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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春風吹く
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湯島の誓い

 「上野と女って聞いた時なんとなく想像できたけど、やっぱり出会茶屋での事件なの?」


 昌平橋を渡り、下谷御成街道を中ごろまで進んだ時、忠春は嫌な顔をしながらそう言った。奉行所を出る時に降っていた雨は殆ど止んでいるが、雲行きは怪しいままである。

 上野の不忍池一帯には「出会茶屋」という建物が多数ある。簡単に言えば男と女が集まってヤるべきことをヤる場所だ。


「御名答です。話によると茶屋の中に女の遺体が残っていたとの事です」


 好慶が答える。それを聞いた忠春が言う。


「そうなの。そう言えば、そんな感じの事件最近無かったっけ? 少し前にも瓦版で見た気がするんだけど」

「ええ、先月から含めて五件目ですよ。ほんと、嫌になっちゃいますよ」


 好慶がため息をつきながら暗い顔で言った。


「確かに市中で人が死ぬのも嫌ですし、死んだ様を見るのはもっと嫌ですもんね」


 義親も同じくため息をつきながら言う。


「まぁ、起こってしまったものは仕方ありません。調べましょう」


 政憲がそう言った。続けて忠春が言う


「でも、五件ほど似たような事件が起きてるってことは、同一犯じゃないの?」


 好慶が少し考えた後に答える。


「どうなんですかね。過去の事件では証拠も残っていないようですし、どうとも言えません。とはいえ、その筋で私たちは探っておりますが」

「ふーん、そうなの」


 忠春は素っ気なく答えると徒を進めた。


「ほら、あそこを見て下さい。そろそろ現場が見えてきましたよ」


 義親が指を差した先の看板に「天神屋」と書かれた家があった。


「しっかし、事件ってなるとあそこまで騒動になるのね、人が死んでるって言うのに。全く呑気なもんよ、ホント」


 忠春がため息をつきつつぼそっと言う。忠春がぼやくのも無理は無い。天神屋の周りを、大量の野次馬と役人の怒号が飛び交っている情景が、まだ遠くにいる忠春の目からでもはっきりと見えた。





「ねぇ栄ちゃん。現場を見せてくれてもいいじゃのよぉ。私と栄ちゃんの仲なんだからさぁ」

「いやいや、俺とお前との仲でも、それだけは勘弁してくれよ。現場を見せる訳にはいかないんだよ」


 出会い茶屋の前で一人の女が役人に絡んでいる。肩ほどまである髪を横に結んでいる。目は垂れ目で睫毛も長く、整った顔立ちの美女だった。


「今晩付きあってあげるからさぁ。お願いよぉ栄ちゃん」


 そう言うと女は、一般の女性の平均的な物より二回り近く大きい胸元に役人の手を忍ばせ、耳元で囁く。周囲の野次馬がどよめいた。辺りから「見せてやれよ」「美人に頼まれてるんだからいいじゃねえか」といったヤジも飛ぶ。


