木枯らし西に吹く
その翌日、荷物を引っ提げて江戸を後にしようとした朝。忠春の外に出ると、見覚えのある顔が揃っていた。
筒井政憲、森好慶、伊藤忠景、小田国定といった奉行所の面子に、遠山景元・佐々木秋・千葉周作など、事件で色々と関わった人間が忠春の方を見つめる。
「……こんな朝早くからご苦労様ね。別に来なくたって良かったのに」
忠春はわざわざやって来た連中を見るとイジらしく言う。
来てくれと言った訳では無い。突き放すような言葉を浴びせた忠春だが、その内心は全く違うものがある。
そんな忠春の心を見破ってか、千葉周作はケラケラと高笑いをして腕を組んで言う。
「ハハハ、心にもないことを言わないで下さいよ。私たちは忠春様にお世話になりましたからね。最後に顔を出さない訳にはいかないでしょう」
「姉御の門出ですからね! 俺たちが来ない訳ないじゃないですか」
景元も同様にケラケラと笑って言う。
「……お見通しって訳ね。それにしても、これだけの人が集まると、今まで色々なことをやって来たって感慨深くさせてくれるわね。なんとも……」
北斎と双璧をなす絵師の歌川豊国とその弟子歌川豊重、幕府天文方の高橋景保と渋川景佑、数寄屋橋にある信州問屋山が屋の主人など、事件に関わった人々が忠春のことを見つめていた。
忠春はそう言いながら周囲を見まわした。そんな中、名前がパッと出ない妙齢の女性が隅の方でポツンとたたずんでいる。。
「お久しぶりです。大岡忠春殿」
カラスのように真っ黒な羽織を着た背の高い女性は下を向いて小さく咳をすると話しだした。
「アンタは、確か……」
「何度かお目にしたことがあると思いますが、私は佐嶋忠介。火盗改方の次席を賜っております。此度は長谷川宣冬様より書状をお渡しにということで参りました」
南町奉行所と競い合ってきた火盗改の登場で、場がざわつき始めるが、そんなことは露知らずと、佐嶋は涼しい顔つきのまま忠春の面前に歩み寄って一通の文書を差し出した。
忠春が封筒を確認する。表には「大岡越前守忠春殿」、裏面には「長谷川平蔵宣冬」と太字で書かれている。
「の、宣冬から?」
佐嶋は黙って頷くと忠春に書状を手渡す。
どんなことが書いてあるか期待の念と、嫌味でも書いてあるんじゃないかという疑惑の念の半半を抱えた忠春は、書状を受け取ると封筒を破って中身を読んだ。
内容は酷く簡潔だった。
――江戸で待つ
両腕をいっぱいに広げられるくらい長い紙の中央に、上の五文字のみが書かれている。受け取る人によってなんとでも取れる不思議な言葉だが、宣冬と向かい合ってしのぎを削り合った忠春にはその真意が伝わった。
「と、いうことだそうです。私はこれで失礼いたします」
「……待ちなさい」
集まった人々が書状に釘付けになっている中、佐嶋は宣冬とよく似た涼しげな笑みを浮かべると屋敷前から立ち去ろうとする。しかし、忠春は佐嶋の肩を掴んでそれを引きとめた。
「宣冬に返事を伝えてちょうだい。それは……」
周りの視線が今度は忠春に集中する。
ニヤリと口角を上げると忠春は言った。
「”当然よ”ってね。よろしく頼んだわよ」
「はい。承知いたしました」
佐嶋も忠春と似たように微笑むと、再度頭を下げて屋敷前から立ち去る。
艶のある長い髪を、馬の尾のように結った髪を揺らしながら颯爽と歩く佐嶋の姿を眺めると、忠春は横にいた義親に話しかけた。
「そういえば、アンタも色々と世話になったんだから、何か宣冬に伝えないでいいの?」
「私は忠春様の家臣ですからその必要はありません。それに……」
「それに?」
義親は苦笑しながら自身の懐から封筒を取り出した。
「色々ともらってますから。読むのが本当に大変でしたよ」
「……色々と大変なのね」
パンパンに膨れ上がった封筒は開けなくても分かるくらいにぎっしりと書きこまれており、黒々とした文字が透けて見える。さながら呪詛を書きこんだ呪いのお札だ。
