駿河町大捕物
三井越後屋のある駿河町は日本橋を超えてすぐの所にある。
晴れた日ならば、駿河町越しに東を望むと、江戸城天守と富士を望める風光明媚な場所だ。肝心の天守閣は明暦の大火で焼け落ちたのだが、この場所が江戸一の名所であることは違わないだろう。
そんな駿河町に十名ほどの黒い影が近付き、三井越後屋の唐木の木戸を強引に蹴り飛ばした。
「ああ? 誰もいねえし、商品も置いてねえじゃねえか」
越後屋には人どころか、商品一つなかった。眼帯を付けた片目の旗本奴が眉間にしわを寄せる。
「三次郎さん、どうしますか?」
「……どうでもいい。さっさと蔵を暴いてズらかるぞ」
黒い頭巾をかぶった旗本奴らは、荒々しく店の中に侵入して行く。
すると、すぐ前にあった襖が開いた。そこでは一人の男があぐらをかいてニヤニヤとしながら見つめる。
「よぉ三次郎。待ってたぜ」
「……き、金四郎じゃねえか、驚かせやがって。てっきり来ないもんかと思ってたぜ。さっさとこっちに……」
三次郎そう言って手招きをして呼び寄せた。
景元はニヤリと微笑んでその場で立ち上がった。
「悪いがなぁ、てめぇらはもう終わりだよ」
「な、なんだと?」
「姉御! 俺の読み通りでしたぜ!」
薄暗い店の中で景元は右手を上げた。その直後、襖が勢いよく開いて煌々と燃える提灯が飛び出し、その暖かい光に照らされてぼうっと景元が照らされる。
旗本奴達は声を上げて驚く。
「……て、てめえ、裏切りやがったのか!」
「馬鹿が。裏切っちゃいねえよ。改心しただけさ」
三次郎は顔を歪めて肩を震わせる。
「それに、あん時言ってたよな、お前がやってる事ってのは公儀の為だってさ」
「あ、ああ。何が悪い!」
「……そりゃぁ違えよ」
景元は口角をほのかに上げて小さく微笑むと、腕を組みながら真正面にいる三次郎を見据える。
「本当の公儀のためってのはよぉ、誰も悲しまねえで笑顔で過ごせる世を作るってことなんだよ!」
「……下らねえなぁ! 野郎共、幕府の狗どもをやっちまうぞ!」
三次郎はたじろがず抜刀して叫ぶと、周りにいた旗本奴達も抜刀して大声を上げる。
景元はため息をつくと忠春の元に駆け寄った。
「姉御、さっさとやっちまいましょう!」
「やってやるわよ! 刺又隊、配置につけっ!」
忠春が采配を振って号令をかけると、両脇に控えていた奉行所の者達は一斉に長柄の武器を手にして横一列に並んで構えた。
一つの横隊には与力・同心合わせて十名が控え、背後にも十名の横隊が並び槍衾を敷く。
相手は10名ほどと少人数とはいえ、混戦となれば斬られる味方も出てくるだろう。これは味方の被害を抑えるための戦術だ。
「……っちぃ、こりゃ近づけねえな」
威勢よく飛び掛かった旗本奴だったが、奉行所の同心達は刺又を携えて前進する。
いくら旗本奴が腕に自信があろうが、持っている武器は長さ3尺ほどの太刀のみだが、対する奉行所の持っている刺又は7尺ほどある。旗本奴達は奉行所の同心達に近づこうとするも、得物の長さが劣るために近づくことすらできない。
「……まぁ、こうなるわよね」
「この狭い店内では刺又を避けて横から入る訳にも行きません。それに彼らは秋殿や周作殿に鍛えられております。白兵戦で負けることはまずないでしょう」
二列横隊の後で指揮を執る忠春と政憲はそう会話する。
現に、旗本奴達が声を上げて同心達に襲いかかろうとするも、遠い距離から刺又で突かれて上手く動けていない。
この刺又には釣り針のような"返し"が無数にある。その返しで、相手の着物をからめて動きを封じて生きたまま捕まえる。
旗本奴の2.3名ほどは刺又で肩を突かれ、鋭い返しに引っ掛かって召し取られている。
「……く、くだらねえ! こんなところで死んでたまるかよ!」
「待て! 逃げるんじゃねえ! 戦え!」
旗本奴達は旗色が悪くなるやいなや、一人、また一人と越後屋から逃げ出そうとした。
「ふざけんな! こんなところで俺は死にたくねえぞ!」
