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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春一番は冬に吹く
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犬鹿裁き

 三日後。豆腐屋与兵衛の評定の時がやって来た。天気は晴れ。肌寒い師走だが、温かい日差しの気持ちい日だ。

 高座には忠春ら大阪西町奉行所の与力同心が集まり、白州には豆腐屋の与兵衛が蓑の上に座らされている。それに加えて、訴状を出した町年寄が二名、奈良奉行所の塚原出雲が同席している。

 背後に置かれた木柵の奥は人でごった返していた。なんせ、新しい西町奉行が初めてやる裁きの場だ。どんなお手並みをするのか気になっているらしい。


「それじゃ、鹿殺しの裁きを始めるわよ。豆腐屋の与兵衛、顔を上げなさい」


 忠春は言う。与兵衛は顔を上げた。白州場に来させられる容疑者の大半は、顔面蒼白といった面持ちで悲壮感漂うのが常だ。

 しかし、与兵衛は違う。いつになく気合のこもった顔で、悲壮感など微塵も感じさせない。仏のように何かを悟ったような顔をしている。


「与兵衛さん。主文に相違無い?」

「はい。全く間違ってありやせん。アッシが殺しました」


 忠春が聞くと、与兵衛は毅然と言う。

 このままでは斬首されるというのに、


「なぁ、与兵衛さんよぉ。アンタ、豆腐屋だったよなぁ」

「ええ。その通りです」

「それで、鹿殺しについてなんだが、生まれも育ちも奈良って訳じゃないんだろう。なんせ、馳走になった冷ややっこもたいした味だったが、高野豆腐が特に美味かった。あの、鰹出汁の染み具合は江戸でも味わえない。あの味は本場の者にしか出来ないんじゃないのか?」


 見かねた衛栄が助け舟を出した。


「そ、そうや! 与兵衛はん、あんさん、生まれは隣の紀伊だったはずじゃ……」


 横に控えていた町年寄達も衛栄に乗っかった。そもそも、鹿殺しは奈良出身者にのみ適用される。なので、無理やりにでも出身地を捻じ曲げようとする算段だ。


「……冗談はあきまへん。アッシは生まれも育ちも奈良東大寺前。高野豆腐は若い頃に教わりに行って覚えました。生粋の奈良人です」


 しかし、肝心の与兵衛は頑として動かない。首を横に振った。


「じゃ、じゃぁよぉ、病気はどうだ。本当は重い風邪でも引いてたんだろ? それで、眩暈が酷くて誤ってさ……」

「与兵衛はん、こりゃ酷い熱や。こんな調子じゃ鹿をみまちごうても……」


 再度、衛栄は助け船を出す。それに町年寄の一人が与兵衛のおでこに手をやると、思いっきり熱がってみせた。

 だが、与兵衛は動じない。


「町年寄の皆さん方に根岸様、お気づかいありがとうございます。でも、私が鹿を殺したんです。病気でも何でもありません。私が悪いのです」

「う、ううむ……」


 静かに首を横に振り、町年寄達に礼までした。

 そんな与兵衛の態度に町年寄達や衛栄がかえって恐縮してしまっている。脇に控えていた塚原出雲が大声で叫んだ。


「町年寄に根岸殿、この様な男に憐れみはよして下され。忠春様、さっさと裁可を下して下され」


 出雲の自信たっぷりの言葉に、与兵衛は万事休すかと思われた。

 どうなるのかと周囲の視線は忠春に集まった。忠春は手にしていた扇子をパチりと閉じると、扇子の先を与兵衛に向ける。


「……ちょっと待ちなさい。与兵衛さん、最後に何か言いたいこととかある?」

「た、忠春様!」


 出雲は大声で言うも、忠春はいうことを聞かない。与兵衛は礼をすると答えた。


「ご存知かもしれませんが、アッシは一人身。嫁も居ねえし、兄弟も居ねえ。親父が死んで店を継いだので、アッシが死ねば店と婆さんが残されてしまいます。それに、婆さんは働こうにも働けまへん。どうか、婆さんが暮らしていけるようになんとかしてもらえないでしょうか」


