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女奉行捕物帖  作者: 浅井
熱風。そして腥風
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旧友

 意気揚々と出張った遠山景元だったが、一週間経っても旗本奴がやって来る気配は無い。

 日本橋は平穏そのもので、商人たちの賑やかな声のみが届いてくる。


「……景元はダメだったようね」


 越後屋の張り込みから戻ってきた景元の報告を受け、忠春はため息をつく。景元の活躍に期待していただけに落胆せざるを得なかった。


「姉御、申し訳ありません……」


 普段は真夏の刺さるような日差しのように暑苦しい景元だが、今日は違う。かんばしい報告が出来ず落ち込んで顔に影が差す。


「ここ最近は襲撃が止まったとはいえ、日本橋ばかりに人数は割けないわよね」

「ええ。ただでさえ少ない人数でやってるんですからね。ここまでやっても相手が来ないんじゃ話にならないな」


 衛栄は冷たく言う。

 そもそも奉行所の人員は50名ほどしか居ない。奉行所内の仕事を専門に扱う人員を引くと、町を廻る与力・同心は30名足らずしかいない。

 そんな中、日本橋の越後屋前に10名ほどを張りこませている。襲撃が止んでいる今はいいものの、また活動し出したら蛮行を止めることは難しいだろう。


「いや、俺の読みは間違ってねえんだ。お願いだ。もう少し時間を……」


 景元が言うも、衛栄らの目線は冷たい。


「衛栄殿の言う通りです。残念ですが諦めるしかありませんね」


 政憲もため息をついて言った。


「……アンタの心意気は買うわ。でも、日本橋のみに人数を割くわけにはいかないの。だからこうしましょう」

「そういうことだ。諦め……」


 幸生が結論付けようとすると忠春が遮った。


「あと三日だけ猶予を与えるわ。それまでに来なかったら他の場所に配置換えよ」

「ああ。ありがてえ。必ず姉御の期待に沿って見せる!」


 勢いよく頭を下げると奉行所を飛び出して行った。


「……忠春様は景元殿に少々甘くないですか?」


 冷たい視線を送っていた幸生が言う。


「あの読みは一理あると思うの。ここまで」

「……でも現に奴らは来ないじゃないですか」


 忠春が言うと、幸生は小さく毒づく。


「まぁ、そうなんだけどね。何か文句あるの?」

「そもそも文句なんて無いですよ。ただね……」


 またも幸生の歯切れが悪くなる。


「今度は何なの?」

「遠山様の子だからといって信じ込むのはどうなんでしょうか。それに、アイツはほんの前まで旗本奴の手先だった男ですよ? 旗本奴には散々コケにされているんです。そんなヤツの指揮下に置かれる同心達の身にもなって下さい」


 幸生は力強く言う。他の同心たちも頷き、ぽつぽつと声が上がる。

 言うことは分からないでも無い。身内を斬ったような連中と組みたくは無いだろう。だが、忠春も黙っていなかった。


「これでダメだったら私の目が節穴だったってだけよ。それとも現状の捜査でヤツらを捕まえられるとでも?」

「……」


 返す言葉が見つからず、騒いでいた同心達は黙り込んだ。


「悔しいけど今の私たちじゃ忠之はおろか、旗本奴の精鋭ですら捕まえられない。それに、アイツは見どころがあると思うの。それが、過ちを犯してきた人間だとしても、本気になって動こうとしてんのよ。それを見捨てるなんて私には出来ないわ」


 忠春はまっすぐな目で言う。話の渦中にいる本人がいたらわんわん泣いて忠春に抱きつくだろう。そんな忠春を見て幸生はため息を吐く。


「……忠春様がそう言うなら私どもが口出すことなどございません。忠春様が行かれたところで人数は10名ほど。それでは取り逃すのがオチです。もっと人数を掛けましょう」


 幸生がそう言うと周りの同心達も頭を下げた。


「よろしく頼んだわよ」


 忠春も頭を下げる。幸生は頭に手をやって笑う。


「それじゃ、連中の悪行を終わらせに行くわよ!」





 奉行所全体で日本橋を張るが、二日たっても旗本奴の姿は見えない。

 目の前に三井越後屋の正面が望める部屋に忠春らは詰めているのだが、真夏のうだるような暑さの中窓を小さく開けはなっていて室温は体温を超えるんじゃないかというくらいになっても、部屋に漂う空気は冷たい。

