逆転
太陽が宙天を迎えた頃、大岡忠春は江戸城に登城した。
要件を言うと小姓に連れられて芙蓉の間に通された。すると、見知った男が近づいてくる。
「これはどうも忠春殿、お久しぶりですな」
「景晋様ですか。お久しぶりです」
わし鼻の老人はくしゃくしゃの笑顔を見せる。勘定奉行の遠山景晋だった。
「金四郎はどうしてますか?」
景晋の頼みを解決して以来、忠春は遠山景元と顔を合わせていなかった。
忠春の言葉を聞くと、嬉しそうに大声で笑った。
「いやぁ、倅も勘定奉行所で元気にやってますよ。とはいえ、相変わらずの所もありますけどのぅ」
景晋の言葉を聞いた忠春は、薄く微笑んだ。
更生した遠山景元は、勘定奉行所に勤めていた。喧嘩っ早い所はまだあるが真面目にやっているらしい。
それ以上に息子と一緒に働けるというのは、相当のものだろう。
「……して忠春殿、昨日、水野忠成と会いましたね」
「ど、どうしてそれを?」
忠春が聞き返すと、景晋は頬を緩ませて笑う。
「それは重要な事じゃぁない。それと、その目元を見る限り、何かで泣き疲れたかも知れないが、きっと笑い話に変わるだろうさ」
景晋は微笑みながら、松の枝のように細い指先で忠春の目元を指差した。
ああいったやり取りの後、屋敷に戻った忠春は母親の愛情に触れて大泣きした。そのためか、目の下が赤くなっていた。
「な、泣き疲れてなど……」
「いいんじゃよ。それと、ヤツの言葉を深く気にすることはないよ」
「は、はぁ……」
忠春が目を細めて返事をすると、景晋は大きくうなずいて芙蓉の間を去って行った。
一体なんだったんだろう、と不思議がっていると、またも見知った顔がやって来る。
「どうも忠春様、昨日は色々と大変だったようですね」
「……今度はアンタなのね」
五十路手前の胡散臭い笑顔。やって来た男は筒井政憲だった。
政憲は側に来て笑顔を見せながら忠春の真向かいに座る。
「そう言えば、アンタは昨日奉行所にいなかったわね。どうしてたの?」
忠春が話しかけると、政憲は下を向いて意味ありげに微笑んだ。
「まぁ、大したことじゃありませんよ。にしても、忠邦らは一気に動き出しましたね」
「そうね。まさか南町奉行所をクビになるなんて思いもしなかったわよ」
忠春は鼻で笑いながら自嘲気味に言う。
両親との会話で忠春にいつもの毒気が戻ったようだ。今の自分を笑う余裕も生まれる。
「まさか、あの事件をネタに使うとは思いませんでした。やはり、敵も中々やりますね」
「今さら何言ってんのよ。ほんと、思いもしなかったわよ……」
高い天井を見ながら忠春はため息交じりに毒づいた。
だが、政憲は笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「ですが忠春様。ご安心して下さい。その気苦労も、明日になれば報われます」
「は、はぁ? こんな事になって何が安心で報われるっていうの?」
政憲の言葉に忠春が声を上げる。
「忠春様の顔を見る限り、昨日枕を濡らされて泣き疲れたのでしょうが、その涙は決して無駄じゃありませんよ」
「だから泣き疲れてなんて……」
忠春は政憲の肩を小突こうと右手を繰り出した。
だが、右拳が微動だにしない政憲に突きささることは無く、忠春はふと思い出したように手を止める。
「そういえば、似たようなことを景晋様も言ってたわね。アンタが私を何の理由も無しに慰めようとそんなことを言うはずもないし、何か確証でもあるの?」
「ハハハ、流石は忠春様です、いい所に気がつかれましたね」
政憲は意味ありげに笑って立ち上がって言う。
「上様に会えば分かりますよ」
「ちょっと、待ちなさ……」
忠春は政憲を止めようとするが、そのまま部屋を去って行った。
「ったく、なんなのよ……」
曖昧な返事をされたまま部屋に残され、一人で毒づいていると小姓がやって来た。
「忠春殿、上様がお待ちです」
「……とうとう来たってわけね」
小姓に案内されて忠春は小さく呟き、覚悟を決めて付いていった。