 与兵衛は毅然と答えた。死を間際にしても、母親の身を案じる堂々としたもの言いに、白州の背後に置かれていた木柵越しから野次馬から嗚咽が聞こえる。


「……分かったわ。お婆さんはちゃんと保護する。約束しましょう」

「ありがとうございやす。これで無事に死ねますわ」


 与兵衛は弱弱しく笑みを浮かべた。ここにきて、与兵衛の本心が見えたような気がした。死にたくは無い、こんなことで死ぬなんて御免だと。

 それは見ていた者も同様だった。与兵衛の境遇を思ってか、野次馬や同心らの中から助命を嘆願する声もちらほらと届いた。


「ほら、忠春様、さっさと裁可を下して……」

「でも、ちょっと待ちなさい。最後に遺骸を確認したいのよ」

「は、はぁ?」


 出雲は呆れたように声を上げた。忠春は宥めるように言う。


「アンタ言ったじゃないの。決まったようなものなんだからいいでしょ。塚原出雲、さっさと遺骸を持って来なさい」

「は、はぁ、承知いたしました……」


 釈然としない顔で出雲は白州を後にし、後ろに控えていた奈良奉行所の役人に遺骸を持って来させた。





 白州場のど真ん中に、平たく、丸い桶が置かれた。

 奈良奉行所の役人が桶を開ける。中には小さな小鹿が横たわっていた。全身は茶色く、毛には艶が無い。目は深い青っぽく濁っていて、死んでから時間が経っているように見える。


