東西合流
「平八郎様、よろしいでしょうか」
「又兵衛と三郎ね。これまで色々と調査をしてたんでしょ。御苦労さまね。それで結果はどうだった?」
「いやぁ、それが……」
平八郎が手蝋燭を片手に奉行所の書庫を探っていると、そこに疲れ切った顔をした又兵衛と三郎が入って来た。
新光門本部での熱狂ぶりをまざまざと見せつけられたあの日のうちに今後すべき内容は決めていた。そして、それ通りに主税らが動き始めて十日が経つ。
そんなこともあって平八郎が報告を聞こうと声を掛けるのだが、又兵衛・三郎の老同心二人は揃いも揃って暗い顔をしている。
「……なんとなくだけど、内容が芳しく無いってのは分かったわ。それでも一応報告して」
「わかりやした。まずはワシから報告します」
最初に口を開いたのは又兵衛だった。平べったい顔を下に向けてため息をつくと喋り始めた。
「新光門に流れる薬は間違いなくに道修町の薬種問屋を通ってます。せやから道修町の何軒かに当たってみたんやけどなぁ……」
カラ元気すら出さない又兵衛の言葉に、平八郎は返ってくる内容を察した。
「……どうだったの?」
「最初は身分を隠して色々とそれとなく聞いたんやけど、ろくな情報は得られませんでしたわ」
「何者か分からないような男にペラペラと喋るはず無いでしょ。聞き方が悪かったんじゃないの?」
「ワシもそう思って五日目くらいに『ワシは奉行所の同心だ』と名乗ったんですわ。せやけど、『今は忙しい。別の日の別の時間に来てくれ』って門前払いや。それが十日ほど続きやした」
無駄口をよく叩いて場を賑わす又兵衛だが、今回の捜査は堪えたらしい。笑顔一つ浮かべずに肩を落として話す。
「妙な話ね。当然、問屋に合わせて時間はずらしたんでしょ?」
「当たり前や。せやけど何度顔を出しても対応は同じや。どの店も何も喋りたがろうとしないんや」
奉行所から役人がやって来ても、真っ当に対応しないのは確かにおかしい。平八郎は首を傾げて又兵衛は言葉を続けた。
「茶の一杯も出さへんし、明らかにおかしいわ。ホンマになんなんやろうな」
「行っては断られ、行っては断られをひたすらに十日間か。又兵衛もようやるわほんまに」
「何言うとんねん三郎。それが仕事やから当たり前やろ。好いた女の家にだってこんなには通いはせんで。ワシのカミさんの家やったらなおさらや」
「……いやいやいや、奥さんは関係ないでしょ」
又兵衛の話は若干逸れて最後は愚痴っぽくなったが、問屋の話はなんとなく見えてきた。意外と大きな案件になるかもしれない。
「……わかった。私も直接行って確認してみる」
「多分、問屋をしらみつぶしにしても意味はないやろうな。株仲間の寄合所に行った方がええやろ」
「道修町の寄合所と言ったら小彦名神社よね。ここ数日のうちに行ってみるわ」
小彦名神社は大阪の北部・船場にある。本町の西町奉行所からは半刻もかからない距離なのでそう遠く無い。
行っては断られの繰り返しだった又兵衛の行動は無駄に思うかもしれないが、何にも代えがたい貴重なことが一つだけあった。
「何度も又兵衛をにべも無く突き返すってことは、それだけ何かを隠したい理由があるってことよね。又兵衛、めげずによくやったわ。これは大きな一歩になったはず」
「へへ。ありがとうございやす。ほれ見ろ三郎さんよう。分かる人にはわかるんだよ」
又兵衛が恥ずかしそうに禿げあがった頭を下げると、横にいる三郎を肘で小突いた。
「それで三郎、アンタは確か商家を探ってたんでしょ?」
「そうです。又兵衛と同じようにかなり苦労しました。なんせ事前情報なんて何にもありませんからね」
三郎は年の割には濃い髪をかき上げた。三郎の細い目はしょうしょう自慢げに見えた。
