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女奉行捕物帖  作者: 浅井
熱風。そして腥風
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熱風。そして腥風

 取り調べによれば、捕まえた旗本奴達はかなりの精鋭だったらしい。

 中でも上田三次郎というのはかなりの使い手だったようで、余罪は数知れなかった。

 旧友が捕まって悲しくないのか、と忠春らが尋ねるも、


「因果応報です。私だってああなってたかもしれませんから、別に何とも……」


 と返すのみで、縁側に座って遠くを見つめていた。

 月番が北町に移ると、旗本奴の事件は激減する。大きな事件は捕まえた連中が多く請け負っていたため、江戸の治安維持に大きな貢献をしたということだ。

 忠春には賛辞の声が集まり、城中で幕閣に会えば「よくやった」「私は最初から君を信頼していた」などと褒め称えられた。

 また、豪商らからも賛辞の声が集まり、大岡家あてに様々な贈り物を届けられるようになる。


「た、忠春様! ら、来客です!」


 そんな折だった。忠春の所に、門番の小浜と平梨が青い顔をしてやって来た。


「そんなに慌ててどうしたの? またなんかやらかした……」


 書机から振り向いて軽く小馬鹿にすると、青い顔をした門番二人の背後から、見慣れた二人組が現れる。


「どうも忠春殿、ご無沙汰していますね」

「ふんっ、相変わらず小汚い場所だ」


 奉行所にやってきたのは水野忠邦と鳥居耀蔵の二人だった。

 忠春が二人を睨みつけると、忠邦は肩をすくめて微笑む。


「いやいや、そんな敵意むき出しな目で見ないで下さい。争うつもりなど毛頭ありませんよ」

「……これは水野様ですか。奉行所に何の用ですか?」


 騒ぎを聞きつけた政憲が遅れてやって来て言う。

 政憲の姿をみつけると、忠邦は口角を上げて話した。


「筒井殿もいるんですね。ちょうどいい。ちょっとお話がしたいだけですよ」

「話を?」


 『命を頂戴にしに来ました』『』などと、重大な話をされるのかと思っていた忠春は拍子抜けする。


「以前からお互いに勘違いをし合ってると思うんです。一席設けてわだかまりを解こうと思いましてね」


 忠邦は笑みを作る。が、その笑みに心を許すなど到底できない。


「私とアナタは幕府を背負って行く身、誤解を孕んだままでは上様に満足な奉公が出来ないと思いましてね」

「ま、まぁ、そういうことなら……」


 上様という言葉が忠春に突きささる。忠邦らの背後では、集まって来た同心与力たちの不安がる顔が見える。


「場所は追って連絡いたします。来週中には。壁に聞き耳を立ててる皆さんにもお伝え下さい。取って食おうなんて思ってませんよ。」

「ええ。お願いします」


 返事を聞くとニッコリと微笑み、奉行所を後にした。

 忠邦らが去ると、後ろの方でその光景を見ていた与力達がどっと押し寄せてきて声を揃えて言う。


「忠春様! これはあいつ等の罠ではないでしょうか!」

「危険です。あのような誘いに乗ってはなりません!」

「こ、この機に乗じて忠邦を……」


 詰めかけてきた誰を見回しても同じことを言う。


「ちょっと落ち着きなさい。」


 忠春が声を出して促すが、混乱は収まらない。

 困りはててため息をついた時だった。大柄な男の一喝で騒ぎは沈静する。


「ちょっと待ちな!」


 その声の主は衛栄だった。どすの利いた低い声が奉行所内に響き渡ると、一瞬で騒ぎは静まった。


「忠春様、どうなさるんですかい?」

「ど、どうするって言われてもね……」


 衛栄は人込みをかき分けて忠春の前に躍り出た。


「私が思うに、コイツ等の言うことはもっともです。ヤツの誘いに乗るのは危険じゃないですかねぇ」

「いや、考え過ぎじゃない? 確かに私も忠邦は嫌いだけど、ああ言って来てるんだし……」


 忠春と衛栄が顔を突き合わして向かって話していると、横にいた政憲が口を開いた。


「いや、そうでもないかもしれませんよ」


 政憲が口を開くと、ああでもない、こうでもないと場が再び騒がしくなる。

 衛栄は再び一喝し、ニッコリと微笑みながら政憲は語り始めた。


「ほほう。政憲様はどうお考えで?」

「考えてもみてください。忠春様を隠れて殺害するならおかしくありませんが、忠邦は奉行所に白昼堂々とやって来て話をしにきたんです。少なくとも忠春様に危害が及ぶことは無いでしょう」


