頼みごと
江戸は夏盛りを迎えた。
日かげから日なたに一歩出るだけで汗が噴き出してくるほどの暑さだ。風が吹いても温い風で体を火照らせるだけである。
そんな自然現象と同じように、江戸は犯罪の熱風にさらされていた。
毎日のように商家が荒らされ、奉行所ではその処理に追われている。
旗本奴らに人員を割こうにも未然に防ぐには数が足らず、北町や火盗改とも連携が上手くいかない為に旗本奴の後追いにしかならない。
そんな日々が続く中、勘定奉行への経費等の文書を提出する期限が迫った。
「誰か時間の空いてるのはいないの?」
忠春が御用部屋で問いかけるも、与力同心問わずに誰もいない。廊下を駆け回るばかりで、御用部屋でたむろするような時間のある者はいなかった。
ある与力は文書を手にして頭を掻きながら廊下を歩きまわり、また、同心同士で怒鳴り声を交わしながら本日の見廻りを考えあう。忠春に反応をする者はいない。
腕を組んでどうするか思案していると、背後から熟練与力の仁杉幸生が苦笑いを浮かべつつ忠春に話しかける。
「いやぁ、誰もかれも町役人への対処が忙しくて時間はありませんね」
「かく言うあんたはどうなの?」
幸生は額を掻きながら言う。
「私も麹町の町役人に会わなければなりません。時間のある方は忠春様くらいのものじゃ……」
根岸衛栄の軽口がうつったのか、生真面目な幸生までもが軽口を叩こうとする。
この手の軽口には忠春からの物理的な反応があって、全員でそれを笑い合うというのが奉行所内での日常風景なのだが、この日は忠春からの反応が無い。
「……まぁいいわ。それにしても、小十郎の言う通りになったってのは癪に障るわね」
不思議なことに、奉行所や牢屋敷で商家への襲撃犯を詰問すると、こぞって町役人との癒着を簡単にゲロする。
小十郎が白州の場で嘯いた通りのことが起きているのだ。得体のしれない不気味さと、真夏の刺さるような日差しと相まって嫌な雰囲気が忠春を包む。
「確かに。白州でヤツが残した言葉通りでしたね」
「ということは……」
「誰かが裏で糸を引いているということですか」
「そうとしか考えられないわね」
二人は考え込む。裏を引いている人間がいたということも驚きであるのだが、それ以上に町役人のほとんどが荒っぽい手を使って物事を収めていたということに忠春の感心はあった。
「今後はそう言うことの無いように、町役人はしっかりとした厳選して品行方正な人間を選ばなければいけないわね」
忠春が言う。だが、幸生はあまりいい顔をしない。
「本当にそうですかねえ」
「私が間違ってるって言うの?」
忠春は幸生に突っかかった。幸生は適当に言い返してくるのかと思いきや、いつにも無く歯切れの悪い返事をする。
「別にそんなことはないんですがねえ……」
不思議に思った忠春が更に問い詰めると、幸生はため息交じりに言う。
「……いやぁ、はっきり言って町役人の汚職はキリがありませんよ」
「詳しく話しなさい」
「正直にお話しすると、私がここに入った当初から似たような話はいくらでもありました。しかし、歴々の奉行様はこぞって無視をしていたんですよ。現に月番が北町の時に似たような事件は多く起きておりましたし、あまり言いたくないのですが、小十郎がやったであろう事件も何件も上がって来ていました」
淡々と幸生が語ると、即座に忠春が熱を入れて言った。
「……なんでこの話を問題視しなかったのよ!」
「先ほども言った通りキリが無いんですよ。どの事件もただの喧嘩騒ぎで死人が出たという訳でもありません。せいぜい田舎から来た若者たちがケガをした程度の話ですからね。それに、忠春様に何度も事件を報告しておりましたが、大した反応はなさりませんでしたよ」