「忠春様、小鹿の死体に何か問題でもあるのでしょうか」

「うーん、私、思うのよ。これって本当に”鹿”なの? ってさ」


 何を言うのかとオドオドしていた出雲だったが、忠春の言葉を受けると細めていた目を更に細くして笑った。


「ハハハ、私が直々に春日大社を案内したではありませんか。この死体は間違いなく鹿です」

「いやでもさ、鹿っていうと、こう、立派な角があるじゃないの。でも、この遺骸って角が無いじゃない? だから思ったのよ。本当は”犬”だったんじゃないかってさ」


 忠春は両掌の親指をこめかみに突き立てて、角の仕草をとる。木柵の向こうからは笑いが起きた。

 それに、もともと与兵衛に同情的だった与力達だ。忠春の言葉に乗っかって与兵衛を擁護し出す。


「確かに。忠春様の仰ることはもっともでしょう」

「これが鹿ですか。ちょっと仕事が雑なんじゃないんですか?」


 衛栄にいたっては、


「確かに。忠春様の仰る通りだ。いま、ワンって鳴きましたよ」


 とまで言い出す始末だ。そうすると白州場の空気が一変した。温かい雰囲気に包まれる。

 馬鹿らしいと笑って聞いていた出雲だったが、しわくちゃの顔から笑みが消えた。


「……これは、お戯れを申されますな。鹿という生き物は、この時期になると角を落とすのです。ほら、街の至る所に落ちていたではありませんか」


 忠春に向けられた言葉には余裕が無い。その端々には怒気が見えていた。出雲はさらに言葉を続ける。


「江戸から大阪にやって来て早々の忠春様には分からないかもしれませんが、私の仕事には間違いなどありませぬ。だからこそ、鹿の守役を数十年も続けてきたのです」


 出雲は息を切らして言い切ると、忠春をキッと睨みつける。だが、忠春は緩く微笑んだ。


「……なかなか言ってくれるわね。それじゃ、一つだけ質問。いいでしょ?」

「構いません。何でもおっしゃってください。しっかりとお答えいたしましょう」


 出雲は毅然と答える。すると、背後から女性が一人やって来た。

って

「文ちゃん、鹿って普段はどんな食事をとってるのかな?」

「えっとねぇ、鹿の餌っていうのは、幕府からの給金で賄われているみたいだね」


 忠春と文はわざとらしく大声で言う。胸を張っていた出雲だったが、少しずつ姿勢が曲がってゆく。


「それが、ど、どうしたというのですか」

「へぇ、そうなんだ。その給金ってのは、毎年いくらぐらいでてるのかな?」

「毎年三千両だってさ。すごいね。さすがは天下の春日大社のお鹿様だね。幕府が太っ腹なのか、どうなのかは置いておいて、これだけの金額があればご飯には困らないよね」


 威勢の良かった出雲だが、血色の良い顔が徐々に青ざめていった。『どうした』『そんなにもらっていたのか』などと、木柵の内外問わず、場が騒がしくなっていく。


「……さて、塚原出雲。毎年三千両ももらってるなんてすごいわね。それだけあれば鹿は、ご飯をたらふく食べられるわね」

「へ、へへへ、そりゃ、そりゃぁもう……」


 忠春は出雲を見つめた。肝心の出雲はぐうの音も出ない。


「聞いた話だとアンタさ、町人相手に高利貸しをやってるって話じゃないの。役人なのに食いっぱぐられても困るから副職はしたっていいんだけど、一つ問題があるのよね」

「な、なんでしょうか……」

「その金の出所よ。奈良奉行所からの俸禄で金貸しをするほど余裕なんてあるとは思えないんだけど。どうなの?」


 忠春の言葉で、ますます白州がざわつき始める。背後に控えていた他の与力同心・町年寄たちの顔色が変わる。忠春が何をしようとしているのか分かり始めたようだった。


「ここ、この、この一件と、私の副職とが、どのような関係があるのですか!」

「簡単よ。そもそも、あの鹿、じゃなくて、”犬”はなんで与兵衛の店にやって来たの。それで、商品のキラズを勝手に食べちゃったの?」

「そ、それは……」


 出雲は口ごもった。


「例えばの話をするわよ。アンタは鹿の餌代を拝借して高利貸しをやっていて、金貸しの顧客に与兵衛さんがいたとしましょう。借金の返済が滞った与兵衛さんはアンタに取って目の上のコブよね」

「そそそそ、そのような話は」

「聞いた話なんだけど、豆腐屋って借金の担保になってたみたいね。働けない母親じゃ返済能力は無いわよね。そうなったら土地が手に入るって寸法なのかな?」

「い、いやぁ、そのような話は存じ上げませぬ。この様な侮辱は忠春様といえども、ゆ、許しませぬぞ!」


 出雲は大声を上げ、その場で立ち上がって白州場から去ろうとする。しかし、与兵衛に付いていた同心が出雲をガッチリと押さえて再びその場に座らさせた。


「うーん、おかしいわねぇ、ここに借金の証書があるのよ。ほら、よく見てみなさい」


 忠春は唇の片側をほのかに上げると、長さ一尺ほどの文書を示した。


「……う、うぬぬぬぬぬぬ」


 証書には確かに『貸付金の返済が滞った場合には店を質に取る』と、文字の横に朱色で点線まで付けて書かれている。


「それとさぁ、三千両も予算があるっていうのに、鹿が飢えているなんておかしな話よね。アンタはそう思うでしょ?」

「ま、まぁ、確かに……」

「そうだよね? だったら与兵衛さんのお店を荒らした動物ってのは鹿なの? それとも飢えていた野犬なの?」


 忠春の調子が上がって来たようだ。口調は勢いを増す。対する出雲は当初のような勢いは消え、忠春の元に届くか届かないか分からないくらいの声量で対応する。


「いや、でも、これはどう見ても鹿かと……」

「この一件は色々と調べなきゃいけないことがありそうね。もし、この遺骸が”鹿”だったら三千両の流れも正確に調べなきゃいけないわね。だって、そんなにもらってるってのに鹿は飢えてるんだもの。そうは思わない?」

「ま、まぁ、まぁ、確かにそうなりますな」


 出雲は途切れ途切れになりながらも答えた。


「……それで塚原出雲、アンタの眼前にいる獣の遺骸は何? ”犬”? それとも”鹿”?」

「う、ううううううん……」


 出雲は唸った。顔面は蒼白、額からは滝のような汗が流れ出る。


「ちょ、”蝶”、かと……」

「……花札じゃないんだからさ。ふざけないで。それで、この遺骸は犬なの? 鹿なの? はっきりしなさい!」


 腰に差していた脇差を思い切り叩きつけた。抜き身の同田貫が鈍い光をチラつかせる。忠春の一喝に、出雲はたまらず平伏した。


「ハハァ! この塚原出雲、知らず知らずのうちに耄碌しておりました。この畜生はどう見ても”犬”。”鹿”ではございませんっ!」


 平伏した出雲の背中は汗でぐっしょり濡れていた。その顔も、忠春の座る位置からでも分かるくらいに震えている。


「そう言うことならこの与兵衛さんは問題なしね。それじゃ。この一件はこれまで!」


 忠春は勝ち誇った笑みを浮かべて言う。

 木柵の奥からは、歓声と与兵衛の身を案じていた者の安堵の声が上がった。何より、与兵衛も忠春のひと言に緊張の糸が切れたようで、ぐったりと肩を落とした。

 こうして、大阪西町奉行・大岡忠春の初事件は幕を閉じた。

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