二股の木
「それで…… これからどうするの?」
根津からの帰り道、時間が経つにつれてコトの重大さが忠春の身に重くのしかかってきた。敵は時の権力者水野家である。忠春が暗い表情をして言う。
「さっきは『水野の鼻を空かしてやる!』なんて調子のいい事言ってたじゃないですか」
義親はため息交じりにそう言う。
「うるさいわね義親! それはそれ。これはこれじゃないの」
「はぁ、そうですか……」
忠春は義親にその通りのことを言われて露骨に機嫌を損ねる。
こうなってしまっては忠春は手がつけられない、義親はどうしようか戸惑っている。
「まあまあ、落ち着いて下さい忠春様。とりあえずこの水野家の家紋が入っている財布がこちらの手にある以上水野家が関わっているのはほぼ確かでしょう。まあ水野と言っても監物殿や日向守殿もいますけどね」
政憲が苦笑しながら言う。
「何よそれ、それじゃ忠邦の鼻を空かせないじゃない」
「まあ落ち着いてくれよ。経験から言って家中の者が江戸で幅を利かすのは監物家くらいなもんだよ。前にも似たような事件があったしな」
ふくれる忠春に衛栄が助け船を出す。
「何よ、なんでわかんのよ」
「忠邦なんてのは所詮成り上がりだからな。忠成の威を借る狐ってなもんだよ。そういえば忠成って知ってるよな?」
少し意地悪く笑いながら忠春に聞く。
「……老中の人でしょ?」
「そうそう。定信公亡きあとの時の権力者だ」
「ったく、バカにしないでよ、それくらい知ってるわよ。」
忠春は衛栄の肩を小突く。
「ハハハ、冗談だよ忠春様。からかっただけだって。そうですよ、今の老中が水野忠成だよ。大きい声じゃ言えないが、こいつも忠邦と同じく金でのし上がった男でね、と言っても忠成が元祖だがな。ほんとに汚い男でな……」
「あんた、大きい声じゃ言えないって言いながら十分声がでかいじゃない。ほんと馬鹿じゃないの?」
ただでさえ大柄で顔も覚えられやすい衛栄である。事実とは言え、さすがの忠春でも現役老中の悪口を大声で話す衛栄の調子には苦言を呈さざるを得なかった。
「ハハハ、そりゃすんません。昔から大声で、こればっかしはどうしようもねえや」
衛栄はそう言いながらケラケラと高笑いをしている。「何か隠密の任務があった場合には絶対に連れて行かない」そう衛栄以外は感じていた。見かねた政憲が代わりに説明をする。
「仕方ありませんね。私が説明しましょう。忠邦殿と違い、忠成様はしたたかなんです。家中の統率がしっかりととれています。その点では忠邦殿は大きく劣っています」
「『したたか』ねぇ…… 確かにそれは厄介なのかもしれないわね。でも、忠邦も結構やり手だと思うけどどうなのよ」
「私が長崎奉行時代の五年ほど前は唐津藩は忠邦殿が治めていました。そこで家臣が諌死する事件が起きましてね。唐津と長崎はそんなには遠くないので情報がよく入って来たので」
「そう言えばそんな話を父上に聞いた事があるわ」
忠春も思い出して言う。
「確か、唐津藩の家老が移封をやめてもらう為に諌死を選んだって話よね」
「ええ、それが『真実』ならばそうですね」
政憲は含みのある言い方をして言う。
「……何よ、諌死じゃなくて忠邦が暗殺でもしたって言うの?」
「ええ、私はたぶんそうではないかと思います」
驚く忠春を横目に政憲は静かに語った。
「ええ、確かに忠邦様ならやりかねませんね」
好慶もそれに同調する。
「その城代というのも家中でも慕われている男だったという話なので、そんな彼が死んだ後はどうなりますか? 当然、纏まりは無くなります。例え本当に諌死したとしてもですよ。それに、死んだ老臣は報われずに結局移封しましたからね」
「それでそのあとに重用されたのが他家の鳥居なんていう名も無い人ですからね。火に油を注いだようなものです」
政憲や好慶が話す内容に忠春は委縮してしまった。兄上を差し置いて武士となった私はどうなのだろうか。江戸屋敷内で不穏な動きがあるかもしれない。忠春は心配になったのかいつになく義親に弱く尋ねる。
「……水野家も一枚岩では無いのね。うちは大丈夫よね、義親」
「安心してください忠春様。忠移様や忠愛様以下、家中は安泰でございます。それに、いざとなれば私が付いております」
「……確かにそうよね。あんたが付いているもんね」
忠春の手を取り、忠春を見つめていつになく真剣に熱く語る義親の姿に、忠春は俯き照れてしまい赤くなっていた。目には涙も溢れそうになっている。
「おうおう、お熱いねえお二人さん。こりゃ俺たちは邪魔ですかねえ、ハッハッハ」
衛栄は茶化し、すたすたと前を歩いて行った。忠春は直ちに素の状態に戻り衛栄を睨みつけ、
「あんたなんか死罪よ!」
そう叫び拳を握りしめながら衛栄に飛びかかる。
「ハハハ、いや、冗談ですって、ほんと。いい場面だと思いますよ? 歌舞伎にもありそうなよい場面でした。茶化してごめ……」
