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女奉行捕物帖  作者: 浅井
熱風。そして腥風
59/158

斬る斬られる

 翌日の南町奉行所は相変わらず忙しかった。

 昨日と同様に朝早く忠春が登城すると、勘定奉行所のような上品さのかけらもない粗野で屈強な男達が奉行所内を駆けまわる。

 御用部屋に腰をおろして執務を始めるとすぐに昼過ぎになった。忠春は誰かに茶を頼もうとするも、人はほとんどいないため自らで茶を汲みに行こうとした矢先だった。御用部屋を出たすぐで門番の小浜に捕まる。


「忠春様に会いたいという男がやって参りました」

「へぇ、通してちょうだい」


 忠春はそう言うのだが、小浜は嫌そうな顔をする。


「は、はぁ……」


 自ら客を案内しておいて何を言っているんだと忠春が怪訝そうな顔をしていると、ドタドタと大きな足音を立てて男がやって来た。


「アンタが大岡忠春か?」


 薄汚れた継ぎ接ぎだらけの服を着た男が言う。


「そうだけど、アンタは誰?」

「俺か? 俺は遠山金四郎景元だ」


 景元は言う。肌の血色は良い。だが身なりは酷く汚い。シワシワの袴羽織は無数のシミがあり、顔も無精髭を生やしたままで月代を剃らず総髪を後ろに一つにまとめていた。パッと見れば浪人というよりも無宿人にしか見えない。思っていた以上にこの男は道を逸らしている。


「アンタが遠山様の孫ね。確かに面影はあるのね」


 忠春は顔を景元のまじまじと見つめる。尖った鼻は景晋ほど大きくはないが鋭くとがっていて、目元も景晋に似て細いのだがタカのような鋭さを持っている。


「ついて来なさい。奉行所の簡単な説明をするわ」


 それを景元は額にしわを寄せて話を聞いていたのだが、親父という言葉に反応する。


「あぁ? なんでんな偉そうに仕切ってんだ」

「あなたの父上、もといお爺様きっての頼みよ。聞いてるでしょ?」


 忠春はそう言うが事情は違ったらしい。景元は青筋を立てて声を荒げる。


「親父の頼みだぁ? 俺が聞いた話と違えぞ! それに、親父の頼みだったらなおさらだ。断らせてもらうぞ、じゃあな!」

「ちょっと待ちなさいよ!」


 忠春は声を上げ呼びとめるも景元は無視して奉行所を出て行こうとした。


「小浜! 止めなさい!」


 踏み板を突き破るんじゃないかと心配をさせるほど、景元は廊下を大きな音を立てて歩いて去ろうとし、そうはさせまいと小浜は景元の腕を掴んで引き寄せようとする。


「おい止まれ!」


 小浜も決して弱い訳ではない。奉行所内では有数の力自慢である。だが、小浜がいくら力を入れても景元はビクともしない。それどころか、小浜が景元に引きづられる格好となった。


「おお! なんて馬鹿力だ!」

「ちょっと! 誰か早く来て!」


 見かねた忠春が大声を上げて増援を呼ぶと、すぐさま駆け付けてきた男がいた。


「……どうかなさいましたか」

「アイツを捕まえてちょうだい。痛めつけないでいいから」

「……承知」


 その男は忠景で、忠春の指示通り景元に飛び掛かる。

 十歩ほど先にいた景元だったのだが、数秒も立たないうちに忠景は景元に追い付く。そして、景元の襟元をガッチリと掴むと無理やり後ろに引っ張った。


「うぉぉっ!」


 長い廊下を走り去ろうとする景元だったが、襟元を引っ張られて声を上げながら後ろに倒れ込み、後頭部を廊下に強打した。


「……ったく。アンタも旗本の端くれなんでしょ? 往生際が悪いのは好かれないわよ」


 忠春は景元の横にたたずみ、腕を組んで呆れながら言う。


「いててて、なんて女だ。って、お前は……」


 後頭部を大事そうに押さえていた景元だったが、その原因となった襟元を掴んだ男を見てハッとする。


「なんでぇ忠景殿じゃねえか!」

「……なんだ金四郎殿か」


 どうやら二人は知り合いらしい。忠春は忠景の側に近寄って問いただす。


「なによ。アンタ達知り合いなの?」

「……こいつは」

「そりゃぁ知ってるさ。先の町役人の一件で綾瀬でバッタバッタと斬り伏せたのは言わずもがなこの伊藤忠景殿さ。アンタ、奉行所の人間なのにそんなのも知らねえのか?」


 忠景が説明しようと口を開いたのだが、横から景元が割り込んできて自分の事のように堂々と説明をした。忠景はバツの悪い顔をする。


「そもそも親父から聞いた話はこうだ。女の南町奉行が俺を雇いたいと勘定奉行所に三顧の礼をしたってな。それを聞いて見どころのある奉行だなって思ったぜ。それに俺だって男だ。例え奉行だろうがなんだろうが、女にこれほどまでに請われちゃ行かねえ訳にゃねえからな!」


