稽古試合
道場の中は外観と同じく簡素なものだった。
年季が入って黒ずんだ板張りの床に、木製の額縁に入れられた「天真」と書かれた達筆な書が飾られている。
道場の中では二人の男、正確には青年と少年が素振りの稽古をしていた。
幾多の道場を見てきた忠景だが、余りの簡素振りに驚いた。
「……ほう、なかなか情緒があっていいじゃないか」
隣にいる周作はそう言うが、はっきり言ってさびれた道場であった。
「昔は活気があったんですけどね…… しかし、教える腕は変わっておりませんので安心して下さい」
二人の驚いた顔を見て察したのか、秋は自信たっぷりに答える。
「秋の言う通り道場は人数じゃない。教える腕が一番重要ですから。私は全く気にしていませんよ」
奥で素振り稽古をしていた精悍な顔つきの若い男が、秋に答えるように言う。
「ありがとうね弥七。彼は宮本弥七と言います。歳は私と同じ十八で、宮本様のご子息です」
体躯は忠景らに比べると少々細く、身長も二寸程低いが、精悍な顔立ちのなかなかの男前である。
すると、脇からもう一人、少年が顔覗かせた。
「そうだ! 秋先生を馬鹿にすると痛い目を見るぞ!」
少年は目を尖らせ、周作らを睨みつけた。
「こらっ、佐吉っ! 大事なお客様に失礼でしょ!」
「……っへんだ!」
秋は佐吉という少年の頭を軽くはたいて叱るのだが、佐吉はなおも周作らを睨みつけている。
「ごめんなさいね。そう言えばお名前をお聞きしていませんでしたね。何というのでしょうか」
忠景は返答に困った。何か名前を考えていると、またしても周作が早く答えた。
「私は上州から来た樋口定政と申します。よろしくお願いします」
周作は答えた。
すると、弥七の目の色が変わった。
「もしかして、上州の樋口殿ということは、馬庭念流の樋口殿ですか?」
「ええ。その樋口でございます。日本最後の秘境、上州からやって参りました」
周作はにっこりと微笑み答えた。
弥七は目を輝かして周作を見つめている。秋も同様に物珍しそうな目で周作を見ていた。
「それで、そちらの方のお名前は?」
あくまで身分を隠してここまでやって来たので馬鹿正直に身分を明かすことは無い。そして、パッと出て来た名前がこれだった。
「わ、私は柳生宗景と申します」
忠景が軽く会釈して言うと、佐吉がケラケラと笑った。
「ハハハ、柳生って名字だから茶筅髷に眼帯なのか。こりゃ面白い男だな!」
「……この!」
子供にまで指を差され、笑われて、忠景は躾の為に佐吉の頭を叩こうとすると、横にいた周作がなだめた。
「まぁ落ち着けって。お前の姿を見た上で、名前が柳生だなんて言えば誰だって面白がるさ。気にするこたぁねえよ」
周作も佐吉と一緒になってゲラゲラと笑いながら忠景の肩を叩いた。
「お前が言うな」と、一発かましてやりたかったのだが、必死にこらえて周作を睨み付ける。
「柳生十兵衛が好きではないのか。それならば、ちまたで人気の千葉周作なんてのはどうだ?」
周作が言った。すると、佐吉は大笑いして言う。
「千葉周作? あの上毛の田舎侍と決闘して負けた奴だろ? そんな情けないやつが好きなんて江戸にはいないよ」
周作の背中に影が差した。今度は忠景が周作を思い切り笑ってやろうとするのだが、突然、「ペチィッ」と、頭が叩かれる音がした。
「こらっ! やめなさいっ。 ……本当にごめんなさいね。今、茶を汲んできますので。ほらっ、佐吉も手伝いなさい!」
秋に連れられ、いやいやながらも佐吉は奥へと連れ去られていく。
忠景が黙って眺めていると、またしても周作が話しかけてきた。
「いやぁ、中々出来た娘だなぁ。それにしてもお前はなんでそんな格好をしてんだ? 」
「うるせえ馬鹿!」
忠景はこらえきれずに周作の頭を一発叩いた。
○
「しかし、江戸には数十と道場があるのに、なぜ私の道場にやってこられたのですか?」
秋は茶をお盆に載せて持ってきた。
忠景が湯呑みを口につけながら誤魔化すためにどうやって言い繕うか考えていると、先に周作が言葉を発した。
「いやぁ、江戸で修行していた者から”美しすぎる女性剣士のやっている道場”があると聞きまして、こうして上州からやって参りました」
満面の笑みで答えたのだが、忠景は頭を抱えた。この場でそれを言うか。
周作の答えは明らかに間違った答えであったようだ。日輪と見間違えるように明るかった秋の顔に徐々に曇ってゆく。