「指示したのは私だけど、大阪に数万はいる商人の中から新光門関係者を探すって途方も無い作業だったでしょ。どうやって探ったの?」
「新光門の本部に出入りしてる大店が無いか四天王寺近辺で聞きこんできました。それで、調べた結果なんですが、大阪は広いようで狭いみたいで新光門に出入りしとった大店の主人から小間使いまで意外とツラが割れているようでしたわ」
新光門に出入りしている商人が一つが見つけ、そこからはイモずる式でひたすら手繰ってゆく作戦だったようだ。
「なるほどね。さすが三人の中じゃ一番頭がキレるだけあるわ。それで、どうだった?」
「出入りしとった連中に何を聞いても『困っとる人のためや』の一点張りでしたわ。ワシの考えが穿り過ぎたのかもしれへんな」
三郎は苦笑しながら答えた。
すると、横にいた又兵衛はさっきまで暗かった表情を変え、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら三郎の肩に腕を回して言う。
「やっぱ心の綺麗さが現れるんやろうな。三郎のはドブ川の濁り切った水の様な心やから、ああいうことを簡単に言うんや」
普段は落ち着きはらっている三郎だが、又兵衛のこの言葉にはイラっときたようだった。回してきた腕を無理やり跳ねのけて怒鳴るように言い放つ。
「じゃかましいわ。何度尋ねたって何も聞けへんお前と一緒にすんなや」
「なんやなんやドブ川の三郎ちゃん。みすぼらしいツラによく似合ったカッコええ心やんか」
「ああ? ロクでもなさなら日の本一で、性の根とカミさんが腐ったような男がよう言うわ」
「二人とも落ち着いて。三郎も御苦労さまね。引き続き聞き込みをお願い。とりあえず、これで分かったことが一つだけある」
見かねた平八郎が宥めると、二人は真っ赤にした顔を平八郎に向けた。
「結局は潜入してる主税次第ってところなのね。明日明後日辺りに主税に話を聞きましょう」
「しゃあないな。それが一番やろ」
「せやな。デクちゃんがドえらい情報を掴んでることを期待せなあかんな」
思っていた以上に新光門の周りは守備が固い。ため息をつくしかなかった。
「しかしデクが大きな情報を持ってくると思うか? なんたって”デク”ってあだ名がつくくらいの男やで」
「せやなぁ。ヤツがああ呼ばれるのには、かなり昔にヤブ医者の張り込みをやった時なんや」
又兵衛と三郎はため息をついた。
「私もその話聞いたことあるわ。確か父上がその事件の担当で、三人が奉行所に入りたてだった頃の話なんでしょ」
「そうや。もう四十年近く前の話やろうな。ヤブ医者集団をとっ捕まえる算段になっとったんやけど、デクの野郎がしくじったなぁ」
四十年近く前ということは主税らが十代半ばの話で、平八郎が生まれているはずも無く、父親が現役で働いていた頃の話だ。
ヤブ医者が市民から法外な報酬を得ていたという事件があり、その実態があまりに酷かったので奉行所が対処に乗り出したという事件だった。
堀江にあるヤブ医者が集まる医院を奉行所の役人十名ほどで囲んでいたのだが、別働隊として外を見張っていた主税は小間使いであろう少年を取り逃がしたのだ。
「とはいえ頭領格の男は捕まえたから何の問題も無いんやけどな。確かパシりに使わされてたガキを取り逃がしたんやったっけ」
事件そのものは大して激しい事にはならず主犯格の男たちは簡単に捕まったため、別働隊で粗相を犯した主税にお咎めは無かったという。
「そうだったか? ワシが聞いたのはまとめ役の妾って話や。いずれにしても昔の話だからよう覚えとらんわ」
又兵衛の言葉に三郎は首を傾げる。
「まぁ逃げたヤツはどうでもええけど、その事件でしくじったから”木偶の坊のデク”になったんや。図体ばかりでかくてロクに仕事の訳に立たんって事からや」