 集まった与力たちは黙って頷くほかなかった。こんな大勢の前で忠春を誘い、殺されでもすれば疑いの目は間違いなく水野忠邦・鳥居耀蔵の二名に向く。

 そんな危険を彼らが冒す理由はないはずだ。


「ま、まぁ、政憲様の言う通りかもしれねえけどなぁ……」

「そういうことなの。危険なことなんて何にも無いわよ」

「い、いや、でも忠春様の身に何かがあったら困ります。なので……」


 衛栄はは一拍置いて言う。


「私たちが護衛に向かいます。そうでもしなきゃコイツらは納得しませんよ?」

「いや、そんなことしなくたって……」


 呆れたように忠春は周りを見回した。

 与力たちは熱いまなざしで忠春を見つめ、『さぁ、早く了承して下さい』と言っているような無言の圧力を感じる。


「……わ、わかったわよ、好きにしなさい。けど、忠邦にバレないようにお願いね」

「そりゃもう。当たり前ですよ」


 忠春が心配そうにするも、衛栄が自信に満ちた表情で言い切ると、与力同心らも頷いた。


「それではみなさんは仕事に戻って下さい」


 政憲が大声でいうと、いつもの奉行所の光景に戻った。

 ため息をつき、忠春は再び書机に戻ると政憲が話しかけてくる。


「とはいえ、なぜ忠邦らは我々を食事に誘うのですかねぇ」

「アンタ、あれだけ言っておいて何にも分かってなかったの?」


 忠春が再度ため息をついて毒づくと、政憲は大声を上げて笑った。


「ハハハ、ハッタリも時には有効なんですよ。それに、身の危険は全く問題ありません。ただ、重要なのはなぜ彼らは忠春様を招待したのかです」

「誘ってきた意図が全く読み取れないってのが一番不気味よね」


 二人は考えをめぐらすも、答えは浮かんでこない。

 うんうん唸りながら重い顔のまま考えこんでいると、重苦しい空気に包まれた部屋に義親がやって来た。


「話はお聞きしました。忠邦が奉行所にやってきたそうですね」

「義親どうしたの?」

「今回の一件について、一つ申したいことがあります」


 怪訝そうに忠春が聞き返すと、義親は明るく笑顔を見せて言った。


「色々と考えてみるのもいいですけど、行ってみなきゃ分からないこともありますよ。困った時は時の流れに身を任せるというのもいいですよ!」


 部屋に数秒の沈黙が流れるも、忠春の硬い表情は溶けた。


「……まぁそうよね。分からないことを考えてたってどうしようもないわね」

「ハハハ、それもそうですね」


 政憲も同様に笑顔を見せる。


「そういうことです。護衛に関しては私たちにお任せ下さい! でも、何も考えないで行動した場合って大抵は失敗するんですけどね」

「ま、まぁ普通はそうよね……」


 義親は笑顔を見せ、呆れかえる忠春と政憲を尻目に颯爽と部屋を去って行った。





 後日、奉行所に忠邦の使いがやって来て、招待したのは高輪にある店だった。

 その店は小高い丘にあり、日が暮れると江戸の町の夜景が美しく見える。屋敷は外桜田にあり、務める場所は江戸城内の忠春にとって、外れにある丘から江戸の町を見るのはかなり新鮮に思えた。


