誘拐
佐吉を連れて道場に戻ると弥七がいた。
久しぶりに見たのだが、相変わらず元気そうでいる。小十郎と一緒に居る時のどこか影を差したような姿とは大違いで、引っかかる所がある。
「もう! 心配したんだから!」
秋は涙を流して佐吉の元に駆け寄り抱きしめる。さながら実の姉弟にも見える。
「……悪かったよ。もうしないからさ」
佐吉も釣られて涙を流した。
「そうだ! もう少しすると両国で花火があるでしょ。私たちで行きませんか?」
秋は涙をぬぐって言う。
両国で花火と言えば江戸で最も賑わう祭りだ。花火の打ち上がる暮れ六つでは、両国橋は鼠の通る隙間が無いくらいの人混みになり、隅田川では屋形船がそこらじゅうを走り回る。死んだ者たちの鎮魂と、初夏を告げる大きな祭りだ。
「そりゃいいね。柳生殿も行きますよね?」
弥七は二つ返事で承諾し、忠景に話を振った。
「ああ。いいんじゃないかな。佐吉はどうだ?」
「行くに決まってんだろ!」
先ほどのぶっきら棒振りはどこかに消え、勢いよく手を上げて答えた。
「よっしゃ決まりだな。それじゃいつにするんだ?」
威勢よく周作が言うと、秋は嬉しそうにして笑顔を見せる。
「五日後の暮れ六つに道場に来て下さい。お弁当を用意して待っておりますので」
「お手製の弁当ですか! こりゃ今から楽しみだね!」
周作はその場に跳ね上がり喜んだ。
「秋の弁当か。久しぶりかもしれないな」
「うん。誰かと出かけるなんて、父上や弥七と遊びに行った時以来かな」
「そうか。もうそんなんになるんだな……」
秋と弥七はしみじみと懐かしがる。きっと二人の間には様々な思い出があるのだろう。
すると、突然弥七が言いだした。
「秋、お前に言いたいことがあるんだ」
「いきなりどうしたの?」
突然の話しに顔を赤くする。
「……いや、やっぱりいいんだ。花火の日に話すよ」
「ふうん、わかった。待ってるわね」
不思議だなといった顔で秋は言う。弥七は誤魔化すように微笑んでいるのだが、どこか寂しげな目をしていた。
○
花火の前日、忠景は浅草の商店街にいた。
祭りの前日なだけあり、浅草がざわついていた。呉服屋では夏らしい涼やかな柄や花火柄の浴衣を売り、髪結い屋は祭りに合った髪形を宣伝する。隅田川沿いの店では仕出し料理の準備で大慌てで、店内からは何かやらかしたであろう丁稚を叱りつける声が通りまで届く。
混雑の極みの浅草になぜいるのかというと「買い物を手伝ってもらえませんか?」 と、花火の前日に秋に呼び出され、弁当の材料の買い出しにつきあうことになったのだ。
また、町人たちも秋と考えていることは同じだったようで、八百屋、魚屋を回るがどこも品薄。満足な買い物が出来る五、六軒ほど回らなければ満足に買い物が出来なかった。
「いやぁ、こんなに店を回るとは思いませんでしたよ」
「やっぱり考えていることは一緒だったんですね。ホントに散々な目に会いました」
忠景は人混みをかき分けて競い、争いながらサバ・アジやらを掴むのは初めての体験であった。
何より興味深かったのは秋の人徳だった。どの店どの店に行っても「お父さんにお世話になったから」と様々な野菜・魚をおまけでもらっていたのだ。
そんな風にして何店も回っているとあっという間に昼過ぎになってしまった。
小腹も空いたので忠景は秋に提案をした。
「幸い時間があるので、一休みしませんか? お代は私が持ちますから」
「そんな、私も払いますよ」
「いえ、秋殿に日ごろからお世話になっている感謝の印です」
「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
浅草界隈で忠景は唯一知っているオススメできる店があり、そこに案内した。
「てら屋を知っているなんて驚きですよ」
「秋殿もご存知なんですね。私はたまたま春先に寄ったんです。いい店ですよね」