三次郎が呼びとめるも、粋がっていた眼帯の男はそう言い返して通りに飛び出した。
「へっ、ちょろいもんだな……」
逃げ足は速く、簡単に越後屋を出る。
だが、眼帯の目の前で待っていたのは刺又の横隊だった。
「忠春様の計画通りだ。誰一人として店から逃がすんじゃねえぞ!」
陣笠を被った幸生が店外で叫ぶと、横隊が一斉に刺又を突きだした。眼帯男の首元に刺又が当たって、その場に突っ伏す。
向かい側の宿に控えていた幸生達を、旗本奴達が越後屋に突入をしたと同時に背後に回り込んでいたのだ。
「予定通りね。アンタ達、抵抗したって無駄よ! 神妙にお縄につきなさい!」
旗本奴の前後では刺又の横隊が詰め寄るので前後左右に逃げ場は無い。旗本奴数人は諦めて刀をその場に放り出して降伏し出した。
「……っちぃ、仕方がねえ。最後の賭けに出るか」
三次郎も観念して刀をその場に置いて忠春の元に歩み寄ってきた。
「ふん、最初からそうすればいいのよ。最後の賭けと言ってもアンタ達の死罪は……」
忠春は旗本奴達を縄でくくるようにと、横にいた同心達に指示を出すため正面から目を離した。
その時だった。
「最後の賭けはこれだ! 手前だけでも死にやがれ忠春っ!」
三次郎は懐から小刀を取り出し、横を向いた忠春に突きかかる。
「っ!」
咄嗟の出来ごとで、周りにいた同心達は抵抗出来ず、忠春も身構えることしか出来ない。
三次郎は小刀を横に寝かせて鎖帷子の隙間と、肋骨の隙間を狙って突いた。その直後、肉を切り裂く音が聞こえた。
与力・同心達のの視線が忠春に集中した。大声で忠春の名を呼ぶ者、駆け足で忠春の元に行く者や、頭を抱える者もいた。
「た、忠春様!」
政憲や幸生も叫んだ。
だが、忠春は無傷だった。
その代わりに、忠春の目の前で男が一人脇腹を抱える。
「い、いってぇ……」
「き、金四郎!」
すぐそばにいた景元が、三次郎の前に立ちふさがって忠春をかばったのだった。
「……っちぃ、しくじったか」
刺した景元を気づかうことも無く、三次郎はそう吐き捨てて越後屋から逃げ出そうとする。
「……三次郎、姉御に手ぇ出すんじゃねえぞこの野郎っ!」
脇腹の小刀はしっかりと景元に刺さっている。刺さった小刀の白刃が見えなくなるほどの深い傷だ。
だが、そんな傷を負っていることを思わせないような機敏な動きで、景元は三次郎に殴りかかる。
「俺は散々恩を受けてんだ。だからその借りは絶対に返す! それが男ってもんだ!」
普通であればその場にうずくまって動けないはずなのに、景元はピンピンして動く。
鬼気迫る景元の表情に、三次郎は腰が抜かして次の一歩が踏み出せない。
「あばよ、三次郎!」
勢いよく繰り出された右拳は、夏の湿った空気を帯びながら三次郎の頬に突きささる。
「うぐぉぁっ!」
景元は拳を振り切った。その姿は、鶴が羽を伸ばして水面から飛び立つような美しさがあり、飢えた狼が野を往く鹿に襲いかかってその背中を食いちぎる力強さも持っていた。
頬骨が砕ける乾いた音と共に、三次郎は店外まで吹き飛ぶ。空中を数秒漂うと、背中から地面にたたきつけられ口から泡を吹いて失神した。
「……親父の仇だ。まだ死んじゃいねえけどな」
景元は呟き、片膝を床に突いて必死に息を吐く。脇腹に刺さった小刀は、ガッチリと引き締まった腹を貫いており、真っ赤な血が土間に滴り落ちる。
すぐさま忠春らは景元に駆けよる。
「き、金四郎! しっかりしなさい! 今すぐ町医者を呼ぶわ!」
「……なぁに姉御、俺は秋先生に鍛えられたから、こんな刀なんざ屁でもねえよ。道場で食らった秋先生の突きや、姉御の張り手の方が数倍も痛ぇや……」
心配そうに見つめ、問いかける忠春らを尻眼に、景元は笑いながらその場に崩れ落ちた。
○
景元は小石川の養生所にいた。
旗本奴達を捕らえたのと同時に町医者を呼んで見てもらった。
幸か不幸か、呼んできた町医者はやまが屋にいたのと同じ人で、深い傷を負った二人を一緒の養生所に連れて診ていた。
「金四郎、具合はどうなの?」
忠春が見舞いにやって来た。
