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女奉行捕物帖  作者: 浅井
木枯らし西に吹く
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門出

 忠春は奉行所に戻った。

 昨日と同じように南町奉行所前で奉行所の者たちが集まっている。しかし、今度は様子がおかしい。

 数十本の刺又が天高く伸び、日の落ちかけた奉行所前を引っ提げた提灯が明るく照らす。外にいた与力・同心は臨戦態勢を揃って取っているのだ。


「な、なんなのよ、あれは……」

「ハハハ、なかなか面白い光景ですね」


 昨日、忠春は南町奉行所を解任されるといった以外に特に言い聞かせることも無く奉行所を去って行った。それに、忠景らがあんなに自らの気持ちを吐きだした経緯がある。

 そもそも、忠春が奇蹟的に大阪西町奉行所への転任を遂げたなど知る由も無い。政憲は笑って見ているが、忠春が異様な光景に頭を抱える。


「た、忠春様が戻ったぞ!」


 奉行所の誰かが忠春を指差して叫んだ。

 それを聞いた与力・同心たちが一斉に振り向くと、わらわらと忠春の元に殺到した。


「忠春様! 私どもの覚悟は出来ております!」

「さ、さぁさぁ、下知をしてください!」


 黒羽織の下には鎖帷子を着込んでいる。それに、誰もが「指示を、指示を!」を顔を真っ青にしてせっついてくる。

 忠春は再び頭を抱えた。


「いやいやいや、幕府に刃を向けるなんて考えてないから、さっさとその得物をしまいなさい」

「そ、それでは、忠春様は……」

「確かに南町奉行所はクビになったわ。でもね、大阪西町奉行所に異動しろだってさ」


 忠春の言葉を聞くと、一様に不安そうにしていた奉行所のものらは一斉に安堵の息を吐いて刺又や刀をその場に置いた。

 目の前にいる衛栄や忠景が同じように安堵の声を上げると、渋い目で見ていた忠春は意地悪く微笑んで言う。


「今のあんた達を処分したっていいんだけど、もちろん冗談よね?」


 刀・刺又などの得物を手にして、完全防備で江戸城に向かって「下知を!」と頼みこむ。たまたまこの日は周りに人がいないから済んでいるが、見られていればただでは済まないだろう。


