雑喉場
主税は、明朝に上本町の組下屋敷を出て江之子島に向かった。上本町からは徒歩で半刻もあれば辿りつける。
その江之子島は大阪市中の西端にある。すぐ西隣には川を挟んで九条島があり御船手屋敷に湿地帯と九条村の低い街並み。その奥に大阪湾の群青色と翻る浦廻船や漁船の白い帆、晴れていれば更に奥には淡路島の緑がうっすらと望める。奉行所や大阪城はかなり内陸部にあるので、この辺りまで来ると冬の乾いた空気と潮風が心地いい。
時期が時期なので最盛期に比べて閑散としている雑喉場だが、商人たちの活気はある。特にこの明朝は最も人の入りが激しい時間帯だったので、弥平の事を知る人には事欠かなかった。
だが、主税の顔は浮かばない。
「……なぁあんさん。忙しい所悪いんやけど、干物商の弥平ってのを見かけへんか?」
「なんや。お前さんは弥の字の知り合いなんか。ワシらも探しとった所や。仕事熱心な男が仕入れに来ないんやからな。おかしな話やわ」
道行く商人に聞きまわるのだが、どれもこんな感じに言い返される。
「弥平? ああ弥の字のことか。あいつええヤツやろ。人当たりもええし色んなヤツの相談に乗っ取ったな。お前さんもその口なんやろ?」
それに加えて弥平の評判は悪く無い。それどころか、同業者からの評判は掛け値なしによかった。ただ、その人の良さが新光門に付け入るすきを与えてしまったのかもしれない。
とはいえ、その何名かに弥平の店を教えてもらえた。場所は江之子島北端から中之島へと架かる湊橋のすぐ手前だという。
「すんません。弥平はんはおりませんか?」
「……帰って来てませんよ。私もこまっとることろです」
弥平の妻は30半ばだろうか。皺の浮いたぷっくらと肥えた顔をした少々気の強そうな目をした女は、肉付きのいい背中に小さな子どもを背負ってあやしながら答えた。
「昨日、帰られなかったんですか?」
「さいです。昼過ぎに『ちょっと出かけて来るわ』って慌てながら言ったきり帰ってこうへんのです」
最後に見たのは新光門本部の山門を出て行ったあの後ろ姿とういうことだろう。妻の結と話し終えたのは日の暮れる少し前だったから時間に矛盾は無い。
あの男の口ぶりと、商人たちの評判からして
「ワシは奉行所の松橋ちゅう同心です。弥平はんが帰って来たら奉行所に来るように言って下さい。
「……あの人が何かしたんですか?」
心配そうに目を細めた。
『おまえの旦那は美人局に引っかかって訳の分からない石や金細工が施された仏壇を買った』なんてことを馬鹿正直に言えるはずもない。それに、気が付いていないのであれば言う必要も無いだろう。
「いやぁ、そういう別に悪いことをしたとかそういうことやないです。ご安心ください」
「はぁ。さいですか……」
主税は笑みを繕って去るも、弥平の妻は子どもを強く抱きしめてこちらの背中を見送っていた。
「こりゃまた大変なことになったなぁ」
朝日を背にして木津川を眺めた。朝日に反射して川面がキラキラと光っている、だが、橋脚や流れの淀んだ部分には紙くずや廃材が油を帯びながら溜まっていた。
そういえば、昨日屋敷に帰っても結の姿は無かった。茶屋で別れて後に何をしていたのだろうか。
○
主税は定町廻りも兼ねているので、町を一通り見廻って奉行所に戻ると慌ただしいことになっていた。
宗門改も一段落ついた如月の終わりだが、廊下を駆けまわる男たちは『布巾を用意しろ』だの『いいや早く現場に行くんだ。その用意が先だ』と捲し立てながら駆けまわっている。
「何かあったんか?」
主税は近くにいた若い同心斉藤に声を掛けた。
「難波村で殺しがあったらしいで。それも、おかしな殺しなんやて」
「どういうことや」
「なんでも腹を掻っ捌かれて臓物がひとっつも残されてないんや」
「は、はぁ?」
主税は声をあげる。野犬や狼やらが死体を食い漁ったのだろうかと思ったが、難波村はそこまで鄙びてはいない。
「その死体はどこにある」
「奉行所の蔵で検死しとるで。気になるならいってみてください。他の連中は気味悪がって人手不足らしいですわ。ま、そんな趣味はデクさんにゃないと思いますけど……」