10畳ほどの部屋には布団が二つ敷かれており、そこに景元と景晋が寝そべって談話している。
「姉御、今すぐにでも奉行所に戻って仕事の一つや二つ片付けて見せますよ!」
「バカね。今の月番は北町よ? 戻ってこられたってアンタの出る幕は無いわよ」
「これは忠春殿。倅が世話になっとります」
横で寝ていた景晋が起き上がりしわくちゃの顔を緩ませた。
景晋の顔はやまが屋で見た姿よりも血色は良くなっていた。
「お久しぶりでございます。景晋様の具合はどうですか?」
「なぁに、倅に比べれば大したことはありませんよ」
そう言うと景晋は景元に目線を移す。
景元は小刀に刺されたとはいえ、長さは8寸ほどあった。死んでいてもおかしく無かったが、奇蹟的に五臓六腑の隙間を掻い潜っていたそうで、診断によれば傷口が塞がるのを待つだけでいいらしい。
忠春も景元に目を向けた。
「アンタも元気そうなら別にいいわ」
「姉御、俺はこの一月ほど奉行所で仕事をしてわかりました」
先ほどのいつも通りの気さくな景元だったが、いつになく真剣な表情に変わる。
「へぇ、なにがわかったの?」
「俺も奉行になって、江戸の為に働きたいと思います」
忠春と景晋は声を上げる。
「いきなりどうしたのよ。なんの風の吹き回しよ」
「ずっとふざけて生きてたんですけど、奉行所に来て、町人や真っ当に生きるってのも悪くねえと思ったんです」
景元は恥ずかしそうに小さく微笑むと話を続ける。
「それに、山雅屋で見たあの女の子の顔を見て思ったんです。呆然として涙を流す元気もねえ。こんな生活はもうやってらんねえなって…… だから俺は姉御のように、真っ当に生きて、まっすぐに生きようと思うんですよ」
「き、金四郎……」
「俺はいつか姉御に追い付いて見せます。俺の成長を見てて下さいよ!」
景元はらはらと涙を流しながら言う。
「……ええ。アンタの成長をとくと見守ってやるわよ。アタシも期待してる」
忠春はニッコリと微笑み景元の頭を優しくなでる。横にいる景晋ははらはらと涙を流す。
「金四郎、お前も成長したんだな。ずっとお前にかまってやれず、この一週間ほど病床でだがお前と一緒に過ごして初めて父親らしいことをしたような気がするよ」
「……親父、色々と迷惑かけて悪かったな」
景元は景晋を向き頭をついて謝った。
「……ワシだってお前の面倒を見れずに済まなかった」
父子は互いに肩を抱き合って静かに涙を流した。
そばで見ていた忠春も、頬に涙が伝う。
「……これで、景晋様の依頼も一件落着ね。それじゃぁ、私は失礼します」
忠春が去ろうとすると、景晋が声をかける。
「忠春殿、本当にありがとう。この恩は必ず返す。絶対だ」
「へへ、期待しないで待ってますよ」
景晋が忠春の手をガッチリと握り涙を流して言った。
カミソリのように鋭く尖った硬骨の官吏も、息子のことで頭を悩ます一人の父親だったのだ。
養生所を出て伝通院を南に進み、安藤上屋敷の緩やかな坂を下りるていると、忠春はふと思った。
私が最後に家族とゆっくり過ごしたのはいつだろうか。幼い頃はよく遊んだものの、歳を取るにつれて父と疎遠になった。
忠春が町奉行職に就いてから、忠移とのわだかまりが解けた。父も日光祭礼奉行という閑職にいるので時間はあるが、忠春の方に時間は無い。しかし、この日は屋敷に早く帰られる。
「……生きているうちに孝行しないとダメだよね。たまにはご飯でも作ってあげようかな」
夕暮れの温い風を受けながら、緩やかな坂を下りながら父の好みや今晩の献立を考えつつ神田上水を渡った。
用語解説
『三井越後屋』よく悪代官と悪だくみをしてる店で、大型百貨店「三越」の元祖。名所江戸百景などの浮世絵では富士山と三越が一緒に描かれいて、当時からポピュラーなセットだったらしいです。
『駿河町』今の日本橋室町らへん。上述の三越があったり、大丸があったり、金座があったりと江戸の商業の中心地でした。名前の由来は駿河の商人が開いたからだとか、富士山が望めるからなど諸説あります。