天啓
「おはようさんデク。相変わらずけったいな背恰好やな。おいちゃんに少し分けてくれや」
「デクやないか。いつ見ても渋い顔しとるのう。羨ましいわ」
冷えて乾ききった風が肌に突きささる、冬真っ盛りの如月。
大阪西町奉行所の老同心が町を歩いていると、大阪の町人はこぞって声を掛ける。
「……おっちゃん、毎回言わせないでよ。デクじゃなくて、主税殿と呼びなさい」
町ゆく人々は、口をそろえて背の高いこの老同心を『デク』と呼んだ。
その度に大塩平八郎が町人をこうやって叱りつけている。町人も平八郎がそう言い返すのを分かっている。もはや、それが様式美となっていた。
「平八郎様、気にせんで下さい。『木偶の坊』の『デク』かて、ワシは気にしやせんよ」
「そうはいきません。主税殿は三十年以上奉行所で働かれてるんです。もう少し威厳を持って下さい」
頭を下げたデクこと、大坂西町奉行廻り方同心松橋主税は大塩平八郎の組下の同心だ。
それも、平八郎が生まれる以前から西町奉行所に出仕している老同心で、父親の代から大塩家の組下についている。
「威厳かて、ワシは親しまれて悪いと思わんけどなぁ。それよりも、今日は天神町やろ?」
「ええ。宗門改も近いからね。色々と聞いて回ろうとね」
宗門改とは、切支丹を摘発するために江戸初期から行われていた政策だ。
当初は切支丹や異教の摘発に重点が置かれていたが、政権の安定してきた江戸中期の享保ごろになると戸籍調査的な役割も果たすようになってきた。
「もう、そういう時期になったんですか。年明けは奈良奉行所の人員配置で大変やったし、時が過ぎるのが早う感じますね」
忠春の鹿政談があり、奈良奉行所の人事に取り掛かると事件は大きくなった。
大阪奉行所主導で人材一新を図ると、公金横領の主犯だった塚原出雲の更迭は当然のこと、与力・同心の三分の一ほどが更迭されるまでの大きな事件となったのだ。
「奈良奉行所については当然のことです。悪しきは罰する。それが世の習いですから」
あの事件の登場人物は、講談に出て来るような悪徳商人と、それに虐げられる民。なぜ今までそれが分からなかったのか不思議なくらいの、ありきたりな話だった。
狡猾そうに微笑んでいた塚原出雲の顔を思い浮かべると、平八郎は腕組みしながら毅然と言い切る。だが、主税は薄い唇をへの字に曲げた。
「平八郎様の仰るとおりやと思います。しかし、奈良奉行所は大変でやろうな。これまで最前線で働いとったのが一気に居なくなる訳やし」
主税の言う通り、奈良奉行所は多いに混乱したらしい。実務についていた者の大半が突如として抜けたのだ。仕事の引き継ぎだったり、知識・技術の継承が上手く行われなかった部分も多かった。
「確かにそうだけど、結果的に上手くいってるからいいじゃない。それと主税、その言いぐさだと何かやましい問題でもあるの?」
とはいえ、平八郎の言う通りでもあった。人材一新を図った奈良奉行所だったが、市中の治安は乱れることもなく平常通りの職務が遂行されていた。
そのことと、主税の含みのある言葉が平八郎を刺激する。
「そりゃ、公明正大な平八郎様の組下やからな。ワシら組下一同、その手の問題は抱えとりませんよ。ほら、天神町はすぐでっせ」
そんなことを話しながら平八郎らが弓なりに架かる天神橋を渡ると、ほどなくして天神町に辿りついた。
「この時間になるとやっぱり活気があるね。これぞ大阪って感じかな」
「ついさっき時の鐘が聞こえたなあ。商人らにとっちゃ戦を知らせる陣貝って所やな」
大通りを歩く平八郎と主税の両脇を、十にも満たないような総髪姿の丁稚が駆けまわり、大店の主人であろう威厳のある老人が妾を連れて反物を物色する。
