ちょっとした仕事
隅田川沿いの小高い堤防からは、関東が一望できる。
浅草の対岸は向島。特に高い建物が無いため、天気の良い日には、東に筑波山、西には富士山を望める。
この日は雲一つない快晴。隅田川越しに筑波山がくっきりと見える。
秋と別れて川沿いを歩いていると、対面から小十郎親子が歩いてきた。
「やぁ、柳生殿に樋口殿だね。道場での調子はどうだい?」
「……中々だと思います」
忠景が答えると小十郎は満足そうに言った。
「そりゃよかった。樋口殿はどうかな?」
「ええ、秋殿と一緒に浅草聖天にお参りに行って来たんですよ。なかなか面白い所でしたねぇ」
周作は微笑みながら言った。大根餅の事を思い出しているのだろうか。口からはよだれが垂れている。
「ほう、聖天にね。秋の様子はどうだったか?」
「え、ええ。相変わらず元気でしたよ」
「ほう…… それは重畳だ」
それを聞くと、小十郎は安心したのか胸をなでおろす。
「どうかなさったんですか?」
忠景が聞き返すと、小十郎は軽く笑って言う。
「いやぁ、この雨で気分が落ちていたのかと思ってね。最近は道場に行けていないから心配だったんだよ」
「きっと秋殿も喜ばれると思いますよ」
「ああ、確かにそうかもしれないな。それと一つ提案があるのだが……」
小十郎は言った。
「君たちの道場での腕前を見て思ったんだ。もう、秋に教わることは無いだろう。そこで免許を与えようと思うのだがどうかね?」
小十郎が話したのは意外な提案だった。
とっさに忠景が聞き返す。
「なぜそう思われるのですか」
「私も一介の剣士だ。君たちの腕前くらい少し見ればわかるさ。間違いなく君たちは秋よりも強い。むしろ君たちが道場を開いてもおかしな話では無い」
小十郎はそう言う。
話す顔は真面目そのもので、冗談では無さそうに見える。
「そりゃぁ買いかぶりですよ」
「そんなことは無いと思うんだがな。どうだ? 受け取らないか?」
周作は冗談だと思ったのか、軽く受け流すのだが小十郎は諦めない。
すると、忠景が口を開く。
「いえ、私はまだ足りません」
小十郎の目つきが変わった。
「……ほう、どうしてだい?」
「秋殿に稽古試合で勝ててない上に、秋殿に言われた訳でもありません」
忠景ははっきりと言った。
正体を隠して稽古試合に臨んでいるとはいえ、秋は相当の手練であることは間違いない。忠景が本気で戦っても、勝てるかどうかわからないのが本音であった。
しかし、小十郎は一向に引き下がらない。
「主水に秋の後事を託されて、私は道場の師範にも名を連ねている。別におかしな話では無かろう」
「……いえ! 私はまだ受け取れません!」
小十郎は静かに言った。言葉の端々は強い口調で、明らかに怒っている。
ここまで言ってしまっては、忠景も引き下がれない。
二人は黙って睨みあっていると、みかねて弥七が仲裁に入った。
「父上、そんな無理に言う話ではないでしょう」
「弥七には関係の無い話だ。黙っていなさい」
「……」
弥七が気を利かすも、小十郎は耳を貸さなかった。
ただ、忠景も折れない。
「私は秋殿に認められてこそ一人前と考えます」
そう言うと小十郎の真正面で平伏をした。
「大変ありがたい話ではありますが、この話は無かったことにお願いいたします」
既に怒らせていたので、かなり怒鳴られることを覚悟していた。相手の好意を無碍にしたのだ。下手をすれば数発殴られるかもしれない。
小十郎はため息をついた。その表情は悪くない。
「……なるほど。この話は無かったことにしよう。それと、別件で一つ話があるのだがね」
「なんでしょうか」
平伏した忠景を立たせると、小十郎は静かに言った。
「前に仕事があると言っただろう。覚えているかね?」
「ええ、なんとなく覚えていますが」
周作が答えた。
「君たちの腕前を見込んで頼みたい仕事があるんだ。引き受けてくれないかな?」
「別にかまいませんが」
二人に断る理由は無い。
「これはありがたいな。 ……弥七、お前は先に帰っていいぞ。私は彼らと話があるからな」
「……わかりました父上。お先に失礼します」
小十郎の言葉に、弥七は表情を曇らせて土手を下りて行った。
「さて、話なんだが……」
○
それから二日が過ぎた。
雨が降りしきる中、忠景・周作の両名は商家の前で立っていた。
「本当に今日でいいんだよな?」
