どこまで続く泥濘ぞ
「お、デクやん。こんな所でどうしたんか?」
主税が新光門本部に出入りすると背後から声が聞こえた。
即座に身構えて振り向くも、そこにいたのは見知った顔だった。
「……なんや千代ちゃんやんけ。どうかしたんか?」
背後にいたのは天神町の魚屋の娘、千代だった。その横には父親のテツもいた。
「それがなぁ、ウチの友達が体壊したんよ。それやからここで診てもろうてたんよ」
「なるほどな。それでその子はどうやったんや」
「ここのお医者さんは大したことないっていっとったわ。一日二日ここにいれば治るって」
医者に千代は胸をなでおろして安堵した様な顔をする。
「そりゃよかったな。熱心な医者ばかりだったやろ」
「うん。ホンマに不思議やわ。お医者さんにもろうてた薬も高そうなやつやったし、ホンマにお金払わんでもええんかなぁ」
千代は顔を明るくさせてはにかんで見せるが、隣にいるテツの顔がいまいち晴れない。
「今日診てもろうてんのはワシん店の斜め向かいのお茶屋さんの娘さんでな。繁盛しとるから代わりに頼まれたんやわ」
「なるほどな。そのお茶屋の親御さんも面倒見れなくて心苦しいやろうな」
「そりゃそうやろ。ワシやったら店なんか閉めてすぐさま医院に診せてやるわ。ま、店を閉じたらさっさと行けって言ってあるけどな」
テツとの話で自身の娘のことを思い出した。夜遅くに高熱を出した娘を抱えて町医者を探しに何軒も走り回った記憶がある。
「何言うてるん。ただでさえ売り上げが少ないんやから店は開けんとアカンって」
話の中心の娘はあっけらかんと言う。テツは苦い顔をした。
「それと、大きな声で言えへんけどここ雰囲気悪いな。ちょっと不気味というか、なんていうか……」
主税が聞き返すと魚屋親子は口をそろえて言う。
「なんか、いるんよ。その、これやこれ」
テツと千代は揃って手の甲を下に向けた。要はお化け的な何かを感じるらしい。
「まぁお化けならここいらで死んだ人もおるやろうし、周りはみんな寺社やからな。どこのお寺さんもこんなもんやろ」
「そうなんかなぁ。ちょっと違う気がするけどまぁええわ。それじゃ、デクちゃんまたな」
「デクまたな!」
千代らは大きく手を振りながら新光門を後にした。
店は繁盛しているのに新光門を当てにするということからして、町人らの景気はそこまでよく無いのだろう。また一つ報告すべき問題が増えた。
「あの子元気やなぁ。お前さんの知り合いか?」
今度は正真正銘知らない男が背後から主税の肩に手を掛けてきた。
主税はすかさず男の腕を掴むと片脇に挟み込み、懐から短刀を逆手で抜いて切っ先を男の喉元につきつける。
「待て待て。別に怪しいもんやない。それにあの子に気もあらへんし」
「だったらなんや。あんさんは何者や」
男を山門の柱に押さえつけて睨み付ける。男と主税の身長差もあって抑えつけられた男は完全に宙に浮いていた。
「わわわ、ワイは弥平っちゅうもんや。お前さんと同じ新光門の信徒やで。何もせやへんから勘忍してくれや……」
いつぞやに山門前で見たことがあった。確か女連れの男のはずだ。弥平は乱れた襟元を伸ばすと喋り出した。
「思い出したわ。手荒に扱ってすまんな。それで、前に連れてた女はおらんのか。確か、たいそうなベッピンやった気がするんやけど」
「そいつなんやけどなぁ、ワイも探しとるんやわ」
弥平は腕を広げて天を仰ぐ。
「その女はどこか行きおったんか」
「そうやねん。ホンマに惜しいことをしたもんや。あんな女に付いていくんもんじゃなかったわ」
女がどこかに行って惜しいのか、はたまた後悔するわで弥平の態度がはっきりとしない。
ただ、この男が何をしたいのかはなんとなく分かった。
「あの風だと女に義理立てしてココに来たんやろ。だったらさっさと足抜けすればええやないか」
主税の言葉は正しかったらしい。男は辺りをキョロキョロと見回すと、建物の陰へと主税を引き寄せて小声で言う。
「見てくれはぼおっとした感じやけど中々冴えとるな。そうなんやわ。ワイもあの子に言われたから来たんや。せやけどな……」
弥平は顔をしかめて大きくため息をついた。
「……その、買ってもうたんやわ」
「何を買ってもうたんか?」
暗い顔を浮かべたままの弥平はゴソゴソと懐をまさぐると光る石を取りだした。
「この石や。どうや、綺麗やろ」
「ああ。これがどうしたんや」
石は光に反射して幾色にも変わった。玉虫の背中が透き通ったような色をしているし、弥平の手の平の皺までくっきりと見える。
