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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春一番は冬に吹く
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冴えたやり方

 明け六つごろ、忠春は目が覚めた。

 続けざまの長旅で体の節々が痛むが、そんなことは言ってられない。それに、出仕するのにかかる時間は20秒ほど。なんて楽な話だと忠春は感じていた。

 昨日が初出仕ではあるが、正式な職務にはまだついていない。西町奉行所で山のような書類にだって一つとして目を通してもいないので、誰よりも早く出仕して仕事内容を覚えるのは当然の話でもある。

 肌をつつくように吹く風も、目覚めの体にはちょうどいい。透き通った空気の中、忠春は奉行所へと向かう。


「いやぁ、朝早くから働くなんて素晴らしいことね。こんな朝早くから出仕している武士なんて、そうそういないでしょ……」


 忠春はわざとらしく大声で言うと、機嫌よく勢いをつけて襖を開く。

 音を立てて開いた襖の奥には、忠春の予想に反して一人の女性が正座をしたまま書机に向かいあっていた。


「おはようございます忠春様。朝早くから出仕している武士はここにいますよ」

「お、おはよう。こんな早くから何やってるの?」


 御用部屋にいたのは大塩平八郎だった。足先から指先、髪の毛の先端までもがピシッと整っている。羽織袴も熨でしっかりと折り目が付けられているので、宿直だった訳でもなさそうだ。


「そりゃぁ仕事ですよ。それともなんですか。朝早くからここに来て、遊んでいる人なんていると思いますか?」


 ぐうの音も出ない。忠春は黙って頷いた。


「……ごもっとも。アンタはいつもこんな朝早くから奉行所に来てるの?」

「ええ。明け五つ以前には奉行所に来るように心がけております。まぁ、出仕する前にも色々とすることはあるんですが」


 忠春は驚かされた。明け六つならすやすやと布団で睡眠を取っている頃だろう。平八郎の生真面目さに感服する。


「アンタって背恰好はあれだけど中々やるわね。ちょっと見直したわよ。これからも心がけなさい」

「ふ、ふんっ、お前に見直されるためにやってるのでないわ! それに、背恰好は関係ないだろ!」


 平八郎は顔を赤くして言い返す。バツの悪そうに口の中で何やらモゴモゴと言っていた。


「そうだ。アンタに二、三ほど聞きたいことがあるんだけどいい?」


 忠春が言うと平八郎は息を整えると頷いた。


「……い、いいですよ。なんでしょうか」

「奈良奉行所のことなんだけどさ。昨日、帳簿を見たんだけど、違和感があるのよ」

「あの時は基本的に大丈夫って言われてましたよね。それなのにどうかしたのですか?」


 平八郎の軽い嫌味にもめげず、忠春は言葉を続けた。


「ちょっと気になったことがあるのよ。出雲の説明で奈良の人口が3万弱なのは分かったけど、あっちの奉行所って何人くらいで回してるの?」

「確か、与力は七名で同心が三十名ほどです。それがどうしたのですか」

「いやさ、人数の割には動いている金が少なすぎるなって思ったのよ」


 忠春は平八郎に一枚の文書を見せた。その紙は奈良奉行所の収支を写したもので、収支の総額が書かれている。


「そうでしたか? 大阪の東西奉行所や江戸の南北奉行所に比べれば人数が少ないので、そう感じられるだけなのではないでしょうか」


 平八郎は文書を斜め読みすると素っ気なく言い返した。

 奈良奉行所と西町奉行所の人員を比べると半分ほどで、奈良と大阪の人口だって十分の一以下だ。その割には奈良奉行所は平常運転してるようだった。町を歩いていても怨嗟の声を聞くようなことも無いし、荒廃した村々も街道で見ることも無かった。

 そうなれば平八郎の言う通りで、忠春の感覚が南町奉行のままなのかもしれない。


「……そういうものなの?」

「ええ。前任の高井様も『奈良奉行所は人数の割によくやっている』と仰っていました。それに、役金や役料を勘定していないのかもしれません。まぁ、それはそれで問題ですが」


 確かに帳簿の書き漏らしは問題だ。しかし、忠春の思っていた事とは違っていた。


「なるほど。どうやら杞憂だったみたいね。話は変わるんだけど、かの豆腐屋では美味しそうに食べてたわね。アンタのあんな笑顔は初めて見たわよ」


 忠春は話を変えて言う。色々とあったからか普段は無愛想な平八郎だが、先日は表情豊かに豆腐を食べてていた。笑顔もそうだが、何か切迫感のようなものもあった。

 平八郎もそれを思い出したようだった。色白の肌が見る見るうちに紅潮してゆく。


「なっ、べ、別にいいじゃないですか。美味しいものを食べれば笑顔だって浮かべます」

「健康的でいいわね。話しによれば、豆腐とか豆乳は胸にも効果があるみたいよ。いいんじゃないの?」

「よ、余計なお世話です! そう言うことを言っている限り、絶対にあなた方の前では笑顔を見せません。それに、体の事を言ってたけど、今度は人の好きなモノにまでケチをつけるんですか」