「そのはずなんだがな……」
辺りは暗闇そのもの。
二人は目を光らせながら屋敷の前で半刻ほど立っているのだが、何にも起こらない。
前に小十郎に言われた通りここにいるのだが、通りも商家内も平穏そのものだった。
「まぁ、何にも起こらねえほうがいいじゃないか。その方が楽でいいしさ」
「確かにそうかもしれないのだがな……」
二人が愚痴をこぼしていると、同じくひょっとこの面を被った男がやって来た。
「ったく、雨が降るなんてついてねえなぁ」
「ああ、まったくだな」
周作は素っ気なく返した。
小十郎から託された仕事はこれだった。
――
夕方、二人は隅田川沿いに置かれた座椅子に腰かけ、小十郎の仕事依頼を聞いた。
「仕事と言っても難しい話じゃない。ただ、ある商家へ行き警固をしていてほしいだけなんだ」
「警固ですか?」
「ああ、警固するだけでいい」
忠景が聞き返すが、詳しいことを言いたそうにしない。
「その商家では何かあるんですかい?」
「……さあな。君たち二人は商家の前で立っているだけでいいんだ」
小十郎の顔が曇る。
「いやぁ、何も聞かずに受けてもらうことは出来ないかね。礼は弾むぞ」
忠景と周作は目くばせした。
そもそも礼などはハナから関係無い。
浅草の顔役が素浪人も同然の男達に仕事を与えたのだ。何かあるに違いない。
「いいでしょう。いつどこに行けばいいのですか?」
「明後日の夜半に今戸町の橋元屋に行ってくれ。しばらくしたら商家から花火が上がる。そうなったら店の向かいにある船に乗り込んで、隅田川を下るんだ」
二人は黙って頷くと、小十郎はニッコリと微笑んで土手を下りて行った。
――
「お前さんは、小十郎が言ったあの言葉を真に受けちゃいねえよな?」
周作が小馬鹿にしながら言う。忠景は周作の脇腹を小突いた。
「当たり前だ。私だって間抜けではない」
「ああ分かっている。だが、これは大きな手掛かりになるぞ」
周作は緩ませていた頬を直して、忠景の顔を見据えた。
「しかし、盗人どもの手を貸すことになるがいいのか?」
「最終的に元の鞘に戻ればいいのだろう? それに損害があれば小十郎から引っ張ればいいさ」
忠景の言葉に周作が苦笑いしていると、隣にいたひょっとこの面を被った男が遠くを指差した。
「おい、誰かが近寄って来るぞ」
周作が指差す方向から提灯の明かりが二つやって来た。
暗がりと降りしきる雨で、その明かりはぼおっとしてよく見えないが、どんどんこちらに近付いてくる。
明かりは一歩、また一歩と近づいて来て提灯には「御用」の二文字が書かれている。
「っちぃ! 火盗改だ!」
「おい、どうすんだ?」
忠景が言うと、隣に居たひょっとこの面をかぶった男は刀に手をかけて前に出た。
「俺は前に出て引きつける。どっちかは中にいる仲間に知らせてくれ!」
「中にいる仲間?」
別にすっとぼけている訳ではない。だいたいのことは予想がつくのだが、詳しい話は聞いていないから確証を得られないだけだ。
そんな事情は露も知らないひょっとこの男は、怒鳴りながら言った。
「おい、ふざけてないでさっさと呼んで来い! 中で蔵を荒らしている連中のことだよ!」
忠景と周作は顔を見合わせた。
「分かった。俺が……」
忠景が土蔵に行こうとするも、周作はその手を掴んだ。
「いや、俺が行く。柳生はそこに居るんだ」
周作が忠景を睨み付ける。
ひとたび動けば殺すぞ、といった前に感じた殺気だった。
忠景は思わず足がすくんでしまい、いわれるがままにするしかなかった。
「あ、ああ。頼んだぞ……」
「ったく、どっちでもいいから、さっさと行って来い!」
ひょっとこ面の男は周作を急かし、駆け足で土蔵へ向かった。
○
「貴様らぁ! こんな刻になにをしている!」
火盗改の一人が大声で叫んだ。
だが、ひょっとこ面は何も答えずに刀を抜いて火盗改の元へ進んでゆく。
「さては盗賊だなぁ? 火盗改に名を名乗れっ!」
大柄な男も刀を抜いて、ひょっとこの面へと襲いかかった。
「いや、名乗る必要など無い! そのまま死ねぇ!」
恵まれた体躯から豪快な一撃が繰り出された。
ひょっとこも負けていない。その一撃を華麗に右へと弾いた。
「っちぃ!」
「おいおい、その体躯でそんな糞みたいな打ち込みしか出来ないのか? 火盗改も大した組織じゃねえなぁ!」
余裕を見せながら、ひょっとこは数合打ち込む。