「そ、そうですか。そちらのお方はどのような理由で?」
秋の言葉は周作に言ったものよりも冷たいものに変わった。こうなると返答次第では門前払いを食らうかもしれない。
忠景は慎重に慎重を重ねて言った。
「い、いやぁ、知り合いに”江戸でよい道場は無いか”と尋ねた所、この道場を紹介されまして。何でも秋殿の父上はかなりの達人だったとか……」
自信無さ気に答えた。
答えとしては正解だったようだ。曇りかかった秋の表情に陽の光が差して来る。
「はい! 父上は私に武芸の全てを叩きこんでくれました。この江戸中でも一番の剣士だったと思っております」
笑みをこぼしながらハキハキと喋る様を見て、忠景はあの土手で喋った女子と同一人物だとなおさら思えなかった。
「ええ、佐々木主水殿は誰にでも同じように接していました。子供に対しても老人に対しても。だからこそ道場が繁栄したんでしょうね」
「その言い方だと、私が同じように接してないみたいじゃないの。でも、父上は立派な方だったわ」
弥七の言葉に難癖をつけながらも、秋は懐かしそうに語った。
「それでは、お二人の武芸の程を見させてもらおうと思います。竹刀と防具を持ってくるので楽にしてお待ちくださいね」
秋は出した湯呑みをお盆に乗せると、道場の奥へと引き返して行った。
姿が見えなくなるのを確認すると、周作へと詰め寄った。
「おい、あの答えは無いだろう」
「まぁ気にすんなって。何とかなったからいいだろう」
悪びれずにへらへらと答える姿に腹が立つも、今はそれどころでは無い。他にももっと重要な問題があった。
「そんなことはどうでもいいんだ。周作、立ち会いをどうする気だ。本気で戦う訳にも行くまい」
「そうか? 別にいつも通り立ち会っても良いと思うのだが」
その答えに忠景は頭を抱えた。
「何を言ってるんだ! ここで本気を出せば道場の内情を調べることは出来ないだろう!」
「ああそうか。とはいっても、俺も一介の剣士だ。適当に立ち会うというのは本意ではない」
きっぱりと答える周作の姿に再び頭を抱えた。
「いや、そこは適当に受け流すべきだろう。ここで手掛かりが掴めないとなると、この一件を解決するのは不可能になるぞ」
「とは言っても己の矜持を捨て去るのは本望では無い。馬庭念流を極めた俺ならば、目を瞑っても負ける気などしないな!」
周作は最後の言葉のみ大声で発した。隣に居た忠景や弥七の顔色が変わる。どんどんと青ざめていった。
それと同時に湯呑みを戻して来た秋がやって来た。
「ほう、そちらのお方は中々自信があるようですね。別に手を抜かれなくても結構ですよ。本気でかかって来てもらって構いません」
秋は笑顔で返した。だが、口調が冷たく、頬が引き攣っているのを見ると、秋は大分怒りに満ちている。
「そりゃありがたいですなぁ。それでは手前も本気を出させてもらいましょう」
周作も笑顔で返す。
本気を出したであろう周作の姿を知っている忠景からすれば、どうにかして止めなければならない場面だ。
「い、いやぁ、相棒は口が悪いんだ。どうか本気にしないでほしい……」
忠景は慌てて制止しようとするも、二人は完全に火が付いていた。
「そこの柳生十兵衛風は口を挟まないでよい。これは私とこの男との勝負なのだ。座ってみていて貰いたい!」
「ああ、その通りだ。柳生十兵衛風は黙って座っておれ!」
両名とも激しい口調で忠景に怒鳴りかけた。
こうなると忠景は黙って成り行きを見守るしかなかった。
○
「さぁ、どこからでも掛かって参れ!」
秋の凛とした声が道場に響き渡った。
面越しに周作の顔が見えた。口角をつり上げて常に微笑んでいる。稽古とはいえ戦うことが好きらしい。
「それでは遠慮なく打ち込まさせて頂きます」
周作はそう言うと、剣先を床擦れ擦れに付けて秋の方へと踏み込んだ。
秋の意表を突く作戦だった。下段よりも低く構えた所からの突きを狙ったものだ。
「……勝負あったか」
忠景は思わずつぶやいた。勝負の出鼻は突きが成功しやすい。周作ほどの達人であれば難なく成功させるだろう。
しかし、秋は驚くどころか堂々としている。
「甘い! このような突きが通ると思うか!」
秋は正眼の構えから小手を左へと返し、下から延びるようにせり上がって来る突きを容易く右へと弾き返そうとする。
「主のが甘いぞっ!」
