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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春風吹く
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文は語る

「いてててて…… ああ、忠春様。いやあ、ホントに凄い力だなぁ。まさか俺が気を失うなんて思ってもなかったなあ。ほんと、並の男だったら町の医院に厄介になっている次元でしたよ忠春様。ハッハッハ」


 衛栄は半刻ほどで目を覚ました。鼻から血を流し、満面の笑みで言う衛栄の姿には何所か愛嬌がある。忠春もその姿を見ると嫌みを言う気を失う。


「ったく、馬鹿なこと言ってないで早く戻るわよ。次やったら今度こそ死刑なんだから」

「ハハハ、承知いたしました」


 衛栄はそう言うと、曲がった鼻を元に戻し、懐紙で血を拭う。天神屋を出た頃はまだ陽があったが、江戸はもう暗くなり、辺りを歩く人々は手提灯を持っている。家々からは夕食の支度を思わせる匂いも漂って来た。忠春らも手提灯に火を付け奉行所へ向かった。





 耀蔵の腰に手を回し歩いていた忠邦だったが、自室の手前に差し掛かった時に足を止める。


「いまから南町奉行所へ行きましょう」

 耀蔵は驚いた調子で返す。


「どうなさったんですか忠邦様?」

「何か手違いがあっても困ります。今日の内にあの娘に二本松を引き渡す事を伝えます」

「しかし、失礼を御覚悟の上で申し上げますが、明日でもいいのではないでしょうか?」


 耀蔵は忠邦の正面を向き、両手で忠邦の腰に手を回し下半身を密着させる。


「いやいや、先程の耀蔵の話を聞いて思いついたんですよ。どうせだったら今日中の方がいい、いや、今からでないと間に合わないかもしれません。それに善は急げとも言いますしね」


 そう言うと忠邦もまた、満面の笑みのまま両手で耀蔵を抱き寄せる。耀蔵も凍った表情を少し崩し、頬を赤らめる。


「何を思いついたのでしょうか忠邦様」

「それは行けば分かりますよ。まあ楽しみにしてください」

「そうですか。わかりました。楽しみにしています」


 耀蔵は忠邦の胸に顔を埋める。しかし、少し残念そうな表情にも見える。


「それでは、急ぎ支度をしましょう」

「ははっ。承知いたしました」


そう言うと忠邦は、耀蔵の顔を寄せ、顎を上に向け口づけをする。そして、二人は屋敷を後にした。





 それから半刻も経たずに忠春らは奉行所に戻った。御用部屋に与力・同心達を集め、今後の討議を始めることになり、部屋の上座に座った忠春が言う。


「遊女殺人について今後の討議を始めるわよ! とりあえず状況を整理しましょう。衛栄、説明しなさい」


 その横に座った衛栄が一つ咳をして、話しだした。


「ええ、まず天神屋で遊女の殺害があった。袈裟型に斬られている。前に起きた遊女の斬られた後も綺麗なもんだったから間違いなく一緒の犯人だろうな。そんで現場には水野家の物の財布が落ちていたという所だな」