 自慢げにそう話す景元と、なんてことを吹いていた景晋に言いたいことが頭の中に浮かび、それをすべて吐き出したいと忠春は思ったが我慢をした。口には出ないが、忠春の額にはしっかりと青筋が浮かんでいるし、頬は引き攣っている。

 だが、景晋の苦しい説明を見る限り親子、いや祖父と孫の仲はかなり冷めきっているように見えた。言いたいことと同時に同情の念も浮かぶ。


「それに、俺だって親父の頼みごとを簡単に”はいそうですか”というのは面白くねえ。だが、アンタも親父の頼みを聞いたんだろうし、南町奉行としての沽券があるだろう。一つ条件がある」


 景元は案外物分かりがいいと忠春は感心をする。道を逸れるほど道義や仁義に篤くなっているのだろうか。


「……何をすんの?」


 穏便に物事が済みそうだと期待を込めて聞き返した。景元は歯を見せて笑い自信満々に言った。


「俺と勝負をしろ」

「は、はぁ?」

「俺に勝ったらいうことを聞いてやる。だが、お前が負けたら言うことは聞かないし親父の頼みは無かったことにしろ。これでどうだ?」


 小さな希望は破れ、忠春と忠景は顔を見合わせて肩をすくめる。


「どうした? 怖じ気付いたのか?」


 景元は指を鳴らしながら言う。景晋の言っていた通り腕には自信があるらしい。それに体つきを見ても汚い着物の下は隆々とした筋肉を覗かせていて、ただグレていただけでは無さそうだ。

 軽い挑発を受け流し、忠春は再び忠景の顔を見る。忠景は黙って小さく頷いた。


「わかったわよ。受けて立つわ」


 忠春はため息交じりに言う。


「……よいのですか」

「梃子でも動きそうにないし、やるしかないじゃない。ちなみにアイツは強いの?」


 小さく景元を指差して聞く。


「見どころのある青年としか言えません」


 景元は肩をグルグルと回して準備運動を取っている。臨戦状態という所だろう。

 

