裏通りの話
忠景が柳生十兵衛風となじられているちょうど同じ頃、奉行所に瓦版記者の屋山文と年番方与力、森好慶の両名が呼び出された。
御用部屋では忠春と政憲の二名のみが座して待っている。
「二人とも御苦労さま。それで話なんだけど……」
忠春は浅草の一件を二人に話した。
「なるほど、聖天町の町役人を内偵しろと言うことですね」
「内偵っていう言葉が合ってるのかは分からないけど、宮本小十郎を探ってちょうだい」
好慶は黙って頷いた。
「よしよしを選ぶなんて、さすがは名奉行だね!」
ニヤニヤと好慶を見つめながら文は言ったのだが、いまいち意味が分からない。
忠春はすかさず聞き返した。
「なんでそう思ったの?」
「だって、好慶君くらい特徴の無い顔だと覚えられなさそうだから適任だね!」
あまりにもひどい言葉ではあるのだが、一同は納得してしまった。
好慶は文武がそれなりに優れ、普通の町人よりは整った顔立ちなのだが、際立った特徴が無い。というよりか、特徴が無いのが好慶の特徴なのかもしれない。好慶にはそれくらい特徴が無いのだ。
なんせ好慶自身も深くうなずいたくらいだ。
政憲は苦笑をしながら文に聞いた。
「ちなみに文殿は小十郎殿について、何か知っていることはございますか?」
「うーん、そうだねえ、これと言ったことは無いなぁ。でも浅草でなら気になる話が一つだけあってさ……」
他の三人は身を乗り出した。
「最近あの辺りを歩いていたのよ。ちょっと疲れちゃったからお茶屋で休んでたわけね」
文は思い出しながら話した。
――
この時、江戸では桜の芽吹く季節となっていた。満開までには後少し足りないが、薄い桃色の花弁が江戸の空を彩っている。
といっても祭り好きの江戸町人。「八分咲き程の桜を肴にするのももオツである」と、各所にある桜の木の下で酒盛りを始めていた。
やはり酒のある所に事件がある。酔っ払いが起こしたようなのクダらない事件を見つけようと隅田川沿いを探していたのだ。
「なかなかいいネタは無さそうね……」
午前中いっぱい使って両国広小路から柳橋を渡り、川を北へと進んで行ったのだが面白そうなものは見つからない。
陽が宙天を越えた辺りで文のお腹も減った。
何所かよる所は無いか浅草聖天町の大通りを歩いていると、小じんまりとした茶屋を見つけた。
「へぇ、”てら屋”ねえ。浅草寺のある浅草ならではって感じのお店ね。番付の面白いネタにもなりそうだし入ってみよっと」
小さな木で出来た看板には汚い文字で”てら屋”と書かれている。
飯時を過ぎたからか、店の前にある大きな番傘と長椅子が置かれているのだが、そこには誰も座っておらず、店の奥に客がいる気配も無い。
なんせ、大通りに示している割に間口が異様にせまいのだ。看板こそ出ているのだがここで店をやっているとは思わないだろう。
ちなみに、瓦版は江戸で起きた事件のみをかいてある訳ではない。
「どこどこの店は旨い・不味い」、「この時期はこれを食え!」といった雑多な内容を順位付けする”番付”が月に何度か発行されている。
季節はちょうど春先。今番付をつけるとするならば「桜のお供に最高の茶屋」になるだろう。
この隠れ家的な茶屋は非常に魅力的なものであった。文の足は自然とてら屋へと向かって行く。
「ごめんくださーい」
「はいはい。こんにちわ」
声を掛けると店の奥から白い眉毛を蓄えた主人が出てきた。
「このお店のおススメってなんですか?」
そう言いながら文は通りに面した長椅子に腰かける。
「そうだねぇ、団子ならそこらへんの茶屋に負けないかねえ」
主人の話した言葉こそ謙虚だが、主人の顔は自信にあふれていた。
「そうですかぁ。それならお団子とお茶を下さい」
「はいよ。ちょっと待っててね」
主人は店の奥へと下がって行く。
てら屋は聖天町の目抜き通りに示している為、店の前は人通りが多い。
面白いことは無いか通りをきょろきょろと眺めていると、一人の男と数名の浪人が揉め事を起こした。
「なぁ、さっさと明け渡してくれねえかなぁ」
「何度言われたって断る! あの道場は父から受け継いだものだ。証書だってちゃんとあるんだぞ」