 よっぽど恥ずかしかったらしい。それに加えて忠春の余計なひと言も影響して、平八郎は顔を真っ赤にしながら刀に手を掛けた。


「いやいや、落ち付きなさいって。奉行所内での刀傷沙汰はシャレにならないし、アンタにケチを付けようなんて気は……」

「うるさいっ! も、もぉ、もぅ、我慢できないぞ!」


 忠春がご乱心寸前の平八郎をなだめていると、平八郎の元に若い同心が駆け寄ってきた。

 やってきたのは宿直の同心らしい。髪は乱れて目元は疲れ切っている。同心が書状を手渡すと、平八郎と耳打ちで話をし出した。


「平八郎様、奈良から書状が届きました」


 同心がやって来てなんとか落ち付いた。平八郎は息を整える。忠春も一息つけた。

 手渡された書状を読むと、平八郎は淡々と言う。


「……忠春様、その豆腐なんですが、もう食べられそうにありません」

「どういうこと?」

「奈良で豆腐屋が鹿を殺したとの事です」


 奈良の豆腐屋。平八郎の口ぶりから考えると、あの豆腐屋しか考えられない。


「それって、アレよね、あの冷ややっこを御馳走になった豆腐屋さん?」

「そうです。豆腐屋せんとの店主、与兵衛が御禁制を破られました」

「……これは参ったわね。詳しい話を聞かせてちょうだい」


 忠春は言う。平八郎は書状を読みながら説明を始めた。




――




 事件が起きたのは忠春らがやって来た翌日の明朝だった。

 与兵衛が朝早く起きて、豆腐の仕込みをしていた時だ。

 ガサゴソ、ガサゴソと、軒先から音がする。与兵衛は格子窓から顔をのぞかせると、暗がりでよく見えないが、冷やしていた卯の花の桶に獣が頭を突っ込んでいる。


「……今日もやってきおったか。ったく、迷惑な話やなぁ」


 奈良は鹿と同様に野犬も多い。与兵衛は犬を追い払おうと、かまど脇にあった大きめの薪を手にして表に出た。

 通りは白んでいて他のものはいない。朝早いといえども空も明るんでいないこの時間に人などいない。

 犬のほうも腹が減っていたのだろう。桶も食べるんじゃないかと言うくらいにがっついている。


「ていっ!」


 与兵衛はやってきた野犬を軽く小突いたぐらいの気持ちだった。

 しかし、打ち所が悪かったのだろう。茶色い小動物は泡を吹いてひっくり返ってしまった。


「犬には悪いが、商売品に手を付けられてたまるか。生活が掛かってるんだ……」


 ため息をつくと仕込みのために店へと戻って行った。

 そして、夜は明けて朝がやって来た。

 仕込みを終えて仮眠を取っていた与兵衛だったが、どうも店先が騒がしい。気になって表に出ると、町年寄らが集まって暗い顔を突き合わせている。


「よ、与兵衛はん、アンタ、これやったんですか?」


 町年寄たちは軒先を指差した。

 昨晩やっつけた茶色い獣が泡を吹いて横たわっている。


「ああ、昨晩やっつけたんですよ。商品のキラズを荒らされたんでね。すんません、すぐに片付けますわ」

「……そうやない。よく見てください」


 白いひげを蓄えた町年寄の一人が杖の先を遺骸に向けた。

 茶色い毛並みだが、背には白いまだら模様。足も犬では無い。スラッとした長い足の先っぽには真っ黒な蹄が付いている。


「こりゃ、鹿ですか……」


 与兵衛は手にしていたお椀を落とした。明朝、殺したのは犬では無く鹿だったのだ。

 町年寄たちと野次馬たちは一斉にため息をつく。


「……与兵衛はん、とんでもないことをしてくれはったなぁ」




――




「……なるほど。与兵衛さんが御禁制の鹿を殺しをやっちゃったって話ね」

「かいつまんで言えばそうです。残念ですが、彼の命は終わったも同然でしょう」


 出雲も言っていた通り、鹿殺しをすれば命の保証は無いし、過去にも鹿を殺した子供が石子詰めにされたという判例もある。こればっかりはどうしようもない。


「だったら奈良奉行所の方で処分すればいいんじゃないの? 御禁制って分かってるんだったらさ」

「ええ。私もそう思ったんです。しかし、与兵衛という男は人望があるようですよ。さっきの同心によれば、与兵衛の身を案じた町年寄たちが今日の朝に訴状を持って来たそうですよ」