団子のうまい店「てら屋」だ。
祭りの当日なだけあり、少々混んでいるが二人分が座れる広さはあった。
店内に入り店の壁を眺めると、見覚えのある文字がある。
「花見つまみ番付 東大関てら屋」
瓦版が立派な金縁の額縁に入れられて飾られている。
秋もそれに気がついたようだ。
「そういえば春先に瓦版で紹介されていましたよ。なんでも敏腕の女記者だとか……」
「な、なるほど。そうでしたか」
頭に文のしてやったり顔が浮かぶ。
壁際の座敷に腰掛けて手にしていた荷物を畳の上に置いた。
「どうもいらっしゃい。秋ちゃん元気かい?」
「ええ。お陰さまで」
適当にやっていると、通りから黒縮緬の羽織を着た二人組の武士やってきた。
「いやぁ、疲れましたねえ義親クン」
「やはり人混みは大変ですよね」
男たちは南町奉行所の小田国定と小峰義親だった。
忠景は気付かれまいと慌てて目線を逸らす。
「柳生殿、どうかなさいましたか?」
「い、い、いやぁ、なんでも……」
冷や汗をかきながら二人の動きを注視すると、義親と国定は通路を挟んだ真向かいに陣取った。
「あ! 文殿が書いた瓦版ですよ」
「やはり、目の付けどころはいいですねえ。この香りは間違いなく名店の香り。楽しみですなぁ」
国定が鼻を動かして言う。
とぼとぼと茶屋の女将が水を持ってやって来た。
「おや、奉行所のお侍さんがどうしたのですか?」
「いやぁ、明日は両国の花火じゃないですか。それの見廻りに来たんですよ」
「そりゃ御苦労さまですね」
「しかし、北町や火盗改の連中は困ったものだ。忠春様の要請を蹴って私たちのみ見廻りの役目を押しつけるとは!」
国定は握り拳を畳に叩きつけた。脂っぽい顔を赤くして怒っている。
「まぁまぁ、落ち着いて下さいって。別に予定は無かったんでしょう?」
「確かに。予定は無いですぞ。しかしですなぁ、忠春様の頼みを断るとは北町の連中はどういう了見なんですかねぇ!」
聞き耳を立てていた忠景は誇らしげな気分になる。不真面目で趣味に生きていると思っていた国定が南町奉行所に誇りを持っていた。それがとてつもなく嬉しかった。
「お武家さまも大変なんですねえ。それでは団子をお持ちいたしますので」
「よろしく頼みます」
女将に向かって義親は丁寧に頭を下げた。相変わらず礼儀正しいと感心する。
秋も忠景と同じように義親らのやり取りを眺めていたようだった。
「奉行所は好きではありませんが、彼はなかなか礼儀正しい若者ですね」
忠景は秋の言葉に一つだけ疑問が浮かんだ。
「なぜ奉行所が好きでないのですか?」
秋は口を尖らせて言う。
「いかに街のために尽くそうとしても彼らはヨソモノなんです。私たちと交わることはありません」
「どういうことですか」
秋は国定に影響されたのか熱っぽく語った。
「奉行所の捜査はいい加減なんです。事件が起きても袖の下をもらってウヤムヤにしたり、有能無能問わず世襲で同心を決めるなど言語道断です」
「とはいえ、それはごく一部でしょう。真っ当な人だっていますよ」
「いえそうは思いません。父上での一件もそうでした。北町は特に捜査をすることも無く適当に判断を下して終わらせました。仕方が無いので南町に月番が移ったのを見計らって問い合わせても『事件は片付いた』の一点張りです。そんな連中を信用なんて出来ますか? 私にはそんなこと出来ません」
確か正月は北町が月番だったはずだ。事件に関しては月番関係なしに捜査するのだが、北町奉行所が「事件性なし」と事件を片づけたため、南町奉行所の人間で佐々木主水の一件を知る者はほとんどおらず、忠景も例に漏れず一件を知らなかった。
そのため、気の利いた一言を言うべきなのだろうが、忠景は返すべき言葉は見つからなかった。
「……聞き捨てなりませんなぁ。お嬢さん」
国定がおもむろに立ち上がり言う。
「ちょっと国定殿、やめましょうって」