背はそこそこあるが、男にしては華奢な武士は、揃いの羽織を纏った浪人たちの要求を撥ねつけた。
「ったく、今は言葉で済ましてるが、アンタの行動次第ではこっちが出て来るかも知れねえぞ?」
顔に薄ら笑いを浮かべ、浪人は刀を指で示した。
だが、その脅しは華奢な男には通用しない。男は大声で笑った。
「脅しているつもりなのか? 実力行使なら私は構わんぞ。貴様の様な三下に負けるとは思えんからな」
「ああ? おもしれぇ、だったらやってやろうじゃねえか!」
浪人の一人が息まいた。
男は軽く微笑み、刀に手を掛けた。
「好きにするがいい。どこからでも掛かって来い!」
「ふざけやがって!」
堪え切れなくなった浪人たちは襲いかかった。男も応戦しようと柄を握りしめて鞘から抜こうとする。
すると、大声を張り上げながら体躯の良い中年が、数名の町人達を連れて出てきた。
「おいおい、天下の往来で物騒な事をしてくれるなぁ。さっさと仕舞ってくれねえかな」
「おい! アンタは関係ぇねえだだろ! すっ込んでろ!」
若い浪人が刀を手にして中年へと飛び掛かった。
文も目を覆ったのだが、しかし、突き刺そうとした刀は中年へとは届かない。
浪人が胸元めがけて伸ばして来た刀を、中年は咄嗟に半身になって避けた。そして、数歩踏み出して刀を持つ腕を荒々しく握って左脇に締めた。
「な、なんだと!」
刀で突き刺そうとしていたら、気が付いたらそれをかわされて脇腹で腕を固められているのだ。浪人は何が起きたのか分からないだろう。見ていた文にも何がなんだか分からなかった。
浪人は突然の動作に目を丸くして驚いている。しかし、中年の動きは止まらない。
すぐさま脇を締めた。するとその力で浪人は握っていた刀を力なくその場に落とした。
中年の男は、それを確認すると脇で締めるのを止めて腕を右腕で掴み直し、浪人の背後へと回り、背中に腕を押しつけながらレの字に折り曲げた。そして、余った左腕では浪人の首を締めた。
「まだまだだなぁ、おらよっ!」
レの字状に固められた腕はそれだけでも十分に痛い。浪人は口角から涎を垂らし、苦痛で顔を歪めながら必死になって我慢をしている。
左腕はそのままの位置を維持し、右腕を勢いよく上へと持ち上げた。
中年によって持ち上げられた浪人の右腕は、人体の限界を超えた。それと同時に「パキっ」と、肩の抜ける音が通りに響いた。
「いててててて!」
浪人は必死になって我慢していたのだが、それに限界が来た。
脱臼によってブラリと垂れ下がった肩を抱き、大声で叫びながら浪人は地面にうずくまった。
「言っただろ? さっさと物騒な物を仕舞え。さもなきゃ天真一刀流の一撃を食らわせるぞ?」
中年は、今度は腰にさした刀に手を掛け、浪人達をキッと睨みつけた。この中年もなかなかやることは証明された。
それに観念したのか、浪人の頭領格が刀をしまった。
「……仕方ねぇ。おいそこのガキ! 覚えてやがれ!」
「勝手に覚えてろ! 次に私の前に現れたら命は無いと思え!」
華奢な男は毅然と言い放つと、浪人たちは、お決まりの捨て台詞を言いながら、聖天町の裏路地へと逃げ帰って行った。
――
「……へぇ、やっぱり古い町だからか分かんないけど、浅草には活きのいい中年がいるのね」
「中年を馬鹿にすると痛い目に遭いますよ」
忠春がしみじみと感動していると政憲がしゃしゃり出てきた。政憲はいつもの微笑みを浮かべたまま、腕を組んで満足げに話す。
だが、文は口を尖らせ、二人をチクりとさした。
「もう、まだ話は終わってないんだって。ここからが重要なの」
「そ、そうなの。話を続けて」
文は話を続けた。
――
「てら屋特製の団子とお茶ででございます」
「ありがとう。壁に書かれている値段にしては量が多いのね」
小さな皿に山盛りに積まれた団子を見て、文は目を丸くした。
茶屋の主人は文の反応を笑顔で見守ると、通りを眺めた。
「ええ。やはりたくさん食べて元気になって欲しいですからね。それと、何やら通りが騒がしいですが、何かあったんですか?」
妙に殺気立った通行人の多さに主人も気が付いたようだ。
文は簡潔に説明をした。