斉藤が言い終える前に主税は駆け足で蔵へと向かう。
そこでは衛栄と数名が作業していた。
「いい所に来たな。ちょうど人手が欲しかった所だ。それでデクさん、これを見てどう思う?」
「……これはまた、酷い仏やな」
蔵の中央に置かれた遺体は酷い有様だった。
下半身のほとんどは焼失しており、腰のあたりがかろうじて残るのみでそれも黒ずみになっている。焼け爛れたヘソの下から比較的きれいな胸元にかけてを真一文字に裂かれておりあばら骨が剥き出し。首筋にも大きな裂傷があった。
あばら骨が剥き出しなので腹の中身が見えた。明らかにおかしい。
「ちょっと待て。なんで心の臓や胃袋が無いんや」
その死体にはあるべきものが何にも無かった。心の臓・胃袋・肺・腸など、挙げればキリが無いが、とにかく五臓六腑が無い。
「動物に食われたってわけやない。誰かが切りとったんでしょう」
「確かにそうや。畜生がやったんやったらこんなに綺麗な傷口にはならへん」
若い同心が口を押さえながら言う。
臓物一式が無いのは、この傷口を見る限り野犬や狼の類いでは無いだろう。食い散らかしたのであればあまりにも丁寧過ぎる。動脈は刃物によって切れ口がパックリ開いているし、無理やり引き千切ったような跡は一つも無い。
「いやぁ、酷い話ですよ。金目のものや身分が分かるものを全部持って行きやがった。最初は夜盗かなんかかと思ったんだが、わざわざ死体を掻っ捌いて臓物を刳り抜くなんざ手間なことはしないだろう。下手人はこの仏さんに対してかなり恨みがあったんでしょうな」
「なぜ臓物が抜かれているんや…… 衛栄様、分かりますか?」
「さぁ、俺にもわかりません。しかし、こんな半焼けってこたぁ火力がたらなかったんだろうな。殺してから燃やして何も分からなくするつもりが、夜露にでも降られて失敗したんだろう。運の悪いこったな」
布巾で口と鼻を覆う衛栄が冷静に言う。
検死書によると、一番の死因は首の裂傷らしい。生きたまま腹を掻っ捌けるはずもなく、燃やしてしまえば騒ぎを村人に嗅ぎつけられてしまうし、死体は燃やされた部分以外は灰を被っていたくらいで綺麗なものだった。まず間違いないだろう。
「それでこの男は何者なんや。難波村の者なんか?」
「いや、この仏さんは身元が分かる物を何も持っていない。きっと殺された際に持っていかれたんだろうな。んで同心たちが難波村の連中に聞いて回ったんだけども、誰も知らないと言っていたそうです。余所から来た男だろうってね」
遺体の顔には白い布巾が置かれている。蝋燭一本が灯る埃っぽい蔵で布巾は光を帯びた様に見えた。
嫌な予感が主税を飲み込む。
「……いや待ってくれ。ちょっと顔を見せてくれへんか」
「別にいいですぜ。しかし、仏さんの顔を見てどうするんですかい?」
衛栄が不思議そうに言い返すが、主税は黙って真っ白い布巾に手を掛けた。
なぜだか嫌な予感ほど的中する。これもそうだった。
「……やっぱり弥平か」
頭から下は酷い有様だったが顔だけは無事だった。それだけに一目で分かった。
「知り合いですか?」
「ああ。それも大変なな」
連れだすはずの弥平は既に殺されていた。
○
「なるほどなぁ。運ばれてきた遺体ってのは弥平だったんか」
「間違いなく新光門の連中やな。デク、商人の間でも弥平の評判は悪く無かったんやろ?」
「そうや。ワシも新光門の連中がやったって踏んどる」
老同心三名は詰め所に集うと話しこんだ。
弥平は新光門に入れ揚げていた以外は全くのシロだった。普通の男で商人たちの評判もすこぶる良い。過程中も悪く無いだろう。
それなのに、あそこまでされて殺されるのだからかなり強い悪意に殺意を持つ者の犯行と見るのが筋だろう。
「弥平はカミさんがおった。幼い子もおった。新光門の連中に口封じのため殺されたというのだったら納得は出来る。しかし、なんで腹を掻っ捌く必要があったんや。口封じのためなら殺して海にでも沈めればええやないか」
「そうやな。殺すだけでええのに、新光門によっぽど恨まれてたとでも言うんか? わざわざあんなことをする理由はなんなんや」