 話を聞いた忠春は、うんうんと頷きながら


「そうね。ありがとう衛栄。それで遊女の身元はわかってるの? 好慶、説明しなさい」

「先程、遊女の身元について調べていた者から報告を受けました。報告によれば女の名は『美さと』。年は二十五。店を持たない夜鷹だったようです」

「ほう、殺された女は夜鷹でしたか」

「はい。それ以上に驚いたのですが、殺された女は全て……」


 好慶が話している最中であった。背後からバタンと襖が開く大きな音が部屋を響かせる。全員が後ろを向くと、襖を開けた女性が仁王立ちで立っていた。


「殺された女性は全員、夜鷹だったのよね? はつちゃん、栄ちゃん、来ちゃったっ」

「ちょ、なんでお前がここにいるんだよ!」


 豊かな胸を揺らし、笑顔で文が入って来た。驚きと共に、同心達はその容姿に見とれなぜか歓声が上がり始める。


「お前って何よ、失礼ね! 私には文って名前があるんだからね! あら、はつちゃんもいたのね! こんばんわ」

「こんばんわ。って、なんでアンタがここにいるのよ」


 さすがの忠春も驚いている。また、その声にも同心達は歓声を上げる。するとなぜかこの男が熱を帯びて衛栄に喰ってかかった。


「衛栄殿! この人はなんなのでありますか! 年も若く風貌も声も良い。更には忠春様と違い胸には豊な西瓜も二つ付いておられる!」

「いや、私の胸は関係ないでしょ」


 すかさず冷静に忠春は国定に言い返す。だが国定の耳には届いていないようだ。


「ワタクシが思うに、この御仁について衛栄殿は説明をする義務がございましょう! いかがかな? 皆の衆!」


 国定が拳を握りしめ立ち上がり他の同心達を煽り始める。周りの同心達も同調し、「そうだそうだ」「その美人は誰なんだ!」「羨ましい!」なんて声を上げ始める。


「うるせえぞオタク! お前は黙ってろ!」


 普段は下らない事ばかり言い、滅多に怒らない衛栄だが国定に対して怒鳴った。これには同調した同心達も黙り込む。だが、国定は引き下がらない。


「いえ、ワタクシは黙りませんよ! ワタクシは浮世の女性には興味が無い故良いのですが、この神聖な奉行所に無関係な浮世の女性を招き入れるなど、言語道 断ではないでしょうか? それにワタクシは興味が無いのだが、何故か非常に悔しさを覚える! 栄ちゃんなんて呼ばれて! 来ちゃっただあ? クソっ羨ましい! さあ、説明してもらいましょうか衛栄殿! 何故その人がいるんですか!」


 言い終わるとかけている眼鏡をクイっと上げ、鼻先を上に向け衛栄を指差し追求する。啖呵を切り終えた国定の目には何故か涙が浮かんでいる。


「い、いやぁ…… なんで来たって言われてもなぁ……」


 鬼気迫る顔つきの国定の問いには、衛栄も黙り込んでしまう。それに加えて今にも殴りかからんと男たちが衛栄を囲んだ。

 笑顔でこのやり取りを見ていた政憲が口を開いた。


「ハハハ、文殿が何故来たのか、それは私が説明しましょう」

「何よ政憲、あんたが呼んだの?」


 政憲は笑顔で説明を始めた。


「文殿は非常に頭の良い方です。記憶力もあり、また、江戸の市中で顔も利く為に情報の収集と言う点ではこの奉行所内の誰よりもすぐれています。なので、彼女を同心に取りたて、隠密廻りに任命しようかと考えましてね」

「いやあ、そこまで言われちゃうと照れちゃうよ」


 政憲に褒められた文はペロっと舌を出して微笑む。またしても同心達の中で歓声が上がり、そのあまりの可愛さに拗らせた同心数名は気を失う。


「何よ政憲、私にも相談もしないで」


 忠春がふくれながらそう言う。ふくれるのも至極当然だろう。


「申し訳ございません忠春様。しかし、彼女以上に適任な人物はいないと思うのですが」

「まあ、確かにそうだけどね、少しは相談くらいしなさいよ。一人で抱え込んでたってどうにもならないわよ?」

「確かに仰るとおりです。これからはそうします」


 政憲が頭を下げ忠春を見つめる。


「そりゃあ確かに文は顔は広いけど、事件の捜査に使う事には俺は反対だ」

 衛栄は腕を組み憮然とそう言う。それを聞いた同心達は「それはおかしいだろ」「横暴だ」「文ちゃんかわいい」とヤジを飛ばす。文は衛栄の横にちょこんと座り、組んだ腕を振りほどき


「なになに? 栄ちゃんは私のコトを心配してくれてるの? うれしいなぁ」


 その片腕を抱いて胸に寄せ、左右に揺らしながら上目づかいでわざとらしく言う。部屋はざわざわとし始め、至る所で「ドン」っと畳を叩く音が聞こえ始める。


「ったく、そうじゃねえよ。同心でも無いやつを使うのはどうかと言ってるんだよ。しかも女にこの事件は荷が重いんじゃ……」

「なによ、女だからって……」


 腕を振り払い衛栄が少し馬鹿にしたように話す。それを聞いている文の表情は少しムっとした表情に変わり、文が言い返そうとした瞬間である。


「『女には荷が重い?』その言葉は聞き捨てならないわね。つまり、私には重いって言いたい訳? もしもそうなら、さっきは気絶で済んだけど今度はあの世に行ってもらうわよ?」