「……まぁいいわ。立会人をしてちょうだい」

「承知しました」


 忠春らは奉行所の中庭に移動する。





 中庭は大した大きさでは無い。御用部屋の脇にあり小さな池がポツンとある。

 狭い庭に二人は竹刀と面具を着けて向かいあう。


「準備はいいわよ。どっからでも掛かって来なさい」

「よっしゃぁ! さっさと終わらせんぞ!」


 金四郎は大声で叫び忠春に飛び掛かった。

 だが大振りの竹刀は忠春に易々と受けられて、竹刀同士が弾けあう音が響き渡る。音は威勢の良いものの、はっきり言って景元の剣の腕はさっぱりであった。

 剣筋も甘く、秋や周作に剣術を教わっている子供でさえも簡単に受け止められるであろう。


「何よ。よくそんな腕で威勢のいいことを言えたものね」

「なぁに! まだまだぁ!」


 忠春が愚痴をこぼすも、景元は関係なしに忠春に飛び掛かる。

 景元は数合ほど打ちにいく。上・右・左と行くのだが、剣筋は遅く甘い。そんな単調な動きのため、景元の竹刀は忠春に簡単に受け止められる。

 ため息をつくと忠春は忠景を見た。忠景はどこか申し訳なさそうな顔で答える。


「くっそぉ! 中々やるじゃねえか! 俺も本気を出さなきゃいけねえなぁ!」

「どうする気?」


 忠春が身構えると、景元が大声を上げながら竹刀をその場に放り投げた。


「忠春様、気を付けてください!」


 忠景は忠春へ大声で注意を促す。


「ちょっ、竹刀相手に素手で来るの?」

「よっしゃぁ! 行くぞ!」


 景元は気合を入れて両拳をぶつけ合うと忠春めがけて突進をする。

 忠春は不意をつかれ一歩後退して構えなおし、それから一呼吸置いて景元の胸元の高さで竹刀で横に薙ぐ。

 普通であればこのまま竹刀はぶつかる。さらに忠春ほどの実力者の一撃だ。立ち上がることは出来ないだろう。


「よ、避けきったっ!」


 だが、景元は交わしきった。景元に迫った竹刀は顔面の真上を通る。


「……上体を反らしたのか」

「っはぁ! まだまだ行くぞ!」


 忠春を褒めつつ笑顔のまま景元は突進する。

 景元の十八番、徒手空拳が始まった。上体を左右に動かし、相手の的を絞らせないようにする。


「なるほど。そうやって的を絞らせないのね」

「喋って余裕ぶっこいてんじゃねえぞ! 覚悟しろ!」


 最初はゆっくりだった動きも、上体を揺らせば揺らすほどに速さは増す。

 そのスピードを乗せた上半身から繰り出される拳は剣の倍以上早く、倍以上鋭いものだった。


「っ!」


 忠春は冷静に避け切るも、痛みを感じて頬を押さえる。忠春は間一髪で避けたために、景元の拳は空を切ったのだが血が頬を伝う。


「す、凄い拳を持ってるのね。驚いたわ」

「よく見切ったなぁ! だがこれで最後だ!」


 景元は拳をぶつけ合わせて意気上がる。再び体を動かし始めたのだが、いくぶんか速度が増しはじめる。。

 上体を反らしたり大きく左右に揺り動かしたりと、景元は相手の奇を突く不可思議な戦闘流儀を取っている。


「確かに見どころはあるわね。でも私には敵わないわよ」

「おもしれえ! だったらやってみろよ!」


 景元は笑いながら左右に大きく揺り動かして拳の威力を極限まで高める。


「どうだ! この速度を避け切られるか!」


 景元は息を吐きながら三発・四発と調子よく拳を繰り出す。忠春は拳の筋をなんとか読み切り、すんでの間で避け切るギリギリの攻防が繰り広げられる。

 忠春からすれば、景元に斬りかかろうも、体を激しく揺さぶるため上半身・足元共に的が絞りづらい。更に、しっかり当てようと横に薙ごうとすれば、景元に上体を反らして見事に避け切られるだろう。

 普通の男がであれば、相手に合わせる戦略を取るか、乾坤一擲の一撃を狙うだろう。だが、相手に合わせれば景元のペースに付き合わされてタコ殴りにされ、乾坤一擲狙いで大振りをすれば景元に簡単に避けられて逆に大きな一撃を食らう。それに頬をかすめただけであの威力だ。一発でも貰えば反撃は難しい。


「これで止めだ!」


 景元は左手を振りかぶり利き腕であろう右拳を大きく繰り出した。景元の顔がチラッと見える。勝利を確信して口角がほのかに上がる。

 忠春は冷静だった。景元には一見、隙が無いように見える。だが、これまでの景元の動きを体感して、唯一の弱点を見逃さなかった。


「残念ね。私の勝ちよ」


 上体・下半身共に動きがあるためにここを打つのは不得手だろう。しかし、激しく動く景元に唯一不動の部分があった。腹だった。

 忠春は景元が殴りかかるのと同じくして、ガラ空きの腹を一突きした。二人は同時に一撃をお見舞いし合うのだが、得物の長さに優る分、忠春の竹刀のほうが早く相手に到達する。腹に一撃を食らった景元は、顔をゆがめながらも拳を伸ばすも繰り出した拳は竹刀の中ほどで止まった。