 そんな空気を無視するように刻は過ぎて行く。日本橋から暮れ六つを知らせる鐘が鳴り響いた。


「姉御、申し訳ありやせん……」


 景元からは普段のカラ元気は消え、疲れの見える顔も暗い。


「何言ってんのよ。まだ猶予は残ってるわ。連中が動くとすればもっと日が落ちてからよ。シャキッとしなさいよ」


 忠春は沈みこんだ景元の背中を叩く。

 そう言う忠春も少々焦っていた。自分自身の人を見る目云々ではなく、いつまで旗本奴に踊らされるのかという焦燥感があった。

 発破をかけるも元気を取り戻さない景元を横目に、忠春は側にいた幸生に話を聞く。


「それで、越後屋に控えさせている義親たちはどうなの?」

「店の協力もあって問題はありません。彼らも忠春様の号令を待っております」


 念には念を入れて越後屋に義親を筆頭にして6名ほど、斜め向かいにある旅籠にも6名の奉行所の同心を控えさせている。

 それにここは日本橋の中心地。場所が場所なので、旅籠からの合図があれば町年寄の援軍も望める。


「準備万端ね。それじゃ何かあったら教えてちょうだい」


 返事を返した幸生は景元を睨みつけながら部屋を後にする。


「そういえばアンタ、火盗改にいたのよね」

「まぁ、一度だけ小遣い稼ぎで仕事をしましたが」

「あの綾瀬川での件に居合わせたんだってね。全く気がつかなかったわ」

「そういや、あの時に南町奉行所も来ていやしたね」

「まぁね。とはいってもほとんどが片付いたから、私たちが何かをしたってわけでもないんだけど」

「あん時は忠景殿が全てを片付けたような気がしやすね」


 確かに忠景の活躍が目立った。顔立ちも良く、剣の腕も立つ。忠春は忠景に良縁でも探してやろうかと思案する。


「どうでもいいんだけど、なんで火盗改で働くのを止めたの?」

「いやぁ、宣冬様は悪い人じゃなかったんですけど、周りの人たちとソリが合わなくて……」


 宣冬以外の火盗改というと、ノッポと小太りの男二人組と宣冬にいつも付き従っている年齢不詳の女性が忠春の目に浮かんだ。


「二人組はいいけど、あの佐嶋って女はどんなヤツなのよ」

「いやぁ、佐嶋様は長谷川家の譜代の家臣ですよ。普段は宣冬様みたいな怜悧な感じなんですけど、俺が宣冬様と話しているだけで俺を呪い殺す様な目線を送って来るんですよ」


 よっぽどそれが恐ろしかったらしく、景元は両手で肩を抱いて小さく震えていた。


「へぇ、譜代の家臣なの。それはそうと、宣冬とアタシ、どっちがいい?」

「ど、どっちがいいと言うと?」

「そりゃ簡単よ。文字通りどっちがいいってことよ。ヤツが上なのか、アタシが上なのか」


 忠春は景元に迫る。


「い、いやぁ、宣冬様にも世話になったんでどちらなんて……」

「なに? 色々と面倒見てんのにそんな返事をしちゃうの?」


 言葉に詰まった景元の顎に、忠春は指を当てて意地悪く微笑む。


「それで、どうなの?」

「……そ、そりゃぁ姉御に決まってるでしょう。もう、全てにおいて姉御が上回ってます」


 景元が苦笑しながらそう言うと、忠春は満足そうに顔へ手をやって微笑んだ。


「たとえ世辞でもアイツに勝ったって言われるのは悪い気はしないわね。こんな風に旗本奴もすんなりいってほしいんだけどね」


 忠春は意気込んでいるが、それとは対照的に景元の表情は暗い。


「やっぱ俺は奉行所にいちゃいけねえんじゃねえのかな」

「なによ、バカみたいな元気はどこにいったの?」

「いやぁ、あんだけ恰好を付けといてこれじゃぁダメです。幸生殿なんか目の仇を見るように厳しいし、姉御だって上の方との折衝で忙しいだろうに、こんな所で時間を無駄に割いてもらっちまってるし、どうしようもねえんだ」