幸生の言う通り報告はあった。それは過去の文書を見ればいくらでも出て来るだろう。しかし、忠春は納得がいかない。
「でも被害を食う町人だっているじゃない。それを見捨てるなんて私には出来ないわ」
「そりゃぁそうです。しかし、多少の問題があったとしてもごくごく少数の被害で済みますから。あくまでも聞いた話なのですが、貧乏旗本や御家人の中では暴利を貪る商人連中が死んで嬉しがっているなんて声もあります。確かに品行方正なのがよいのでしょう。しかし、清濁を併せ持った方が……」
江戸の町人と武士の比率は7:3くらいだと言われている。そんな多くの御家人・旗本は我々が日々の生活を守っているという自負があるのだが、数の少ない商人たちがよい暮らしをしている。武家の中には生活苦がたたって武士の家柄を町人に売ってしまうなんて話も多々ある。そんな危機に立たされている武士からすれば、旗本奴たちの町人襲撃というのは胸が空く万感の思いなのだろう。
幸生が恐る恐る言い、取っ組み合いの喧嘩もあり得ると身構えるが、忠春は言葉を遮るように言う。
「だからといっても見逃すことなんてできないわ。私たちの使命は町をしっかりと治めることなの。小さな悪を見逃すことなんてできないでしょ?」
「確かにそうです。今までがおかしかったのかもしれませんね。出過ぎたことを言いました。申し訳ありません」
忠春の言葉に幸生は素直に頭を下げる。忠春も頭を下げるのを止めさせて自分自身に言い聞かせるように言う。
「私は絶対に許せないわ。絶対に小さな悪を摘んで見せる……」
幸生は返事をして頭を下げると奉行所を出て行った。
再び御用部屋に静寂が訪れる。聞こえるのはクマゼミの鳴き声のみで本当に人がいない。忠春は一つため息をついて勘定奉行所へと向かう。
○
勘定御奉行所は常盤橋御門のすぐそばにある。
南町奉行所から見れば少し北にある。
このうだるような暑さの中、出歩く人は少ない。銭瓶橋を渡る最中、堀越しに日本橋北鞘町の街並みを見ると、通りで打ち水をする商人や日傘の下でスイカを頬張る子供たちが見え、この忙しい中で忘れかけていた夏を忠春に思い起こさせる。堀を挟んで一石橋があり、その奥には日本橋も見える。人通りの絶えない橋でさえ人はまばらで、この暑さでは越後屋・大丸といった大店も開店休業状態であろう。
銭瓶橋を渡った目の前にある大きな屋敷が勘定奉行所だ。忠春は門をくぐろうとすると、若い男がやって来た。
「何かご用でしょうか」
同じ門番でも南町奉行所の小浜や平梨といった無骨な連中とは違う。口調は丁寧、所作も優雅。袴羽織もシワひとつないピシッとしたものを着る頭の良さそうな門番が忠春に応対する。
「南町奉行所が書状を届けに来たんだけど」
「そうでございますか。少しお待ちください」
当然なのだが、忠春が一歩奉行所内中に入るだけで、南町奉行所との違いが手に取るようにわかった。どの武士を見ても頭の切れるであろう男ばかりで、大量の書類を抱えたまま血相一つ変えずにせわしなく動く。これまでで番の暑さであろう今日でさえ、髪型を乱さず、汗すらかかずに動き回る姿はカラクリ人形っぽくも見えて不気味であった。
そんな武士たちも忠春とすれ違うと表情を柔らかくして頭を一つ下げると、また鉄仮面に戻って小走りで勘定奉行所中を走り回る。
御次の間に通されてから少し立つと、再び勘定奉行の武士に呼び出されて案内をされる。
「遠山様、南町奉行所から来客でございます」
「おお、奉行所か。通せ」
中からしゃがれた老人の声がする。勘定奉行の遠山様。忠春の脳裏に一人だけ浮かぶ。
襖が開くと思い描いた顔が現れた。
