忠春はすぐに右手を引っ込める。手のひらを見ると一筋の切り傷が出来ており、血が溢れて来た。忠邦の手には剃刀が仕込まれていたようだ。


「おやおや、これは気が付きませんでした。なぜ私の手のひらにこんな剃刀が挟まっていたんでしょうか。全く気が付きませんでしたよ。申し訳ございません」


 耀蔵は更に大声を上げて笑い始めた。畳を叩き、涙を流している。


「何が友好の証だあ? てめえ、ぶっ殺してやる!」


 衛栄以下、全員が抜刀をし、忠邦らに斬りかかろうとする。政憲が制止をしようと声を上げようとした瞬間であった。


「待ちなさい!」


 部屋に大声が響く。この声の主は忠春であった。


「まあ、気が付かなかったのならしょうがないわね。いいわ、気を付けて帰りなさい。忠邦」


 忠春は、忠邦を睨みつけながらそう言う。


「忠春殿、寛大なご処置ありがとうございます。……耀蔵。帰るぞ」

「はぁ…… はぁ…… 承知いたしました。忠春殿、本日は面白い見世物をありがとうございました」


 笑い疲れて苦しそうにしながらそう言い、耀蔵は忠邦の元へ戻っていった。


「ええ、お気をつけて」





 静まり返る室内。部屋の一部では倒れた二人の救護をしている。

「二人の傷はどうなの?」


 忠春は、倒れた二人の側へ寄り好慶に聞いた。


「二人とも命に別条はないようです。忠春様の傷はどうでしょうか」


 好慶が答える。


「こっちは大したことはないわよ。彼らに比べたらかわいいものね」


 忠春は包帯の巻かれた手のひらを見せて笑う。


「しかし、なぜ忠邦様はここまでしたのでしょうかね」

「どうせ、アンタらが威勢良く忠邦らに詰め寄ってしっぺ返しでもくらったんでしょ? 昼間に同じことやられてる癖に。ったく、学習しなさいよ」


 義親が言うと、忠春は吐き捨てるように言う。昼間の事情を知る者は大きくうなずいた。忠春の言葉に二人の門番は小さくなる。


「でも、あのやり方は気に食わないわね。私ですら寸止めにしたのに」

「いやいやいや、あの時は、忠春様が真っ先に斬りかって……」

「傷はもう大丈夫なの?」


 小浜が起き上がってそう言うと、忠春はじっと小浜の事を睨み付けながら言った。


「……なんでもありません。はい」


 小浜はすぐさまうつ伏せとなり、忠春は黙って笑顔を返す。しかし、目は笑っていない。忠春の笑みに小浜は寒気が走った。きっと、言いきっていたら止まりかけている傷口も開く羽目になり、今度こそは先祖代々の墓に新しい卒塔婆が立つことになっていたかもしれない。


「しかし、なぜ彼らは来たんでしょうね」


 横で義親が不思議そうに呟いた。確かにそうだと、誰もがそう思っている。部屋にはまたしても沈黙が広がる。


「忠春様。あくまで私見なのですがよろしいでしょうか」


 ある男が口を開く。こういった場面で知的な事を言えるのは一人しかいない。


「ったく、カッコつけないでさっさと言いなさいよ、政憲」

「ハハハ、それもそうですね」


 政憲は笑いながら語りだした。


「一応言っておきますが、私見なので鵜呑みにしないで下さい。忠邦は忠春様に貸しを作りたかったのではないでしょうか?」

「貸し?」


 その場にいる誰もが疑問に思い口を開いた。その反応に政憲はニヤリとし語り始めた。


「ええ、貸しです。この件の実行犯は水野家の誰かなのでしょうが、この件に彼が関わっているのは間違いないでしょう。それに自家の家紋の入った財布がある 以上、例え北町が月番でも忠邦殿は取り調べは受けるでしょう。しかし、北町奉行は榊原様です。私が聞く上では榊原様は知りませんが、彼の部下の殆どは忠邦 殿の息のかかった者です。だからこそ、この事件がウヤムヤになってたのでしょう。なので北町が月番になるまで待ってればよいのです」