「高輪なんてめったに来ないから知らなかったけど、江戸って広いものね」


 店の前にやって来た忠春は、ふと丘から江戸の町を眺めて呟いた。


「長崎奉行の時にブロンホフらから聞いた話では、江戸の町というのは世界で一番大きな街だそうですよ」

「へぇ、世界で一番広いねぇ……」


 すぐ眼下には芝の増上寺が見え三解脱門と五重塔、その奥には薄く光る江戸城本丸が鎮座している。日本橋の大通りは、神田や浅草の細い街路は絹糸のように光って見えた。

 ブロンホフの言葉が真実かどうかは置いておくとして、これほどまでに立派な町を忠春は知らない。


「そんな江戸を私たちが守ってるんだもんね。厳しいこともたくさんあるけど、死ぬまで江戸の町を守るってのは」

「はい。そう願いたいものですね」


 政憲と二人で店に入ると、乳の甘ったるい香りと、何かを焼くような香ばしい香りが漂う。

 丁稚に案内をされ、店の奥に入ると忠邦と耀蔵が控えていた。


「遠くまで御苦労さまです。ささ、お座り下さい」


 笑みを繕って忠邦が案内する。

 忠春と政憲は顔を見合わせて、小さく話し合う。


「……だ、大丈夫よね?」

「……外には義親君らを控えさせています。何かあればすぐに駆けつけて来るでしょう」


 二人で顔を突き合わせて話をしていると、笑みを浮かべながら忠邦が言う。


「ハハハ、安心して下さいって。外に与力達がいるのに、あなた方を殺そうだなんて思ってませんから」

「そ、そうなの……」


 腹の内を読まれて身震いする。


「それじゃ、頼んでおいた料理をお願いします」


 丁稚に申しつけると、頷いて走り去っていく。


「さて、話なんですが……」


 忠邦は座りなおし忠春の真正面を向いた。


「先日の旗本奴の処理ですが、お見事と言うほかありません。北町だったらこうはいかなかったでしょう」

「へぇ、アンタも素直に人を褒めるのね」


 忠春が言うと忠邦は大笑いする。


「なかなか面白いことを言いますね。私だって褒めるときは褒めますよ。それも、優秀な人材にならね」

「ふうん、ありがとね」


 忠邦がうやうやしく両手を広げて見せるも、忠春は軽く受け流す。


「私からも幾つか聞きたいことがございます」


 政憲が問うと、忠邦はすぐさま顔を引き締めて問い返す。


「私どもの捜査によると、旗本奴には大きな"後ろ盾"がいるようなんです」

「確かに。誰かが多大な支援をしなければ動くことは出来ませんからね」


 忠邦は顔色一つ変えずに言う。


「その後ろ盾なんですが、どうやら幕府の中にいるようなんですよ」


 政憲は微笑みながら言うと、目線を忠邦に移す。本人を目の前にしてこう言うことをすんなりといえる政憲は、憎たらしいほどに嫌な男だと忠春は感じた。

 目線の移動に気がついた耀蔵が政憲に噛みついた。


「なるほど。政憲殿は旗本奴の後に幕府の幹部がいると言いたいのですね」

「そういうことです。さすがは忠邦様です。呑みこみがお早いですね」

「……あくまで取次ですので。町の情報も入って来るんですよ」


 忠邦は薄く微笑んで政憲の言葉をかわした。しかし、政憲の言葉をかわさない女がいた。


「アンタ、それが忠邦様って言いたいの?」


 耀蔵が目を細めて睨みつける。しかし、あざ笑うかのように政憲は笑顔を浮かべた。


「まさか。そんなことはありませんよ。あくまでも、幕閣内に旗本奴を操っている人がいるってだけです。他意はありませんよ。」

「……んだとぉ?」


 耀蔵が政憲に飛びかかろうと殺気を立てて睨みつけるていると、その空気を裂くように襖が開いた。


「ご料理をお持ちいたしました」


 殺伐とした空気の中、店の主人が供を連れて料理を持ってきた。

 使用人たちが目の前に卓を置き終えると、忠春は出された料理を見て目を丸くする。


