帰って来た女たち
江戸を発ってからは東海道沿いを進み、一週間ほどで京の都に到着する。それから大阪街道を進んで、早朝ごろに大阪へと到着した忠春は、やって来て早々に驚かされた。
「……なるほど。ここが大阪なのね。江戸とは違った趣があるわ」
時刻は明け六つ(午前6時頃)。かなり早い時間にも関わらず、天満橋上の人通りは江戸の倍はあろうほどのものだった。
それに、道を歩いていると、時折耳に入って来る声は上方独特の訛りがある。道中でたびたび耳にしてはいたが、全員が全員と言う訳ではない。ここでは老若男女問わず、誰もが普通に喋っているのだ。それだけに、忠春にとってこの光景は新鮮なものだった。
「うーん、やっぱり大阪って感じよね。城中でも上方に住んでる大名と話すんだけど、やっぱりこの喋り口調を聞くと大阪って感じがするわ」
「へぇ、私は初めてきましたけど、活気に溢れてますね。なんていうか、誰もが上を向いて歩いているみたいな」
「ああ。俺も初めて来たけど、大阪ってのは江戸に負けちゃいないんだな」
義親と衛栄も呑気に言う。そもそも、江戸にいる旗本が、それも御家人格の武士が江戸以外の所に来る機会など滅多にないだろう。
「ここは天満橋。大阪の中心地といっても過言ではない。江戸は八百八町と言うが、大阪は八百八橋。このような橋は江戸には少いでしょうね」
天満橋筋は大阪随一の賑やかさを誇る地区だ。天満橋から北に行けば、橋の名前の由来になった大阪天満宮と上方一帯の野菜を取り仕切る天満青物市場。南に行けば大阪城や四天王寺を始めとした寺社が大量にある。
それと同時に大阪は橋の町だ。古くから淀川や河内灘の水運で栄えてきたので水辺沿いで街が発展してきた経緯がある。江戸で例えるならば、街全体が深川のようなものだ。
「それにしても、大阪ってのは不思議な町ね。江戸と違って刀を差した人がほとんどいないし。なんか、私たちだけ妙に浮いているみたいで心細いかも」
忠春が最も驚かされたのは腰に刀を差した人々の姿はほとんど無いことだ。すれ違う人々は町人町人町人で、武士の姿がほとんどない。
横に控えていた平八郎は、忠春が目を丸くして辺りを見回しているのに気が付いたようで、小馬鹿にしつつ話しかけた。
「ここ大阪は江戸とは違って正真正銘の町人の町。そんなことも知らないでよく西町奉行に選ばれましたね。家斉公の眼力には感服させられますよ」
「……余計なお世話よ。それで、ここが大阪城なのね」
平八郎が忠春らに向かって毒づいていると、一行の左手に大阪城が見えた。
幾重にもおり曲がった塀に鉄砲狭間と、大阪の街を睥睨する石垣。この日は天気も良かったので白漆喰塀が太陽光に反射して眩しい。
「あれが大阪城だ。どうだ、立派な城だろ!」
平八郎が指を差して説明すると、並んで歩く義親と衛栄が足を止めて大阪城を眺めた。
「いやぁ、初めて大阪城ってのを見ましたけど、江戸城にも劣らない立派さですね」
「そうかぁ? どう見たってしょっぼい城じゃねえか。本丸しかないし、なんか、妙に小じんまりと……」
義親は素直に感心をするも、衛栄は小馬鹿にしたように平八郎に言い返す。一つの区画に3つも4つも櫓が建てられているが、初代将軍家康との戦いで外堀の埋められた今の姿は少々不格好にも見える。
衛栄が喋っている途中、対面にいたはずの平八郎が消えた。
「ふざけるな! 愚弄された大阪城に代わって天罰や! これでも食らえっ!」
「ふ、ふぐぅっ!」
衛栄の鳩尾に平八郎の鋭い突きが炸裂する。忠春の拳に負けず劣らずの破壊力で、衛栄はその場に崩れ落ちた。
「ふんっ、これで大阪城も喜んどるやろう」
「……別に競い合ってるわけじゃないんだからいいでしょ。それよりも、西町奉行ってあの建物でいいの?」
忠春は左斜め前にある建物を指差した。
「あれは東町奉行所。昔はあれが大坂町奉行所だったんだ。そう考えると西町奉行ってのは大した役割じゃないのかもしれませんね」
「一応、あんたも西町奉行所の一員なんでしょ? まぁ、別にいいんだけどさ……」
平八郎はムスッとしながら話す。忠春は再度ため息をついた。
よくよく考えると、品川宿での初対面から平八郎はこんな調子だ。忠春と衛栄が口を開くたびに平八郎は噛みつく。
「……悪かったわよ。品川ではちょっとやり過ぎたって思ってるからさ」