 文が疑問に思ったのか政憲に問いかける。


「ちょっと待ってよ政ちゃん。だったらなんでわざわざここに来たのよ。言うとおり月番が変わるまで適当に雲隠れをしていれば、北町の月番になってウヤムヤになるじゃない」


 部屋内はざわつき始めた。確かにその通りである。


「文殿、話はまだ終わってません。だからこそ南町奉行所に来たんです。失礼を承知で言いますが、新任の忠春様はこの件を解決するために躍起になると踏んだ のでしょう。何かしら実績を挙げたい、なんて思うのは当然です。更に忠春様は忠邦殿とは全くと言っていいほど縁が無い。つまり息の掛かっていないってこと ですね。そうなると対応も少し変わってくるでしょう」


 政憲が静かに語る話しに誰もが聞き言っている。すると衛栄が口を開いた。


「成る程ね。だから貸しなのか。要は、自分の部下を売って忠春様の手柄にさせてやろうって魂胆だな。それも忠春様が探りに行った結果実行犯がわかりましたって体じゃなくて、自分から行くってことで実行犯を教えてやった、ってことにするのか。確かに忠邦はある意味、忠春様に貸しを作ったってことになるな」


 衛栄の話した内容にまたしても部屋がざわつき始める。政憲は手で衛栄の方を指す。


「その通りです衛栄殿。あくまで私見なので合っているかは分かりませんけどね」


 政憲が微笑みそう答える。至る所で「忠邦め、きたねえな」「やっぱり、政憲様はすごいな」なんて声もちらほら聞こえ始める。政憲はまた語り始めた。


「でも、小浜殿と平梨殿とのやり取りがあって、奉行所内で死んではいませんが殺生沙汰を起こしました。なので結局貸しは作れませんでしたけどね」


 両手を広げて、やれやれといった仕草をして話した。


「おうおうおう、よかったなお前ら! 後ろ傷は武士の恥なんて言われてっけど、今回に関して言えば名誉の負傷だな!」


 衛栄はいつもの通り笑いながら小浜と平梨の背中をバンバン叩きながら笑った。


「い、い、痛てて、ありがとうございます」


 二人とも傷を触られて痛みをこらえながら反応をする。部屋はまた穏やかな雰囲気に包まれていった。しかし、一人だけ不満そうにしている。忠春だった。


「理屈はなんとなくわかったけど、結局何をするのかってなると待つしかないのね」


 忠春が口を尖らせながらそう言う。


「仕方ありませんが、明日来ると言っている以上、待つしかないでしょう」


 義親が忠春に語りかける。


「確かにそうね。仕方無いわ。今日はこれで解散よ。明日また来なさい」


 忠春が悔しげにそう言い。討議は幕を閉じた。





「いやあ、先程は傑作でしたね、忠邦様。あの奉行所の連中の顔といったら……」


 耀蔵が忠邦の方を向きそう語る。しかし、忠邦は無表情である。


「いえ、まだまだですよ。あす以降はもっと面白い事になりますよ」


 狂気を孕んだ忠邦の笑顔は、普段の顔と比べもはや別人であった。いや、こちらの方が普段の顔で狂気に満ちている顔の方が別人なのかもしれないが。


「楽しみにします。忠邦様」


 狂気を孕む忠邦の顔に耀蔵は見惚れている。忠邦も耀蔵の腰に手を回し、体を寄せ合いながら二人は芝の屋敷へと戻っていった。

用語解説


『オットセイの陰茎の粉末』 将軍家斉が多用していたという漢方薬。一部では家斉の事を「オットセイ将軍」なんて呼んでいたらしい。家斉が子沢山の原動力だね。「海狗腎」って言うらしい。要はバイアグラ。


『榊原様』 榊原主計頭忠之。北町奉行を十七年務める。長いってことはそれほど信頼されていたってことですね。色んな小説にも出演していて里美浩太郎が演じたらしい。水戸黄門万歳。子孫の方ごめんなさい。


『江戸時代に握手』 やっていたか実際の所は不明らしい。そもそも、常に武装しているんだから片手出すなんて不用心だしね。だからこそ「敵意ナイデスヨー」って意味を持たせて握手をするんだろうけどさ。そんな理由で江戸時代には握手は流行しなかったと妄想。

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