○
大広間前の廊下は豪華絢爛ぶりは相変わらずだった。
いつもであれば、将軍に何か諫言してやろうと息巻かせる豪華絢爛ぶりも、どこか懐かしく感じている。
小姓が襖を開けると、目の前に家斉がいた。
家斉は子供のように目を輝かして大声を上げる。
「どうだ? 驚いたよな?」
目を輝かした家斉越しに、忠邦と耀蔵の姿が見えた。
忠春がチラッと見つめると二人と目があった。二人は小馬鹿にしたように口角を上げる。
「……上様、お戯れを」
「お、おう……」
家斉はため息をついて、上座に戻って行った。
忠邦らと同様に政憲と景晋の姿があった。二人は忠春と目線が合うと小さく微笑んだ。
「……それでだ。忠春らを呼んだのはほかでもない。お前たちに新しい役職を授けようと思う」
どっしりと将軍らしく座りこんだ家斉の言葉が忠春に重くのしかかる。
下座に陣取る政憲・景晋・忠邦・耀蔵は平伏する。同じように忠春は頭を下げるとあることに気がついた。
ちょうど頭を下げた位置から座って位置にかけてのみ畳が薄汚れていたのだ。
頭を下げながら不思議がっていると、忠邦が小さくつぶやいた。
「……教えてやるよ。お前がいるその場所は、クビを言い渡されたクズが泣いたりしたから汚れてんだよ」
「……は、はぁ?」
「……大抵のヤツは涙を流して懇願するんだ。"お願いします、処分を散り消して下さい"ってな。お前も先人に倣って色々なモノを吐き散らせよ。ここに来れる最後の機会なんだからな」
忠邦は忠春の方を向いて意地悪く微笑んだ。
「まずは水野和泉守忠邦、お前を奏者番の任解き、大阪城代を申しつける。異論はないな?」
「ははっ! 異論はございません。全身全霊をもって事に当たります!」
家斉の言葉を聞くと、忠邦は大きく頭を下げて返答する。
下げられた横にいた忠春を向き、小さく話しかけた。
「……今までありがとうな。身分不相応な地位にいるとこうなるんだよ」
再び忠邦は、顔を横に向けて口角を上げる。忠春は忠邦に殴りかかってやりたかった。
だが、この場でそんなことをすれば忠春自身のみならず家にまでことが及ぶ。握り拳を畳に押しつけて堪えるしかなかった。
「続いて大岡越前守忠春だ。お主の任期中に咎があったのは認めるな?」
「は、はい。認めます」
忠春は力なく返して頭を下げた。
「……それでだ。江戸南町奉行の任を解いて、西ノ丸留守居を申しつける。異論はないな?」
「は、は……」
ここに来る前に覚悟はしたつもりだった。しかし、こうして家斉直々に言われると、どうしようもない虚無感が体を包み込み、忠春の内から熱いものがこみ上げて来る。
両拳を力強くと握りしめて両目をギュッと閉じる。忠春が返事をしようとした時だった。
「とは言っても、お主のような女傑を西ノ丸留守居のような所に置くのは大変惜しい」
「ちょ、え?」
家斉の思いがけない言葉に忠春は思わず顔を上げる。横にいた忠邦。耀蔵も同様に目を丸くして顔を上げた。
「実は、大阪西町奉行の職が空席になっている。忠春、お前が任を全うしてみろ」
「え、ええぇっ?」
まさかの話しに忠春はちゃんとした返事が出来ない。体が小刻みに震え、ただただ呆気に取られている。
家斉は小さく笑うと話を続けた。
「……アイツはほっといて話を続けよう。南町奉行所の後任だが、南町奉行所年番方の筒井政憲、お前がやれ」
「はい、重たき仕事ですが、私が全身全霊をかけて全うしてみせます」
政憲は笑顔を崩さずに返答すると恭しく平伏した。家斉は満足そうに腕を組んでいる。
今度、呆気にとられたのは忠邦らだった。
「わ、私が聞いた話では、鳥居耀蔵が申しつけられるはずでは?」
忠邦が額に汗をかきながら即座に言い返すと、下を向いて震えていた耀蔵も大きくうなずく。
「そ、そうです! 昨日、内定を上様の口から頂いたではありませんか!」
「いやぁ、それがさぁ、あの爺さんがどうしてもお前を勘定奉行所に欲しいって言うんだよ」
耀蔵が言い返すも、家斉はしょげた様に目を細くして景晋らを指差した。