「お久しぶりでございます」
忠春はすぐさま座って頭を下げる。
「なぁに、忠春殿が平伏するようなことはないんです。石高は西大平が一万石で、その他下総・相模を合わせれば私の二十倍以上。数百石程度しか所領の無い旗本とは大違いなんだからねぇ」
鷲鼻の老人は指でソロバンを弾くようにしながら言うと、懐から手にした扇子をパチンと手にやる。好々爺の顔は細い目を光らせる。
「よくお覚えですね。流石は遠山様でございます」
「いやいや、そんな大したことはぁないさ。どれ、書状を渡しなさい」
忠春が文書を手渡すと、景晋は懐から丸眼鏡をかけてパラパラと目を通す。
「ふうむ。旗本奴の一件以来、苦労されているようですな。この月番で出費がかなり増えておりますなぁ」
景晋は数秒読んだだけで奉行所の内情を察した。スッと目を通した程度でよく分かると忠春は感心する。幕府の魑魅魍魎たちと対等に渡り合ってきた有能な官吏は違う。
「まぁ、私が口を出すことでもありません。それに会うのは評定所以来かな?」
「はい。先月の評定所が最後かと」
そう言えば評定所には大久保忠真もいた。
他の奉行たちと話が揉めるときは小十郎の一件以降、
「やはり、男だらけの評定所に忠春殿のような綺麗な女性がおると、場も賑やかになっていいもんですな。老中連中の評判もいいですよ」
「……そうなのですか」
確かに女武士令が出てから百年は経ったが、町奉行になったのは忠春が初であった。そうなると評定所のような老中・三奉行が一同に会する場に華は無かったのかもしれない。
忠春の表情が硬くなる。女だからということで褒められることを良しとはしなかった。能力を評価されるのではなく、女だからだと特別視されているような気がしたからだ。
「まぁ女だからということで買ってる人も中にはおられますが、ワシは忠春殿のことを買ってます。”三方一両得”。あれは見事な差配ですなぁ」
「あ、ありがとうございます!」
「いやいや当然のことじゃよ。あれは忠相公を超えたやも知れませんな。町人達も見事と褒め称えちょると聞いてます」
忠春は顔を赤らめて喜ぶ。この激務の中で久しぶりに笑顔を浮かべたかも知れない。
「それと、父上の忠移殿はお元気ですかな?」
この場で父親のここで聞かれるとは思わなかった。忠春はぎょっとする。
「……え、ええ。元気にやっていると思います」
景晋は長く蓄えた白いひげを指で触って、笑みを浮かべて満足そうにうなずく。
「そうかそうか。また話は変わるんだが、一つ頼みがあるのだがいいですかな?」
「頼みですか?」
またの突然な話しに、忠春は再び驚かされる。
「ううむ、ここではなんだな。今晩、私の屋敷に来てもらいたい。どうかな」
景晋の表情は明るい。だが目は真剣そのもの。歳をとってはいるが往年のキレを見せる。
今夜も空いていて特段断る理由も無い。忠春は二つ返事で了承した。
「わかりました。本日の暮れ六つに伺います」
「なんだったら政憲らを連れて来ると言い。いやぁ、本当に忙しい中悪いねえ。それじゃ頼んだよ」
景晋老人はしゃがれた声で笑った。
○
遠山景晋の屋敷は芝の露月町にある。
その露月町は芝口橋から日蔭通り進むと中ほどだ。そもそも日蔭町通りは、東海道の品川宿に繋がる区間の別名で、日蔭という名の割にはにぎやかで人通りも常にある。通りを挟んだ向かいには奥州伊達家の上屋敷もあるため、ずんだ餅・仙台米など、東北の名産品を扱った美味い屋台も多くあるのが特徴であった。
政憲と共に屋敷の前に行くと、門前には景晋自らが立って応対をする。
「忙しい所すみませんね。ささ、こちらにどうぞ」
腰を曲げて屋敷へ案内する。