「仲がいい割には結構酷いあだ名をつけるのね」
「平ちゃんそれはちゃうわ。仲がいいからこうやって言い合えるんや。なんちゅうか、”主税”よりも”デク”のが親しみがあるやろ」
「そういうことや。デクって名にはそう言う意味が込められとるんやで」
又兵衛は誇らしげに語った。”主税”よりかは”デク”のほうが響きは柔らかい。言われてみればそうかもしれない。
平八郎は釈然としないまま首を傾げた。
「ふうん。分からなくも無いけど。ちなみに、私にあだ名をつけるとするとどうなるの?」
そんなことをふと思い立った平八郎は、下を向いてほのかに頬を赤らめながら聞いた。又兵衛と三郎は声を揃えて即答する。
「高野豆腐やな」
「高野豆腐やろうな。当然、水に戻す前の奴やで」
名前をもじった訳でもないし、響きも良く無い。三人がいる部屋の横をたまたま通りすがった同心数名がいたのだが、口に手を押さえて小走りで逃げていった。
「デクみたいに可愛らしさのかけらも無いし、何もひねらずにものすごい直接的な表現じゃない。いや、別に可愛らしいものを期待したって訳じゃ……」
奈良のあの店の豆腐は美味だったが、食べながら話した内容は思い出したくない苦い思い出だった。
「それやったらもっと可愛いらしいのを考えたるわ」
「確かにそうやな。高野豆腐は言い得てるとは思うけど、平ちゃんは女の子やからな。”平ぴょん”とか響きがええや……」
「……あだ名の件はどうでもいいわ。それじゃ、引き続きよろしく頼んだわよ」
又兵衛と三郎はあだ名談義を熱くし始めると、平八郎はそう言い残して再び顔を赤くしながら部屋を足早に後にした。
○
平八郎が書庫であたふたとしているのと同じ時刻だった。
忠春が机に向き合って作業をしていると、若い同心が書状を持って飛び込んできた。
「忠春様、大阪城代より書状が来ました」
「ごくろうさま。下がっていいわよ」
若い同心は書状を手渡すと頭を下げて部屋を出ていった。
「忠邦からですね。何の用でしょうか」
いつぞやのように文書の整理をしていた義親の言葉を聞きながら、忠春は書状の封を切った。
「えっと、前に話した堺奉行についてのようね」
題目は『堺町奉行所人事について』。忠春は書状を黙読する。
書状を大きく開いて両手に持つと、目線が右から左に動くにつれて忠春の表情が曇ってゆく。
「……やられた。アイツにしてやられたわ。道理であの場面で後任を聞いてきたわけだわ」
「どのような内容だったのでしょうか」
してやられたと苦々しく書状を見つめる忠春は、黙ったまま義親に書状を手渡した。
「えっと、新しい堺町奉行は跡部良弼って人が就任することになったようですね。これの何が問題なんですか?」
「……アンタさ、跡部良弼って知らないの?」
忠春がため息交じりに呆れながら聞くと、義親は素直に首を縦に振った。
「跡部良弼ってのは忠邦の実弟よ。詳しい事情は知らないけど跡部の家に養子に入ったから名字が違うのよ」
「そ、それって……」
義親はことの重大さに気がついたようだった。今度は忠春が首を縦に振る。
「そういうことよ。江戸だけじゃ飽き足らず、こっちのほうにも触手を伸ばして来たってわけ。重職を自分の派閥で固めてきたのよ」
上方の大きな役職は京都所司代・大阪城代・大阪東西奉行・堺奉行の五つがある。そのうちの二つが忠邦の手のものが手にした。
それに、大阪東西奉行は大阪城代の管轄下にある。忠春独自で動こうにも忠邦の胸三寸でどうにでもなってしまうので、実質的には3つの重要な役職の内の二つを忠邦一派が占めたたことになる。
「確かに危険ですね。だったら前に行かれた時にぱぱっと人材を推挙なされれば……」
義親の言葉は半ばで途切れた。忠邦がやらかした内容をなんとなく察したのだ。