「ファファファ、私も歳でね。若くて力強い人材が欲しかったんじゃよ」
「長年幕府に尽くされてきた景晋様たっての頼みですからね、断る理由などございませんよね?」
歯を見せて微笑む景晋と政憲を見て、耀蔵は立ち上がって掴みかかろうとする
「この、くそ、ふ、ふ、ふざ……」
が、この場でそのような事が出来るはずもない。忠邦に裃を掴まれて無理やり座らされると、口の中でモゴモゴと言葉を回転させる。
「この通りだ。お前にはぬか喜びをさせちまったな。どうか許してくれないか」
「ワシも謝ろう。こんな大役を仰せつかるはずだったのに、年寄りの言い分で反故になってしまった。申し訳ない」
景晋と政憲は頭を下げた。だが、耀蔵の怒りが収まるはずもない。
「だ、だったら、そんなことを言わねえで、私を町奉行に……」
引き攣り笑いを浮かべながら、頭を景晋の方に近付ける。
「……耀蔵、諦めなさい。過程はどうあれ、これは上様の意。私たちは従うしかありませんよ」
忠邦が静かに言う。目を細めて穏やかな表情をつくって見せるも、頬の端々がピクピクと痙攣じみた震えを起こしている。
耀蔵は景晋と政憲の両名を睨み付けると、家斉に向かって三つ指を立てて仕方なさそうに吐き捨てた。
「……く、くそが、わ、わかりました。勘定奉行所の任を全うします」
「これで用は以上だ。忠邦と耀蔵は下がっていいぞ」
「はは、失礼します」
家斉の言葉に忠邦のみが返事をし、肩を震わせる耀蔵をひきつれて広間を後にした。
ドタドタと大きな音を立てて廊下を歩いて行く。
○
忠邦らが大広間を出ると、側に控えていた小姓らも退席させられた。
大逆転を果たした肝心の忠春は、目を閉じたり開いたりして、
「に、にしの、西ノ丸留守居、じゃ、じゃない?」
とブツブツとつぶやいて、いい意味で正気を失っている。
そのため、家斉が上座から降りて来て忠春の目の前に来ても、全く気がついていない。
家斉は忠春の頭を指先で小突いた。
「おい、ボケっとしてんなって!」
「は、はい! って、ひゃぁぁぁっ!」
忠春も我に返ったようで、目の前にいる家斉に驚いて、腰を上げて後ろに跳ね上がりながら嬌声を上げる。
「上様、西ノ丸留守居になんて、なりとうありません!」
「おいおい、俺の話をなんも聞いてなかったのか? 西ノ丸留守居じゃなくて、大阪につき次第大阪西町奉行だよ」
「わ、私が大阪西町奉行ですか?」
忠春は言ったままの通りに言い返す。
周りにいる景晋と政憲が微笑むと、呆れた家斉がため息をつきながら再度頭を小突いた。
「そうだよ東町奉行だよ。なんだ、文句でもあるのか?」
「い、いえ、わた、私は西ノ丸留守居なのでは……」
「ああ。それは俺の一存で取り止めにした」
「いち、一存って、えええ?」
家斉の言葉に、忠春は再度混乱をする。
仕方なさそうに政憲が話を始めた。
「昨日の時点では、確かに忠春様は西ノ丸留守居になるはずでした。しかし、それは上様の知らない所で行われていたことなのです」
「そういうことだ。まぁ、忠成や忠邦のしそうなことではあるがな」
政憲の言葉に家斉は苦笑する。
「つまり、あの二人の一存で私は閑職に飛ばされそうになったってことですか」
「そうだな。夕方、俺の所に花押を押せって文書が回って来て、暇つぶしがてら数枚だけ読んだらこの案件だったんだよ。困ったもんだね」
「ひ、暇つぶしですか……」
下手をすればそのまま文書が流れて行って西ノ丸留守居になっていたのかもしれない。
運がいいのか悪いのかわからないが、忠春は家斉の顔を冷めた目で見る。
「……まぁそれはいいだろう。んで、すぐさま忠成を呼びだして問いただしたら、お前に咎があったという報告を受けたから町奉行を変えなければならないっていうことだそうだ。んで、その後任に耀蔵をって話だったんだよ」
即座に家斉の元に上がって来たということは、文書そのものはあらかじめ用意されていたのだろう。そう考えると、忠春は本当に運が良かったのだと思い肝を冷やす。