「な、なんなのよ、これ……」


 一尺ほどはあろう黒々とした大きな肉の切り身が、熱せられた鉄板の上で音を立てて焼かれている。

 焼き魚は見たことがあっても、焼いた肉は見たことが無い。


「何って、牛の肉ですよ」


 忠邦はなんにもなさそうに答える。


「う、うしっていうと、あの『モォ~』って鳴く"牛"よね?」


 鉄板の上で焼かれる肉を指差して聞く。


「ええ。その"牛"です。もしかして初めてですか?」

「そりゃ当たり前じゃないの。山鯨や紅葉肉は何回かあるけど。そもそも、牛肉なんて食べちゃっていいの?」

「あまり食肉は一般的ではありませんが、市中にはももんじ屋がありますし、幕府への献上品の中に牛肉はあります。なので問題はないですよ」

「そ、そうなの……」


 忠邦の話を聞きつつ、音と湯気を立てる肉を見つめるも食べる勇気が湧いてこなかった。だが、牛肉への興味はあった。

 忠春は横にいる政憲に問いかける。


「……アンタは牛肉って食べたことあるの?」

「ええ、長崎で数回食べたことがあります。これは"ステーキ"という食べ物で、ブロンホフも大好物だと言ってましたね」

「す、"すてーき"っていうの。肉をこうやって焼くなんて、焼き魚じゃあるまいし……」


 聞き慣れない言葉にしどろもどろしている忠春なのだが、対面にいる忠邦や耀蔵は脇に置いてある食器を器用に使ってアツアツの牛肉を丁寧に切り分けている。

 政憲も同様になれた手つきで肉を切り分けている。だが、忠春は見よう見まねをしようとするのだが、いまいち使い方が分からない。

 忠春は銀製の鋭い匙と小刀をギュッと握りしめて凝視する。それに政憲が気がついた。


「ああ、ナイフとフォークですか。いいですか、これは……」


 忠春の左手にフォークを、右手にナイフを持たせて使い方を指導する。


「……なるほど。南蛮ではこうやって食事を取っているのね」

「ええ。南蛮や毛唐の国々では」

「へぇ、この世は広いものね。海の向こうが当たり前のようにこうやってるなんてね」

「逆に、ブロンホフは箸の使い方を知りませんでしたから、恥じることなんてありません。最初は誰でもそんなもんですからね」


 不思議そうにしながら忠春はステーキにフォークを突き刺してナイフを入れた。

 溢れんばかりの肉汁が黒い鉄板に滴り、忠春は肉を鼻先に近付ける。胡椒の香ばしい匂いと、初めて嗅ぐ脂っぽい匂いもした。


「なかなかいい香りね。胡椒の香りもするけど、この不思議な匂いはなんなの?」

「きっとバターでしょう。牛の乳から出来ていて、甘い香りが楽しめるんですよ」

「ば、ばたー、南蛮や毛唐ってのは面白いものを食べているのね」


 忠春は感心しながら牛肉を口に入れた。

 ひと噛みすると脂っぽさを感じるが、口の中に甘い香りが広がる。ただ、その臭み以上に、口いっぱいに広がる肉汁の力強さに忠春は圧倒された。

 とはいえ、仇敵忠邦の前で素直に美味しいと言うのも心苦しい。


「へぇ、"すてーき"ってのはなかなか美味しいのね。臭みがあって肉はちょっと硬いけど」

「牛肉なので若干の臭みはありますね。これはこれで美味ですけど」

「まぁ、スダチとかカボスなんか絞ってかければ酸味が効いていいかもしれないわね」


 忠春は噛んだ肉をごくりとのみこみ言う。この旨さは味わったことが無かった。市中に広めるために、小金牧で牛を放牧するのも悪くないかもしれないとも思った。

 政憲は大きくうなずいた。


「柑橘を加えて肉の臭みを消す、長崎では思いつきませんでした。それに、肉を軟らかくするんでしたら味噌や酒粕に漬けこむのもいいでしょう」

「いい考えね。これはこれで美味しいけど、塩と胡椒だけじゃちょっと味気ないし。でも、ちょっと塩辛そうだからご飯と一緒に食べたほうがいいのかも」

「確かに。白米とステーキは良い相性かもしれませんね」