「え、ええ。俺も言い過ぎたと思ってますよ。どうか、ここは一つ勘弁してくれませんかね」
「江戸の田舎者に馬鹿にされて黙っていられると思いますか? 仮に忠春様が私の立場だったとして下さい。意気揚々と仕事に励もうと思った矢先、体が小さいからということで、初対面の人間に散々にコケにされた上で仲良く仕事をしようだなんて思われますか?」
元をただせば忠春らに非がある。それも全面的にだ。
「ま、まぁ、それもそうなんだけどさ……」
忠春と衛栄は頭を下げるが平八郎の機嫌は直らない。それどころか、平八郎は腕を組んでそっぽを向いてしまう。更につむじを曲げてしまった。
ぐうの音も出ない二人が顔を見合わせていると、義親が助け舟を出した。
「まぁまぁ、平八郎殿も落ち着いて下さい。あの二人だって悪気があったわけじゃ……」
「……そうなのか。義親殿がそう言うのであればそうなのかもしれないな」
「うわ、簡単に納得しちゃったよ」
義親のひと言で簡単に許される。この女はよく分からないと忠春は思った。それに、さっきまで蹲っていた衛栄も謝ってはいたが平八郎にすかさずつっこみを入れた。
「やかましい! 最初は屋敷だ。ほら、さっさと付いてこい!」
顔を赤らめた平八郎は、衛栄に再び鳩尾に鋭い突きを食らわせた。
○
忠春の屋敷は西町奉行所に併設されていた。
というよりも、屋敷の中に西町奉行所があるといったほうがいいだろう。
「それで、ここが忠春様の屋敷になります。詳しいことは義親殿にお聞きになればいいでしょう」
「ありがとう。後で奉行所も案内してちょうだいね」
「分かりました。私はこれで失礼します」
忠春は平八郎に礼を言うも、素っ気なくして平八郎は奉行所へと去って行った。
平八郎の小さな背中を見送ると、忠春は荷物を下ろして一息つきながら縁側に腰を下ろした。
小さな中庭の中心には梅の木が一本ある。外桜田の屋敷のように桜の木は無い。
「やっぱり落ち着かないものね。こうやって縁側に腰をおろしても見られる風景も全く違うし」
「そりゃぁそうでしょうよ。ここは江戸じゃなくて大阪。生活においても仕事においてもここが本拠地になるんですからね」
江戸では西大平藩の屋敷に住み、江戸城内の奉行所へと通っていた。それに、江戸は生まれ育った地なので土地勘もある程度あった。
それが、大阪に移ったということは、生活の周期も、行動範囲も何もかもが変わるということだ。忠春もある程度分かってはいたが、目の前に佇んでいる裸の梅の木を見て改めて思い知らされた。
「……そういえば、アンタもここに住むのよね。私の内与力って名目だし」
「ええ。私だって忠春様と同じ気分ですよ。一応ですけど屋敷もありましたからね。生まれ育った江戸を離れてどうなるんだろうってね」
衛栄は忠春に同情する。西大平から移り住んだ忠春とは違い、幕府開闢以来の江戸ッ子である衛栄もそうだった。縁側に腰を下ろす三人のとりあえずの仕事は、大阪や上方の町名・地名を覚えることになるだろう。
同じように座っている義親は思い出したように言った。
「そういえば衛栄殿、文殿はどうされたんですか? 女性を江戸で一人残されてきたんですか?」
「確かにそうね。ずっと一緒にいたんだし、寂しくなるんじゃないの?」
瓦版の記者であり、南町奉行所の隠密同心であった屋山文はなにをしているのだろうか。
「止めてくださいよ。お二人の言う通り文とは古い付き合いです。しかし、あくまでもこれは仕事なんです。いままでとは違いますよ」
衛栄はきっぱりと言った。しかし、忠春らの攻撃は終わらない。
「20年余の付き合いもこれで終わりになるのね。ちょっとさびしいんじゃないの?」
「いうなれば私と忠春様が
「ハハハ、お熱いアンタがたお二人さんとは違うんですよ。大岡家を背負う若き女武士の忠春様と、筆頭家老の嫡子である義親殿のような仲睦まじいお二人とはね」
衛栄はからかいつつ嫌味っぽく言う。忠春は思い切り嫌味を言うのではなく、感傷的に言い返した。
「アンタのその言い方はちょっと癪に障るけど、実のところ私も悲しいのよね。文ちゃんって色々と役に立っていたし、話し相手も居なくなっちゃうし」
文はなんだかんだいって、今までの仕事では面倒も掛けられたが役にも立っていた。水野屋敷への侵入や、浅草での隠密働きなどは文の働きが無ければ進展していなかった事件も多い。