そう言いながら衛栄が忠春の方へ振り返ると、飛びかかった忠春の拳が、衛栄の顔面正面に見事に決まる。ただその場で殴るのではなく、助走をつけた分忠春の拳は威力を増したようだ。
「ゴシュ」っという音と共に衛栄の顔から血飛沫を上げ六尺の巨躯が地に伏した。
「さあ、ごめんなさいは?」
忠春がキッと衛栄を睨みつける。忠春の迫力は凄まじいものだった。周りを歩いていた通行人達の足も一斉に止まり、小さな子供は泣き出した。誰もが忠春一行を見ている。
「……ごめんなさい」
衛栄は鼻から血を出しながらそう呟く。忠春の繰り出した拳は相当の物だったようで、その後衛栄は半刻ほど気を失う羽目になる。
○
衛栄が気を失っている最中、高輪の水野家屋敷も荒れていた。
「根津の遊女を殺しただぁ? てめえは何勝手な事やってんだよ! これで何人目だ?」
普段は穏やかな表情をしている忠邦だったが、青筋を立て近くにあった花瓶を手に取り叩きつける。夕暮れの江戸湾を背景に、陶磁器の割れる音と忠邦の怒号が屋敷中に響き渡る。屋敷の空気が凍った。
「た、忠邦様、お赦し下さい」
「お前みたいなクズの所為で俺に傷が付いたらどうすんだよ? ああ?」
「あの遊女が悪いんです。私の事を腑抜けだと馬鹿にしたからに……」
男は俯き、肩を震わせながら答える。忠邦は男の胸ぐらを掴んで引き立たせた。
「先任の荒尾には手を回してやってたから何とかなったけど、あのガキにはそうはいかないって理解できねえのか? てめえは何年ウチに仕えてんだよ。なぁ、それくらい学べってんだよ!」
「いや、でもあの遊女が……」
「んなことは知ったこっちゃねえんだよ。話によりゃ俺がやった財布も落としてきた様じゃねえか? 奉行所に尻尾つかまれるような真似しやがって。家紋の入ってる財布を見りゃよぉ、誰がやったかバレちまうだろ! っクソ!」
忠邦は平伏せる男に容赦なく罵声を浴びせる。
「忠邦様、平にご容赦を……」
「他の幕府の爺連中なら金でどうにでもなるが、クソっ! あのガキだけはどうしたものか……」
普段の綺麗な顔とは大違いである。目を剥き、頭を掻きむしり壁を殴る。普段の丁寧な口調とは違い、これまでかというくらいに罵声を浴びせる。完全に取りつく島など無い。周りに控える家臣はうろたえるばかりだった。
そんな中、一人だけがいきり立つ忠邦の前へと進み出た。
「まあまあ忠邦様、それぐらいでよしましょう。私に妙案がございます」
「ああ? なんだ耀蔵か。何かあるのか」
耀蔵は微笑みながら言う。
「ええ、ございますよ。早い話がこの男と縁が切れればよいのですよ。なので、さっさとこのクズに暇を出して当家の責任の所在を無くしましょう。幕閣連中は我らの手の物ですので、当家の名声には傷はつきません。かえって罪人を即刻処罰したとして良い評価が下るのではないでしょうか」
耀蔵の言葉を受けて、忠邦の気持ちも徐々に落ち着いてゆき普段通りの穏やかで涼やかな顔つきに戻った。
「確かにそうだな。ええ。耀蔵の言うとおりです。義貞、あなたはクビです、明日奉行所へ引き渡します。長いお勤め御苦労さまでした」
「……ははっ」
必死に頭を下げていた男の名は二本松義貞という。先の唐津藩から浜松藩へと転封の際に諌死したのは彼の父の二本松義廉である。平素から父を尊敬していた義貞は、この事件の後も努力をし水野家の年寄にまで出世をしていた。
「さあ耀蔵。ついてきなさい。一晩私につきあってもらいます」
「はい。耀蔵の幸せは忠邦様の幸せでございます」
冷たい表情の耀蔵とは打って変わって、忠邦に満面の笑みを見せそう言う。目の前では怒りに肩を震わせながらじっと一点を見つめる義貞がいる。腰に手を回し体を密着させながら忠邦の部屋へと去る耀蔵がこの視線に気が付き去り際に耳元で囁く。
「あなたの一族はみんなそうですね。無能が幅を利かして犬死にする。良かったですね尊敬する父上や御先祖様と同じ死に方が出来て」
耀蔵は耳元で囁き振り返る義貞に満面の笑みをする。怒りに肩を震わせる義貞を尻目に歩いて行く。
「どうしたのですか? 耀蔵」
「いえ、なんでもありません。あんなクズにかける言葉なんて御座いませんよ」
「ははは、そうですか」
忠邦に微笑み耀蔵がそう言うと、二人はその場を去っていった。
「何を見てるんだ。ほらっ、さっさとこっちへ来い」
荒々しく水野家中の者に連れられて蟄居部屋へと移された。移送の最中に義貞は呟く。
「何もかもが馬鹿らしい。下らない忠義など糞喰らえだ…… だったらいっそのこと……」
用語解説
『水野家中屋敷』 地味そうだけど実は地味じゃない屋敷。忠臣蔵で捕まった一部の人たちはここに預けられたからちょっとは有名。やっぱ地味でした。
『水野忠成』 老中。水野忠邦を引き上げたのはこの男(多分)。こいつも賄賂で出世をする。
『二本松義廉』 水野家の家老。忠邦の転封を押し留める為に諌死をする。暗殺云々は作者の妄想です。でもそうとともとれるよね。ちなみに伊達政宗の父親を誘拐し、一緒に死んだのはこの人の御先祖様。歴史ってすごいね。