「じょ、じょじょ、冗談に決まってるじゃないですか。奉行所はいつでも動けるっていうアレですよ」

「演習みたいな?」

「そうです。南町奉行所の実戦用演習ですよ」


 衛栄は寒空の下で大汗をきながら話す。忠春は大きくため息をついて言葉を続ける。


「まぁいいわ。それで、私の後任には政憲がつくわよ」

「そういうことです。今さらですけどよろしくお願いしますね」


 政憲が簡単に挨拶すると歓声が上がった。これまでの捕物では政憲の頭脳が果たす役割は大きかった。

 そのため、奉行所の者らに簡単に受け入れられた。


「奉行所内でも異動とかあるけど、まぁ、基本的には変わらないと思うからそんなに気にしないでいいわよ」

「そうですね。変わるとすれば年番方くらいのものでしょう」


 年番方が昇格して南町奉行になるので、自動的に年番方の席が空いている。


「そりゃぁ、衛栄殿でしょう! 今まで奉行所に尽くされてきたんだ。誰も反対しませんよね?」

「ああ、衛栄殿に決まりだよな」


 奥の方で若い同心が言い合う。政憲も同じように言った。


「そうですね。私も衛栄殿にお願いしようと思ってたところです」

「お、俺がですか」


 衛栄は珍しく恐縮している。六尺ほどの長身がずいぶんと小さく見えた。


「何よ、不満でもあるの?」

「い、いや、そう言う訳じゃないんですが……」


 忠春が聞くと衛栄は言葉を濁す。山男のような姿が河原に転がる小石のように小さくなる。


「……まぁいいわ。この件については改めて告知をすることになるわ。アンタたちはさっさと得物を拾って奉行所に戻りなさい」


 忠春がそう言うと与力たちは得物を拾って奉行所の中に入って行った。だが、一人だけ門前に立ちすくんでいた。


「なによ衛栄、そんな所にいてどうしたのよ」

「いや、いやぁ、忠春様、ちょっとお話があるんですが、いいですか?」


 衛栄は頬を指でかく。


「別にいいわよ。どうしたの?」

「その、年番方の件なんですが、別の人間に頼んでもらえませんかね」


 忠春は驚いて聞き返す。衛栄は下を向いて小さな声で答えた。


「その、私も大阪に連れて行ってほしいんです」

「は、はぁっ?」

「わわ、私では不満ですか?」


 衛栄は柄にもなく頬を染めた。まるで子供の告白だ。無精髭を生やした三十近いむさいオッサンに告白されて喜ぶ趣味は忠春に無い。

 とはいえ今の状況は甘酸っぱくなど無い。忠春は真意を確かめるべく話を聞いた。


「いや、そういうんじゃなくてさ、なんでなのよ。なんでアンタが大阪に来たがるの?」

「二年前に忠春様が町奉行としてやって来た時、正直言って全く信頼してませんでした」


 静かに衛栄は語る。忠春は何か言い返してやろうと思ったが、相手はいつもの衛栄では無い。笑みを見せることも無く淡々と語る姿を見て、言葉を押し殺した。


「忠春様は知っているかは知りませんが、前任の荒尾様が突然辞められて混乱していた時に忠春様が来たんです。まともな人が来るものだと思っていたのに、こんな小娘を寄こすなんて何を考えてるんだとも思いました」

「……ずいぶんな風に思われてたのね」

「しかし、着任されて早々に”水野忠邦を絶対に倒す”って宣言されたじゃないですか。その時に思ったんですよ、忠春様はとんでもない大器だって」

「そういえばそんなこともあったわね」


 忠春は昔を懐かしんだ。とにかく忠邦のやり口が嫌で嫌で仕方が無かった。それは今でも変わらない。


「立て籠もりの時だってそうです。普通であれば人数を掛けて押し込むのが常道でしょう。しかし、忠春様は私を指名してくれた」

「それは、捕まったのは文ちゃんだったし、アンタが絶対に成功させるって言ったから……」

「そこなんです。会ってばかりの部下を信頼する。そんなことは普通出来ません。本物の大器ですよ」

「その言葉は大変に嬉しいんだけど、ちょっと買いかぶり過ぎじゃないの?」


 内心では飛び跳ねるほど嬉しい忠春だが謙遜する。しかし、衛栄の言葉はさらに熱を帯びはじめる。


「そんなことはありません。忠春様のお陰で私は昔の思いに踏ん切りが付けられた。そう思ってます」


 衛栄の真剣さは十分に伝わった。ここまで言われて嬉しがらない者はいないだろう。

 それよりも、忠春は不穏な影を見逃さなかった。


「……聞いてるんでしょ、早く出てきなさいよ」

「ハハハ、気がつかれてましたか」


 奉行所の門の裏から頭に手をやって苦笑いを浮かべる政憲が出てきた。

 忠春は呆れ顔のまま政憲に聞く。


「政憲はどうなの? さっきは私に合わせて適当に"年番方にしたい"って言った訳じゃないんでしょ?」

「そりゃ当然ですよ。私だって衛栄殿に助けられた場面が多々ありました。それに、他の与力や同心からの信頼も篤いですからね」


 政憲は笑顔を見せてうなずいた。言ったことと同じようなことを忠春を感じていた。信頼もあるし、経験もある。それに政憲の前任の年番方だったのはこの男だ。選ばない理由は無い。

 忠春は衛栄の顔を確認する。

 困った子犬のように眉をハの字に曲げて哀願するように忠春を見つめた。


「……それで、コイツの処遇はどうすんのよ」

「衛栄殿はあくまでも南町奉行所の与力です。本人が行きたいからと言って簡単に動かせるとは思えません」

「……そうですか」


 主人に叱られた子犬のように衛栄は体を小さくする。だが、政憲の言葉は止まらない。


「と言っても、別の行きたがってる人間が年番方になるのは規律の上でよろしくないでしょう。どうしてもというのであれば、忠春様が火盗改にした形を取るのがいいでしょうね」

