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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春一番は冬に吹く
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春一番は冬に吹く


 日は傾いた。白州に散らばる小石も夕陽で赤く染まりつつある。

 与兵衛の裁きが終わり、野次馬たちは各々の家や商売に戻って行った。その顔は満足そのもの。人々は『大阪に凄い奉行がやって来た』と口にしながらの帰宅だ。与力や同心たちも自分たちの職務に戻って行く。

 忠春は白州に降りると、縄をほどかれた与兵衛の目の前に立った。


「と、まぁこんな感じね。悪法も法なんて言うけど、そんなのはおかしな話よ。アンタも、知っていながらわざわざ鹿を殺すなんて思えないしね」

「お奉行様、誠にありがとうございます。このような寛大な処置、思ってもみませんでした」


 与兵衛は忠春の足元で平伏をする。顔は見えないが涙でぐっしょりだろう。

 忠春は薄く笑いながら自分の首元を指先で数回叩いた。


「顔を上げなさい。斬らずにおいてあげるわよ。また美味しい豆腐と奈良漬をお願いね」

「へへへ、マメで帰れますよ」


 与兵衛は涙や鼻水をぬぐいながら微笑んで見せる。


「忠春様、この一件は奈良の町民たちはほんまに感謝しとります。あの、出雲もでかい顔は出来ないでしょう」


 横に控えていた町年寄たちも忠春に頭を下げた。

 町年寄らの話によれば、町人の間では塚原出雲の評判は悪かったらしい。しかし、奉行所の役人ということで手出しが出来なかったとのことだった。


「これからもよろしく頼むわよ。今回はこんな結末になったけど、アンタ達にも容赦はしないわよ」

「ははぁ、末永くよろしくお願いいたします……」


 与兵衛以下は再び平伏すると同心に連れられて奉行所を後にする。


「いやぁ、あの豆腐がたらふく食べられるって考えると、これから仕事のし甲斐があるってものです」

「確かにそうですね。冷奴と造りたての清酒で一杯なんて最高に気分がいいでしょうね」


 背後では衛栄と義親は肩を組んで喜びあう。今は師走だが、後半年もすればそんなひと時を味わえる。忠春も冷静でいるが、心のうちでは一緒になって肩を組んでいるだろう。

 そんな感情を押し殺しつつ、忠春は平八郎に命令した。


「……平八郎、出雲について良く調べて。アイツは綺麗サッパリ潰しなさい。なんなら他の与力同心もクビにしてかまわないわ」

「は、はいっ!」


 平八郎はいつになく大声で返事をした。


「いつになく元気ね。どうかしたの?」

「そ、その、一つ聞きたいことがございます」


 忠春は聞き返した。


「いいわよ。何?」

「どの辺りからこの絵が見えていたのでしょうか」

「”この絵”っていうのは?」

「とぼけないで下さい。出雲が幕府から横領をした金で高利貸しをやっていたって話です。いつお気づきになられたんですか?」


 平八郎に言われてやっと話が掴めたようだ。何度も頷きながら答える。


「別に大した話じゃないわよ。そもそも遠国奉行の与力が豪勢な武具を付けてる時点でおかしいのよ。西町奉行所の誰よりも立派な格好をしてるのよ? そりゃ何か裏でやってるとしか思えないでしょ」


 忠春の言葉に平八郎はぐうの音も出ない。

 奉行所の与力があんな風に身なりを整えるには、生活を目いっぱい切り詰めるか、裏で何かやるくらいしか無い。出雲は生活に困ってるようなそぶり無かった。


「それに、アイツは店に押しかけ慣れてるわね。普通、突然やって来てあんな風な物言いが出来る? 何かしら弱みでも握ってなきゃあんな芸当は出来ないわよ」

「確かにそうでした。しかし、それだけでは憶測にすぎないのでは?」


 平八郎がそう言うと、忠春は優秀な生徒を褒めるように優しく答えた。


「その通りね。あの時点じゃ何一つ具体的な証拠は無かったわ」

「それでは、明朝に話された話っていうのは……」

「何かあるってのは分かってたけど、ほとんどはハッタリよ。ヤツが四の五の言って来た時は無理やりにでも押し通したかも知れないわね。まぁ、どうせ付け届けとかもらってるんだろうし、そうだったらその線を攻めてたわね」