「これな。あの女に言われるがままに買わされたんよ」
主税はこれから続く内容をなんとなく察した。
「……それが馬鹿高い値段だったんやろ?」
「その通りや。冴えとるなぁ。ざっと30両はしたで」
それだけあれば半年は暮らしていけるだろう。
「他に変なもん買うてへんよな?」
「いやぁ、それがなぁ……」
弥平は頭を後ろに手をまわした。どうにも歯切れが悪い。
「別にええやんか。同じ信徒なんやから隠す意味なんてあらへん。何の問題もあらへんやろ」
「仏壇こうたんやわ。でっかいので50両はしたなぁ」
今度は主税が頭を抱えた。妻が崇めるあの仏壇はそんなにしたのかと今になって驚く。
「金ぴかのヤツやろ? 仏具も馬鹿みたいに豪勢なアレや」
「初めてあったってのにすごいなぁ。何で知っとるんや。デクちゃんは千里眼か何かか?」
主税は適当にはぐらかした。本題は違う。
「ただの勘や。その顔つきからしてお前さんなかなか歳いっとるやろ。カミさんはおるんか?」
「そのな、アレや、間違いやったんや。二人で酒飲んでたら寝てしもうてな、いつの間にか連れ込み茶屋におったんや。隣じゃ裸のミキちゃんが寝とるし、よう知らん厳つい男がこっちを睨んどったし……」
何か思い出したく無い記憶があるらしい。弥平は再び縮こまって黙り込んだ。
新光門を心から信じているのであれば、訳の分からない仏具にいくらでもつぎ込むだろうが、義理立てだと言っている上に思い出したくない過去があるらしい。これ以上ないくらいの情報だった。
「……これ以上はもうええわ。それで、お前さんはどうする気や」
「あの子はミキちゃんってゆうねん。そのミキちゃんもおらへんし、買うたもん新光門に全部返してこんな所からさっさと足抜けするわ。ワイもそんな暇やないからな」
「それがええ。カミさんには頭下げりゃええだけの話や。合計8両もつぎ込んだとなれば死ぬまで尻に引かれそうやけどな」
「カカァは年上の古女房や。ワイは江之子島の雑喉場で干物商をやっとるんやけど普段から尻に敷かれとるさかい。今更どうでもええわ。ありがとな。ほな、さいなら」
主税が言うと、弥平は笑みを浮かべて手を振りながら山門から町の方へと消えて行った。
「……なるほどな。色々とあくどいことやっとるんか」
美人局を使って町人に高価な商品を買わせる。あの色白の教祖が考えたことなのだろうか。人はみかけによらないと言われればそうかもしれないが、主税の心の隅に引っかかる所もあった。
そんなものに引っかかる方も引っかかる方だが、これだけあれば新光門を追求できるかもしれない。今日はもういいだろうと弥平に続いて山門を出ようとした時だった。
「……なんであなたがここにいるの?」
聞きなれた声が主税の足を止めさせる。
「……結か。お前も通ってたんか」
○
妻の手を引っ張って新光門の本拠地を後にして、四天王寺前の茶屋に駆けこんだ。
新光門の連中に姿を見られれば何かと面倒なことになることは明らかだし、とにかく腰を据えて話がしたかった。
「こんなとこでなにしとんや」
「何って曹乙様の教えを受けにきたのよ。あなたには関係ないでしょ? それに……」
結は顔をしかめて言う。
「あなたこそなんでここにいるのよ。家ではあんなに曹乙様を馬鹿にするようなことを言ってるのに」
最も恐れていたことが起きた。というか、いずれはこうなると分かってはいたが、この機会に知られるのは予想外だった。
この状況で潜入を止めるにしては掴むんでいる情報は少なすぎるし、踏み込もうにも一歩間違えれば「不当な介入だ」と町人の信頼は地に落ちる。
「そりゃぁ、その……」
「……何を黙ってるの? 答えてよ。ほら、早く」
結は皺の走った目元をいっそうきつくする。主税は戸惑った。
熱心な信者の妻に、『新光門を潰すべく内偵調査をしている』などと馬鹿正直に答えられるはずもなく、夫婦仲の冷めきった結に適当なことを言った所で信じてもらえるはずもない。
「そ、そりゃ決まってるやろ。お前を理解したいんや。この10年、お前が腹を痛めた子が死んで悲しんでいたのに俺は無かったように振舞ってたし、悲しむお前を理解しようともしなかった。そういう生活はもう終わりにしたいんや」
主税は震えながら言う。言葉を紡げば紡ぐほどに自分で何を言っているのか訳が分からなくなる。
「い、いや、いきなり何を言い出すのよ。だったら、私の父親もとっくに死んだんだから離縁でも何でもしなさいよ。誰に義理立てする必要なんてないんだから。それに理解されたいだなんて思って無いわ」