大柄な火盗改に比べて、遥かに小柄な体なのに互角以上に渡り合っている。傍で見ている忠景もその腕前には舌を巻いた。
「おいチビ! 数町くらいにもう数組巡回している。さっさと増援を呼んで来い!」
ひょっとこの面の腕に驚いたのか、桐油塗りの黒い合羽を着ていたヤセ男が、同伴していた小姓に命令して増援を呼ばせに行かせる。
「貴様は中々やるな。俺が直々に相手してやるよ!」
ヤセ男は、そう言うと刀を抜いてひょっとこへと襲いかかる。
降りしきる雨の中、ひょっとこ面は必死に抵抗していた。
身なりの雑な背丈7尺はあろう大男と、身なりの整ったヤセ男を相手取り、必死に防戦をしている。
「くそ、土蔵組はまだ終わらねえのかよぉ!」
ひょっとこは火盗改の二人から繰り出される刀を、右へ左へと弾きながら叫んだ。
「おいおい! さっきの威勢はどうしたんだぁ? このままじゃ死んじまうぞ!」
ヤセ男も平常心を取り戻し、ひょっとこの面を相手に有利な剣捌きを見せた。
相手は腐っても火盗改のようだ。大きく踏み込んだと思いきや一歩引き、それを見て大きく踏み込んだ所で鋭い突きを食らわせる。相手の意表を突く巧みな刀さばきを披露している。
(……どうするべきか)
先ほどはああは言っただが、盗賊に加担して、火盗改にまで手を出すのはどうかと思っていた。
しかし、目の前で人が斬られるのを見るのも堪えられなかった。こうなっては、背に腹は代えられない。
「……仕方無い、助太刀いたす!」
徐々に劣勢になっていくのをみかねて、忠景は刀を抜き飛びだした。
火盗改のうち、大柄な方に斬りかかった。大柄な男は不意をつかれて一歩後退した。そこで、ヤセ男にも隙が生まれる。
ひょっとこは一歩後退し、いったん体を落ち着かせる余裕が生まれた。
「悪いなぁ! 背中は任せたぜ!」
「……ああ。目の前の敵のみを相手しろ!」
二人は「おうっ!」と掛け声をかけると、互いの正面にいる相手へと斬りかかる。
○
忠景は三合ほど打ち合って感じたのは、大柄な男は力押しのみであった。だからひょっとこ面の男も、対格差があるにもかかわらず、ラクラクと受け流せることが出来たのであろう。
そうなると忠景も対処は簡単だった。
忠景は、雨でぬかるんだ轍に足を入れたために体勢を崩した。
「ハっ! ぬかるみに足を取られたか!」
高笑いをして、これぞ好機と言わんばかりに、刀を真上に上げて力一杯に刀を振り下ろして来た。
(……掛かったな)
忠景は口角を上げて、勢いよく振り下ろす刀を受け止めようとせずに、咄嗟に半身になって右から左へと火盗改の刀を弾いた。
そのため、相手の体は面白いように前のめりになる。
「な、なんだと?」
「……猪め。頭を使え」
左に大きく倒れこんでくる火盗改の男へ、手にした刀を逆に持ち替え腹に一撃を加えた。
男は白目を剥いて泥の中に倒れ込んだ。
「火盗改を殺す訳にはいくまい」
忠景はそう呟くとヤセ男の方へと加勢した。
○
こちらは一対一になったため、違う戦法を強いられた。
激しく打ち合った忠景らとはうって変わって、静そのものだった。背後から刀同士のはじけ合う音以外は、雨が地面へと落ちる音しか聞こえない。
相手は意表を突くのを得意とする男だ。
「ったく、さっさと掛かって来いよ!」
ひょっとこが言うも、ヤセ男は薄笑いを浮かべる。
面を付けているために顔は見えないが、苛立ちが相手へと伝わる。ひょっとこの剣先は震え、足は泥濘を掘り下げる。それに比べてヤセ男は不敵な笑みを浮かべながら相手の動きを探っているだけ。
「ああぁ! 焦れってぇなぁ! さっさとケリをつけてやるよ!」
ひょっとこは刀をその場に捨て、素手でヤセ男へと飛び掛かった。
刀を相手に、文字通り徒手空拳で挑む。
忠景は見たことの無い展開だった。古株の火盗改でも経験したことは無いだろう。
ひょっとこは、体を左右に振りながら着実に近づいて行く。ヤセ男の剣先の動きが狂いだし、隙が生まれた。
「所詮は見掛け倒しだな! 路地裏育ちを舐めんじゃねえぞ!」
そこからは一瞬だった。ひょっとこは懐に潜り込み、ヤセ男のみぞおちを左拳で殴った。
ヤセ男が体勢を崩すと、右手でヤセ男が提げていた鞘をぶっこ抜き、脇腹へと突き刺す。
鞘の先端には金細工の石突が付けられていた。そのせいか、思った以上に衝撃があったようだ。
「うげぇっ!」