途切れた言葉に続けるように、忠春が大きく息を吐いて言葉を紡ぐ。
「推薦できるような人なんて身近にはいないし、高井殿と仲がよかった訳でも無いから私にはどうしようもなかった。アイツに完全に嵌められたってこと」
忠春の信頼できる身内は誰も要職についているし、突然呼び出された状況で、仇敵とも言える忠邦に向かって器用に答えられるはずは無かった。
「知り合いというと、政憲様と衛栄殿くらいでしょうか。といっても南町の政憲様じゃ話になりませんし、衛栄殿を抜けさせるわけにはいきませんからね。さすがは忠邦っといったところ。したたかというか、抜け目ないというか……」
「アンタでも悪くないけどここに必要だから。それとアイツを褒めてる場合じゃないわ。とりあえず東町奉行所に行って高井殿と相談を……」
「果たして西町の相談を受け入れるでしょうか。こちらから提案をしても、北町からはより良い返事は返ってきませんでしたし」
義親は目を伏せて言う。忠春にも思い当たる節がいくつかあった。
南町奉行所時代、旗本奴に対する対応は南北奉行所で連携が取れずにバラバラだった。それが、結果として旗本奴らの増長を招いた。
だが、忠春は拳を固めて言った。
「そうも言ってられないでしょ。江戸での同じ轍は踏みたくないからね。手柄争いだとか、優先順位とか下らない争いは繰り返しちゃいけないし」
そんなつまらない対立で市政を疎かにするのははまっぴらゴメンだったし、そんな無駄な時を繰り返そうと思って無い。
忠春は書状を置いて急いで立ち上がった時だった。先ほどやって来た取次の同心が再びやって来た。
「忠春様。来客ですがどういたしま……」
「今からちょっと東町奉行所に用事があるから後にしてもらってもいい?」
今の忠春には一寸ほどの時間も惜しかった。掛け台に置かれていた祖父譲りの白塗りの太刀と同田貫の脇差を急いで腰に差すと、駆け足で部屋を後にしようとした。
「その、来客というのは……」
「わざわざ来てもらってごめんなさいね。でも、今は時間が無いの。また後で対応するから」
「いやいや忠春殿、そんなに急いでどうなさるんですか?」
廊下から聞こえたのは聞き覚えのある声だった。だが、忠春には時間が無い。軽く聞き流して同心の脇から
「そりゃ決まってるでしょ。東町奉行所に向かって奉行の高井殿と今後の話を……」
「ほほう。さすがは江戸で名を馳せられた忠春様です。考えることが実に冴えてますね」
意味ありげな口調に忠春は声の先に視線を向けた。
同心の背後に連れられていたのは見覚えのある顔だった。それも、かなり最近で、なおかつすぐさま会わなければならないほどに重要な人物だった。
「……忠春様、東町奉行所から町奉行の高井様がやって参られました」
「突然申し訳ございませんね。忠春殿、書状は読まれましたか?」
背後にいた高井実徳は懐から封の切られた書状を見せた。西町奉行所に送られてきた書状と全く同じものだった。
「い、今読み終えたのでそちらに向かおうとした所です。それにしても、なぜ実徳殿がここに?」
「いやぁ、江戸からの噂には聞いてましたが、まさかここまで抜かりなく派閥で固めて来るとは思いもしませんでしたよ。こうなってくると松平殿の病気も忠邦様が仕組んだように思えてしまうね」
実徳はゆるやかに喋りながら、力なく乾いた笑いを見せるが、忠春の顔はどんどん青ざめていく。
「さすがにそれは、いや、忠邦だったらそれくらいのこと……」
「いやいや冗談ですよ。松平殿は前から体が弱かったので、いずれは激務に耐えきれずにああなる運命だったのかもしれません」
「当たり前じゃないですか忠春様。忠邦は全知全能って訳じゃありませんから」
横にいた義親も忠春に毒づいた。
「そんなこと分かってるわよ。それでどうなさいますか。実徳殿は忠邦の好きなようにさせるのですか」