 『女には荷が重い』この言葉に忠春が反応する。当初は驚いていた忠春だったが、この言葉には我慢が出来なかったようだ。忠春は刀掛から刀を手に取り、柄を握って衛栄を睨みつける。ざわついていた部屋も一瞬で凍りついた。


「いや、そう言う訳では無くてですね……」


 忠春の気迫に衛栄は苦笑いしながら答える。しかし、忠春の怒りは収まらない。刀の鞘から白刃が覗かせている。一秒ごとに鋭く研がれた白刃の見える面積が広がってきている。


「それじゃ、文ちゃんは今回の捜査に加わってもらうことでいいわよね?」

「……はい。大賛成です。是非とも参加してほしいです、はい」

「そう。それならいいわ」


 衛栄がやる気を無さそうにそう答えた。それを聞いて忠春も刀を納め刀掛に置き、いつもの笑顔に戻る。


「さすが! はつちゃんはわかってるねぇ。いよっ名奉行!」

「……はぁ」


 こうなっては、衛栄はもう言い返せない。ただ、下を向きため息をつきながら頭を掻いている。横では文が手をたたき喜び、政憲と忠春に微笑みかける。これは政憲にはめられたな、そんな風に忠春は感じた。


「ハハハ、これで決まりですね。文殿にもこの件に加わってもらいましょう」


 政憲は微笑みながらそう言いながら話しを続ける。


「さて文殿。私たちが把握しているのはこんなものです。他に情報があるんですよね?」

「そりゃあ勿論よ! 情報通の文ちゃんを舐めないでね!」


 政憲がそう言うと、文が大きく胸を叩いた。同時に豊かな胸の揺れる。またしても御用部屋内では歓声が上がる。それを見ていた衛栄がため息交じりに


「おいおい、本当に大丈夫かよ……」


 と呟く。文はそれを聞き逃さなかった。わざとらしい怒った表情を作り、


「何よ! 栄ちゃんがそんな風言うなら私話さないんだからね!」


 そう言うとそっぽを向いてしまった。見かねた好慶が一つため息をつきながら


「はぁ、文殿も機嫌直してくださいよ。何をしたら話してくれます?」

「えっとねえ、栄ちゃんが謝って私と口づけしてくれれば許してあげてもいいかなあ」


 そう言いきると、赤くなった顔を両手で覆ってそう言うと文は一人で「恥ずかしい」なんて言いながらもぞもぞとしている。またしても至る所で「ドンっ」と畳を叩く音が聞こえ始めてくる。好慶は思わず舌打ちをし、


「っクソ。ほら、衛栄殿。さっさとやって下さいよ」


 そう言うと御用部屋では泣きだす者や、突如廊下を走り回る者、畳に頭をぶつけ出す者等が多数出て来た。国定に至ってはぼそぼそと何かを呟きながら血の涙 を流している。どうしようもなくなった衛栄は仕方なさそうに、文の腰に手を回し、抱き寄せ顔を近づける。まさに接吻をしようとしたその時であった。


「いや、もう普通に早く喋ってよ。文ちゃん」


 そんな惨憺たる状況を見かねた忠春がそう言うと、


「確かにふざけ過ぎたわね。ごめんなさい」


 文も素直にそう言い、衛栄の手を振りほどき、真顔で喋り始めた。


「えっと、その死んだ夜鷹ってのは同業者の中でも評判が悪くてね。平気でよその縄張りに立ったり、お客を取っちゃったんだってさ。そのくせ小金を持ってる町人には手を出さずにどっかのお侍さんばっかりを客にしてる変わった人達なんだってさ。」