 平八郎は呆れて見せるが、当の忠春は笑っている。それも、とても嬉しそうにだ。


「ああ言う感じの人間は嫌いなのよ。上にはヘコヘコ付き従って、下には威圧的に接するってさ。典型的な小悪党じゃない。ああ言う奴が役人って時点で狂ってるの気がつかない時点でおかしいわよね」

「ま、まぁ、確かにそうですけど……」

「衛栄も言ってたけど、あの豆腐が食べられなくなるのは大きな損失よ。それに、奈良奉行所の処分も考えなきゃね。あそこまで帳簿を弄られると、さっきも言ったけど色んな所にまで被害が及びそうね。といっても、ウチもかなりアレなんだろうけどさ」


 忠春はため息交じりに笑った。


「し、しかし、そのようなことをされれば、忠春様の評価が下がられるのでは?」

「わざわざそんなことまで心配してくれるの? ありがたい話だけどさ、それが私の仕事なの。何一つ妥協する気は無いし、やるべきことはやり尽くすわ。何があっても風を起こし続けるってね」


 就任早々、他の部署にまで口出しすれば煙たがられるし、心象もそんなに良くないかもしれない。

 そう言う意味では忠春は一度土を付けられている。直属の上司は仇敵の水野忠邦。どんな仕事をした所でケチは付けられるから関係無いのかもしれない。

 それに、自分自身の幹を知っている忠春には、今さら失うものなど何もないだろう。


「……なるほど。やられましたよ。思っていた以上に忠春様は切れ者なんですね」

「何よ。そんなに素直になっちゃってどうしたの? あんなにツンケンしてたっていうのにさ」


 忠春が不思議そうに聞くと平八郎は俯いた。


「正直にいいましょう。気付かれていると思いますが、私は忠春様の事を嫌ってました。でも、やるべきことはやられているんですよね。小さな悪も許さない。この大塩平八郎、忠春様のそんな態度に感服いたしました」


 平八郎は一見すると冷たいような女だと思っていたが、実は衛栄のような熱血与力だったようだ。

 忠春の眼前一寸ほどまで近づき、小さな顔を紅潮させて鼻息荒く語る。


「なかなか嬉しいことを言ってくれるのね。珍しいこともあるわね」

「とはいえ、あくまでも多少です。ほんの、ほんの少しです。一寸の半分の半分くらいのほんの少しですからっ!」


 近づいて来たと思いきや、突然突き離す。忠春は薄く微笑みながら鼻で笑った。


「……そこまで言われると何か言い返す気力も起きないわね。まぁいいわ。これからよろしく頼むわよ」

「はい。改めてよろしくお願いします」


 平八郎はそう言うと笑顔を見せる。

 あの、豆腐屋の軒先で高野豆腐をめいいっぱい頬張った時に見せたような、自然で、大阪の路地裏まで全てを照らす明るい笑顔だった。







 その一週間後。奉行所の一室で山の様な文書に目を通す忠春の元に、平八郎が慌ててやって来た。


「忠春様、お知らせがございます」


 襖は大きな音を立てる。平八郎は額に汗を浮かべながら息を切らしていた。


「そんなに慌ててどうしたの?」


 忠春は振り返らずに文書に目を通す。平八郎は言う。


「その、本日、新たな大阪城代が着任されました」


 平八郎の言葉を聞くと、忠春の所作が止まった。

 新任の大阪城代。思い当たるのは一人。あの男しかいない。


「……なるほど。やっと来たのね。平八郎、ここからが本当の勝負になるわよ」

「は、はぁ」


 忠春は力を入れて言うが、平八郎はきょとんとする。どうやら忠春の話すことにピンと来ていないらしい。


「やっと面白くなってきたわ。ヤツはどんなことをやってくれるのかしらねぇ!」


 江戸で何度も死闘を繰り広げた男、『水野忠邦』が大阪にやって来たのだ。忠春の手には自然と力がこもる。


「ちょっ! 忠春様、文書をしわくちゃにしないで下さい」


 平八郎が声をかけるが忠春の耳には届かない。江戸での戦いが再び繰り返されようとしている。


「……上等じゃないの。アンタの思い通りには絶対にさせないわよ」


 忠春は勢いよく立ち上がると東の彼方を向いた。そこには、平屋造りの町々が連なる先に大阪城の多聞櫓が見える。

 だが、忠春が見ているのは多聞櫓では無い。その視線は多聞櫓の奥、大阪城代の居座る本丸御殿を見据えていた。




春一番は冬に吹く(完)

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