忠春は売り言葉に買い言葉で「そんなことはさせません。忠邦を倒してやりましょう」という返事を期待して少々煽るように話したが、真向かいに座る実徳は冷静だった。
「今はこうやって普通に喋ってますが生まれも育ちも大阪なんですよ。祖先は三河の出なんですが、所司代の板倉様について京都にやってきました。それで大阪に移って数代続いて私の代になったんです」
「ということは、実徳殿は所司代の補佐をやってから大阪に来られたんですか」
「ちょっと違うんですけどね。元服してからは城代の補佐やってたんですが、伊勢山田奉行を経由して東町の奉行になったんですよ。内心では江戸に栄転なんてことも期待はしていたんですけど、生まれた大阪の奉行ということらしいんです」
実徳は熱心に語るが、当の忠春は思っていた返事が返ってくる訳でも無く、適当に相槌を打ちつつもきょとんしとしていた。
そんな表情を察したのか、実徳はため息をついて言う。
「この回りくどいのは私の癖なんですよ。簡単に済む話でも無駄に長く話しちゃうんです。困ったものですよね。ハハハ」
「……それで、何を仰りたいのでしょうか」
「そうですよね。さっさと結論を言った方がいいんですよね。それで、何が言いたいかって言うと、故郷は三河や京都でも大阪は私の町なんです。この町を立身出世の通り道程度にしか思って無い輩に好き勝手はさせませんよ」
のろのろと回りくどく話されはしたが、実徳の言葉に忠春に血潮がこみ上げる。
「実徳殿がそう言われるとは思いませんでした。江戸では色々と苦労をしたものですので」
南町奉行所時代での北町奉行所がそうだったように、西町奉行所と同じように存在する東町奉行所との共闘は考えていなかったし期待していなかった。
そんな忠春だったが、こうして自らでやって来てそう話す実徳の言葉は渡りに船だった。
「しがらみなど一切捨てて東西奉行所力を合わせましょう。江戸でもそうだったかもしれませんが、似たような二つも組織があるとどこか疎遠になってしまうものなんですよね」
「確かに。あまりいい話ではありませんが、北町奉行所との仲はそれほどいいものではありませんでした」
「どこもそんなものなんですね。しかし、ここでは違います。東西同士でいがみ合うよりも、手をって切磋琢磨するというのがいいでしょう」
忠春が犬であれば尻尾をぴょんぴょんと振り回しつつ近寄っていただろう。それもチンのようにもっさりとした可憐なヤツだ。
そんなように忠春は実徳の手をしっかりと取り、しっかりと目を見据えながら言う。
「実徳殿、やってやりましょう。忠邦の横暴を防いでやりましょう」
「ここまで乗り気だとは思いませんでしたよ。色々な所を見てきましたが、大抵の場合はより良い返事をもらえないんですよね。喫緊の事件が無かったからかもしれませんが」
「忠邦とは色々と因縁があるのです。必ず、必ずやアイツを……」
忠春は忠邦の蔑んで見下すような不遜な笑みを思い浮かべると畳に拳を突き立てた。
「江戸での出来事はよく知りませんが色々と大変な思いをされたんですね。しかしご安心ください。ここでそんなことは起こさせませんよ」
そんな忠春の殺気立った威風に押されてか、実徳は立ち上がると柔和な笑顔をきつく引き締めた。
襖の外では風が吹いている。丹波山地から吹き荒れる肌寒い颪風だ。街ゆく人々は両手を交差させて外套を体に密着させるが、奉行所の一室ではそんなものは必要ないだろう。忠春と実徳から発せられる熱気で何もかもが十分だった。
○
大阪城本丸御殿の前には豪勢な大名駕籠が付けられていた。その駕籠は登城する人たちの交通などお構いなしで、本丸御殿前の溜まり場の中央に威厳を誇るかのように人足と共に置かれている。