時は明け五つ。大阪の朝は早い。
「お、デクやんけ。そこらより頭一つでかいから簡単に見分けがついたわ」
そんな人混みの中で、たまたま通りかかった魚問屋の親父が主税を見つけると肩を何度も叩いた。
「なんや、テツのおっちゃんか。おはようさんです。今日もいつも通り何にも無いやろ?」
「そうやなぁ。アンタらがしっかりとやってくれてっから何とも無いわ。ほんま、ようやっとるで」
魚問屋の親父は白髪の交じる無精髭を掻きながら大きく笑って答えた。
「テツさん。だから、デクじゃなくて主税殿と……」
平八郎は魚問屋親父テツに話しかけようとすると、店の奥から一人の少女が飛び出してきて開口一番にこう叫んだ。
「お! デクやんっ! 元気にしとるか?」
でかかった言葉は止まって平八郎は頭を抱えた。だが、主税は気にせずに笑みを浮かべたまま少女の頭に手を置いた。
「なんや、千代ちゃんやないか。俺は相変わらずや」
主税の手は大きく、千代の頭を包み込むんじゃないかというくらい大きい。それに加えてしゃがみこんでも千代のほうが頭一つ小さいんじゃないかと言うくらいの差がある。巨人と小人だ。
「平八ねえちゃんもおるんやな。今日も見廻りか? こんな早くから大変やなぁ」
千代は平八郎を見つけると両手を広げて飛びついた。平八郎は仕方無さげに息を吐くと笑みを浮かべて答える。
「そうよ。千代ちゃんも相変わらずそうで何よりね」
「そーいえば平八ねえちゃん、新しいお奉行はんは中々やるなぁ! 関東の田舎モンかと思ったけど、おもろいことやるやん」
昨年末の奈良鹿事件の事を言っているのだろう。千代は今度は主税に飛びついて、大きな手を取ってブンブンと振り回す。
今度は店番をしていた店主が平八郎の元にやってきて言った。
「ワイもあん時にばら撒かれたを瓦版読んだわ。あのお奉行はんが平ちゃんの新しい上司なんやろ? 見たことはねえが、ありゃぁ、きっといい女やで。ワイもあと十くらい若かっとったらなぁ……」
テツが千代の眼前で歳がいも無く顔を赤らめていると、千代と同じように店の奥からふくよかな女性が出てきた。
「女将さん。お元気ですか?」
「あら、平ちゃんやん。このバカ親父、また平ちゃんを口説いたり、変なことを吹き込んどったろ?」
威勢の良い肝っ玉女将はテツの妻ヨシだった。ヨシが愛想のいい笑顔を浮かべると平八郎が答える。
「い、いえ、別に、たいしたことは言わんとったけど」
「ほら見てみい、平ちゃんだってそういっとるやん。なんてことないで。ワイの中ではヨシが一番やで」
「何ゆうとるん。顔赤らめて『あと十若けりゃなぁ』とか言っとったやんけ。ほんま、呆れた親父やわ」
千代はテツの肩をすかさず叩いた。女将の眼の色が変わった。
「ったく、ちょっと目を離すと、すぐにこれやからな。ごめんな。ほら、さっさとこっちに来いや」
「お母ちゃんにはかなわんって。だから勘弁してや。なぁ? 平ちゃん……」
平八郎の横で微笑んでいた主税も会話に加わる。
「いや、テツはんの言うことも分かりますって。奉行の忠春様は中々の美人ですから」
「なんや、デクちゃんまでそんなことを言うんか。デクちゃんの奥さんも結構なベッピンさんやのに」
「ほ、ほら見てみい。真面目一徹のデクですらそう言うんやから、そんなもんやで。だからその手を離して……」
女将が主税に感心しながら親父の首根っこを掴んでいる時だった。
目の前の大通りから突き刺さるような声が聞こえる。
「われらが大阪を救う門徒、『新光門』である。我々の説法を聞くがよい」