「嫌な顔はしてたけど見ず知らずの人に真っ当な料理を作ろうなんて、なかなか出来ることじゃないしね」


 半刻程の付き合いだが、与兵衛はきっといい奴なのだろう。それも、町年寄らが、大坂にまでやって来て訴状を差し出したのだ。

 冴えない顔をした平八郎は言う。


「しかし、どうなさるんですか? いかなる理由があっても御禁制を破った事実は変わりませんよ」


 忠春は考え込んだ。そして、ある一つのことが閃いた。


「……一つだけ質問していい?」


 平八郎が返事をすると、忠春は笑みを浮かべながら言う。


「その、鹿の遺骸ってのは残ってるの? ちょっと見てみたいんだけどさ」

「は、はぁ?」

「死んだっていう鹿の遺骸は保存してあるかって聞いてるの。ねぇ、どうなの?」


 遺骸を見せろとせっつかす忠春に平八郎はたじろいだ。


「ま、まぁ、残っているとは思いますけど。一応、白州で使う証拠の一つですから」

「それは重畳ね。うん。大変素晴らしいわ」


 忠春は手を打って笑みを浮かべた。まるで親類に子供が出来たような反応だ。


「いや、何を嬉しそうに言われているんですか。江戸の武士は遺骸が好きなのですか?」


 小馬鹿にしつつ冷めた目で見つめる平八郎だが、忠春の笑みは変わらない。


「……いいこと思いついたのよ。平八郎、与兵衛さんの判決の準備を進めてちょうだい。裁定は三日後よ」


 忠春はそう言うと、口角を上げながら御用部屋を去って行った。残された平八郎は怪訝そうな目でその背中を追っていた。







「文ちゃん、ちょっと仕事を頼んでもいいかな?」


 時刻は暮れ六つを迎えた夕方。奉行所では仕事が終わり、見廻りや宿直担当の与力同心達以外は全て自分の屋敷へと帰って行った。

 忠春・義親・衛栄・文の4名は御用部屋に残って話をしている。


「それで、与兵衛さんの件ですがどうされるんですか?」

「ちょっといい事を思いついてね。たった一つの冴えたやり方っていうの? そんなくらい冴えてるのよ」


 忠春は鼻を高くしながら笑みを浮かべる。その表情からは自信が読み取れる。


「そりゃ心強いな。あの美味い高野豆腐が食えないのは日の本の損失ですからね。それで、どうされるんですかい?」

「この作戦にはね、文ちゃんの力が必要なのよ。力を貸してくれるわよね?」


 衛栄が聞き返すと忠春は文を指差した。指差された文は驚いたような、嬉しいような表情を浮かべた。


「ええ? 私? いやぁ、目の付けどころがシャープだね。ちなみに、シャープってのはブロンホフさんの国の言葉で……」


 嬉しさの余りなのか、知識をひけらかしているのかよく分からないが、文はダラダラと喋り始める。

 ただ、文の顔は四月を迎えて満開になった飛鳥山の桜よりも晴れ晴れと明るい。


「……よく分からないけど、手伝ってくれるんでしょ?」

「うんいいよ。この分だとはつちゃんに食べさせてもらうってことになりそうだし、いくらでもコキ使ってよ」


 文が頷くと忠春は小さく手招きする。


「それじゃコキ使わせてもらうわよ。文ちゃん、ちょっといいかな?」


 文が近寄っていくと忠春は耳元で何やら囁いた。

 忠春の話が進むにつれて文の顔も晴れていく。


「……なるほどね。このこのぉ、はつちゃん、お主も中々の悪よのぅ」

「アンタほどじゃないわよ。私の読みは間違って無いと思うのよ。念のため調べておいてちょうだいね」

「合点承知! それじゃ、奉行所に戻って一仕事しないとね! いやぁ、一つ屋根の下にあるって素晴らしいね」


 文は大声で笑いながら去っていく。

 忠春もまんざらではないように笑っている。残された衛栄が不思議そうに口を開いた。


「忠春様、文だけでなく、私たちも使って下さい。そのためにここまでやって来たんです」

「……安心しなさい。アンタらにもってこいの仕事はあるわ。明日になったら説明するからさ」


 義親と衛栄は首を傾げながら顔を見合わせた。どうにも釈然としていないらしい。


「さて、この一件は頂いたわ。裁きの時が楽しみね」


 忠春も文と同じように大声で笑いながら自身の部屋へと戻って行った。


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