 忠春と政憲は二人で顔を突き合わせてステーキの新たな調理方法を考える。

 黙って肉をほおばっていた耀蔵も小さくうなずいている。


「ハハハ、忠春殿や筒井殿にも満足してもらえたようですね。これは、一席設けて正解だったようですね」


 忠邦は手を叩いて笑みを浮かべた。わざとらしい笑みに、忠春は嫌悪感を示すも軽く会釈をする。


「それはありがとう。いい経験になったわ。でも、今日したい話ってのは、こんな話じゃないでしょ?」

「ええ。それはもう」


 すぐさま笑みを消え、真剣なまなざしで忠春を見つめた。





 忠春は出された料理を食べ終えると、卓に置かれた懐紙で口元をぬぐった。


「それで、話ってなに?」

「身構えられるようなことはありません。今の幕府について話をしたいんです」


 考えていたようなことでなく、忠春は拍子抜けした。


「へぇ、アンタもそんな真面目な話をするのね」

「前に言った通り、私とあなたは幕府を背負う身。将来の良き友人と話をするのは当然でしょう」


 "将来の良き友人"。この言葉に忠春はうすら寒さを覚える。


「それで、"将来の良き友人"に何の話をするの」

「……率直に聞きます。私と組む気はありませんか?」

「ちょっ、ええっ?」


 声を上げて驚いた。隣にいる政憲も微笑んではいるが口元が変わる。


「何を驚かれるんですか。奉行所でも言ったじゃないですか。今までのわだかまりを解いて共にとを取ろうって」

「いや、"共に手を取ろう"なんて聞いてないし、急にそんな話をされても……」


 どうやって答えようかしどろもどろしていると、斜め前から言葉が飛んできた。


「ああ? アンタは忠邦様と組むのが嫌だっての?」

「いや、そういうわけじゃなくてさ……」


 耀蔵が食いついてくる。何か言い返そうとするも、言葉が浮かばない。

 黙って腕を組んで聞いていた政憲が声を上げる。


「……このようなことを突然言い出すからには、何か理由があるのでしょう。教えてもらえませんか?」

「ハハハ、さすがは筒井殿だ。先ほどの話しに戻るんですがね……」

「と、申しますと?」


 政憲が問いかけると忠邦は答えた。


「このままでは幕府は潰されます」

「ちょ、何言ってんの?」


 またも忠春は驚かされる。反応を気に止めることなく、粛々と忠邦は話を続けた。


「今、江戸城を取り仕切っているのは誰だかご存知ですか?」

「そりゃ老中主座の水野忠成でしょ」

「そう。その忠成が終わりなんです」


 忠邦の言葉に頭を抱える。


「いやいや、ダメってアンタの派閥の親玉でしょ、そんな風に悪く言っていいものなの?」


 忠成の懐刀であろう忠邦が、ここまで言うとは思わなかった。忠成と距離を置いている忠春だが、忠成の援護に回ってしまう。


「はっきり言いましょう。私はアイツに愛想を尽かしました」

「いや、でも……」


 忠邦は強い口調で言葉を発した。


「アイツは権勢を誇っていると言っても、それは商人からの献金によっての権勢。自身の力では無いんですよ」

「要するに豪商らの支えがなきゃ意味が無いってこと?」


 忠春の反応を聞くと、忠邦は小さく微笑む。


「そういうことです。所詮は虎の威を借る狐。いや、醜く太った狸だ。ヤツは金にしか興味が無い男で、私が力を貸す価値など毛ほども無いんですよ」

「それと我々がどう関係するのですか?」


 政憲が目を細めて言う。


「組む相手を変えるだけです。いま、幕閣の中で気骨のあるのは忠春殿くらいのものですからね」

「買いかぶりじゃないの?」


 忠邦にべた褒めされて悪い気はしないが、どこか気持ちが悪い。

 忠春は謙遜するが、忠邦の言葉は止まらない。


「いいえ、私の目に狂いはありません。この幕府の中で自力で這い上がって来たのはあなた方くらいのものでしょう。私の力はそういう者のためにある」

