宣告
忠之は晒し首となった。
罪状が書かれた捨札には非難の嵐が書かれ、末尾は『天下の不忠義者』と締められた。
だが、事件の詳細が伝えられると、一部の間で彼を神格化する動きがあった。
「それで、会場全体はどうだったの?」
「会場では特にこれといった異常事態はありませんでした。しかし……」
国定の言葉が濁る。
「どういうことなの?」
「それが、江戸での忠之人気が尋常じゃないんですよ」
会場警固にかり出された奉行所にとっては、目を覆わざるを得なかったらしい。
神田川沿いで年に二回行われる同人草紙会では、彼を題材にした作品が多くあったという。
身元が不明の美男子で、時の権力者にいいように使われたのちに非業の死を遂げる。演目や黄表紙にはうってつけの題材だった。
昌平橋付近のどの露天を見ても忠之忠之忠之で、開けた場所では集団で白い羽織を着て同人草紙を売りさばく町民までいたという。
「……と、まぁ、今年の冬の草紙会では忠之関連の草紙がかなりありました」
「へぇ、そんなに忠之の人気は出てんのね」
「判官贔屓という言葉が示す通り、悲劇の英雄に人気が集まるのがこの世の常。それに、ヤツは貧乏旗本や無宿人に財貨を与えていました。そんなヤツのなまじ善人ぶった面が、町人らの人気を得たのでしょうね」
ぶ厚い胸を張って国定が説明するも、忠春には国定の話よりも、手にしていた本に目が行った。
「その手に持ってるのはなんなの?」
「いや、いやぁ、これは……」
「ちょっと見せなさいよ」
国定の手からパッと奪って草紙の表紙を見ると、”化政傾奇七人衆”。内容をかいつまんで話すと、街中に捨てられていた童子が町道場に入ってめきめきと頭角を現すと、似たような境遇の若者たちと徒党を組んで義賊めいた活動をする。早い話が水野忠之の英雄譚だ。
流し読み程度の忠春でさえ物語そのものがしっかりしているが分かり、人気が出るのもおかしくはないのだが、奉行所にとって全く面白くない内容でもあった。
忠春が黙って目を通している横で、国定が恐る恐る声をかける。
「た、忠春様……」
「……もういいわ。ご苦労様ね」
何をするという訳でもなく、忠春は黙って黄表紙を書机に置いた。
忠之が死んでから一月ほどが経った江戸はこの様なありさまになっている。死んでからは大した事件はほとんどどなく、町政のほうで忙しい日々が続いていた。
そして、昨日で月番は北町奉行所に変わると江戸に本格的な冬が到来した。雪が降ってから冬が来たというのもおかしな話だが、赤や黄色に染まっていた木の葉が落ちきったのはこの月からで、薪やロウソクが売れ始めたのはこの時期からだった。
そそくさと国定が書院から出ると、今度は門番の平梨が来客を連れてやって来る。
「忠春様、老中水野様より使者がやって参りました」
「私に?」
忠春が聞き返すと平梨の後から、身なりのきちんとした少し童顔の若い男がやって来た。
「大岡忠春殿、明日の昼、登城せよとの命令です」
「どのような要件で?」
「詳しいことは私も存じません。私も忠成様から言伝を頼まれただけなもので」
眉を八の字にして若い男は言う。忠春も身に覚えのない忠成からの出頭命令に困惑をする。
「……そうなの。確かに聞いたわ。寒い中ご苦労様ね」
忠春が返事をすると若い男と平梨は頭を下げて奉行所を去って行った。
「こんな時期に用事とは何の用なのでしょうか」
「私にも分からない。忠成に呼ばれるようなことなんてした覚えは無いんだけど」
横に控えていた義親も首を傾げる。忠春と同様に理由など見当がつかない。
ただ、このまま考え込んでいても仕方が無い。忠春は微笑む。
「まぁ、アンタの言葉を借りると考えても仕方ないわね」
「ええ。そうですね。ただ、あまり良い予感はしないような……」
「ったく、そんなことを言ってないでその書類を渡しなさい」
忠春は義親を見つめながら言うと止めていた筆を進めた。
とはいえ、登城を命じられた理由が気にならないはずもなく、忠成の使者がやって来てからは仕事にならなかった。
○
翌日、江戸城本丸に忠春らは向かった。
昨日の曇り空も消え、冬を迎えた江戸の空はカラッとした日本晴れだ。堀沿いに植えられた木々は丸裸になり、どれも寒そうにしている。
肝心の忠春は天気のように晴れておらず、むしろ木々に似たような心情だった。忠成に呼ばれた理由を一晩悩み明かすも、全く見当がつかない。
詰所の芙蓉の間で忠成に呼ばれるのを待っていると、よく見知った男女がやって来た。
「忠春殿、お待ちしておりましたよ」
水野忠邦と鳥居耀蔵だった。
忠邦は頬をつり上げて歯を見せながら不敵な笑みを浮かべ、隣にいた耀蔵も同じように小馬鹿にするような目で忠春を見つめる。
「アンタらも忠成に呼ばれてるの?」
「この場で老中を呼び捨てとはいい度胸をしてるじゃない。襖の向こうで聞いてるかもしれないのよ?」