それに、奉行所には忠春以外の女性は居なかったので、奉行所内の一種の清涼剤にもなっていたし、忠春にとって同性で気軽に話せる心強い友人でもあった。
「なあに、また別の隠密を雇えばいいじゃないですか。アイツみたいな小遣い稼ぎの隠密じゃなくて本職のヤツですよ。それに、話相手なら私たちがいます。いくらでも付き合いますって」
「……うーん、栄ちゃんの言うことは違うと思うんだけどなぁ。私が思うに屋山文ってのはもっと重要な存在だと思うよ?」
「確かにね。隠密って仕事ぶり以上に文ちゃんってのは私たちの励みに……」
忠春と衛栄の間に聞き慣れた声がした。恐る恐る縁側に座っていた三人は後ろを振り向いた。
「ちょ、なんでアンタがここに!」
「へへへ、はつちゃんに衛栄、大阪まで来ちゃったっ!」
背後にいたのは話題に上がっていた張本人、屋山文だった。舌を小さく出して忠春らに笑顔を振りまく。
衛栄は開いた口が閉まらない。指を指したまま小さく震えている。そんな中、忠春がぎこちなく動きながら言った。
「いやいや、なんで文ちゃんがここにいるのよ。江戸にいるんじゃないの?」
忠春は驚きのあまり後ずさる。まるで死んだ祖父母が、盆に蘇ってきたのを見るような目だ。驚きと、恐怖と、ちょっぴりの嬉しさが混じった目。
「そりゃぁ、私も居た方がいいでしょ? さっきもみんなして『文ちゃんが居なくて悲しいよ』なんて話をしてたんだしさ」
文は意地悪そうに忠春に言い返す。さっきまでの話も聞かれていたようだ。三人はぐうの音も出ない。
「……それで、どうやってここまで来たのよ。どうやったって文ちゃんみたいな女の子は箱根を越えられないと思うんだけど」
忠春はため息をつくと、縁側に座りなおして聞いた。
箱根の関所は『入り鉄砲出女』という言葉が示す通り、江戸から女性が出ることが基本的には出来ないようになっていた。お伊勢参りや湯治以外での通行手形の発行は年間に数件しかないような規制っぷりだ。
しかし、文はそんなことも関係ないようにニッコリと微笑んで言った。
「そりゃぁ、政憲ちゃんが許してくれたんだよ。通行手形の手配や推薦文まで直々にわざわざ用意してくれたんだからね」
文は豊かな胸元をまさぐる。深い谷間の奥からくしゃくしゃになった紙切れを忠春に差し出した。
三人は顔を突き合わせて文書を読んだ。確かに許可証はあるし、政憲の推薦文に加えて老中の大久保忠真の印章もあった。
江戸にいる政憲は、こんな風に三人が顔を突き合わせて驚いている様を思い浮かべながら事を運んだのだろう。この三人の状況を見たら、あの嫌味っぽい笑みを浮かべているのかもしれない。
「やってくれるわね。あの男は……」
「さすがは政憲様だな。一杯喰わされたか」
「細かいことはいいじゃない。とりあえずそういうことだからさ。またよろしくね!」
忠春らはため息をついた。また、前みたいな騒がしい日々が起こるのだろうと。
それと同時に、再び頼もしい助っ人がやって来たのだ。縁側に座る三人がため息を付き終えると、一月振りくらいに集まった四人には自然と笑みが浮かんだ。
○
荷降ろしなら屋敷の整理やらを行っていると正午を迎えた。
日は照っていても、季節は肌寒い師走。江戸なら「こんな寒い日にゃ家に籠もってるのが一番」といって大きな通りは閑散としているだろうが、大阪は違う。通りでは絶え間なく人が動き回っている。
武家屋敷の中心にある江戸とは大違いで、やっぱり町人の町なのだと思わされる。そのせいか、町人の賑やかな声は奉行所の中まで届いてきた。引っ越しに関しては北斎の言う通りだったのかもしれない。最初は(心が)痛かったり、(知らない土地で)怖いかも知れないが、二回目は(新しい環境に慣れて)気持ち良くなるかもしれないし、(引っ越し作業が)クセになるかもしれない。
「お迎えに来ました。今から奉行所を案内いたします」
そんな新鮮な風景を楽しんでいると、忠春らの居住場所に平八郎がやって来た。
一応は打ち解けたとはいえ、平八郎は無表情。感情の一切を押し殺している。
「ご苦労さま。私たちの準備は出来ているわ」
忠春は立ち上がると平八郎の所に向かおうとした。が、平八郎は一名いる見慣れない顔に気が付いたようだ。
「その、忠春様の隣にいる女性は何者ですか?」
仕事感まる出しの平八郎だったが、初めて顔に感情を剥き出しにする。見知らぬ人への警戒心十割増しくらいの顔で文を睨みつけた。