そんな超大作が五本もある。忠春も同様に苦笑した。
「……忠春様、いいでしょうか」
「どうしたのよ忠景、アンタから声を掛けて来るなんて珍しいわね」
背後から忠景らがやって来て話しかきた。
「……お渡ししたいものがあります」
「へぇ、何なの?」
忠景は無言のまま、二尺ほどはあろう紫色の細長い布の包みを手渡す。
さらさらと忠春は布の包みを開ける。中には真っ白な脇差が一振あった。
「……これは、刀ね」
「はい。忠春様のために我々が金を出しあって拵えさせました」
白漆の鞘を抜くとキメの細かい小糠肌の刀身が鈍く光った。
反りは小さく、並の脇差の倍はあろう太さの割には切先は長い。つちのこのようにずんぐりとした形の刀だ。それは、華美で流行の正宗や虎徹のような刀に比べると数段地味な刀になる。
「簡素な造りなのね。柄や鞘、鍔も地味だし」
「やっぱり手厳しいですね。この脇差は同田貫です。派手な刀より、実用的な物の方がいいと思いましてね」
刀を手にして眺める忠春に、好慶が説明を加える。
同田貫は簡素な装飾の無骨な刀だが、切れ味は当代一とうたわれている剛刀で、江戸という平穏な時代に似つかわしくない刀ではある。しかし、荒事も対処する町奉行という役割の忠春にとっては最適な刀であった。
「大事に使わせてもらうわ。まぁ、刀を振るう機会は無いに尽きるんだろうけどね」
「ま、まぁ、そうですよね」
忠春の言葉で笑いが起きた。このようなくだらない話をするのも当分のお預けだ。
好慶が苦笑を浮かべていると、刀を渡し終えて一歩下がっていた忠景が頭を下げて言う。
「今まで世話になりました。武運長久を願っております」
背後に控えていた与力達も同様に頭を下げた。
その中には小刻みに震えるものや、小さく嗚咽をはなつ者、堂々と大声を上げて泣くものもいる。真冬らしからぬ暖かな日差しとともに、奉行所の熱が忠春へと伝わった。
「……ええ。私も同じように助けられたわ。ありがとう。当分の間、アンタたちに江戸は任せたわよ」
南町奉行所での二年間。それは短いようで長い期間だった。取っ組み合いもしたし、共に協力をして事件に取り掛かってきた。
死ぬわけではないが、奉行所での日々が走馬灯のように忠春の脳裏に浮かび上がる。忠春の眼に涙がうっすらと浮かんだ。
「忠春様、ちょっといいですか」
「……何よ。こっちは感傷に浸ってるって言うのに」
そんな感慨深い気分を遮られて、忠春は不機嫌そうに涙でぬれた目を擦りながら言う。
「今回の異動、どのような意味を持っているか分かってますか?」
「……それくらいのこと、私だって理解してるわよ」
忠春は鼻をすするとさらさらと答える。
「水野忠邦の監視でしょ? アイツだってバカじゃないし、これくらいのことで折れるようなタマじゃないしね」
「そうですか。お分かりでしたら私がとやかく言うことなんて……」
政憲はその場を立ち去ろうとするが、忠春は袖を掴んで引きとめる。
「そんなことを思って衛栄を寄こしたんだろうけど、アンタこそ寝首を掻かれないように気をつけないさいよ」
「ハハハ、それもお見通しでしたか。そうですね。気をつけます」
いつか見せたような笑顔を政憲は見せた。思えば、政憲とは二年近く付き合いになる。忠春の側につき従い、助言を与えて事件を解決に導いてきた。
そう考えると、再び涙腺が緩み始めるがそんなことも言っていられない。
「……まぁいいわ。アンタも潰されないようにしっかりやりなさいよ」
「ええ。忠春様もお元気で」
忠春と政憲は固い握手をかわした。
季節は巡るし、陽はまた昇る。必ず江戸に戻ってきて忠邦の鼻をあかしてやろうと、忠春は静かに意気込んだ。
○
夕暮れ、大勢に見送られて江戸を発った忠春主従は品川宿にいた。