「……それで私たちを呼んだのですか」

「そうです。私たちで幕府を守りませんか?」


 忠邦の言葉に耳を疑い、忠春は手にした湯呑みをその場に落とした。だが、忠邦はそんなことを気にもかけず言葉を続ける。


「私はアナタと協力をする用意があり、あとは忠春殿の返事次第です。どうですか?」


 忠春は返事に困った。

 満面の笑みをする忠邦

 隣にいる政憲は笑顔を保っているが、頬が上に引き攣っていてどこか苦しそうにしている。


「私は……」


 最初は驚かされてばかりだった忠春も、この時間になると冷静になっていた。

 忠邦と手を組むということは、これまでのやり方を認めるということになる。忠邦が持つ幕府への忠誠心は真のものかもしれない。だが、忠邦のやり方だけは決して許せなかった。


「ありがたい申し出だけどお断りさせてもらうわ。私は私の道を貫く。あくまで噂に過ぎないけど、アンタのやり方は気に食わないわ」


 忠春はきっぱりと言う。その目は澄んでいて一点の曇りも無い。


「……筒井殿はどうなさりますか?」


 忠邦は顔色一つ変えずに政憲に話を振った。

 微笑みを崩さずに言う。


「忠春様がそう言うのだから私の答えは一つです。丁重にお断りさせてもらいますよ」

「……てめぇら、忠邦様を」


 二人の答えを聞くと、耀蔵がその場立ち上がり膳を倒しながら忠春らに殴りかかろうとした。


「……待て、耀蔵」


 だが、忠邦は顔色一つ変えずに片手で耀蔵の袖を掴んで引きとめる。


「お二人ともそういうと思いましたよ。わかりました。この申し出は無かったことにしましょう」


 顔は柔和でも言葉は正直だった。語尾に近付くにつれて殺気がこもっている。


「そうしてちょうだい。ただ、このお店はいいお店ね。また来させてもらうわ」

「ええ。お好きにして下さい。ただ、後悔することになっても知りませんけどね」


 忠邦の顔は多少こわばっていて頬がぴくぴくと脈打つ。平静を装っているが、その心中は地獄の釜のように煮えくり返っていることだろう。


「それじゃ、私たちはこれで」


 忠春らは一声かけて店を後にした。忠邦は特に言い返すことも無く、じっとその場に座り込んでいる。

 後ろめたさと清々しさが同居した、不可思議な気持ちが忠春らの胸に残った。





「忠春様! お怪我はありませんか!」


 忠春らが店から出ると、物陰から二十名を超す奉行所関係者が飛び出して来た。

 衛栄・義親を筆頭に、好慶、忠景、国定らがやりを携えている。


「別に何ともないわ。美味しい料理をごちそうされただけよ」


 心配がる与力同ら心だったが、

 忠春だったが、帰り際に小さくつぶやく。


「……これでいいのよね」


 周りのほとんどのものが気がつかなかったが、唯一義親のみが忠春の言葉を拾った。


「忠春様、どうしたんですか?」

「今思ったんだけど、江戸の安寧を願うんだったら"アイツと手を組んでもいい"って思っちゃったのよ」


 忠春の言葉には力が無かった。心のどっかにある隙間から垂れ流れるような言葉だった。


「確かにアイツの言うことは一理あるの。江戸じゃごくごく少数の商人の手に江戸中の利益が渡ってる。お陰で大多数の武士はいい暮らしをしていない」

「だから旗本奴のような商人に対する組織が幅を利かすんですよね」


 このような現状を招いた原因は何かと聞かれれば、巡りに巡って町政を怠った忠春の元にたどりつくだろう。


「とはいっても、忠邦のやり方は許せない。家老を謀殺したり、部下を使って商人を潰そうとしたりして」

「はい。かなり強引に事を始末してます」


 最初は自家の家老を使って他家の弱みを握り、旗本奴を使って裕福な商家を襲わせる。それが忠邦のやり方だ。

 