「いえ、ワタクシたち奉行所の侮辱は忠春様への侮辱。捨ててはおけませんなぁ!」
義親が大慌てで国定を制止するが、それを振り切り秋の元に歩み寄る。
顔を真っ赤にして怒る国定の忠誠心に、忠景は胸を打たれるも今はそんな場合では無い。
秋も相手が奉行所の与力とわかると、国定に向かって威勢よく啖呵を切る。
「ふんっ! 水野のような男をのさばらせておいて何をほざく! 貴様らのような人間が見て見ぬふりをしているから市中が乱れるのだ!」
売り言葉に買い言葉。秋と国定は顔を向かい合わせて睨みあい、どんどん熱を帯びて行く。
「秋殿も落ち着いて下さい」
「国定殿も止めましょうって! ……ってあれ?」
秋を羽交い締めにして押さえている時だった。同じように義親が国定を羽交い締めにしているのだが、不意に目が合ってしまった。
「忠景殿……ですよね? ここで何をしているんですか?」
気がつかれた忠景は必死に視線を逸らす。顔を真っ赤にしていた国定も忠景の存在に気がついた。
「いやいや、無視しないでほしいなあ。眼帯なんか付けて何をしているのですかな」
「柳生殿、知り合いですか?」
「知り合いも何も奉行所の同心ですよ」
国定はそう言い片目に付けられた眼帯を引っぺがした。当然の如く両目がしっかりとある。
真っ赤になって怒っている秋も、忠景の姿を見て熱が一気に冷めていく。
「ど、どういうことなのですか?」
「い、いや、その……」
忠景は言い訳を取り繕うとするのだが何にも浮かばない。そんな表情を見て国定と義親はやってしまったと顔を見合わせる。
「……そうですか」
秋は一言そう言い忠景の制止を振り切った。
「見損ないました。約束したじゃないですか、嘘はなしって。せっかく信じていたのに……」
俯いたまま震え、秋の足元には滴がポタポタと滴り落ちる。
「あ、秋殿……」
「もういいです。顔も見たくありません」
秋は目を赤くして忠景を睨みつけ座敷から降り店を後にしようとする。
忠景は待ってくれと、腕を掴んだ。
「聞こえなかったのか! 私の手に触れるな!」
秋は冷たく言い放って手を振りほどき、荷物を持って店を飛び出して行った。
その場に残された三人はバツの悪い顔をして顔を見合わせている。
「た、忠景殿……」
「も、申し訳ありません……」
義親と国定が謝るも「……気にするな」とだけ言い残し、忠景は背中を落として店を後にした。
○
忠景が肩を落とすも、時は動いて行き暮れ六つを迎えた。
街中で花火見物客用に道の両脇には様々な出店が立ち並ぶ。手料理・天ぷらやらなんやらの香ばしい匂い、団子、あんみつなど甘い匂いが混ざり、まさしく天下の台所。
このまま八丁堀に帰るか、面と向かって謝るか。どうしようか思案しているのだが、忠景の足は自然と待乳山聖天へと動いた。
長い階段を上るのだが、どうも様子がおかしい。
秋・周作・弥七・佐吉が花火見物をしていると思いきや人っ子一人いない。
小高い丘は夕闇に包まれていて、南を見渡せば両国・浅草の明かりが見える。川には灯篭の様にポツリポツリと提灯の明かりが浮かんでいる。そんな光景は、盆も近いこともあるし隅田川を舞台にした精霊流しだ。気分の落ちている忠景にはそうとしか見えない。
「おい! どこに行ってたんだよ!」
「どうした佐吉、他のはどうした」
忠景が辺りを探していると佐吉の声がする。
「俺と定次で厠に行ってたんだ。そしたらよぉ……」
「十名ほどの浪人が俺たちに襲いかかって来て、秋を連れ去ったのか」
佐吉は頷いた。
「遅かったか…」
「定次と陰で見てたんだけど、そん中に小十郎の野郎がいたんだ! それを見て定次が連中を追って行った」
大きな仕事とはこれだったのだ。なぜ忠景に話はこなかったがと疑問に思ったのだが、現在起きていることに比べれば些細な問題だった。
「小十郎もいたのか。ということは……」
「そういうことだ」