錫杖を持った男が地面に石突きを叩きつけて叫ぶと、背後に控えている白装束集団十名ほどが同じ言葉を続けた。
天神町を包んでいた賑やかな笑い声は一瞬にして凍りつき、人で溢れていた通りは流れが止まった。
「……デクに平八郎はん、さっきの言葉は取り消しますわ。最近、ちょっと変な連中が幅を利かしとるんです」
「変な連中?」
魚屋の女房は錫杖を持った黒頭巾姿の男を睨み付る。テツは平八郎の耳元で小さく言う。
「さいです。年が明けてから、あんな格好した連中がうろうろしとるんですわ。変な言葉を叫びながら、手当たり次第に話しかけてきおるんです。まぁ、今の所はそれだけで済んでるからなんともありゃせんが」
男たちの姿は町に似つかわしく無かった。魚屋には銀色の、色とりどりの反物屋にも無い、白黒だけの集団。とにかく異様な姿だ。
「なるほどね。分かったわ。この一件は忠春様に報告しておく。何かあったら報告してね」
「よろしく頼みます……」
テツは頭を下げると千代を連れて店の奥へと引っ込んでいった。
新光門と名乗る集団は尚も通りの真ん中に集まって動かない。主税が平八郎の顔を見て聞いた。
「連中、動きませんね。どうしますか?」
「奉行所の与力がいる前で変な真似は出来ないでしょ。堂々と連中のほうに歩いて行くだけで帰っていくでしょ」
平八郎は自信を持って言う。「なるほど」と主税もそれに頷いた。
「それじゃあ行くわよ」
平八郎が威圧するように錫杖を持った男を横目で見ていると、それに気がついたようだった。大きく肩を揺らしながら男が平八郎らへと近づいてきた。
「そこの女、恰好を見ると武士だな。名は何と言う」
だが、平八郎のアテは外れた。黒衣に黒い頭巾を合わせたカラスのような格好に、鋭い目つきを光らせた男が話しかける。
「……西町奉行所与力、大塩平八郎よ」
「なるほど。西町奉行所の与力か。では平八郎と主税よ、いいことを教えてやる」
「な、何よ」
目を細めた男は平八郎の顔を舐めまわすように見つめる。平八郎は身構えて刀に手を掛けた。
「先の鹿政談。見事というほかにない。我が諸天善神に代わって褒めてやろう。見事だった」
「あ、ありがとう……」
茶色い目をした坊主頭の男が偉そうに平八郎の肩を叩いた。
男の手はどこか生温かい。いうなればひと肌で温められた座布団のように不自然な温かさだ。
「ちなみに、これらの事象なのだが、全て我々は知り得ていた。奈良奉行所、あれは本当に酷い所だ。連中の行為には曹乙様や諸天善神は大層怒られていた」
「はぁ?」
僧体の男が放つ意味不明な言葉に、黙って聞いていた平八郎と主税は呆れ半分から抜けた声を上げた。
「何を呆けている。お前たちのやったこと全ては私たちの啓示があったからこそ成し得た事だ。新任の奉行に伝えておくがよい」
「いやいやいや。普通は呆けるでしょ。『天啓だ』『我らの神だ』って言われたって何のことだか分からないって」
平八郎は男を冷めた目で見る。だが、僧体の男は意に介せずに言葉を続けた。
「ふむ。よくよく考えればそうかもしれないな。だが、これを見よ」
「……何よこれ」
「天啓の書だ。全てはこれに記されている。先の鹿政談や奈良奉行所についてもだ」
男は目を細めると、袈裟に掛けられた筒から細長く丸められた巻物を取り出した。
「簡単な話だ。此度の鹿政談、この書に全て書かれていることだったのだ。これは我らが教祖、曹乙様が諸天善神よりこの世のすべてをお聞きになられた。いうなれば予言の書だな」
平八郎は呆れてものが言えない。口をあんぐりと開けたまま動かない。