耀蔵が言うと忠春はバツが悪そうに口を尖らせる。
「ハハハ、忠春殿の仰るとおりです。私どもも呼ばれたのですよ」
「へぇ、アンタもとうとう悪運が尽きたのかしら?」
忠春はすかさず口角を上げて言った。だが、忠邦は余裕を見せる。
「いやいや、あなたほどじゃありませんよ。 ……それと一つ、言いたいことがあります」
そう言うと、忠邦は膝をついて忠春に平伏する。
「ちょ、急にどうしたのよ」
「あなたとは短い付き合いでしたが、ありがとうございました。これからはごゆっくりなさってくださいね」
「ちょっと、それってどういう意味……」
わけのわからない言動と行動を確かめるべく、忠春が呼びとめようとするも、忠邦はニッコリと微笑み忠春を無視して芙蓉の間から去って行った。
最後に残した言葉を疑問に思いながらその場にいると襖が開いた。
「大岡越前殿、お待たせして申し訳ありませんな」
蛇や蛙を思わせるようなヌメり気のある低い声。水野忠成がやって来た。
忠春はすかさず平伏して挨拶をする。
「水野様、此度はどのようなご用件でしょうか」
忠成は頭を上げるように言い、無表情のまま言う。
「なぁに、大した用事ではない。キミには新しい仕事についてもらうことになった」
「わ、私があた、新しい職に?」
いきなりの話に、忠春は驚きのあまり声が裏返る。
「驚くことは無いだろう。キミの今までの行動を鑑みての決断だ」
「は、はぁ……」
誇る気は無いが、町奉行として様々な功績を果たして来た自負はある。昨晩のうちから考え抜いた結果、忠春は老中からお褒めの言葉を預かるものだと結論付いていた。
その結論を出した後に、新しい職を授けるという話が舞い込んできた。町奉行以上の役目といえば老中くらいしか残っていないため、忠春は若干の期待から顔がほころぶ。
だが、そのようなことは全くなかった。
「幕閣同士での相談の結果、南町町奉行の任を解いて西ノ丸留守居に任命することになった」
「は、はぁ?」
思いもよらない言葉に、忠春は目を丸くして大声を上げる。
忠成も平たい目を丸くして不思議そうに腕を組んだ。
「どうした、不満かな?」
「とと、当然です! なぜ私が閑職に就かなければならないのですか」
「ふぅむ、これは異なことを申すなぁ」
忠春は身を乗り出して必死に言うと、忠成は対照的に静かに言った。
「今年の春、南町奉行所内で刃傷沙汰があったそうだな」
「そのようなことが、あるはず……」
忠成の言葉を受けて、忠春は過去の事件を思い返して見る。
一件だけ。一件だけ思い当たる節があった。
「あ、あああああっ!」
「……身に覚えがあったようだね。武士同士の諍いは目付の管轄だ。勝手に処置されると困るんだよねぇ。それに、それを隠すなんて更に印象悪いよ?」
今年の春先、落とし物を巡ってを裁いた事件だ。被害者はいなかったものの、御用部屋の中で刀傷沙汰はあった。
それを町奉行所で解決したのだが、家慶を連れだしてが同席していたことから表ざたに出来るはずもなかった。そのため、裁許状を渡すこともせずに内々で処分を下していた。
「いや、これはその……」
「紛れも無い越権行為に違わない。その一件について君は報告すらしなかった。これでは疑われたってどうしようもないだろうね」
忠春は弁解しようとするもぐうの音も出ない。全くいわれの無い話ではなく、実際にあった事件を指摘された以上、忠成の言葉を受け入れるしかなかった。
それと同時に、高輪の料理屋と芙蓉の間で忠邦が言い残した言葉の真意を悟った。忠邦らにまんまと嵌められたのだ。
「と、いうことだ。キミは少し働き過ぎたんだよ。少し現場を離れてみるのもいいんじゃないかな?」
「……」
「この一件については上様に報告してあるから、明日、正式に申しつけることとなっている。よろしく頼んだよ」
全てを失った忠春には返事をする気力は残っていない。
だが、一つだけ気がかりなことがあり、振り絞って尋ねた。
「……あの」
「まだなにかあるのかな?」
「……私の後任は誰になるのでしょうか、それと、他に職が変わる者は……」
忠春が震える声で力なく言うと、忠成は「そうだそうだ」と小さく呟き、思い出したように手をポンと叩く。
「そうだね。それは気になることだよね」
「……誰なのでしょうか」
「南町奉行は鳥居耀蔵にやってもらうよ。彼女は奏者番としても立派に活躍をしたからね。それと、奏者番の水野忠邦は大阪城代に移動だ。他に何かあるかな?」
誇っていた職を失って満身創痍の忠春に、何にも悪びれもせずに屈託なく微笑む忠成の言葉が突き刺さる。
「……荒尾といい、キミといい、なかなか頑張ったと思うよ。まぁ、西ノ丸でのんびるするといいさ」
忠成は若い小姓を連れて笑顔を残して芙蓉の間を出て行てった。