弥平は新光門の上客と言ってもいいだろう。買わせるだけ買わせたのだから殺す必要性を感じられない。
何度も事実を咀嚼して考え込むが納得の言う答えはなに一つとして浮かばない。意味不明な事実だけが噛み切れずに口の中に残る。
「平八郎様、どういたしますか。すぐにでも乗り込みますか?」
「……まだいいわ。期日通りにコトを進めましょう。逸って捕物を失敗するのが一番意味が無いからね」
三郎がそういうと平八郎は宥めるように言う。だが、三郎はそれだけでは静まらない。
「しかし、犯人が新光門だったと仮定しやしょう。だそすれば遺体を焼き切れないで見つかったどころか、奉行所の手に渡ったって事を知ったらどうなりますか。連中はかなり焦っとるはずや。こっちが出る前にとんずらされたら全てがパァや」
「確かにそうや。決めつけるのは早いかもしれへんけど、殺したんがバレたら逃げるわな。猶予は限られとるで」
又兵衛も同じく頷いた。
「確かに。」
「この少しの間にやられたんだから仕方が無いわ。それよりも面白いモノを見つけたんだけど」
平八郎は薄い懐から数冊の文書を取りだした。
「なんでしょうかこれは」
「ここ数十年の宗門改帳を必要な所だけ抽出したものよ。私なりに新光門に付いて探ってたんだけど、どうもおかしいのよ」
『そもそもおかしいことだらけだろ』と言いたげに老同心三人が見つめるが、平八郎は気にせずに言葉を続ける。
「教祖の曹乙は前に喋ってた通りの人間なのよ。宗門改帳にも本名が書かれていたし、出自の村の名主が『昔から不思議な容姿をしてたって』っていう話で裏はとれたわ。でもね……」
「でも?」
「作林が分からない。経歴も何も無いの。色んな筋に当たってみたんだけど、何にも残っていないし、残っていても新光門に入ってからの経歴しか分からなかった」
老同心三人は頭を近づけて平八郎がまとめた文書に目を通した。
四天王寺地区の過去数十年分の宗門帳に作林の名は無く、新光門が設立されてからの宗門帳にのみ作林の名が記されている。
「そもそも作林ってのは途中から付けた名前やろ。前の名前も分からんし、他の所から流れて来たヤツって線は無いんか?」
「それは無いわ。あの訛りは大阪のものだし、聞いたところによるとずっと大阪で暮らして来たって本人が言ってたとも聞いてる」
作林の話す言葉は確かに大阪のモノだし、数年住んだだけで身に付くものでも無い。老同心三人は再び首を捻った。
それに、おかしな点はもう一つあった。
「言われてみればそうやな。あの頭巾姿以外に顔を見たこともあらへん。すっかり抜け落ちてたわ」
「最初からおかしな連中やったし重要なことを忘れとったな。案外見知った男かもしれへんで」
「分かるのは、30半ばに新光門に入ってから、教祖曹乙のより良き片腕として辣腕をふるっているってことだけ。何者なのかしらね」
「作林っちゅうのは聞けば聞くほど謎を呼ぶ男やな。デク、何か分からんのか?」
三郎が聞くと主税は首を横に振る。
組織そのものの捜査に終始していたので作林については探りを入れていなかった。
「ワシもすっかり忘れとったわ。新光門でもずっと頭巾で顔を隠しとったから顔は知らんな」
「相変わらずデクは詰めが甘いんやな。それはええけど、宗門改帳に名前が無いんやから罪人の類いや。適当に歩いている所を無理やりしょっ引いてもええんじゃないですか」
「あくまでも平和裏に行きましょう。決行まで日付がある。それまでに連中についての新しい何か掴めればいいんだけど」
平八郎が言うと、又兵衛と三郎は仕方なさそうに肩をすくめた。
「総大将がそう言うんならしゃあないな。目明かし使って色々と探りを入れてみやしょう」
「よろしく頼んだわ。しかし、新光門ってただの新興宗教だと思ってたけど、問題の根は深いのかもしれないわ。厄介な案件に捕まったわね……」
部屋を去る際に平八郎はボソッとため息交じりに言う。
内臓のくり抜かれた半焼死体に、経歴も顔も正体も不明の右腕作林。平八郎に老同心三名は新光門をただのイカれた集団かと思っていたが、上がって来た情報をまとめて悟った。これ以上ないぐらいに面倒くさく、抱えている闇も深い集団なのだとも。