呻き声と共に、口から体液を吐きながらヤセ男は水たまりへと沈んだ。
「まぁアバラ骨はイカれちまっただろうな」
腹を押さえてうずくまるやせ男を眺めていると、小姓の叫び声と共に火盗改の増援が来た。
「佐嶋様、あいつらです!」
「盗賊ども! 黙って御縄につけい!」
火盗改の女性の声が凛と響き渡る
「御用」と書かれた高提灯に照らされて刺股が雨降る江戸で鈍く光る。
相手は人数にして数十名ほどだが、こちらは2名。
長柄を相手に、馬鹿正直に応戦すれば間違いなく捕縛される。
かといって逃げるにしても周作をおいて行くわけにはいかず、待たなければならない。
「進退極まったか……」
忠景は力なく呟くと、それと同時に、屋敷の中から花火が一発上がり、商家の横道から周作らが飛び出して来た。
あるものは塀によじ登り屋根伝いに逃げだし、またある者は裏路地を這うように逃げだした。蔵を襲った連中は、蜘蛛の子を散らすように逃げだす。
「こっちは片付いた! さっさとズらかるぞ!」
「ああ! こいつはどうする?」
忠景はひょっとこに目をやった。
周作は面の男を見た。
「一人くらい増えてもいいだろう! さっさと行くぞ!」
忠景らはひょっとこを連れ、隅田川に係留してある船へと飛び込んだ。
○
小十郎の言う通り、商家の真正面にある小さな桟橋には船が置いてあった。
岸辺から手提灯を川へ向けて必死に探索するのだが、雨と暗がりで捜査の網をすりぬけることが出来た。
忠景らを乗せた船は、隅田川の対岸にある枕橋を抜けて源森川へと入った。ここまでは息をじっとひそめてやっていたのだが、この辺りで周作が口を開いた。
「……それで、アンタは何者なんだ?」
周作がひょっとこの男を指差して言う。
”店の警固”の間、忠景らはずっと共にいたのだが、土蔵組の連中の名前はおろか、この男の名前も聞いていなかった。
「俺は金四郎って言うもんだ。逃げるのを手伝ってくれてありがとよ」
金四郎はひょっとこの面を取って答えた。
暗がりでよく見えないが、目は鋭く鼻筋の通った美青年で声もいい。盗賊まがいの行為をするよりも、舞台に上がって歌舞伎をやる方が似合うような男だ。
「お前やけに若いんだな。年はいくつなんだ?」
「おいおい、人の名前を聞いたんだ。お前たちも、その面を取って名乗ってくれないか?」
金四郎は妙に強気に出てきた。
周作は眉をひそめたのだが、言っていることは正しい。二人は編み笠を脱いで名乗った。
「ほう、柳生殿に樋口殿か。顔を見る限り、柳生殿は年が近そうだな。幾つなんだ?」
「齢は21。そういう金四郎殿はいくつなんだ?」
「俺と同い年だな。それにしても、二人とも食いつめ浪人にしてはやけに血色がいい。君らは御家人か?」
暗がりの中、金四郎は二人を見て判断する。
忠景らは正体を当てられ、ドキッとして一瞬だけ表情が硬くなった。その顔の動きを金四郎は見逃さなかった。
「いやいや、このご時世だ。食い詰めた旗本が悪事に手を出すのはおかしな話じゃァないさ」
ケラケラと高笑いを上げながら、遠山は船をこいだ。
水戸藩の下屋敷を抜け、業平橋へと船は進む。
「それじゃぁ、お前は何をやってるんだ? 旗本か? それとも浪人か?」
「ただの遊び人さ。ほれ、見てみろよ」
遠山は答えて、着流しの片袖を脱いでみせた。
「ほう、なかなか立派な刺青じゃねえか」
盛りあがった筋肉質な左肩には、博徒彫りの刺青があった。
荒々しい波に桜の花弁が舞い散る絵柄。背中には女の生首も描かれている。なかなか立派な刺青だ。
「こんな刺青をやってる旗本なんか正気の沙汰じゃねえだろ?」
金四郎は調子よく言った。
町人らの間では広く親しまれていた刺青だが、武士にとって刺青はご法度ものだ。幕府から何度も禁制を食らっていたし、刺青を入れていた大名は不行跡を理由に改易されていた。
それだけに忠景らも納得した。
「それよりも、ここまでくれば追手も来ねえだろ。さっさとズらかっちまおうぜ」
金四郎は、そう言うと颯爽と船から岸へと飛び降りた。
「それじゃあな」
一声かけると足音がどんどんと遠くなる。
「ったく、あいつは何者なんだ?」
周作が愚痴をこぼす。
桜吹雪の遊び人。いま考えても答えが出るはずが無い。
「……後で考えよう。それよりも今は退散しよう」
二人は船着き場に船を泊め、夜の本所へと消えていった。