「……それじゃぁ、当分の間、大阪西町奉行所がアンタの身柄を"借りる"って形でどう?」


 忠春と政憲は微笑んで衛栄を見つめた。衛栄の眼がどんどん潤み始める。


「は、はい! 全身全霊をかけて忠春様に尽くします!」


 衛栄は飛び起きて忠春らに平伏する。下げられた頭の下から嗚咽も聞こえる。


「……なんかアンタに丁寧に接せられると気持ち悪いわね。さっさと普段通りふてぶてしいものいいに戻りなさいよ」

「ハハハ、そりゃすみませんね」


 涙や鼻水でぐしょぐしょになった顔袖でぬぐって、忠春に笑いかける。

 忠春は思わず笑ってしまった。


「それにしても、私も嫌われたものですね。信頼していたのに簡単に忠春様の所に行かれるとは」

「いやいやいやいや、それは、まぁ、その、本当に恐縮です」

「もちろん冗談ですよ。大変惜しいですが忠春様の所で頑張って来てください」

「政憲様や忠春様にここまでしてもらったんです。やってやりますよ!」






 あくる日、忠春らは調度品の整理を行うために神田の町を歩いていた。

 なぜかというと、屋敷で引っ越しするために品物を片づけていたら、予想以上に着物やらなんやらがあることに気がついた。江戸に住んで二十年も経てば当たり前なのだが、これらを捨てるのももったいない。どうせなら神田の問屋で売ってしまおうということになった。

 そんな忠春と義親の元に、猿のようにシワくちゃの顔と禿げた頭をした老人を連れた男女が声を掛けて来る。


「忠春様、今までお疲れさまでした」

「お嬢ちゃんじゃねえか。元気にしてるか?」


 忠春が驚いて振り向くと、よく見知った男達だった。


「久しぶりね北斎先生に善次郎に応為ちゃん。こんなところで何してるの?」

「どうも善次郎さん。お久しぶりですね」元気にしてましたか」

「いやぁ、私どものことを覚えてくださってましたか。忠春様に義親様。お久しぶりです」


 声を掛けてきたのは稀代の天才絵師葛飾北斎に、その愛娘の葛飾応為と数少ない弟子の渓斎英泉こと池田善次郎だった。


「俺か? 俺は引っ越すからな。それに画材も切れちまったから買いに来てんだよ」


 北斎は答える。その手には鮮やかな青色をした鉱石を手にしている。後ろにいる二人も北斎と同様に、風呂敷一杯の絵の具や筆が積み込まれていた。


「へぇ、北斎先生も引っ越すのね。私も引っ越し作業でここにきてるのよ」

「ほほぅ、そうかいそうかい。これで何回目か?」


 忠春は生まれた時から江戸におり、西大平に帰る時は江戸に戻る期限が決められているので一月も滞在しない。

 そう考えると今回の引っ越し作業は忠春にとって、初めての引っ越し作業だった。


「なるほどねぇ、引っ越し処女ってことか。最初は痛かったり、怖いかも知れねえけど、二回目以降は気持ち良くなるかもしれないし、クセになるかもしれないな。気をつけろよ」


 北斎が下品な笑みを浮かべながら目を細めて忠春を見つめる。横にいた義親・善次郎・応為はため息をつきながら北斎を冷めた目で見ている。


「……最初は(心が)痛かったり、(知らない土地で)怖いかも知れねえけど、二回目は(新しい環境に慣れて)気持ち良くなるかもしれないし、(引っ越し作業が)クセになるかもしれないな。って話ですよね?」

「ハハハ、まぁそんなところだ。俺はこれで記念すべき六十回目になるんだ。引っ越し還暦だから気分がアガってるんだよ」

「ろ、六十回って、相当な好き物なのね」


 江戸の人は引っ越しが好きだと誰かに聞いたことがある。だとしても北斎の六十回というのは異常な数字で、忠春は若干引いていた。


「先生は絵を描くことに専念したいんですよ。それに一日に何枚も絵をかかれます。だから部屋を掃除するくらいなら、引っ越そうってことらしいですよ。お陰で私も学ぼうと北斎先生の家に行くと他の誰かが済んでるってことが多々あったんですよね」

「なんとなくわかるけど、引っ越し作業とかの方が手間がかかるんじゃないの? 善次郎みたいな弟子だっているんだから、こき使えばいいじゃない」


 忠春は善次郎の言葉に頷きながらも鋭く突っ込んだ。引っ越し作業は実際に経験している。どう考えても部屋の掃除よりも引っ越し作業の方が労力が溜まる。


「だから細けぇことは気にするなって。一月も同じ街に住んでりゃ、その街の風景は描き尽くしちまってるから、違う風景を見たくなるし描きたくなるもんなんだよ。それが画家の性ってもんだからな」