「い、痛ってぇぇ!」


 忠春に突かれた一点のみに着物に穴が開き、景元の鍛え上げられた腹筋があらわになる。


「……勝負ありだ」


 忠景はホッとしながら大声で勝負の結末を告げた。

 面具を外した忠春も、満足そうに言う。


「なかなか面白かったわ。突発的に起こる喧嘩でならそれで勝てるかもしれないけど、竹刀と広い庭じゃ少々分が悪かったかもしれないわね」

「お、お前もなかなか、や、やるじゃねえか」


 腹を押さえながら地面に蹲る景元は小さく言った。

 忠春も乱れた髪を直すと、一つにまとめた長い髪をふわりと宙を舞う。


「拗ねてみたり反抗してみたりと、誰に対しても奇を衒うのもいいけどたまには正々堂々と勝負した方がいいわよ。そうじゃなきゃアンタの為にもならないわ」

「な、何がいいてえんだ」

「……なんでそんなに反抗するの? 私が勝ったんだから正直に話しなさいよ」


 縁側に竹刀を置き、忠春はため息をつきながら景元に手を伸ばす。


「ったく、しょうがねえなぁ……」


 景元は忠春の手をガッチリと握って立ち上がり、舌打ちをして嫌そうにしながらも話し始めた。





「親父から聞いたかも知れねえけど、俺の親父は親父じゃなくて祖父なんだ」


 忠春らは縁側に腰掛けて話を聞く。


「聞いたわよ。訳あって叔父の養子になったんでしょ?」

「そういうことだ。まぁ、そこまではまだ納得できたさ。だがな……」

「どういうことなの?」


 忠春が聞き返すと景元は吐き捨てるように言った。


「その後、景善にガキが生まれた。こっからが問題だった」


 事前に聞いており話の流れはだいたい予想していた。


「親父も俺も元は違う家の男だ。それに親父は四男。養子に出されたから譜代の家臣もいない。そんな所にちゃんとした遠山家の血が通った子が生まれたらどうなる?」

「……そっちを重要視したっていうんでしょ?」

「さすがは南町奉行様だ。その通り。屋敷じゃ親父は肩身の狭い思いをしていたよ。だから長崎や蝦夷に飛ばされてた時は心底ほっとしていただろうよ」


 忠春の顔は暗くなるも、話している当の本人は景元はケラケラと笑っている。


「俺を産んだ母親もすぐに死んじまって家じゃずっと一人だった。家に帰れば怒鳴られ、詰られて。義理の親父も俺を疎ましく思っていて、家来の中からは俺を遠山家から追い出そうなんて話もあったな。れっきとした遠山家の嫡子なのにな」


 戻るべき家に血を分けた両親はいない。景元は孤独のままに暮らして来たのだろう。


「まぁ、景善の実のガキが養子に出されてからはそんな話は無くなったけどな。もはや家なんて俺の知ったことじゃねえよ」

「それからグレたのね」

「そういうことだ。まぁお前みたいに大事に育てられたボンボンにゃ分からねえ話だろうよ」


 景元は再びケラケラと笑いだす。景元の目は潤んでいたのを見逃さなかった。


「いいや、私にもわかるわよ」

「ほう、お聞かせ願おうか」


 忠春は話した。

 生まれのこと、兄のこと。元服したくてもさせてもらえなかった過去など。


「……とまぁ、こんな感じなわけ。たまたま上手くいっただけなのかもしれないけど、アンタが考えてるほど悪い世の中じゃないと思うのよ。きっとアンタの思いは景晋様に伝わると思うわよ。前に話したけどかなり心配してたし」


 そうはいっても景元の話しに比べれば可愛いものだったであろう。喋っていた忠春も、「何が分かるだ? そんなのは苦労の内に入らねえんだよ!」などと一蹴されると思っていたのだが、景元の反応は違った。

 景元は鼻をたらして泣きながら忠春に抱きついたのだ。


「そ、そうだったのけえ! 悪かった。俺が悪かった!」

「ちょ、ちょっ、何するのよっ!」

「アンタも苦労してたんだなぁ、勝手に勘違いしてあんな失礼な事を言っちまった! 本当に済まねえ! それになぁ……」


 忠春は大声で咽び泣く景元を見てどこかホッとする。似たような境遇のこの男は道を逸らして泥沼に浸かって生きてきたのだが、性根までは腐りきっていなかったのだ。

 だが、このようなことをされるのとは話は別だ。忠春は両手で景元を必死に離そうとするのだが、景元の馬鹿力には敵わない。腰ひもをガッチリと握っている。


「俺ぁ、アンタに惚れちまったんだ、結婚を!! いや、駄目だ。よくよく考えれば俺は妻帯持ちじゃねえか。仕方がねえ! アンタのことを姉御って呼ばせてくれ! 後生だ、頼む!」

「あ、姉御って……」

「おい馬鹿っ、忠春様から離れろっ!」


 忠景も景元を必死に引っぺがそうとするも離れない。忠春の着る下ろしたての白い袴が涙やら鼻水やらでべとべとになる。そもそも忠春は他人に姉御と呼ばせて悦に浸る趣味は無い。だが、泣きじゃくる景元を引っぺがすにはどうすればよいか。一つしかない。


「後生だぁ、頼むぅ!」

「ったく、分かったわよ! 好きにしていいから離れてって!」


 泣きじゃくる景元は、忠春の一言を聞くと素直に離れる。


「そうかぁ、ありがとよ姉御ぉ……」

「好きにしなさい。でも……」


 先ほど地面に突っ伏していたために、土にまみれた袖で景元は鼻をすすりながら言う。


「で、でもぉ?」


 忠春は景元の左頬に張り手をかました。



 ○



 それから一週間が経った。

 江戸は相変わらずの猛暑にさらされていて、奉行所も旗本奴と町役人の事件処理に追われている。町役人以外にも大店が襲われる事件が多発しだした。それにも人員を割かねばならず、奉行所内はてんやわんやであった。