客間に二人を通すと、政憲は景晋に恭しく頭を下げる。
「景晋先生、お元気そうでなによりです」
「政憲も相変わらずだな」
部屋に通されるなり、政憲と景晋は固く握手しあう。
二人の熱い再会を見ている忠春と義親だが、冷めた目で見ていた。
「景晋殿と知り合いなの?」
熱い握手をし終えた政憲に忠春は耳打ちで聞く。
「ええ。昌平坂学問所でお世話になったんですよ。久方ぶりにお会いしたのでついね」
政憲の答えを聞いて、だからあの場で父の事を聞かれたのかと納得する。
そうなると色々と興味が沸いてきた。忠春は質問をぶつける。
「ちなみに、その頃の政憲はどうだったんですか?」
「彼は昌平坂きっての秀才でね。幕府を担う逸材だったんだよ」
「いやぁ、景晋様にそうおっしゃっていただけるなんて光栄ですよ」
政憲は頭に手をやって微笑む。
「しかし、奉行所も色々と大変なようだね」
景晋は扇子を広げて言う。その扇子には季節外れの桜吹雪。扇子を扇ぐと、季節はずれなほのかに桜の甘い香りを部屋に漂わせた。
「はい。旗本奴の連中が暴れまわっておりまして」
「聞いているよ。大店ばかりを狙うという話じゃないか。まったく、物騒な世の中だねぇ」
景晋はニッコリと微笑みつつも鷲鼻を尖らせ目を光らせる。忠春は評定所でこの姿を何度も見ているはずなのだが、その鋭さに慣れることはない。思わず黙りこくってしまう。
「ワシも近いうちに氷問屋と会わなくてはいけなくてな。上様が御所望だとかで、北方の藩に頼めばいい話なのに何故かワシの所に話が上がって来たんじゃよ」
「……氷ですか。確かにこの暑さでは誰もが冷たさを求めているでしょう。しかし、それならば氷室を持つ加賀藩に頼めばいいのでは? なぜ景晋様の所にそんな話が?」
政憲は言う。確かにこの暑さでは氷の一つや二つは欲しくなるだろう。それに、江戸では氷朔日という行事があり、六月一日(今の7月中旬)に献上氷を食すという儀式がある。その氷は加賀藩の氷蔵で作られたものを使っていて、加賀藩は御用氷を一手に引き受けていた。
「うむ。政憲の言う通り前田加賀藩で済ませばいい話であって、勘定奉行に話が来るというのもおかしな話なのだ。正確には分からないが、問屋との付き合いの深い公事方を頼ってのことなのかもしれないね。とはいっても、公事方も旗本奴の事件に関連しててんてこ舞いじゃから、勝手方で余裕のあるワシに回ってきたのじゃろう。それに、前に公事方を務めていた縁もあるかもしれんしな」
「なるほど。しかし、上様のそんなわがままを許されてよいのですか?」
「上様の勝手気儘は昔からだから仕方あるまいよ。それに、夏に氷を所望するなんてのは金持ちの特権だ。上様のような金持ちが市場に金を回さなければ江戸はやって行けないのだから、これはいいことじゃよ」
忠春が聞くも、景晋は長いひげを触りながら笑うだけである。
確かに景晋の言っていることは道理だ。金を持っている物が金を市場に流して、持たざる者の手に金が届く。それが経済の道理だ。しかし、そんな贅沢をしていては色々な所から恨みを買うかもしれないだろう。これまで襲われてきた店は大店ばかりでということもある。その経緯から少々不安でもある。
それに、そんな話が舞い込むというのは周りが家斉を甘やかすからなのではと、忠春は少々不満であったのだが、自分自身もそう言った立場でありながら諫言をしてはいない。どうにかしなければと考えさせられるところである。
「……それで、連中の狙いはなんなのかね。金か? それともただの暇つぶしなのか?」
景晋は笑うのを止めて再び鋭い目を見せる。