「最初は誰でもそうだ。私だって曹乙様の説法を聞いた時は呆れてものが言えなかった。だが、この天啓の書さえ読めば、老若男女問わずに曹乙様の凄みがよくわかる。それがここの部分だ。よく聞きなさい」
「下らない。主税、さっさと奉行所に戻る……」
頬が引き攣らせて青ざめる平八郎を気に止めることなど無い。
踵を返してその場から平八郎が離れようとするも、僧衣の男は簡単に行かせなかった。
ひざの裏に錫杖を回して無理やり膝を折らせ、その場にしゃがませると宗徒らが平八郎の周りを円形にとり囲んだ。
「ちょ、なんなのっ」
「つまりはだ。第十五回のここに書かれている『日出づる時、明るきかな』という部分は、新しくやって来た新任の奉行の事を示している。そして、次に続く『されど、日ある所に影もあり』奈良奉行所の塚原出雲を指し示しているのだ。そして、この部分が……」
「は、はぁ? ちょ、意味が分からないし、離しなさいよ……」
「そうです平八郎。最初は誰だってそうなんです。しかし、我々と共に曹乙様の教えを学べばやがて分かるでしょう」
尼なのだろうか。僧衣に白い頭巾姿の目つきの悪い女がしきりに平八郎に話しかけた。
宗徒らは女の言葉に続いて、「そうよ。最初はそんなもの」「安心して。分かるように教えてあげるから」など、同じようなことを耳元でしきりに話し続ける。
「……ふざけるな! 平八郎様、さっさと奉行所に戻りましょう。あんな男の言葉をいちいち気に止める必要なんてありやせん」
主税が宗徒たちの肩を突き飛ばして輪に割って入り、平八郎の肩を引いた。
「……そうね。さっさと帰って対策を考えなきゃ」
「ふぅ、今日のところはこれでいいだろう。奉行によろしく伝えておくがいい」
平八郎らは頭を抱えて奉行所に戻ろうとするが、新光門の宗徒らは通りを歩く町人らに手当たりしだい話しかけ、平八郎と同じように座らせて説法をする。
「あいつら尋常じゃないでしょ。なんなのよ一体……」
「ええ。ほんまにありえへん。でも、それが連中のやり方ですわ」
あの振舞いは並大抵のものではない。錫杖の扱い方といい、普通の坊主ではなさそうだし、かなり慣れた手つきだった。
あの男たちは『新光門』を心根から信じ切っているのだろう。事実無根をこじつけて真実を堂々といい張り、あれをしつこくやられれば、先に根が尽きるのは自分だっただろう。
臓物が凍りつくような薄ら寒さと、知りたくも無いし知りえない世界の気味悪さ。得体のしれない気持ち悪さが平八郎に突き刺さり、この一件は面倒なことになるということを察した。
○
奉行所では事務作業に追われていた。
各町方への指示、大阪城代への報告、京都所司代や堺奉行所、奈良奉行所などとの連携捜査になど、派手ではない細々とした仕事に奔走させられている。
とはいえ、そもそも奉行所は白州裁きよりも事務的な仕事の方が圧倒的に多い。そう考えればなんてことのない普通の日々であった。
「えっと、これが大阪城代からの文書よね。内容は何だっけ」
「堺奉行所の話ですよ。今の奉行様が体調を崩されたから新任の奉行を選ぼうって書いてありました」
「……今の堺奉行というと、松平石見様ね。一度だけ会ったけど、見るからに体調が悪そうな人だったしね」
大阪より南に数里いくと、かつての近畿最大都市の堺がある。大阪と同じ天領で遠国奉行がおかれていた。
松平石見と会った時の印象は、ネギの方が血色がいいと思えるくらいに色白の男だった。それに、堺の町は小さな町では無い。奉行の激務がたたってしまったのかもしれない。
「俺もその文書の内容は確認したけど、たいした問題は無かった。なので、さっさと印章を押して下さい。すぐに手配しますから」