 下を向く景元にいつもの覇気は無く、ずっとため息をついている。


「ったく、だからシャキッとしなさいよ。アンタはどうやって旗本奴を倒すかだけ考えてればいいの。秋ちゃんや忠景に剣を学んだんでしょ?」


 中庭で忠春に敗れて以来、景元は剣術を指南役の佐々木秋に教わっていた。それも、朝早くに大岡邸に赴き、日中は奉行所に出仕をして、夜は秋の道場に行って稽古を付けてもらう。景元は忠春に負けて以来、そんな生活を常に送っていた。

 越後屋の見張りを買って出たのちは、秋に頼みこんで稽古の時間を朝早くにずらしてもらっていた。それを忠春は知っていたのだ。


「ど、どうしてそれを……」

「誰よりも努力をしてんのを私は知ってんの。それと、アンタを買いかぶっちゃいないわ。それにね……」


 忠春は景元の目をしっかりと見た。


「周りはどう思ってようが、アンタは立派な奉行所の一員よ。過去なんか気にしないで今を見てればいいの。わかった?」


 忠春は頬を緩ませて優しく微笑み、景元の肩に優しく触れる。


「……姉御、俺はやりますよ。姉御の顔を立てるとかそんなんじゃなくて、連中をブッ倒してきます!」


 景元が明るい顔を見せてその場に立ちあがる。


「そう。アンタに暗い顔は似合わないの。バカみたいに笑ってなさい!」


 景元が意気込むのだが、無情にも時間は過ぎ去って、期日の3日を過ぎた。





「景元殿、ここにいたのか」

「忠景殿かい。悪ぃが帰ってくれねえかな」


 景元は深川の酒場にいた。

 江戸の中心から外れ、細かい水路に囲まれた深川は身を隠すのにもってこいの場所だった。

 ガヤガヤと騒がしい店内はで、景元は一人で酒を呑んでいた。


「……忠春様から連れ戻すように言われた。この一週間何をしていた?」


 忠景は景元の横に座った。


「姉御にあれだけ言ってもらったのに、顔に泥を塗っちまった。見せる顔なんかねえよ」

「あのなぁ、忠春様は……」


 忠景が話そうとすると、景元の所にガラの悪い男がやって来た。


「なんだ、金四郎じゃねえか。最近顔を見せねえけどどうしたんだ」

「お、お前はは三次郎……」

「なに青い顔してやがんだ。幽霊でも見たような顔しやがって」


 飲み屋で出会ったのは古い付き合いだった上田三次郎。景元の幼馴染みであり、旗本奴で共に仕事をしてきた。

 忠景はすぐに景元から視線を逸らして隣の卓へと移って横耳で話を聞く。


「い、いや、何でもねえよ。まさかこんな所で合うとは思わなかったもんでな」

「ハハハ、そりゃぁそうだろう。俺だってお前と会うなんて思って無かったさ。それに、前に会ったのはいつだったっけな。去年に神田で仕事以来になるのか?」

「そうだろうな。お前は相変わらずだな」

「まったくだ。最近、浅草でひと仕事あったようだけど、みんな捕まっちまったんだよな」


 綾瀬の庄屋の一件だ。三次郎は佐々木秋の誘拐に参加をしなかった。そのため、綾瀬で景元が火盗改に情報を流したことは知らなかった。


「お前も参加したって話を聞いたんだが、よく火盗改や奉行所の連中から逃げ出したな。さすがは金四郎だな」