 北斎は胸を張って言う。


「なるほどね。さすがは絵の鬼、葛飾北斎って所ね」

「ええ。私たちとは見ている世界が違うのかもしれません」


 忠春は北斎のことを偏屈な爺と思っていた節があったが、全てを生活のために生きているのだと考えると、目の前にいる腰の曲がった背の低い下品な老人が偉大な人物に見えてきた。

 義親も忠春と同じように感心していると、横にいた応為がため息をついて北斎を諭す。


「……また嘘ばっかりついちゃってさ。腹が立ったからってそれっぽいことを言うのホントに止めてよ」

「別にいいじゃねえかよ。そう思わせた方がお嬢ちゃんたちだって幸せだろ? それにアイツ完全に信じ込んでたぜ。笑っちまうよな!」


 困る応為をしり目に、北斎は脇では町人らが歩きまわっている中、キャッキャと指をさしながら声を上げて忠春らを笑う。心底楽しいようで北斎の眼から涙が頬を伝う。

 顔を赤くして下を向いていた忠春だったが、北斎が笑い疲れてぜぇぜぇと息を整えている間に手が出た。


「……それにしてもお嬢ちゃんは災難だったな。あれだけ立派にやってた奉行の座を追われるんだからな」


 叩かれて赤く腫れあがった頬を押さえて北斎はいつになく真剣なまなざしで言う。

 南町町奉行交替の話は江戸中に広まっていた。

 話が広まったとからと言って、普段から奉行所がしっかりと仕事をしていたこと、忠春個人の人徳などが合わさって大きな騒動は起きなかった。


「でも次は大坂西町だしやることは一緒よ。それに、後任は政憲だから何の心配も無いわね」

「政憲っていうと、あのキツネ顔の男か。まぁ、当分の間は安心出来るだろうよ」

「意味深なことを言うのね。どういうことなの?」


 忠春は北斎を鋭く見つめる。だが、北斎は軽く笑って受け流した。


「大した意味はねえさ。忠之一人が去った所で第二第三の忠之が生まれるだろうってことさ。分かってると思うがな」

「……そんなことは重々承知よ。それに、幕府だって手をこまねいているはず無いから、アンタたちも安心しなさい」


 北斎は薄く微笑むと頭を下げる。


「釈迦に説法だったよな。向こうでも頑張ってくれよ、忠春さんよ」

「ちょ、今なんて……」

「じゃぁなお嬢ちゃん。大阪に遊びに行った時は相手してくれよ!」


 北斎はケラケラと笑いながら忠春らの元を後にした。善次郎と応為は忠春らに一礼して北斎を追って行く。

 それからして古物商との商談を済ませると、忠春らも屋敷に帰って戻った。





 大阪への引っ越し作業は別の所でも行われていた。奏者番から大阪城代へと栄転を遂げた水野忠邦の所だ。

 しかし、忠春らとは違い、浜松藩藩主の異動ということで芝の屋敷はごった返していた。文書をかき集めて署名を書き、刀や具足、幟旗、調度品など、どれを持っていくのかを話し合うなど、屋敷中を百数名の家臣たちが駆けまわってまとめあげている。