「揃いの羽織ですか。もしかすると奴の連中かもしれませんね」
「奴って言うと、旗本奴のこと?」
主人は黙って頷き、話し始めた。
「そもそも浅草は町人の力が強い地域でしてね。町役人が一つになってなんとかやってこれてたんですよ」
「問題は多々あった、って疑問が残るんだけど別にいいわ。続けて下さい」
文は主人に見えない所で、懐に忍ばせた懐紙に話を書き取った。
「それが最近になって旗本奴の連中が姿を見せ始めたんですね。至る所で町人達とぶつかり合って……」
「なるほど。でも奉行所に申し出ればいいんじゃないの?」
主人の顔色が変わった。
「奉行所だなんてとんでも無い。旗本奴風情なんて、私たち町人の力で容易く撃退出来ますよ」
またしても主人は自信満々に語った。
「そうなんだ、私も応援してるよ! それと、さっきガタイのいい中年男が町人を連れて奴連中を倒してたんだけど知ってる?」
「ああ、それは町役人の宮本小十郎様だよ。天真一刀流の使い手だからね。腕前は浅草一でしょうね」
文が聞くと、自分の事のように茶屋の主人は喜んだ。
「こうして瓦版をやっているけど、まだまだ江戸は広いんだな」と、話を聞いた文も素直に感心していた。
「そうなんだ。お団子とお茶ごちそうさまね。量も多いし美味しかったよ」
「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしておりますよ」
主人に代金を渡して文は店を後にした。
――
「宮本小十郎ってのは中々やるのね」
「そうなんだよ。ほんとにビックリしちゃったね」
忠春は素直に感心していた。町役人と聞いて、ただの町人かと思っていたのだが天真一刀流の使い手だったとは思っていなかった。
小さな揉め事程度であれば、浅草まで奉行所が必要は無いだろう。
「名前も”宮本”に”小十郎”ですからね。ある意味剣を学ぶ為に……」
好慶は小さく笑い、自信満々に話していると、文がまたしても遮った。
「もう! 今はそんな話関係無いの! ここからが本当に重要なんだって!」
――
店で団子を食べ、満腹になった文は再び探索を再開する。
事件は人気のない場所で起きるのが常道だ。衛栄が見たら止めるだろうが、文は浅草の裏路地を歩いた。
陽はまだ高いので、安全と言えば安全なのだが、浅草は明暦の大火の後、日本橋人形町から移転してきた吉原も近い。その手の身売り業者や、用心棒が息を潜めて身を隠しているような所が多い。
それに、この辺りはやけに暗く感じた。お天道様は煌々と輝いているのだが、この裏路地まで陽の光は届いていないのかもしれない。
そんな中を体の線がはっきりと分かる程に小さめの着物を着て歩いているのである。見ようによっては夜鷹が昼間に散歩に出ているとも見えるのだが、その行為は危険そのものであった。
「うーん、なかなか面白そうなネタは無いね」
体を揺らしながらブラブラと歩いていると、見覚えのある男が数名の男を連れて居酒屋へと入って行った。
「あれは、宮本小十郎?」
ここは町役人がまっ昼間から歩くような街では無い。不思議に思った文は小十郎の後を追った。
薄汚れた暖簾をくぐると、店内は裏路地特有の狭さを誇っていた。店内は手前から奥にかけて長い机がありそこには二.三名の冴えない男が黙って飲んでいた、一番奥には五.六人程度が座れる座敷席があった。
愛想の悪い親父が無言で出迎えると、文は店内入り口に近い席へと座った。小十郎たちは店の最も奥の座敷に座り、ひそひそと話しあっている。
(遠くてよく聞こえないなぁ)
文は必死に聞き耳を立てるのだが、小十郎たちが用心してなのか話す内容はよく聞こえない。
必死に耳を傾けていると、正面でガタンと大きな音がする。
「……水だ」
驚いて。緊張のせいか少々喉が渇いていた。これはありがたいと水の入った湯呑みを手にした。
「えぇ……」
文は思わず呟いた。出された湯呑みの中身は、あまりに水にしては茶色かった。湯呑みを黙って長机へと戻す。
愛想の悪い主人から出された濁った水を見て気分を害しながらも、文は必死に調査を続けた。
(…あっ! ちょっとだけ見えた!)