「た、大したことはねえよ。運が良かっただけさ」


 景元は黙って酒を呷る。三次郎は言葉を続けた。


「ま、それもお前らしいかも知れないな。それと金四郎、さっき隣の男と話したけど知り合いか?」


 三次郎は忠景を冷たく見つめる。いや、見つめるというよりも鋭い目で睨みつけていた。


「い、いや、知らねえよ。ちょっと肩がぶつかっただけだ」

「……ああ。初対面だ」

「お、おう、それならいいんだが、そんな風に見ることぁねえじゃねえか」


 忠景は三次郎を同じように冷たく見つめ返すと、睨まれたほろ酔いの三次郎は、小さく毒づいてすぐさま景元の方を向いて話し始める。

 二人は身の上話、女の話などくだらない話ばかりだったが、酒が進むと昔話になった。


「お前は変な所で一本気が通ってるというか、正義感が強かったよな。町人と喧嘩した時はお前だけ『堅気のモンに迷惑をかけんじゃねえ』って参加しなかったしな」

「そうだったか? 覚えちゃいねえよ」


 三次郎が上機嫌に話しつづける。


「それにずっと言ってたよな。『俺は親父を超える』ともさ。家に帰らねえくせに」

「んなこと覚えちゃいねえよ」


 景元は小さく舌打ちをし、酒を黙々と呷る


「まぁいいさ。お前の親父は勘定奉行だろ? その御曹司がこんな所で何やってんだよ」

「うるせえなぁ、お前の所だって鑓奉行じゃねえか。二千石持ちの家柄なんだから養子に引く手あまただろ」

「ハハハ、そりゃそうか」


 三次郎は笑う。二人は更に酒を飲み交わす。

 二人はだいぶ酔っていた。目は腫れぼったくなり、挙動がおぼつかない。目の前にある盃を持つのにも一苦労をする。

 そんな中、顔を真っ赤にした景元は三次郎に問いかける。


「……変わりてえとか思わねえのか?」

「おい金四郎、いきなりどうしたってんだ」

「ガキみてえに路地裏を這いまわって暮らすんじゃなくって真っ当に生きねえかってことだよ」


 いつになく神妙な面持ちで話す景元だが、三次郎は一笑に付した。


「ハハハ、面白いこと言うじゃねえか。俺は旗本の三男坊だぜ? 真面目にやったってロクな一生を過ごせねえ。これが、戦国の世だったら合戦で一華咲かせられるかも知れねえけどな」

「……まぁ、そうだよな」

「俺にはこんな安寧はいらねえ。だから俺はこの腕で生活を立ててえんだよ。それに、俺らは儲けてる連中からしか取らねえ主義だからな。浅草だってそうだっただろう?」

「ああ。あそこの商家は地方から来た人間を二束三文の賃金で働かせて暴利をむさぼっていた。襲われて当然だ」


 景元が言うと三次郎は満足そうにうなずいた。


「そういうことだ。まともに働いた所でたいして役には立てない。だけども、この仕事は無宿人や貧乏旗本の為になってる。町人なんかのためにせこせこ働くのと、武士のために働く。俺は今の方が真っ当な仕事に思えてしょうがねえよ」


 武家にとって長男以外はごく潰しである。そうなると長男が早世するのを待つか、養子に取られなければまともな人生を送ることは出来ない。旗本奴のような無頼集団に武家の次男三男坊が集まるのは自然の摂理といってもよい。