「おいおい、また今度にしてくれよ。とりあえず今日は勘弁してくれよ」


 役人がそう言うと、女は襟を正しそっぽを向いて腕を組んだ。


「もう、私は栄ちゃんが『まったく仕方ねえなぁ、入っていいよ』って言うまで、ここから動かないんだから!」

「おいおい、相変わらず面倒な女だなぁ。ったく……」


 役人が頭を掻き回していると忠春らが現場へ到着した。好慶が役人に声を掛ける。


「衛栄殿、お疲れ様です。って文さんもいらっしゃったのですか」

「おう、好慶じゃねえか。お前は留守役の筈だっただろ?」

「いえ、実はこういうことで……」


 好慶が事の顛末をざっと衛栄に説明した。


「ったく。なんでそれを先に言わねえんだよ馬鹿野郎! ……ゴホン。これは忠春様。自己紹介が遅れました。私は与力を務めます根岸衛栄です。よろしく頼みます」


 六尺ほどある大柄な男が頭を下げた。

 厳つい顔に彫りの深い目、幅広の鼻筋に太い眉、顎いっぱいに生やした無精髭姿は、侍と言うよりもマタギや木こりといった風貌だ。


「よろしく頼むわ衛栄。ところでその女性は誰?」

「ああ、この女は……」


 衛栄が説明をしようとした時、女は忠春の方へ一直線に向かって行き、


「あなたが新しい南町奉行の奉行様なのね。凄い可愛い子が新しい南町の奉行になったのね。もし知らなかったら悪戯しちゃうところだったわよ。私の聞いた情 報だと違ったんだけど…… それは別にいいわ。そう言えば朝に私も見たわよ。あなた達が奉行所の門番に詰め寄った所! でも私は、あなた達の声と門番がへたれこんでいる所しか見てないんだけどね。あの門番、前からホントに感じが悪かったから私もスッキりしちゃったわ。あなたもほんとに格好よかったわよ。あなたの後ろに控えてるのがその詰め寄った二人なのかしら?」


 胸を除く小さい体から、絶え間なく言葉が飛び出した。


「そうよ。コイツが……」


 忠春が横にいる二人を紹介しようとするも、女の言葉は止まらない。

「あの冴えない顔は森クンで、一人はあの梅鉢紋から察するに…… えーっと筒井家なのかしら? という事は江戸に来ている筒井家の人って事は、現当主の政憲 様ってところかしらね。もう一人の坊やは誰かしら。あの家紋は特に見たことも無いし…… あなたに対する熱い視線と、今のしている表情から見てあなたの直臣って所かしらね? フフフ、面白い記事が書けそうね。 ……あ、そうよそうよ、余りの衝撃にちょっと忘れてたけど思い出したわ。さっきからあの栄ちゃん が遺体の現場を見せてくれないのよ。ほんっとケチよね。あなたからも何か言ってちょうだいよ!」