「お前の咎については何かしらの処分を与えなければいけないにせよ、そのまま後任の座に耀蔵ってのも危ないような気がしてな。その日のうちに政憲と景晋らを呼びよせてこの件について詮議したって訳だ」
「だから、アンタらは余裕綽々で、意味ありげな言葉を残して言ったのね」
忠春は政憲と景晋を涙のあとも乾かない目で睨みつけた。
「……ええと、ブロンホフに教わったのですが、南蛮には"サプライズ"って言葉があります。まぁ、そういうことにしといてくれませんかね」
「"サプライズ"か。懐かしい言葉だな。ワシも長崎時代にデューフの野郎によくされたもんだ」
景晋と政憲の二人は懐かしそうに笑っているが、忠春の怒りは収まっていない。
「その"さぷらいず"って言葉が何の意味なのかは知らないけど、こっちは色々と悩みとおしたんだからね。父上にも留守居行きって喋っちゃったし……」
忠春が眉間にしわを寄せながら政憲に掴みかかると、横で見ていた家斉が笑いながら言った。
「なんだ、アイツも中々悪い男だな」
「な、何よ、父上のことを言ってんの?」
「ああ。なんせ、詮議した面子には忠移もいたからな」
政憲を掴んだ指は自然とほどけ、矛先が家斉に変わる。両手で家斉の胸ぐらを掴み、空中に持ち上げんばかりに両腕に力を込めて締めあげた。
「ちょ、ちょ、意味分かんないんだけど。なんで父上が上様と会ってんの?」
「い、いやいやいや、征夷大将軍の俺に掴みかかるお前も大概だと思うぞ」
「……ああ、申し訳ありません」
忠春は我に返って両手を離しすと、家斉は苦笑いをしながら襟元を正す。
「ヤツは昌平坂時代の学友だからな。誰よりも頭がよかったんだぞ。まぁ、顔は俺の方が上だけどな」
「そうです。その時の教授役に景晋先生がいたんですが、忠移が一番と常々言ってましたよ」
家斉と政憲は二人して顔を見合わせて懐かしんでいる。
「そうじゃな。忠移が誰よりも優秀な男じゃったなぁ。懐かしいものだ」
景晋も同様に過去を思い出して懐かしむ。忠春にとっては初めて聞いた話だった。
「しかし、なぜ父上は日光祭礼奉行などという……」
家斉は顎に手をやって考え込んだ。
「出世争いのようなものには、まったく興味が無かったんだろうな。上役に媚びて取り入ろうというなことも無ければ、良い役職に付けてくれって言ってきたことも無い。それ以上に大事なモノを知っていたんだろうな」
昨晩、母に聞くまでは、父の普段の姿は知らなかった。
母と全く一緒のことを江戸城本丸御殿で聞かされるなど思いもしない。忠春が黙りこくっていると、三人の話は続いた。
「なんたって俺に会うたびにお前の自慢をしてくるんだからな。全く、親馬鹿もここまでくれば大したものだよ」
「確かに。私に会うたびに忠春様の自慢をしてくるものですからね」
「ああ、ワシにもそうだったな。娘のここがカワイイだとか、ワシの絵を描いたとか、昨晩一緒に風呂に入ったとかなんでも話して来たなぁ」
「余計なことを話したな」と忠春は父を恨みつつ下を向いて顔を赤くする。
「まぁ、お前が初めて俺に謁見した時も、他のガキはおどおどしてた中でお前だけ堂々としていたからな。立派になる人間ってのはこんなようなヤツなんだろうなって思いながら見てたよ」
「そうなのですか……」
「そういうことだ。町奉行になったのは紛れも無いお前の才覚だ。会ったことはないが、先祖の大岡忠相もお前みたいな感じだったのかもな」
家斉はケラケラと笑いながら言う。
敬愛する忠相にも比すると家斉直々に褒められる。忠春にとってはこれ以上ない褒め言葉だった。
「そういえば返事を聞いていなかったな。大阪西町奉行の任、受けてくれるよな?」
忠春は目を瞑って深呼吸をする。
「……大岡越前守忠春、大阪西町奉行の大役を全身全霊をもって全うします」
「うむ、それでいい。たまには江戸城に顔を出しに来いよ」
忠春は堂々と言う。家斉は頬を緩めて微笑むと、顔くらいある大きな盃を取り出して一気にあおった。