 さっきまでの態度と違い、記憶をたどり理路整然と話す文の姿に誰もが舌を巻いた。その姿を見て文も少しいい気になっている。


「それと噂でしかないんだけどさ面白い話があってね、死んじゃった人たちってのは『三十木屋』って店に所属しててね、ここまでは本当の話でね。ここからが重要なんだよ。その夜鷹達ってのはさ、様々な侍からその家の情報を盗んでたって話なんだよね」


「ちょっと待って。という事は草だったってこと?」


 この話には誰もが身を乗り出して聞いていた。文は淡々と語る。


「その話が本当だったらそうなるね。一応言っておくけど情報源に関しては誰にも言えないよ。それが喋った人に対する礼儀だからね。これは栄ちゃんにだって話せないよ、ごめんね」


 文が最後に衛栄の片腕を抱きしめておどけた調子で言うが、誰もが神妙な顔つきになり、部屋は静まり返る。そこで何故か衛栄は笑いながら言う。


「ハッハッハ、成る程ね。そりゃどこも水野家の言いなりになる訳だ。自家の重要機密をダシにされたらどこも口出し出来ないしな。上手い事やるね、ったくよう!」


 衛栄はそう言うと小さく「クソっ」と呟く。


「確かにそうね。あの忠邦のやりそうなことだわ。それで用が無くなったから殺したという所かしらね。所詮、遊女が一人死んだくらいじゃどこも真剣には捜査しないし、何かあっても金を積めばどうにでもなるしね……」


 忠春が嫌な顔をしながらそう言う。今回は、たまたま南町奉行所の月番だったからこそ真実に近付いたのだが、北町奉行所の月番だったらどうったのであろうか。忠春はそんな事を考えながら話した。


「文ちゃんありがとう。これからも何かあったらよろしくね……」


 何も解決をせず、闇へと消えて言った人達の事を考えると忠春の胸にもやおやが溜まる。部屋を見ても誰もが下を向いている。


「ううん、いいの。私だって悔しいもん。はつちゃん、犯人、絶対に捕まえようね」


 文も声をあげ、泣きながら忠春に抱きつく。抱きつかれた瞬間、忠春も堰を切ったように涙を流し、声を上げ泣き始めた。部屋の中でもすすり泣く声が聞こえてくる。先程まで血の涙を流していた国定もすすり泣いているようだ。


「忠春様。ほぼ決まりでしょう。明日我々で忠邦の屋敷へ行きましょう。文殿の話はまず間違いと見て良いと思いますので、忠邦を揺さぶってやるのです」


 政憲がそう言う。いつもと同じような話しぶり言っているのだが、どこか怒りがこもっている。その話を聞くと自然と全員の顔が晴れた。忠春もいつもの調子に戻り言う。


「そうね。あいつの外見は平然としているけど、内心では慌てているっていう様が私には見えて来たわ。政憲! 明日出向くわよ!」


 忠春はいつになく笑顔で言う。部屋の人は誰もがつつけば暴発するくらいに意気揚々としている。


「忠春様、下知をお願いします」


 隣で涙を流している義親が、忠春の太刀を手渡す。純白の鞘はいつになく輝いて見える。部屋にいる者は総立ちだった。忠春が太刀を手に語った。


「我ら南町奉行所の使命は江戸市中の平和よ! その為にまずはこの事件を解決しましょう。江戸市中の悪の根源を残らず絶ちましょう! そして、江戸市中の諸悪の根源の水野忠邦らをぶっ潰すのよ!」


 金属の擦れる音と共に純白の鞘から抜かれた白刃は天井を指した。その瞬間、同心達の糸も切れ、部屋中で溢れんばかりの涙を流し、割れんばかりの雄叫びが あがる。誰の顔も紅潮しその熱気たるや真水を置けば沸騰する勢いである。この声は江戸市中に響き渡り、将軍家斉も近侍の者に「この雄叫びはなんだ」と尋ね た程であったという。

 そして、その声は門外に控える二人の男女の耳にも届いていた。

用語解説をしときます。


『夜鷹』 店にいないで、道端で客を捕まえるタイプの遊女。今で言う立ちんぼ


『隠密廻り』 ある特命を帯びた同心のこと。これと「定町廻り」「臨時廻り」が「三廻」と呼ばれエリートとされた。




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