 女は絶え間なく喋り続けた。一人で勝手に悩んで一人で勝手に納得をしている。忠春は呆気に取られている。しかし、その分析力と情報量には目を見張る物がある。


「ったく、静かにしろっ!」


 女の頭を軽く叩くと呆れた表情をしながら衛栄が話した。


「このうるさい女は屋山文だ。だからさっさと帰れ」


 叩かれた場所を両手で押さえていた文だったが、衛栄の方を向き口を尖らせながら、


「もう、あとちょっとで忠春様と仲良しになれたのに」


 そうブツブツ呟いている。それが耳に入った忠春は苦笑いをしている。


「……えっと、私は屋山文よ。年は十八。情報ならこの屋山文に任せてね」


 そう言うとニコッと微笑み、文は人混みの中に紛れていった。


「……なんなのよ。あの人は」

「ああいう女なんだ。勘弁してやってくれ」


 忠春が呆気に取られて衛栄に聞くと、衛栄も頭を掻いて疲れた表情で申し訳なさそうに言う。


「あの人は文屋ですか」


 政憲がそう言うと衛栄が答えた。


「さすがは政憲殿。アイツは瓦版の記者をやってるんですよ。どこからか情報を嗅ぎつけて事件の度にやってくるんだからホントに厄介なんですよ」

「仲の良いことはいいことですよ。それに、私の家紋を見ただけで何者かも言い当てるとなんてなかなかの切れ者なんですね」


 ニヤリと微笑んだ政憲は文の能力に感嘆していたようだった。


「幼少の頃から頭は良かったんですよ。昔は淑やかな子だったのに。ほんとになんであんな風になってしまったんだろうなぁ」


 衛栄はまた暗い表情でそう答える。


「あの方の幼少の頃を知っておられるんですか?」

「ああ、俺の父上と文の父上は大層仲が良くて、幼い頃から勉強を見てやったり、暇なときは一緒に遊んだりしてたんだよ。それがなぁ……」

「それだと、より衝撃は大きいかもしれませんね」

「ほんとにそうなんだよ。どうしてああなったんだろうなぁ」


 遠くを見つめる衛栄の目に義親を同情した様子で言った。


「……ふぅ、今はこんな話を場合では無いな。忠春様、こっちですよ。好慶と義親殿は野次馬を頼む。女将よ、案内してくれ」


 衛栄がそう言うと店から女将がやって来て、忠春らは天神屋の中へと入って行った。





「こちらで御座います」


 女将がそう言うと部屋に案内された。

「これが例の遺体ね」


 遺体は胸を袈裟掛けに斬られていた。

 忠春はそう言うと両手を合わせ目を瞑った。忠春は一言呟き女将に聞く。


「それで、いつ発見したの?」


「はい。始めは昨晩の事でした。ちょうど戌の刻くらいでしたかね。この女と一人の男がやって来たんです。男の方は刀は差していなかったので身元はわかりま せんが。それで一泊分の代金を支払って二人が部屋へ入って行ってんですが、その時は特におかしな様子は無かったんですよ。それで、朝を迎えまして、朝の五ツ刻頃でしょうかねぇ、そしたら男の方がやって来まして、そそくさと去って行ったんですよ」

「部屋に入ったら仏さんがあったということか」


 衛栄が女将に言う。


「はい。その通りで御座います」


 女将がうつむきながら答えた。


「それで、部屋には何もなかったの?」

「はい。部屋には何も無かったのですが、男は去り際に、こんなものを落として行きました」


 そう言うと女将は懐から黒地の財布を取りだした。忠春は何か嫌な予感がした。


「これでございます」


 中央に金糸の大きな家紋の刺繍が施されていた。それを受け取り刺繍を見るやいなや、忠春はため息をつき言った。


「これは、面倒な事になったわね」

「どうしたんだ?」


 衛栄が忠春に聞くと、忠春は財布を見せた。


「おいおい、参ったねぇこりゃぁ……」


 義親も絶句をした。財布には沢瀉紋が描かれていた。

 沢瀉の三本足の下に波線が二本引いてある。


「下に二本波で沢瀉って言うと、水野家でしょうかねえ」


 政憲がニヤリとしながら言う。


「……まずは、この事件の全貌を知らなきゃいけないわね。悩むのは後にしましょう」


 忠春は覚悟を決めた。相手は時の権力者の水野家である。さらに幕府の要人の大半が彼らの息のかかったものと言われている。場合によっては大岡家もただでは済まない場合も十二分に有り得る。


「確かにそうだな、まずはこの仏さんの身元を調べましょうや」


 衛栄もそれに同意をする。政憲もうなずいて話す。


「とりあえず奉行所へ戻り、そこで作戦を練りましょう」


 政憲がそう言うと、外で控える同心たちを呼び死体を奉行所へ運ばせた。忠春らが門外に出ると義親が問う。


「政憲様のあの雰囲気を見てると何やら大変な事件になったようですね」

「ええ、でもこれは逆に好機かもしれないわよ」


 忠春が冷や汗を掻きながらそう言う。


「……何故でございますか?」


 義親はさっぱり解らないといった表情で聞き返す。


「まぁあんたには解らないでしょうね。それは……」


 忠春が説明をしようとした瞬間、政憲が口を挟む。


「現状の幕府の要職には、水野の息のかかったものばかりが権力を握っております。町民も水野を嫌っている上に、今の金さえ積めばなんとかなるといった、賄賂政治には飽き飽きしています。それを忠春様が断罪なされれば江戸町人や侍階級からの人気は鰻登りになるでしょう。そうなれば忠春様も忠相公に御近づきに なれるのではないか、ということでしょうか?」


 義親は「成る程」と言った表情で頷きながら聞いている。忠春は少しイラっとした表情で答えた。


「何言ってんの? 違うわよ」


 それを聞いた政憲は、微笑みながら手のひらを天に向けて残念がる。


「いや、どう考えても政憲殿の意見が正論かと思いましたが」


 義親は驚きながら聞いた。忠春はそれを鼻で笑いながらこう答えた。


「バカね義親、答えは簡単よ。ただ水野忠邦が嫌いなの! アンタは知らないかもしれないけど、ああいうスかした雰囲気の優男って嫌いなのよ。だから、アイツの鼻を空かせるなんて、これほど痛快な事はある?」