忠春は考え込む。旗本奴の連中と対峙した忠景がなぜ彼らが戦うのかを考えさせれば「生活苦から」といい、忠之と打ち合いをした忠春は「児戯」でしかないと感じていた。
「詳しくは分かりません。でも、両方とも合っていると思います。連中のなかには暮らしに困っていやいや参加をする者もいれば、腕試しに争いを好む者もいるということです。よくご存知でいらっしゃいますね」
「なぁに、ただの勘じゃよ。知っていると思うが昔も似たようなことが起きていたしな。それに、ワシなんぞ大したことなど無いさ。ただの老いぼれだよ」
口では謙遜するも顔は正直だった。景晋は笑顔を見せる。寡黙にしていると強面の老人なのだが、しわくちゃの笑顔には愛嬌がある。
「そんなことはないですよ。景晋殿こそ、水野らに媚びることなく上りつめられました。私も大変尊敬をしています」
「忠春様の仰る通りです。媚びることなく出世をなさったのは景晋様くらいのものでしょう」
政憲までそう言う。世間では硬骨の奉行と呼ばれ水野らと一線を画してきた男だ。幕閣の中で水野に媚びず実力這い上がって来たのは景晋くらいのものかもしれない。
景晋は恥ずかしそうに微笑みながら言った。
「ハハハ、悪い気はしないね。しかし、頼みごとを聞いたらそんな尊敬の念が吹き飛ぶかもしれんのう」
「頼みとは何なのですか?」
忠春が聞くと、しわくちゃの顔を恥ずかしそうに赤らめながら言った。
「ごくごく個人的な要件じゃ。だから勘定奉行所で話すことでも無かったからこうして呼んだんじゃがねえ……」
景晋の口から出たのは意外な言葉だった。
「ワシと息子の仲を取り持ってほしいんじゃよ」
「な、仲直りの手伝いですか?」
「そういうことだ。恥ずかしい話だが、我が家はちょっとばかしギクシャクしておりましてなぁ……」
景晋は白い薄くなった頭を掻く。
「ちょっと頭を使うかもしれぬが、聞いてほしい」
「なんでしょうか」
「私は違う家の生まれでね。それで男子の居なかった遠山家に養子で入って来たんだ。それが四十年ほど前の話だ」
四十年前と言えば松平定信の時代である。忠春は生まれてもおらず、政憲も幼少のころだった。それに、家斉が名君として君臨していた時代でもあった。
「しかし、養子に入った三年後に義理の親父に子供が生まれたんじゃ。それも男でねぇ……」
それに養子で入った家に実子が生まれるなんて聞いたことが無かった。
「実子の後継ぎが生まれたとしても、先にワシが後継ぎになっておる。だから養父の息子は養子に入った。それも、ワシのな」
忠春の頭は徐々に混乱する。
「つまり、景晋様の父上の子が、景晋様の養子になったということです」
「……ということは、その息子さんと仲直りを?」
「いや、話はまだ続くんじゃ」
まだ話が続くのかと忠春は頭を抱える。
「その数年後にワシにも子供が生まれる」
景晋が養子をとってから23年後の1793年、遠山景晋に実子が生まれる。幼名は通乃進といった。
「たが、ワシには後継ぎがおる。要は親父の息子で義弟だ。だから後継ぎにしようとしてもそれは出来ない」
「その子はどうなったのですか」
「紆余曲折あってその子はワシの孫になった。つまりは息子の子になったのだよ」
忠春の頭がこんがらがる。弟が息子で子が弟の養子になって子が孫に? 意味が分からなかった。
「……して、そのお孫さんはどこにいるのですか」
「今日は家に帰って来いといったのだがな、こないということはそう言うことなのだろう。頼みごとをしておいて大変申し訳ない」
景晋はため息をつきながら頭を下げる。その”孫”と仲直りをしろということなのだろう。
「いえいえ、お気になさらないで下さい。それと、養子の息子さんは今何を?」