「忠春様はどうなさりたいんですか?」

「わたしは……」


 忠春は深呼吸をして頭の中を整理する。そして言った。


「私は、ただ、江戸にすむ人たちが平穏に暮らせればいいと思うわ。だからこそ旗本奴達の武力に訴える手段ってのは許せない」

「いやぁ、武力に訴えてるってどの口が……」


 脇で話を聞いていたのか、ケラケラと笑いながら衛栄が口を挟むも、即座に忠春の裏拳が鼻に当たる。

 暗がりに浅黒い血飛沫が舞い、背中から衛栄の巨体が紙面に沈む。


「……ともかく、忠邦と組むってことはそういうことを黙認することなのよね。でも、それが江戸のためにならなかったら」

「だったら答えは一つじゃないですか」


 義親は忠春の前方に来て踵を返した。


「忠春様は思うがままに動けばいいんですよ。"風"のように」


 微笑みかける。


「……ありがと。やっぱそうよね」

「そうですよ。自信無さげな忠春様は忠春様じゃありません。無駄に自信があって、無駄に元気なのが忠春様ですよ」


 義親は丁寧に人差し指、中指で一つ一つ数えるように言う。忠春はそんな姿を見て小さく微笑んだ。


「ひと言もふた言も余計よ。でも、ほんとにありがとう」

「さぁ、早く屋敷に帰りましょう!」





「忠邦様、これでよろしいのですか?」


 忠春らがいなくなって、静まり返った部屋に忠邦と耀蔵の二人が残っていた。

 出口を見据えたまま黙って座りこむ忠邦の肩に、耀蔵は頭をすり寄せながら言う。


「ああ。これでいい。あの二人が私と組むはずが無い。そんなことは当たり前だ」


 忠春らの去り際に頬をひきつらせた忠邦では無かった。何にも無かったかのように大声で笑い飛ばす。


「……それと、一つだけ聞きたいことがあります」


 耀蔵は忠邦に寄り添い忠邦に問いかけた。


「た、忠邦様が言われた"優秀な"というのは、ほ、本心から言われたのでしょうか?」


 照れくさそうに顔を赤くして言うと、忠邦は声高らかに笑った。


「ハハハ、俺が忠春を褒めたから嫉妬しているのか? お前らしくないぞ」

「い、いえ! ただ、気になったもので……」


 ひとしきり笑い終えると寄り添う耀蔵の肩に手をかける。


「気にすることは無い、ただのハッタリだ。ヤツらがどんな動きをするのか見たくてね」

「そ、そうなのですか?」


 忠邦が回した指先が耀蔵の首元を這うようにうごめくと胸元に入った。


「ああ。あの二人以上に、耀蔵も期待以上の反応をしてくれた。これほどに楽しいことは無いさ」

「た、忠邦さまぁ……」


 耀蔵は猫なで声をあげ、忠邦の懐に潜り込む。


「忠之はどうなってる?」

「はい。来月の初めに奉行所の手に落ちるでしょう」


 忠邦は満足げにうなずくと、耀蔵の頭を優しくなでる。


「それでは、忠春には退場してもらうか」

「……はい。手筈は全て出来ております」

「ああ。奴らはもう終わりだ。私の手で幕府を変えて見せるさ」



熱風。そして腥風(完)

用語解説


『牛と肉料理について』当時、高輪の辺りに牛車の基地がありました。古地図を見ると「高輪牛町」という地名があって、歌川広重の浮世絵にも海岸に放牧されている牛が描かれています。

 江戸時代では食肉は避けられていたイメージが強いんですが、そこまで避けられていた訳ではありません。日本橋には鹿肉猪肉兎肉犬肉を売る肉屋があったほどだそうです。詳しくはwikipediaを見るといいかも知れません。

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