 いつも以上に働かねばならず、朝早くから忠春は奉行所にいるのだが、その横には義親ではなく景元が常に控えていた。


「姉御! 何か命じて下さい!」

「……そこで目を閉じて座ってなさい」

「わかりました姉御! ここに座っております!」


 御用部屋の隅を指差して忠春は冷たく言うも、景元は笑顔を崩さずに背筋をピンと伸ばして指差された場所に座った。景元の座る姿は、仏像の方が姿勢が悪く見えるほど綺麗な姿勢を取る。

 懲りない男だと忠春が頭を抱えると、衛栄と政憲がやって来た。二人も仕事をしてきたのか、汗をダラダラ流しながら書状を手にしている。


「……景元殿はずっとこんな感じなんですか?」

「まぁ、ね……」


 景元の日の本で最も美しいであろう座り方を見て政憲が尋ねると、忠春は疲れ切った表情で言う。

 中庭での試合以降、景元は忠春から片時も離れない。忠春が屋敷に戻ればその御供をし、朝、目が覚めれば布団の真上に陣取り「おはようございます姉御!」と挨拶をする。屋敷に入れるなと母のみつに相談をすると「真面目でいい子じゃないか。側に置いとけばきっと役に立つだろう」の一点張りで父忠移に至っては「真面目で大岡家に相応しい男だ。お前の婿にいいかもしれないな」と冗談を言う始末で、それを聞いた景元がつけあがるだけであった。


「なぁに、よい舎弟が出来ていいじゃないですか! 私だって猫の手を借りたいほどですからね」


 衛栄はケラケラと笑いながら言うが、すぐに忠春の鉄拳が飛んでその場に倒れ込んだ。


「ったく、こっちは大変なの! 毎日のように付きまとって来て一人でいる時間なんて睡眠をとって夢を見ている時くらいの…… いや、今日なんて夢にまで出て来たわよ! 一生そこに座ってなさいっ!」

「いやぁ、姉御が寝ていても俺の事を思って下さるなんて感謝感激ですね!」


 忠春は景元を指差して言うも、当の景元は忠春を見つめニッコリと微笑む。それには政憲も苦笑いを浮かべた。


「それは大変な思いをされているのですね。しかし、これで景晋様の頼みは解決したのではないでしょうか?」


 確かに。政憲の言うことは間違っていないのかもしれない。景元はきちんとした身なりをしている。元から男前だったからなのか、馬子にも衣装だからかは定かではないのだが、つい最近まで物乞いのような格好をしていた男には見えない。忠春に従順過ぎる所を除けば、勘定奉行の息子に似つかわしい立派な男になっている。


「いやぁ、それがねぇ……」


 だが事態はそう簡単ではない。忠春らが景元に目をやると言い放つ。


「俺が姉御、もとい奉行所に仕えているのは姉御への忠義心のみ。親父がどうこう言っていたようですが、それとは全く関係ありません」


 御用部屋の隅で正座をさせられている男の言葉では無かった。しかし、そのもの言いには嘘偽りはなさそうで何か覚悟を感じさせる。

 忠春がどうしようかと政憲らに問いかける。


「まぁ、これはこれでいいんじゃないでしょうか。このまま奉行所で真面目に取り組んでいれば、きっと景晋様の思いが伝わるかもしれません」


 政憲はニッコリと微笑みながら話すも、忠春は釈然としない顔で言う。


「そうなのかしらね。あの場はああ切り抜けたけど、奉行所に置いておけば景晋殿の気持ちが分かるってのも変な話よね」


 忠春の言葉に政憲は肩をすくめた。


「まぁその通りですよね。しかし、依頼を受けた以上やるしかありませんよね」

「……まぁそうよね。安請け合いするもんじゃないわね」


 人員が増えるであろうなどと、景晋の頼みを軽い気持ちで受けるべきでなかったと後悔する。

 真夏で日が長くなったが、外を見ると真っ暗闇である。今日は遅いから帰ろうと声をかけて、各々が屋敷に帰ろうとした時だった。義親が御用部屋に飛び込んでくる。


「た、忠春様! 大事件です!」

「なに、こんな夜更けにどうしたの?」


 義親は息を切らしながら言った。


「か、勘定奉行の遠山様が、き、斬られた模様です!」


 眼を閉じて正座をしていた景元も一報を聞いて飛び上がる。

 忠春らは義親に連れられて現場へと直行した。

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