参道の階段から全身ずぶ濡れになった周作が戻って来た。
「秋殿はどうした」
「聖天下の渡しに船があって連中はそれに乗っていった。俺も泳いで奴らを追ったんだが追い付けなかったよ」
「そうか……」
ここから追いかけようとも、追うことは不可能に近い。隅田川は川遊びをする花火客でいっぱいで、船を調べようとも数が多すぎてキリが無い。それにこの人混みだ。手当たりしだい探しているうちに遠くへ逃げられてしまうだろう。
忠景らは肩を落として諦めかける。その時だった。
「なんだ、柳生殿もいたんだ」
参道をフラフラと歩きながら薄笑いを浮かべた弥七が現れる。
「奴らの居場所は知っている。教えてやるよ」
「弥七ぃ! てめえ!」
弥七が冷たく言い放つと、周作が掴みかかろうとするが忠景は制止する。弥七の様子がおかしい。
いつも明るい男が影を背負っている。暗がりでよく見えないのだが身なりも薄汚れている。
「それに聞いたぜ。柳生、いや伊藤殿は南町奉行所の同心だったんだな。秋に聞いたよ。それも間の悪いことにその場には親父がいた。ほんとにツいてねえな」
「……何が言いたいんだ」
忠景らはあまりにも急な展開に弥七の話についていけなかった。
弥七は呆れかえったように力なく言う。
「親父は間抜けだよ。どっかから降って来た水野忠之って野郎に唆されて佐々木主水を殺し、今度は秋を拉致した」
「……詳しく話してもらおうか」
「生憎だが俺にはそんな余力は無い。親父に聞きな……」
忠景は弥七の元に詰め寄ると弥七はフラッと前にもたれかかった。
「お、おい! どうしたんだ!」
忠景は慌てて弥七の両肩を支えた。すると、忠景の手にドロッとした生温かい液体が垂れる。弥七は吐血した。
体を見ると無数の斬られた傷があり着物はボロボロになっている。腕から胸元にかけて袈裟掛けに斬られた大きな痕もある。小さな傷口は既に固まりつつあるが肩から胸にかけての傷は塞がっておらず濃い茶色地の着流しを赤黒く染めてゆく。
「……こういうことだ。親父の居場所は綾瀬川沿いの庄屋跡。木母寺の少し北だ。人数は二十名ほどだろう。俺が逃げ出してから時間がある程度経った。船は一艘だけ用意してある。さっさと行かねえと逃げられるぜ」
そう言うと弥七は激しく咳き込んだ。指の隙間から赤い液体が滲み、忠景の顔にも飛び散る。
「おい! しっかりしろ!」
「ったく、これじゃぁ秋に面目が立たねえなぁ。言いたいことを正直に言えねえであの世行きか……」
弥七は目を細めて薄く笑い、糸が切れたように崩れ落ちた。忠景の両手に弥七の重みがのしかかる。
一時、辺りに沈黙が流れると、地響きのような轟音と共に大空で花火の大輪が咲く。赤・緑・青に咲いた後は光を帯びて落ちて行く。大橋・隅田川の方からは歓声と拍手が巻き起こり、それは待乳山聖天まで届いた。
「……佐吉、弥七はまだ息はある。早く町医者を呼ぶんだ。周作、お前は奉行所に行って忠春様に報告だ」
「あ、ああ! 聖天町はオイラの庭だ! すぐ見つけてくるぜ!」
忠景が静かに言い、佐吉は真っ青になりながら聖天町の町医者を呼びに飛び出した。
周作は静かに忠景の側に歩み寄り尋ねる。
「お前はどうするんだ?」
「俺がいればこんな事にはならなかった。カタをつけに行くよ」
気を失った弥七を本堂に運んで黒羽織を敷いて寝かしつけ、布の切れ端を傷口へ押し付けて紐で巻きつけて止血をした。
「一人で大丈夫なのか?」
「ああ。俺が先に倒れるか、奉行所の援軍が来るか。二つに一つだ」
「『人は一代、名は末代』ってか? カッコつけやがって。柳生十兵衛の次は稀代の大侠客気どりか?」
周作は背後でケラケラと笑いながら忠景の肩を小突いて言うと、忠景は黙って微笑み返した。
「……ったく、死ぬんじゃねえぞ。生きてまた再会だ」
「当然だ。俺も待ってるぞ」
そう言うと、忠景は待乳山聖天の坂を駆け抜けた。