 ただ、忠邦私室の奥座敷は異様な静けさを保っていた。周りの喧騒が嘘のように、妙に冷たい空気が流れて静寂そのものだった。


「忠邦様、大阪へはいつ行かれるのですか?」

「明後日立つ予定だ。準備は家臣に一任したよ」


 忠邦は屋敷の母屋を指差した。遠巻きに家臣たちの忙しそうな声が聞こえて来る。


「それで、お前の方がどうなんだ?」

「はい。昨日、勘定奉行所に初出仕をしました」

「そうか。それで勘定奉行所はどんな様子だったか?」

「遠山景晋を筆頭にまとまっています。しかし、付け入るすきは必ずどこかにあるはずです」


 本来であれば耀蔵が南町奉行の職に就くはずだったのに、政憲と景晋らに阻止された。

 それに、新しく配属されたのは遠山景晋のおひざ元の勘定奉行所だ。耀蔵の言葉に力がこもりだす。


「古狸は抜け目ないね。忠春も大坂町奉行所だし、勘定奉行所の一員なだけの耀蔵は、一歩どころか十歩くらい遅れを取ったね」


 耀蔵らと同じように呼ばれた、忠邦の実弟跡部良弼が笑いながら話に加わると耀蔵の表情が険しくなる。


「ああ? てめえは引っ込んでろよ」

「ま、まぁまぁ、落ち着けって。それで兄貴、なんで俺がここに呼ばれてんだ?」


 軽口を叩く良弼を耀蔵は睨み付ける。


「ああ。そうだな。お前も近いうちに大阪に行ってもらう」


 良弼は声を上げて驚いた。しかし、それ以上に驚いていたのは耀蔵だった。


「忠邦様、な、なぜ私ではなくコイツなんですか?」


 耀蔵は良弼を指差して忠邦にすがる。それを気に止めずに忠邦は表情を一つも変えずに話を続けた。


「お前は江戸で仕事をこなせ。今思えば勘定奉行に所に潜り込めたのは悪くない。

「どこが悪くないのですか。南町奉行所のはずが勘定奉行所です。それもヒラですよ」


 耀蔵は珍しく忠邦に噛みついた。だが、忠邦は冷静でいる。


「幕府の収支を徹底的に調べ上げろ。それはお前にしか出来ない仕事だ」

「内部に潜り込んで金絡みの不祥事を探し出す。幕府の金の流れ、耀蔵さんと共同して徹底的に調べ上げて弱みを掴んできますよ」


 光亨は金歯を光らせると忠邦は満足そうに微笑んだ。


「お前たちは勘違いしているかもしれないが、私は幕府を守りたいんだ。今の幕府は腐りきっている。守るのならば鬼にでも何でもなってやるさ」


 忠邦は毅然と言う。部屋の空気が一段と冷えた。


「これまで奏者番をやって来て、外様の諸大名に力が無いことは分かった。問題なのは旗本の連中と商人のみだ」


 立ち上がって襖を開けた。暗い奥座敷に光が差し、昨日の火事で燃えた街から賑やかな声が届いてきた。

 十二月の乾燥した冷めい空気を吸うと、忠邦は言葉を続ける。


「俺は順調にいけば老中になる。ちょうどその頃になれば忠成も逝っちまうだろう。そうなれば幕府の主導権は私が握れる」

「あの爺も先は長くねえし、他の老中に骨のあるやつはいないからな」


 良弼は忠邦の横に並び息を吸った。


「……大岡忠春はどう」

「どうした、よく聞こえないぞ」


 背後にいる耀蔵が小さくつぶやくと忠邦が問い返す。


「あの糞女、大岡忠春はどうなさるのですか。さっさと捻り潰さなければ手遅れになります!」

「大岡忠春か……」


 忠邦は襖を閉じて元の場所に座り込んだ。


「ヤツは上様のお気に入りだ。当分は泳がしておいていいだろう」

「し、しかし! あの女は早く消すべきです!」

「俺がいいと言ってるんだ。別に焦ることは無いだろう。それともなんだ? 何か不満でもあるのか?」


 耀蔵がすがると忠邦は立ち上がって声を荒げた。

 蜜月の関係の二人が睨みあっていると、良弼と光亨が間に立つ。


「……兄貴も落ち着けって。忠春に関しては俺が色々と邪魔をしてやるさ。俺を大阪に送るのも、それが狙いなんだろ?」

「ご、ご安心ください忠邦様。この後藤、耀蔵殿と共同して手助けを致しますから」


 良弼と光亨は恐る恐る忠邦の顔を見つめた。

 忠邦も落ち着いたのか、大きく息を吐くとその場に座りこんだ。


「ヤツに対しては俺の方も色々と考えがある。これでいいか?」

「お二人はまさしく水と魚の一心同体。どちらか一方が欠ければ生きて行くことは出来ません。この光亨だってそうです」


 見かねた光亨が二人の仲裁に立つと、耀蔵は黙って忠邦に頭を下げる。

 良弼も同様に場をなだめようと忠邦に話しかけた。


「あ、兄貴、俺は向こうにいつ行けばいいんだ?」

「……年が明けてからになる。準備をしておけ」


 忠邦は冷たくそう言うと、すぐに立ち上がって奥座敷を後にする。

 襖を閉じた屋敷中に聞こえたであろうほどの大きな音だった。残る耀蔵・良弼・光亨の三名はゆっくりと首を動かして顔を見合わせ、三者三様に首を傾げた。


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