奉行のお仕事
忠春主従らが南町奉行所へ着く頃には、快晴だった天気は暗澹とした曇りに変わっていた。
「これは一雨来るかも知れませんね、初めての出仕だっていうのに。ツいていませんね、忠春様」
義親は残念そうにしながら忠春の方を向いた。
「わざわざ、そんなこと言わなくてもいいじゃないの。あんたは、ほんとに気が利かないわね」
義親の不用意な言葉に忠春は腕を組んでそっぽを向く。
実際、忠春は少し不安だった。最初の日くらいは天気も自分の味方をしてくれててもいいじゃないか、そんな風に考えていた。晴れた日に出仕した方が気分も良い。
機嫌を損ねた忠春に、苦笑いをしながら政憲は助け舟を出す。
「少し涼しくなって良いではありませんか。春だと言うのに変に暑いほうが私は不安ですよ」
「……まぁいいわ。あんたの言う事の方が正しいかも知れないわね。恥を知りなさい義親」
政憲の一言に忠春は機嫌を直した。
「そこまで言われなきゃいけないんですか。まぁ、政憲様の言うとおりかもしれませんね。確かにこれだけ暑いと変な気を起こす奴も多いですからね」
「こうまで暑い日々が続くと、確かに何かが起こっていても不思議ではありませんからね」
政憲もそれに同意する。
「へぇ、そういうもんなのね。私は暑いほうが割と好きだけど」
「暑いと鬱憤も溜まりやすくなります。些細なことで殺生沙汰にまで発展する場合も多いようですよ。実際、長崎でも暑い日の方が事件は多かったですから」
「それは知らなかったわ。やっぱりあんたと違って色々と経験しいると違うのね」
義親の方を向き、意地悪く忠春がニヤリとしながら言う。政憲はいつもの如く微笑んでいる。
「なんでそこで私の方を向くんですか。ああ、奉行所が見えましたよ」
義親がそう言うと前方に南町奉行所が見えた。
南町奉行所は、北町奉行所と並んで江戸に二つある町奉行所の一つである。
「南町」という名前から誤解されがちだが、「北町奉行所が江戸の北部を担当し、南町奉行所が江戸の南部を担当していた」という訳ではない。北町と南町がひと月ごとの交代制(月番)で江戸市中全体を見廻っていた。
「やっぱり奉行所は広いわね。当たり前だけど屋敷とは比べ物にならないわね」
門前に立って奉行所を見つめると忠春の表情が少し硬くなる。忠春がそうなるのも無理もない。なんせ江戸市中警固の総本山だ。門構えも塀の高さも並の大名屋敷とは比べ物にならない。
さらに、常時門番が槍を持ち篝火を焚いている。日が暮れようと関係なく仕事をしている象徴であり、バチバチと火花が散っている様は、見慣れている者でもいざ入ろうとなると怖じ気付いてしまうだろう。
「“大江戸八百八町”なんて言われるくらい大きな町です。これくらいは当たり前ですよ」
「江戸市中を警固するためにはこれだけの装備と設備が必要なんですね。忠春様、気合を入れなきゃダメですね」
「そんなことくらい分かってるわよ義親。さぁ、行くわよ」
忠春主従が奉行所内に徒を進めようとすると、長柄の棒を持った門番がぶっきら棒に声をかけてきた。
「おい、お前たち何者だ。名を名乗れ」
「……新しい奉行に向かって無礼な口を利くのね。ほんとに死罪にするわよあんた」
忠春は眉を顰めて門番以上にぶっきらぼうに言い返すと、門番のもう一人が笑いながら言う。
「お前のような小娘が奉行のはず無いだろ。俺達に遊んでいる暇はないんだ。ほら、さっさと帰ってお友達とままごと遊びでもしてな」
ゲラゲラと笑いながら話す門番のその言葉に忠春は我慢がならなかった。
「このっ、許さっ」
即座に中腰になり、右手を刀の柄へと動かして抜刀しようとする。
だが、義親と政憲が忠春の眼前に飛び出して、先んじて刀を抜いた。
「貴様、西大平藩主大岡忠移が息女、大岡越前守忠春様に無礼だぞ。礼儀のなっていない下種な門番であれば斬られても文句はあるまい」
「簡単に懐まで踏み込ませるなんて門番失格ですね。こんな門番は必要ありませんよねぇ。忠春様、奴を斬って新しいのを雇いましょう」
政憲と義親は表情を崩して眉間にしわを寄せて睨みつけ、門番の首筋に刀を突き付けて威嚇する。
門番二人もこの一瞬で何があったか解からないだろう。ゲラゲラ笑いながら話している数秒後には気が付いたら自らの目の前で侍が刀を抜き、首筋に刃を突き立てられているのである。
門番二人はガタガタと震え、足元にはじわじわと水たまりが出来ていった。
「何事か?」「なんか面白い事になってるなぁ」そんな話をしながら、周りを歩いていた人々がぞろぞろと近づいてくる。ハッと我に返った忠春が言う。
「い、いや、もう良いわ、二人とも下がりなさい」
忠春がそう言うと二人は門番を睨みつけたまま納刀した。