書けども書けども文書は減らない。一通読み終わって返事を書き終えると、矢継ぎ早に次の文書が舞い込んでくる。
南町奉行所でもそんな日々は多々あったが、政憲の天才的な事務処理能力でそれを乗り切っていた。最初は丁寧に押していた印章も、文書が数十枚単位になって来ると作業がどんどん雑になってゆく。
そんな環境の中で衛栄の発したなんてことのない言葉が、忠春の気に障った。
「ちょちょちょ、”さっさと押せ”ってその言い方はおかしいわよね。一応、私の方が偉いんだけど」
「はいはい失礼しました。ほら、時間が無いんですから早く押して下さいよ。文書は山のようにあるんですから」
「今に始まったことじゃないんだからいいじゃないですか。ほら忠春様、手が止まってますよ」
衛栄にも余裕が無いらしい。散らかる畳の上を指し示しながら適当にあしらった。いつもならその場を上手く収める義親も、作業量の多さに忙殺されていて収めようともしない。
忠春も言われっぱなしで負けてはいない。口を尖らせて言う。
「ったく、口の減らない男ね。『俺を雇って下さい』って言ってたあの泣きっ面を忘れたの? 文ちゃんの尻に敷かれてればいいのよ」
「いやいや、文は関係ないでしょ。それに、口の悪さなら忠春様ほどじゃありませんって。ほら、次の文書に移りますよ」
「ああ! また言った! そろそろ、許さないわよ。ほら、義親、やっちゃっていいわよ」
「……何を言ってるんですか。このクソ忙しい時に衛栄殿を失ったら文書は溜まる一方ですって」
「忠春様、御報告があります」
そんなように忠春と衛栄らが仲良く喧嘩をして文書と格闘していると襖が開く。定町回りから戻ってきた平八郎と主税が戻ってきた。
「どうしたの平八郎? それと、えっと……」
忠春の脳裏に平八郎の名前はパッと出てきたのだが、隣に控える背の高い老同心の名前が思い出せない。
思い出そうと宙を向いてしどろもどろとしていると、平八郎の視線が徐々に冷たくなっていく。主税はそれを察した。
「多分、こうやって話すのは初めてやし、しゃあないですわ。ワシは西町奉行同心、松橋主税と申します。よろしゅうお願いします」
「そうそう。主税ね。べ、別に悪意があるとか、そう言う訳じゃ……」
「ハハハ、気にせんでええですよ。忠春様は忠春様で色々とお忙しい身。覚えられなくともしゃあないです」
主税は微笑みながら言う。
「そんなことは無いわ。大丈夫。しっかりと覚えたから。それで平八郎と主税、今日はどうしたの?」
忠春が聞くと、平八郎らはほんの一刻程前にあったことを話した。
「なるほど。よくわからない僧体の不気味な男が町ででかい顔を利かしていると。どこにでもキナ臭い連中はいるんですね」
「そういうことです。忠春様、どうなさいましょうか」
平八郎の答えに忠春は首を捻った。
「何をしようというにも、何にも情報が無いからね。それで、連中ってのはどんなのなの?」
「詳しいことはよく分かりません。しかし、男の風体は切支丹ではなく僧侶といった感じでした」
「僧侶といっても色々と宗派があるじゃない。本願寺とかか延暦寺とかさ。そういう連中とは違うの?」
「ええ。あの振舞いを見る限り、歴史のある宗派のような格調高い連中ではないでしょう。もっと、雑というか、荒っぽいというか、適当というか……」
「謎は深まるばかりね……」
忠春・義親・平八郎が頭を突き合わせていると、部屋の隅から緊張感にそぐわない大きな声が上がった。
「いてててっ! ったく、紙で指を切っちまった……」