江戸の外れに位置する東海道二番目の宿場町の品川は、江戸の玄関口ということもあって江戸以上の活気を持っていた。旅装の旅人に大名行列、早い時間から酒を飲み交わす男達の喧嘩騒ぎや飯盛女の強引な客引きなど、旅籠の二階から街道筋を見ていても飽きが来ない。
「この旅籠に迎方与力がやって来るんでしょ?」
「ええ。その予定になってますね」
義親は大阪から送られてきた文書を再確認する。横から忠春も覗くが、確かにこの日の夕暮れにこの宿で迎方与力と落ち合う予定と書かれている。
「やっぱり海はいいですね! 見てるだけで心が躍って来ますよ!」
その横で外を眺める衛栄が大声でいいだした。
「ったく、呑気なものね。アンタもぜひともお願いしますなんて言うんだったら、海ばっかり見てないで義親と協力して迎方与力を探しなさいよ」
「そんなことを言われても、私は迎方与力の顔なんて知りませんよ?」
忠春は毒づくも、衛栄は苦笑しながらうまく交わした。忠春は深くため息をつくと言葉を続けようとした。
「義親、衛栄と一緒に外を見て……」
その時だった。襖の向こうでドタドタと階段を上って来る大きな音が聞こえる。
「な、何?」
「……忠邦の手のものかもしれませんよ」
忠春らは、すぐさま腰に差した刀に手を置いて臨戦態勢を取った。
「困ります! この部屋に許可なく人を通すなと」
「ふ、ふざけるな! 私はれっきとした幕府の役人だぞ!」
どうやら襖の向こうの様子がおかしい。
旅籠の主人であろう中年男の声と、甲高い女性、女の子の声が襖を通して聞こえてくる。
「だったら証明してください! ましてや子供などが幕府の役人など……」
「あ、あああ! 今、”子供”って言ったな? 許さない、絶対に許さないぞ!」
それも、かなり荒れているようだ。忠春は衛栄に目線を送って小さく話しかける。
「……衛栄、アンタの出番よ」
「……ええ。ちょっと待ってて下さいね」
衛栄は刀を静かに抜くと、素早く左手で襖を開くと刀を構えた。
大きな音を立ててながら開いた襖の奥には、恰幅の良い旅籠の主人に飛び掛かる背丈の低い女の子がいる。
「……なんだ、子供が紛れ込んできただけなのか」
「どうしたんですか? 道にでも迷われたんですか?」
衛栄は脱力して刀を鞘に納め、義親は女の子に警戒されまいと必死の笑みを繕って近寄った。
「ば、馬鹿にするな! 私は大阪西町奉行与力、泣く子も黙る大塩平八郎だぞ!」
「いやいや、そんなこと……」
忠春は失笑しながら大塩と名乗る女の子の頭に手を置いた。
「だって、こんな小さい女の子よ? どう考えたって子供でしょう」
「そうだそうだ。可愛らしい女の子だけど、背も低けりゃ胸も小さいんだぜ? 考えられねえよ」
「ああああ! また”子供”って言ったな? もう許さないぞっ! 何を言われたっていい。叩き斬ってやるっ!」
大声を上げて笑う二人の横で、背丈五尺に満たない小柄な女の子が刀を抜こうと張り切る。
「た、忠春様、この子が迎方与力ですよ」
「ちょ、じょ、冗談きついから」
「いや、本当ですって」
義親が二人を諭すも、忠春と衛栄は笑いながら転げまわって相手にしない。
呆れかえった義親は忠春に西町奉行から送られた書状を差し出した。忠春は迎方与力について書かれた場所を朗読する。
「……ええと、迎方与力、大塩平八郎正高。背丈は五尺ほどで、茶色い目をした女性。髪は焦げ茶色で肩よりも長く、朱鞘の太刀と脇差を差す……」
忠春と衛栄は書状の通りにふくれっ面の女の子を確認する。大塩平八郎と名乗り、背は衛栄と頭一つ分くらい低い五尺ほど。からかわれて涙を浮かべた目は茶色く、部屋で優雅に動き回った髪は焦げ茶色。そして、手にした刀の鞘は間違いなく朱色だった。
青筋を立てて新任の奉行を睨み付ける女性こそが、大阪西町奉行所迎方与力の大塩平八郎正高。その人だった。
「ふ、ふふふざけるなぁっ!」
木枯らし西に吹く(完)