二人の邂逅を傍から見ている忠春らでさえ、平八郎が文へと敵愾心を剥き出しにしていると分かった。文もその表情を受け取ったようで、いつにもまして嫌味っぽく言い返す。
「うーん、私もぉ、目の前にいる胸の平たい子供が誰だか分からないなぁ…… 成長も遅いみたいだしぃ、はつちゃんさぁ、どうなの……」
「こ、子供だとぉ……?」
忠春はすぐさま文の背後に回って口を押さえた。やってしまったと言わんばかりに衛栄は頭に手をやり、義親は深いため息をつく。
「いやいやいやいや、違うから。子供なんて言って無いよ。ね? 文ちゃん?」
「う、うむむむむっ!」
口を押さえられた文は何か言いたそうにしているが、忠春の両手で押さえられているのでモゴモゴとしか言えない。
「ほらさ、この子もこう言ってるから。ちなみに女の子は屋山文。江戸で瓦版の記者をやってたの。色々あってこっちに来てるのよ」
「……そうですか。別に誰を連れてこようが私の知ったことではありません。他のものの迷惑にならないようにお願いします」
平八郎は文を蔑むように見つめると足早に歩いて行く。三人はため息をついた。
「ふぅ、なんとかなったわね」
「ええ。無益な喧嘩にならないで済みました」
「そうだな。しかし、アイツのあの物言いはどうにかならないのか」
衛栄は平八郎の背中を眺めながら言う。一応は仲直りをしたはずだ。しかし、平八郎は依然として敵愾心をむき出しにしている。
「品川での喧嘩云々というよりも、江戸から突然やって来た私たちへの当てつけですよね。よそ者に対するアレですよ」
「城中で話したりした上方の諸大名は、もっと気さくな人たちばかりだったんだけどね。色々と難儀しそうな気がするわ。一つ、大きな手柄でも立てて器の大きさを見せなきゃダメかもしれないわね」
「……そんな手がらが降って湧いてくるわけ無いじゃないですか。忠春様がいちばんご存知でしょうよ」
三人は再びため息をつくと、そそくさと歩く平八郎の背中を追った。
○
西町奉行所の大広間には30名ほどの与力・同心が集まっていた。
江戸と年齢層は変わらない。服装だって大した変わりは無い。
「私が新しくやって来た大岡越前守忠春よ。よろしく頼むわね」
簡単に挨拶をすると拍手が巻き起こる。自然な光景だし、平八郎の様な憎悪が渦巻いているという訳でも無い。
色々と厄介になりそうなのは平八郎くらいのものだった。
「それじゃ、仕事に戻っていいわよ。今日も頑張ってちょうだい」
忠春が号令すると与力達は一斉に持ち場に戻って行った。仕事に対する熱心さも江戸とは大して変わらない。少々拍子抜けしてしまう。
そんな所に平八郎が話しかけてきた。
「一つ言い忘れたことがあります。忠春様、明日、奈良に行ってもらいます」
「な、奈良って、あの寺とか大仏のある奈良?」
「そうです。寺とか大仏のある奈良です」
忠春はあんぐりと口を開ける。平八郎は言葉を続けた。
「さっきも言いましたが、大阪西町奉行は大きいんです。上方一帯の訴訟ごとを請け負うこともありますので、それを知ってもらおうっていうことです」
「いや、それは私も知ってるわ。でも、奈良って奉行所もあるし、代官所もあるわ。そもそも国だって違うんだから関わる必要なんて無いんじゃないの?」
奈良にだって奉行所はある。それに、町奉行所は基本的に寺社絡みの事件は取り扱わない。
「不思議なんですよね。奈良って京都所司代の管轄下なんですが、たまに大阪にも訴状が持ち込まれるんです。そうなったら裁くしかありませんからね。そういう臨機応変な所も上方風味です」
「……単にアンタ達の仕事が適当ってだけなんじゃないの?」
忠春は小さくつぶやいた。平八郎は気にしないで言葉を続ける。
「長旅でお疲れだと思いますが、江戸から大阪を歩かれたんです。ソレに比べれば大した距離じゃありませんよ。それと、今回の奈良行きは物見遊山ってわけじゃありません。れっきとした仕事ですよ」
平八郎は微笑んだ。横にいる義親と衛栄の二人と顔を見合わせると忠春は息を吐く。
「……何一つ納得できない説得だけど、仕事なら仕方ないわね。分かったわ。明日は頼んだわよ」
仕事なら仕方が無い。忠春は了承した。
ただ、もしもこれを言ったのが義親や衛栄だったらはっ倒していただろう。それに、仕事を重ねれば平八郎とも打ち解けることが出来るかもしれない。そんな希望も持っていた。