門番も我に返ったようで、泣きそうな顔をしながら雪崩れるように膝をつき、
「ご、御無礼申し訳ありませんでした!」
門番二人は人目をはばからず、頭を地につけて謝罪をする。
「……本当に知らなかったのであれば、まぁいいわ。私が大岡越前守忠春よ、ちゃんと覚えなさい。次やったら本当に死罪だから、覚悟しなさいよ」
忠春は冷たく言い放ち「政憲、義親、行くわよ」と号令をかけて、颯爽と門内へ入って行った。
○
「忠春様、お待ちしておりました」
表玄関へ着くと、初めて見る男が声をかけてきた。
背丈が五尺七寸程の、特にこれといった特徴は無いのだが整った顔立ちをしている。
「好慶、御苦労です」
政憲は若い男に目をやって声を掛ける。
「政憲、知ってるの?」
忠春が怪訝そうに尋ねると、若い青年ははきはきと答えた。
「彼は森好慶といいます。我が家が長く仕えている者ですよ。今日のために奉行所で色々と準備をしておいてもらいました」
政憲がそう答えると好慶が膝をついて頭を下げる。
「へぇ、そうだったの。わざわざ悪いわね」
忠春が微笑みそう答える。すると好慶は聞いた。
「そういえば先程、門の方が騒がしかったのですが何かあったのでしょうか」
「大したことじゃないわ。それより奉行所にはあんたを含めて誰がいるの? 紹介してよ」
忠春の後方で政憲と義親が苦笑している。
「……はぁ、そうですか。では今いる者をおよび致します」
好慶が聞くも忠春は受け流し、奉行所の面々と顔合わせを行うこととなった。
奉行所内の御用部屋に案内され、座して待っていると再び好慶がやって来た。
「今は出払っている者が多い為、残っている者はこれだけでございます」
そう言うと襖を開いた。そこには二名の同心が平伏をしていた。
「表を上げよ。そっちのでかい方、名は何と言うの」
巨漢の男が名乗った。
「フフフ、拙者の名は小田蔵人国定と申しまする」
百貫デブという単語が全く相応しい巨漢の男がそう名乗った。背は忠春と変わらないくらいだが、横幅は二倍三倍はあるであろう男だ。相撲取りに比べると見るからに貧相な体だが十分に太い体躯である。国定は下衆な笑いを浮かべながら話を続ける。
「拙者は浮世の女性には興味が無く、浮世絵の女性しか愛せぬゆえ、忠春様は安心なされて良いですぞ。デュフフフフ」
国定は脂ぎった顔に汗を浮かべながら満面の笑みでそう語った。忠春は呆れかえって何も言えなかった。
「……もういいわ。そっちのあんたは?」
忠春がそう言うと無精ひげを生やした男が喋った。
「……伊藤弥五郎忠景、よろしく頼む」
もう一人の方は背の高い男だった。忠春より頭一つくらい大きいであろう六尺程の長身である。顔は彫りが深く鼻筋の通った男前だった。羽織袴でよく見えないが、袖から出ている腕から察するにがっしりとした体躯の男だろう。
「伊藤に小田ね。知っての通り、私が新任の南町奉行大岡越前守忠春よ。よろしく頼むわ」
忠春がそう言うと二人の男は平伏した。忠春は思い出したように聞いた。
「好慶、あんたさっき“他の者は出払っている”って言ったけど何かあったの?」
「ええ、ちょっとした事件がございましてね。それの関係で出払っております」
「“ちょっとした”ねぇ…… で、どんな事件なのよ」
忠春が身を乗り出して、興味津々に聞く。好慶は話を始めた。
「茶屋で下女の遺体が上野で見つかったという話があったのですよ」
「そんな大事な事があるんだったら、真っ先に報告しなさいよ」
「はぁ、申し訳ありません」
好慶は含みを持たせて謝った。忠春は後ろに控えていた政憲と義親を呼びつけて言う。
「政憲、義親、行くわよ。好慶、案内しなさい」
「私は留守役を授かってまして……」
「そんなのあいつらに任せとけばいいわ。案内しないなら切腹だから!」
忠春は国定や忠景を指差して言う。
好慶は困った表情をし、政憲の方を向き助けを求めるも、政憲は苦笑をしたまま何も言わない。
「……ふぅ。承知いたしました忠春様」
好慶はため息をついて返事を返すと、忠春は満足そうに笑みを浮かべて大手を振り奉行所から出て行く。
「政憲様、凄い方が奉行になられたんですね」
不安げな表情を浮かべて好慶は政憲に問うた。
「彼女の凄さは、まだまだこれからです」
「ええ、間違いありません」
義親も苦笑いしながら被せて言う。
「……確かに。本当に物凄い方ですよ忠春様は」
好慶は苦笑しながら道を歩く忠春に声を掛けた。
「忠春様」
「何よ」
「上野は反対方向ですよ」
「……ありがとう」
暗澹とした雲に包まれた江戸の町に、ぽつぽつと小雨が降り出して来た。
用語解説
『南町奉行所』 現在の有楽町駅前にあった。大岡越前とか遠山の金さんなんかは南町奉行。南町奉行は今で言う所の警視総監兼東京都知事。