この不景気を感じさせないくらいに豪勢な駕籠の引き戸には金蒔きで丸に三階菱が至る所に塗られている。徳川家旗本跡部家の家紋だ。そして、その駕籠の主は新任の堺町奉行である跡部良弼だった。
「よく来たな。書状にしたためた通り、お前は堺町奉行だ。励めよ」
本丸御殿の最も奥、丸丸の部屋で大阪城代水野忠邦と跡部良弼が話しあっている。
「なぁ兄貴、大阪って遠いんだな。道中の宿場町も面白くとも何ともねえし、つまらねえ旅だったよ」
良弼は両肩をグルグルと回すと畳に背中から寝そべった。
「お前の石高で使える金とこの景気じゃ道中でロクに遊べないだろうしな。面白くとも何とも無いだろうよ」
「しかし堺町奉行か。まぁ、江戸でどこぞのお偉いさんの小間使いをやってるよりかは遥かにマシだな」
良弼は将軍の世話をする中奥番の役職を得ていた。大した実績を残したという訳でも無い良弼だが、役高七百石の中番奥から一気に千五百石の堺町奉行ということは、傍から見れば異例の大抜擢であり大出世であった。
そんな背景もあってか、良弼は忠邦の近くに寄ると小声で聞いた。
「なぁ、本当に俺でよかったのか? 耀蔵も居たんだからアイツに任せても良かったんじゃないのか?」
「耀蔵には任務を与えてるからな。はっきり言うが、お前を選んだのは暇そうにしてるのはお前くらいのものだったからな」
「なかなか言ってくれるじゃねえか。まぁ、暇そうにしてたってだけで小間使いの数倍以上の給金がもらえるんだからこんなに美味い話は無いな。感謝してるぜ兄貴」
忠邦は目を細めて良弼をこれ以上ないくらいに罵倒するが、良弼はなんてことなく笑って見せた。
「……言っておくが、奉行になったからと言って何かしようとしないでいいぞ。江戸にいた頃のように、適当にふざけて暮らしてればいいさ」
「何言ってんだよ。誰がこんなゴミみたいな仕事を真面目にするかって言うんだ。そりゃそうするに決まってるだろ。蔵屋敷や商人からの付け届けは大層な額になるだろうし、上手くやりゃ一生遊んで暮らせる額は手に入るな」
町奉行になると付け届け、つまりは顔を覚えてもらう為や便宜を図ってもらうために多少の金品や物品が送られる。
堺の町は、かつては日の本随一の商業都市として発展していた頃に比べるとずいぶんと小ぶりになっていた。とはいえ、今でも日の本で10指の内に入るくらいの規模は誇っており、日々の生活にかかせない醤油や味醂の生産では日の本で一番を誇っている。
今も人の往来が絶えないので付け届けもかなりの額になるだろう。実際に、前任の松平某が体調を崩したという情報が旗本達の耳に入ると、忠邦の元に奉行職を狙う旗本からの書状や贈り物が大量に届いていた。
「……勝手にしろ。それよりも、俺がお前を据えた理由を分かってるだろうな」
忠邦は額にしわを浮かべる。良弼は奔放に悪びれもせずに笑みを浮かべた。
「それくらい分かってるさ。大岡忠春の足をひっぱりゃいいんだろ? お安いご用さ。人の足を引っ張るのには慣れてるんでね」
敵対する忠春のそんなことは良弼は百も承知だっただろう。
なんてことないと平静を装っていた忠邦だったが、良弼の口調や態度にいら立ちを隠せなかった。言い放つ言葉が徐々に荒くなっていく。
「お前は昔からそうだったな。悪知恵に関しちゃ誰にも負けない。まったく、大した弟を持ったものだよ」
「そんな弟を重用するんだから兄も兄だな。大した兄を持った俺は幸せ者だよ」
口角を上げながら鼻で笑う良弼を忠邦がキッと睨みつけると、わざとらしく両肩を左右の手で抱いて見せた。
「おお怖い怖い。その目で落ちるのは耀蔵くらいのものだぜ。まぁ、堺なんか大した町じゃねえし普通に勤めあげて見せるさ」
良弼は立ち上がるとそそくさと本丸御殿を後にした。