 満面の笑みで答える忠春の姿は眩しかった。眩しく思えたのは、背後の不忍池にさっきまで暗澹としていた空から、陽が差し込み反射したからなだけかもしれない。


「さっさと戻るわよ。早くしなさい」

「ははっ!」


 義親と政憲は声を上げ、忠春について行った。



○ 



「俺たちは凄い奉行に会った者だな、好慶」

「……ほんっとそうですね。凄い人ですよ、あの人は」


 揚々と奉行所に帰ろうとする忠春らの背後に立っていた衛栄と好慶は苦笑いをしている。


「しかし、こうなってしまうと私たちにも何か影響が出そうですね」

「嫌なら辞めればいい。それだけの話だ。それに、俺は爺様に一歩追いつけるかもしれないな」


 衛栄は冷たく言う。だが、好慶は唇の端を上げて微笑んだ。


「私は政憲様の家臣ですからね。辞めようったって辞められませんよ。それと、気になったんですけど、衛栄殿のお爺様ってどんな方だったんですか?」

「お前はそう言えば先月に長崎から来たばかりだったんだよな。そりゃ知らなくても当然かもな。俺の爺様の名は根岸肥前守鎮衛ってんだ」

「……根岸肥前守って言うと、昔の南町奉行ですか?」


 好慶は驚いた表情をする。そんな話は聞いたことが無かった。


「ああ、そうだ。俺も昔から爺様に可愛がられてな。文と一緒に色々な話を聞いたんだよ。その時に俺は絶対に南町奉行になってやるって心に決めたんだよ。んで南町奉行に入って順調に上がって行って年番方にまでなったんだけどな」

「……そうだったのですか」


 好慶には全くの予想外の話であった。


「結局、あんたの殿さまが年番方になって俺は吟味方に戻ってな。まあ俺なんかが見たって政憲殿は優秀な方って分かるからな。異論はないよ」


 衛栄は遠くを見つめて薄く笑う。


「まぁ、人事が万事塞翁が馬って事だよ。しかし、忠春様といい政憲様といい、あんな方にお仕え出来るなんて、俺は誇らしいと思うぞ。あの雰囲気や感じは俺の爺様にそっくりだしな。突拍子が無くて豪放磊落な所とかな、ありゃぁ、俺以上に風格があるな。人の上に立つ人ってのはあんな風に何所か違うんだろうね」


 衛栄は苦笑いしながらそう言う。好慶も涼やかな顔を歪めつつ同じく苦笑いをして答える。


「確かにあんな方に仕えるなんて事は金輪際無さそうですもんね。私も政憲様に一生仕えると思っておりましたが、あのような方に出会える事自体が凄い事かも知れません。忠春様は間違いなく政憲様以上の何かを持っていらっしゃるようだ」

「まぁ、これも何かの縁だ。行く所まで行こうじゃねえか好慶」

「フフッ、確かにその通りですね衛栄殿」


 二人は穏やかな表情で話している。それを見た忠春が、


「お互いニヤニヤしちゃって気持ち悪いわね。さっさと行くわよ、好慶、衛栄」

「ははっ」


 二人は江戸市中に響き渡るかといわんばかりの声でそう答えた。


「ったく、うるさいわね。そんな大声で言わなくても解ってるわよ」


 微笑みながらそう忠春が言うと、一行は奉行所へと引き返して行った。

用語解説


『出会茶屋』 今で言うラブホ。連れ込み茶屋とも言われてる。


『瓦版』  現在の新聞みたいなもの。讀賣とも言われる。世間では下賤な者の職とされてるけど、文は旗本の娘って設定。


『年番方』 奉行所のナンバー2。かなり偉い。


『吟味方』 奉行所の幹部。与力のまとめ役的立場


『根岸肥前守鎮衛』 元南町奉行。18年間務める。「耳嚢」っていう江戸時代の面白話を集めた本まで残している。すごい爺さん。


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