声の主は文書を整理していた衛栄だった。真剣に話し合っていた三名は深いため息をつく。
三人の視線は、部屋の隅で切れた指先を口にくわえている男に自然と集まった。
「……その冷たい視線はなんなんですか」
「いや、隣に居るのがアンタじゃなくて政憲だったらさ、その僧侶についての知識スラスラと諳んじて見せたんだろうなって」
「それもそうかもしれませんね。衛栄殿に失礼かもしれませんが、れくらい博識だったらなって思ったり思わなかったり」
「別に失礼じゃないわよ。とりあえず聞いてみるけど、何か解ることでもある? まぁ、何にも情報は出てくるはずないだろうけど」
忠春と義親は深いため息をつく。顔を見合ってヒソヒソと話しあう。
「しし、失礼なことを言うんですね。私だってそれなりに知ってますって。あくまでそれなりですけど」
シュンとする衛栄を見ると、得意げに笑みを浮かべた。平八郎がため息交じりに話を戻す。
「……そろそろよろしいでしょうか」
「ああ。ゴメンね。それで、この一件についてなんだけど、見ての通り、奈良奉行所への差配とか忠邦の饗応その他で時間が足りないの」
忠春の回りには山のように文書が積み重なって足の踏み場もない。
平八郎らがやって来た後も、文書を携えた与力や同心が絶え間なく部屋を行き交っている。
「だから平八郎、この一件はアンタに一任するわ。頼んだわよ」
平八郎と主税は忠春の言葉を受けて平伏する。
忠春は満足そうに微笑むと、頭を上げさせた。
「話しは変わるんだけど、主税、アンタって年はいくつ?」
「五二です。それがどうかしましたか」
主税は顔を上げると忠春の言葉に首を傾げた。
「ちょうど私の父上と同じくらいの年ね。その年で一人身ってことは無いだろうけど、どうなの?」
松橋主税は平八郎の組下とはいえ、忠春の配下でもある。
奉行所にやって来て二月ほど経つが、100名近い奉行所の人員の顔と名前くらいは分かるが、詳しい情報は知らない。
昨年の師走には奈良奉行所の一件があり、年が明けてからも奈良奉行所につきっきりだったためひととなりを知る機会はほとんど無かった。
「いちおうですが家内はおります。昔勤めとった同心の娘です。その同心はとっくに引退して死んでしまいましたが」
忠春はなるほどと頷きながらも、妻に対して『一応』と使う主税に違和感を覚えた。
「なるほどね。アンタも相当な年だろうし、子どもが何人かいてもおかしく無いわよね。それにアンタってよく見ると男前だからいい子でしょ」
「確かにそうですね。なかなかシブい顔立ちですしね」
横にいた義親も同じように微笑む。
主税は平べったい顔つきだが上手く年老いていた。六尺を優に超す長身と鋭い目じりに深く刻まれた皺。白髪混じりの髷頭が男らしさを増している。
「子どもは、生きておれば忠春様ほどになってました」
「生きていればってことは……」
「さいです。十年ほど前に流行病で死んでしまいましてね。忠春様のように可愛い娘でした」
忠春も入らぬことを聞いたと恐縮してしまう。だが、デクは軽く笑って見せた。
「……なんていうか、ごめんなさいね。変なことを聞いたみたい」
「ええんです。わしの事を気にかけてくれただけでありがたいことです」
「そう言ってもらえるとこっちもありがたいわ。それじゃあ、平八郎とコトに当たってちょうだい」
主税は頭を下げると部屋を後にする。
残った平八郎は気まずそうに忠春を見つめていた。
○
大阪東西町奉行所の与力・同心の屋敷は大阪城の南に密集している。広さにして三百坪。与力は四百八十坪の土地を賜っている。
主税も例外では無く、この辺りに住んでいた。