「それにな、金四郎。俺は機嫌がいいんだ。ここにいる連中に一杯呑ませてやれ!」


 三次郎がそう言うと、店内はドッと盛り上がる。

 景元は三次郎に酒を注いでもらうと一気に飲み干した。


「……やけに羽振りがいいな。金でも入ったのか?」

「まぁな。ちょっとした"仕事"をしてな」


 三次郎は派手な刀を指差す。


「なるほどな。どこで仕事をしたんだ?」

「数寄屋橋の問屋だ。ちょんの間の仕事で十両ばかしももらえんだから、出仕して真面目に暮らすのが馬鹿らしくてな!」


 大声で笑いながら三次郎は主人に一両小判を放り投げる。


「数寄屋橋の問屋って、信州のやまが屋か?」

「ほう、よく分かったな。千里眼でも持ってんのか」


 三次郎は再び上機嫌に笑う。景元は盃を机に置いて三次郎の目を見据える。


「そりゃ江戸じゃ有名な事件だからな。それでよ、……誰か斬ったのか?」

「ま、まぁな。店主の一緒にいた老いぼれを斬ったよ。まぁ、爺なんか何人斬った所で張り合いがねえんだから面白くともなんともねえけどな」


 景元は勢いよくその場に立ち上がった。左手は刀の柄をガッチリと握る。なんせ、父親を襲った男が目の前にいるのだ。その相手が旧友だろうと関係無い。

 新たに酒を振舞われて賑やかになった店で、ハバキが鞘と擦れて小さな金切り音を立てる。そこに、不意に景元の脳裏に忠春の言葉が浮かんだ。


――奉行所の一員


 その言葉が景元の衝動を止めた。


「おいおい、怖い顔してどうしたんだ?」

「……なんでもないさ。それより三次郎、次の仕事ってのはどこでやるんだ? 前にもらった金が尽きちまったから、俺も一枚噛みてえんだが」


 景元はその場に座って酒を呷る。三次郎は大きく頷いて盃を手にした。


「お前さんが来るなら俺も嬉しいよ。明後日の暮九つに越後屋だ。奉行所は間抜けばかりだから難なく終えられるだろうよ」


 手にした盃を一気に飲み干す。景元は冷めた目で言う。


「確かに奉行所はバカばっかだよ。だけど一つ忠告しておくよ」

「ああ?」

「……馬鹿を舐めてると痛い目に会うぜ。じゃあな」


 景元は引き攣り笑いを浮かべながら徳利ごと酒を一呑みし、柱にぶつかりながらのおぼつかない足取りで店を後にした。

 忠景と三次郎は顔を見合わせて後ろ姿を見る。


「……行っちまったな。おめえさんはまだ呑むのかい?」

「いや、俺も帰るとするよ」


 忠景は景元の後を追って店を出て行った。





 江戸を熱く照らす太陽がまだ残る夕暮れ。月番の終わり掛けた南町奉行所はどこか安堵感に包まれていた。

 あれだけ襲ってきた旗本奴達も先週あたりから影を潜め、大きな報告は上がってこない。

 同心達から報告を聞いた幸生は「日本橋なんかに人数を割かなくなったからだ」と胸を張っているのだが、忠春は居なくなった景元の行方を気にかけていた。


「姉御、報告がありやす!」


 そんな折のこと。突然、中庭から景元が奉行所に顔を出した。景元の姿は小奇麗な格好ではなく、初めて奉行所に顔を出した時のようなズタボロであった。

 忠春の顔を見るなり頭を下げる。


「あれだけアタシに言わせておいて、奉行所に顔を出さないなんてどういう了見なの? 理由によっちゃアンタを……」

「申し訳ねえがその話は後にしてくれ。姉御、頼みがあるんだ」


 忠春が拳を振り上げて剣幕になって言葉を浴びせるも、景元は微動だにせず頭を下げ続ける。

 尋常じゃない覚悟に忠春も気がついた。


「……頭を上げなさい。どうしたの?」


 景元は薄く微笑んで言う。


「明日の暮、日本橋の越後屋に旗本奴の連中がやって来ます」

「ちょっ、それはほんとな……」


 忠春は両肩を掴んで問いただそうと景元の側に駆け寄る。だが、横にいた幸生がそれに先んじて景元の胸ぐらを掴んで持ち上げた。


「てめえ! いい加減にしやがれ! この前もそんなこと言って来なかったじゃねえか! そんな間に他の町で防げた事件だってあったんだぞ!」

「……殴りたきゃ殴りやがれ! だがなぁ、連中は奉行所を舐め切ってんだぞ! これを逃したら俺たちはあんなクズ共に舐められたまま終わっていいのかってんだ!」

「”俺たち”だぁ? てめえ一人の話に俺たちを加えるんじゃねえ! ずっとふざけた口をききやがって、こ、この野郎っ!」


 右拳を振りかざして青筋を立てる幸生の姿は見たことが無かった。だが、そんな姿を目の前にしても、景元の肝はしっかりと座っていて、忠春から目線を外さない。


「……やめなさい」


 忠春も景元の気を感じ取り、幸生を制する。


「アンタ、今度は本当なんでしょうね」

「ああ。俺の首をかけてやってもいい」


 右腕を勢い良く上げて親指で首を指差した。


「お前のクビなんざなぁ……」


 幸生が怒鳴りかかろうとするのだが、忠春は右手を出して幸生の動きを止めさせる。


「わかったわ。その言葉に偽りは無いわよね?」

「ああ。男の言葉だ。偽りはねえよ」

「た、忠春様……」


 景元はホッとして胸をなでおろす。


「来たくなきゃアンタは来ないでいいわよ。景元がここまで言ってんのよ? 信じなきゃ男が廃るでしょ?」


 幸生はため息をついて言う。


「別に行きたくない訳じゃないですよ。ただ、コイツの言うことは……」

「駄目だったらコイツの首を刎ねるだけよ。月番も今日で最後なんだから一仕事しましょう」


 忠春は景元に微笑みかける。


「忠春様、準備は出来ております」


 忠春用の鎖帷子と陣笠を手にした義親がやってきた。

 義親も捕り物用の装備を身につけていて、中庭に目をやると、続々と装備を身に付けた与力・同心らが集まりだす。日の沈みかけた奉行所の庭先に何十本もの提灯がひるがえっている。


「……それじゃ、行くわよっ!」


 忠春が号令をかけると、いっせいに声が上がった。

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