文は必死に見つめていると、格子の狭間から小十郎の手元がちらりと見えた。
そこから見えた小十郎の手には、小さな紫地の巾着持っていた。じっくりと観察をし続けると、小十郎は巾着を浪人の手へと握り締めさせた。そこで小十郎はポツりと呟いた。
「……を頼んだぞ」
(ん? ”頼んだぞ”?)
その前に一言二言喋っていたのだが聞き取れない。最後の言葉のみがかろうじて聞こえた。
身を座敷の方に傾けると、小十郎は座敷で立ち上がった。帰り支度を始めたのだ。
(やばいっ! こっちに来る!)
無言で小十郎は店内を出口へと歩いて行く。文は気付かれまいと急いで長机へと体を向けて、やり過ごす。なんとか気がつかれずに済んだようだ。横目で小十郎の顔を覗いたのだが、口元しか見えなかった。その口元はしっかりと微笑んでいた。
小十郎が居酒屋から消えると浪人達は、大声を上げて笑い始めた。
――
「それで、どうなったのよ!」
忠春は文の肩を掴み揺さぶった。
「私が見たのはここまで。後は分からないな」
文も申し訳なさそうに上目遣いで見つめた。
「しかし、巾着を渡したんですよね。これはまさか……」
「ええ。好慶の考えている通りものもかもしれません」
「つまりは金品ね」
忠春が答えた。
「忠春様、その通りです。しかし……」
「その確証は無いのよね。ただ、小十郎と旗本奴との間に繋がりがあるのは間違いなさそうね」
「はい。それだけでも捜査は一歩前進かもしれません」
政憲は顔を緩めた。
「そうね。文ちゃんありがとう。今後もこの調子でお願いね」
「うん! はつちゃんの為にも頑張るよ!」
そう言うと、文は忠春へと抱きついた。
「ちょっ! いきなりどうしたのよ」
「ええ? 別にいいじゃん! ちょっとの間だからさぁ……」
忠春は何か言おうとしていたのだが、文の体に押しつぶされこれ以上の発言は許されなかった。
その間、政憲は好慶に耳打ちで話した。
「あなたの仕事は内偵だけではありません」
「ええ、文殿の護衛ですよね。それと、千葉周作と名乗る男の正体を掴めと」
好慶の答えに政憲は満足げに微笑んだ。
「御名答です。忠景は本物と言っていましたが、あなたの方で探りをお願いします」
「わかりました。ご期待に添えるように努力します」
好慶は政憲に頭を下げた。
「ちょ、ちょっと、も、もういいでしょ文ちゃん」
「ええ? まだ足りないなぁ」
二人のじゃれ合いは佳境を迎えていた。
ただ、文が忠春にくっ付いているのではなく、着物の下に手を伸ばし始めたのだ。
「や、やめて、本当にそれだけは勘弁して!」
「よいではないかぁ、よいではないか!」
文の目は据わっている。どこでかは分からないのだが何かに火が付いたようだ。
その目は冷たく、宣冬以上の”ヤる気”を見せていた。忠春は身の危機を感じた。
忠春の目に涙が浮かぼうとすると、馬乗りになった文が宙へと浮いた。
「バカ野郎! いい加減にしろ!」
文を引っぺがしたのは衛栄だった。
衛栄は文の襟首をネコの様に掴み、その場に持ち上げている。
「もう栄ちゃんのばかぁ! いいところだったのに!」
宙に浮いたまま文は言うのだが、衛栄は頭を抱えた。
「もう、お前に返す言葉も無いよ。それよりも忠春様、ご報告があります」
文を中庭へとちょこんと放り投げると、忠春の正面に座する。
忠春は顔を赤くし、背を向けて乱れた着物を直すと、衛栄の話を聞く態勢に入った。
「どうしたの?」
「近々、勘定奉行宛てへの文書を提出しなければなりません。その用意をしたいので手伝ってもらえませんか?」
「ああ、そのことね。分かったわ。それじゃ好慶に文ちゃん。頼んだわよ」
忠春がそう言うと、恭しく二人は頭を下げた。
「ったく、文ちゃんもこういうときは普通に応対するのにね……」
「ん? はつちゃん、何か言った?」
中庭へと放り投げられて土汚れた文は、縁側からひょっこりと顔を出して言った。
「別に何でも無いわよ。二人とも一応前科があるんだからね。絶対に無茶だけはしないでね」
忠春は意地悪く言い残して、衛栄と共に作業へと向かって行った。