大阪の街中に比べると、武家屋敷の連なるこの辺りは静かな所だった。聞こえて来るのは子ども同士で遊んでいる楽しげな声くらいだろう。
「帰ったぞ」
長年にわたって使いこまれて色褪せた冠木門を、デクは頭一つ分ほどしゃがみこんでくぐる。引き戸を開けるも、明かりは付いておらず家族の出迎えも無い。
主税が手蝋燭を片手にそんな真っ暗な屋敷の廊下を進むと、唯一光が差す部屋があった。主税の妻「松橋結」の部屋だ。
「おい、帰ったぞ」
部屋にいるであろう結に向かって襖越しに声を掛けても返事は無い。
廊下に聞こえるのはブツブツと何か言っている小声のみだ。
「入るぞ」
主税はため息交じりに襖を開けた。
髪は結わないで垂らしたままで、服装も意味不明な幾何学模様の小袖を着ている。不相応に大きい仏壇に向かって正座をしている。
「ああ、帰ってたのね。ごめんなさい。気がつかなかったわ」
「そうやって飯も食わずに一日中念仏か」
「……何よ、悪い?」
妻の結は仏壇の方を向いて振り返らずに言い返す。
仏壇そのものは高さは六尺、幅は三尺弱ほど。奥行きは四尺ほどの長方形。黒檀製の厳かな仏具の至ることろに取り付けられている金具にはどれも塗金細工が施されている。
部屋は仏壇と仏具でいっぱいになっていた。それに向かって妻の結が数珠を手にかけて拝み続ける。
「毎日こうやって法師様にお願いしているの。私たちの雪が戻ってくるようにってね」
「いい加減にせんか。そんなことをしようとも、俺達の娘は帰って来うへんぞ」
足元にあった蝋燭が消えている金地の燭台を蹴りあげる。板張りの床に燭台が転がってカラカラと乾いた音が響く。
結は俯きながら転がっている燭台を拾って元に位置に戻すと、大きく深呼吸をして言う。
「帰ってくるわ。絶対に帰ってくるわ! 法師様は私に約束してくれたのだもの! 死んでしまったのは私たちの信心が足らなかったからよ。だからこうしてあなたの分まで拝んでるんじゃない」
結の細い体から似つかわしく無い大声が屋敷にこだました。
主税はため息をつくと白髪混じりの頭に手をやった。
「死んだ人間はどう足掻いても戻って来うへん。それに仕事だってある。そんなアホみたいな真似をしてる暇なんかあらへんねん」
「私だって武家の娘だからアナタが忙しいのは知ってるわ。だから代わりに拝んでるんじゃないの。嫌味を言われる筋合いなんて一切ないわ。それよりも、曹乙様に失礼じゃない。ほら、早くあなたも拝むの!」
「……んなこたぁ知らんわ。勝手にしいや」
主税は部屋を出る前に結の後ろ姿を見た。
今まで何事も無かったように、一心不乱に仏壇に向かってブツブツと拝み続ける。
「法師様、私どもを御救い下さい。法師様、私どもを御救い下さい。法師様、私どもを御救い下さい。法師様、私どもを御救い下さい。法師様、私どもを御救い下さい。法師様、私どもを御救い下さい……」
握り拳を固めて主税は部屋から離れていくのだが、ジャラジャラと数珠が擦り合わさる音と、繰り返される念仏が一層強く聞こえた。
妻の念仏と数珠の音が頭の中では鳴り響いているが、居間は静まり返って風の音すらも聞こえない。
「……ったく、けったいなことになったなぁ」
主税ああぐらをかいて座りこむと、太ももに肘をついてこめかみを押さえこんだ。
用語解説
『宗門改』 本文中にあるように切支丹摘発のために行われていた政策です。
天草四郎の乱の処理や、西国での苛烈なキリシタン狩りが全国に伝わると、自然とキリスト教は衰退。本文に書いてある通り、戸籍調査的な仕事にウェイトが置かれていきます。ちなみに有名な踏み絵も宗門改の一環で行われていました。