「養子の息子は景善といいます。今は西ノ丸書院番をやっとります」
忠春はパッと顔が出てこずうんうん唸っていたのだが、政憲はパッと顔が浮かんだようだ。
「あの遠山殿ですか。確かに景晋様とはあまり似てはおりませんね」
「ハハハ、そりゃそうだろう。血はつながっていないのだからな」
そもそも政憲は事情を知っているらしく、なるほどと何度も頷いている。
しかし、頼みごとをされた当の本人・忠春はいまいち話を呑み込めない。
「その、仰っている意味がよくわからないのですが……」
「景善殿には実子もいます。まぁ、その子は旗本の堀田家に養子に行かれましたが、いずれは養子先から戻して家を継がせたいというのが親の心でしょうね」
政憲は言う。養子縁組が当たり前の世界とはいえ、降って湧いた義理の兄の子よりも、実の息子の方に愛着は湧く。人間の真理である以上、それはどう仕様もない話だろう。
「そんな事情もあって景晋様の息子殿が……」
「そういうことです。金四郎の気持ちも分かるのだが、一介の旗本で養子の私には何もできなかった。それにずっと多忙でなぁ。ろくに構ってやることも出来なかった」
「景晋様は長崎奉行を務められたほか、蝦夷地に何度も測量に赴かれております。江戸に戻って来ても作事奉行や勘定奉行を務められ、関八州中を駆け回ったり、城内で毎晩仕事詰めでしたからね。家の面倒をみられる暇はなかったのでしょう」
政憲が補足で言う。確かに日の本中を駆け回って江戸に戻るなり各所の工事や訴訟全般を受け持っているのだ。
「……確かに家を見る余裕はないわよね」
景晋は大変な激務であっただろう。家庭がおろそかになるもの無理はない。
「それで、ワシに余裕が出来た頃には倅は道を踏み外してしまっておってな。何もかもが手遅れだったという訳だ」
カラカラと景晋はしゃがれた声で力なく笑った。尖った鷲鼻が力なく折れ曲がる。
そもそも勘定奉行といっても二種類ある。訴訟を取り仕切る公事方と、通常財務一般を取り仕切る勝手方に分かれていた。さらに評定所では関八州の訴訟などを取り仕切る。仕事量は膨大であった。景晋は当初は公事方であったが一昨年から勝手方に移動した。
訴訟全般を受けていた公事方から財務のみを見る勝手方に移動をし、一年のほとんどを江戸で過ごせることになったので景晋の負担はかなり軽減されたであろう。
「それでだ。ヤツを奉行所に置いてもらえないかね。腕っ節はあるから役に立つかもしれないし、ワシの気持ちが伝わるかもしれない」
「わたしたち南町奉行所でよいのでしょうか。勘定奉行所であれば教育にもってこいなのでは……」
忠春が言うが、景晋は首を横に振った。
「私の所では駄目だ。まず、ヤツがそんな所で働きたがるわけがない。だが、忠春殿や奉行所の面々は倅と歳も近い。勘定奉行所のような片っ苦しいな所に置くよりも町奉行所の方が倅にはよいじゃろう。どうか受けてはもらえませんか」
景晋は必死に頭を下げた。城内で見知っている切れ者の官吏の姿ではない。ただ一心に子を案じる一人の父親の姿であった。
「と、いうことだそうです忠春様。どうなさいますか?」
「奉行所も人では足りないし、景晋様の肝いりということなら断る理由は無いわ。景晋殿、こちらこそお願いいたします」
「本当に申し訳ない。息子を、いや、孫はコキ使ってくれて構わない。よろしく頼みます」
返事を聞くと景晋は顔中にしわをつくって微笑んだ。細い目じりからは涙も流れ落ちる。
忠春は立ち上がり屋敷を去ろうとするのだが、ふと思い出した。景晋の子、もとい孫の名を聞いていなかった。
「そうだ! 更生させる息子さんの名前は何と言うのですか?」
「うむ。遠山景元という名だ。よろしく頼みます」