娘が死んで妻が変わって10年。
義理の父親である結の父親は死んだし、この年になったので主税が奉行所内で出世できる訳でも無い。別れた所でどうということもないだろう。
「だからや。もうすれ違って生きるのは嫌なんや。世間体とかそんなんやない、まっとうに過ごしたい。それだけや」
茶屋がざわつき始める。
ふと我に帰った主税は数度周りの客に会釈をして顔を赤くしながら席に座った。
「……」
主税は出されていた冷えかけの茶をすすると結の表情を見る余裕が出来た。
対面に座る結は、黙ったまま主税の目を見ている。結の無い芯で何かが渦巻いているとしても、それを表に出すことはせずに感情を見せない。
「そう。好きにしてよ」
茶屋に入ってからこれまでは、ほんの一寸ほどの出来事だった。
ただ、結はそれだけ言い残して四天王寺前の茶屋を駆け足で出て行く。
○
主税は新光門に戻らずにその足で奉行所へと報告に向かった。
一通りのことを報告した。新光門の連中が美人局やらで不当に金品を巻き上げて懐に入れているとすれば、それは大きな問題になる。
「……なるほど。悪く無い線ね。又兵衛に三郎、これならいけそうじゃない?」
「せやな。これだけ材料があれば新光門に踏み込めそうや。商人やらの件はそれからでもええやろ」
「踏み込んだ後に帳簿を引っ張りだして金の流れを探れば問題ないやろ。それにしても、さすがはデクや。普段は何考えとるかよう分からん物静かな男なだけに、ここぞという時には溜めてた力をしっかりと発揮するんやな。主税だけに」
平八郎が問いただすと、又兵衛に続いて三郎がもっともらしく言う。
「……それで、どうしますか。明後日ぐらいに乗り込んでやりますか」
「それもいいんだけど、その美人局に引っかかった町人ってのはどこにいるの? 直接話を聞いてみたいんだけど」
「確か江之子島で店を持ってるとか言っとりました。いますぐ手配します」
「それがいいわ。踏み込むのは一週間後。人員の配置・役割・段取りとか色々と仕事はあるわ。又兵衛は準備をお願い」
「あいよ」と、又兵衛は額を叩いて勢いよく出て行った。
平八郎はなおも顎に細い指先を当ててどのように指示を送ろうか思案している。そして、思いついたように三郎にも指示を出した。
「三郎は新光門本部近辺の状況をまとめて。あの辺りは拓けてるとは言えないからね。林の中に逃げられたら追いかけようがないし」
「わかりやした。私もデクのように力を発揮してやりましょうかね。あ、ちなみに今の力っていうのは……」
「……もういいから。早くお願い」
「はぁ、さいですか……」
平八郎はため息交じりに言う。三郎は弱弱しく口を尖らせると、大きくため息をつきながら肩を落として部屋から出て行った。
「私もすぐに向かいます」
「ちょっと待って」
又兵衛・三郎に続こうと主税は部屋を後にしようとする。
だが、それを平八郎が呼びとめた。
「ちなみに主税さ、他に報告することは無いの?」
平八郎の目が鋭く光る。いや、いつも通りの平八郎なのかもしれないが、一つだけ報告をしていない事案があるだけに主税は軽く動揺をした。
その事案は茶屋で妻と会ってしまったことだ。
「どういう意味でしょうか」
間髪入れずに主税は聞き返す。平八郎は主税の形相に少々たじろいだ。かなり切羽詰まった表情をしていたらしい。
「そんなに焦ってどうしたの? 今の言葉に他意は無いわ。何も無いなら別にいいんだけどさ。それじゃ、明日中に騙された男を連れて来てちょうだい」
「わかりました。明日の午前には奉行所に連れてきます」と、主税は答えると部屋を出て行った。
果たして今回の捕物で何人の信者が捕まるのだろうか。間違いなく、新光門の熱心な信者はかなりの抵抗を見せるだろう。本部の案内をしてくれた老婆もきっとそうだろう。そんな信者の中に、妻の結は含まれてしまうのだろうか。茶屋でああ言ったが、俺の言葉は信じてもらえたのだろうか。
奉行所の廊下を踏みならす主税にいい予感はしない。それ以上に、何か悪いコトが起きるんじゃないかと気が気でならなかった。事実、想定していた以上の悪い出来事は起きた。それも、生駒山から吹き下ろす颪のように面白いように吹き荒れた。
用語解説
『雑喉場』近海で獲れた小魚を取り扱う市場。色んな所を転々として、今の大阪府西区江之子島に辿りつきました。わかりやすく言うと、築地市場みたいなものです。