しかし、周作の剣先もそれを読んでいたようで、秋の竹刀を避けるように右へと急転換したのだ。
だが、秋はその動きにも対応した。
「言ったはずだ! このような突きが通ると思うな!」
秋は手首を左へと器用に捻り、振り下ろした力を殺さずに周作の剣先を弾き返した。
そこからは流れるような動きで、周作へと一歩踏み込み、剣を弾かれて左へ大きく体勢を崩した周作の面へ一撃を食らわせた。
「……むぅっ!」
竹の弾ける音と共に、周作はその場に尻から崩れ落ちた。
まさしく秋は達人であった。手首の柔らかさや、柔軟な身のこなしはそこいらの剣士に出来るものではない。
生まれ持った体躯と、父譲りの剣技があるからこそのものなのだろうと、忠景はただただ感心していた。
面を外し、周作は「いててて」と額を押さえながら言った。
「いやぁ、噂に違えぬ技ですな。この私も感心致しました」
「そなたも中々の腕であった。その方の技は野試合では通用するが、腕のある者の前では簡単に弾き返されるぞ」
面もはずし、秋はくるりと向きを変えて喋った。
短い間の打ち合いだったが、額にかいた汗を手拭いで拭う姿は、なかなかの色気を感じさせる。
横に居た佐吉も自らのことのように喜び、周作を指差して言った。
「そうだ! 秋先生を舐めてかかるとこうなるんだ! 馬庭ってのも大したことねえんだな! 秋先生にみっちり稽古してもらうんだな!」
「ハハハ、確かにそうかもしれないな。馬庭念流など井の中の蛙。ここでみっちりと稽古を積みたいと思います」
手を頭にやり、笑顔のままとぼとぼとこちらへ戻って来た。
負けても飄々としている周作の姿を見て、忠景はハッとした。
事前のやり取りは”まやかし”であろう。
本気でやっていれば間違いなく、正眼の構えの段階で二人の勝負が付いていた。それに力押しで行けば簡単に打ち負かすことは出来ただろう。
だが、敢えて意表を突いて勝負を仕掛けたのは相手の実力を見極めたかったからであろう。
あの突きは悪いものでは無かった。しかし、忠景でも秋と同じように簡単に対処をすることが出来ただろうし、他の道場主でも同様であっただろう。
そう考えると、樋口の名を出したのは最初から負ける気でいたからなのかもしれない。周作はなかなかのタチの悪い食わせ者だ。
「それでは次はお主だ。防具と竹刀を持ち、こちらに来てもらおう」
防具を脱ぎ、横に座った周作は言った。
周作はいつになく真剣な目つきに戻り、先程の顔つきとは一線を画している。予想通りのようだった。
「さて、彼女は中々の腕だぞ。お前では普通に打ち合っても負けるかもしれんな」
「……ああ、そのようだな」
防具を受け取り、身に付けた。
「よろしくお願いいたします」
忠景が一礼をすると、秋はニッコリと微笑んだ。
「珍しく礼のなっている武士だな。しかし、礼をした所で容赦はせぬぞ!」
面具を被り、手慣れた手つきで紐を縛ると秋は正眼の構えを取った。
「さぁ、どこからでも掛かって参れ!」
忠景はどうしようか思案した。
秋は紛れも無い達人だ。それだけにどう打とうか。それに女子と対決したのは初めてである。どこまで本気で打って良いものかも分からない。
構えを崩さずに必死に思案していたのが秋にバレたらしい。凛とした声で発破を掛けられた。
「どうした! 女子と思って躊躇しているのだろう! そのような躊躇はまったくの不要だ! さっさと打ち込んで参れ!」
そう言われてしまっては忠景も本気になるしかない。
体勢を低く構え、手首を右に開き剣先を斜め下に向けながら秋へと踏み込んだ。
○
忠景は開いた手首を右から左へと移動させ、秋へ斬りかかった。
普通の剣士であれば、横から来る刀は縦方向に振り下ろすだろう。そうすれば簡単に弾くことが出来るからだ。
しかし、忠景の振りは凄まじく速い。普通に振り下ろした所で竹刀が空を切り、そのまま脇腹へと竹刀が命中する。それほどの速さを誇っていた。
一般的な剣術理論通りの剣術であれば、上段に構え竹刀を縦に振りおろし、相手の刀を弾こうとする。そうなれば忠景の勝ちとなる。
「……行ったな」
忠景は小さくつぶやいた。秋は上段の構えを取ったのだ。このままいけば間違いなく竹刀を振り下ろすことだろう。そうなれば忠景の勝ちであった。
だが、秋は違った。常人離れした剣先の速さを視認すると、縦方向に弾くことなく、一歩後退して避け切ったのだ。
「今のは中々鋭いものだったぞ! 手順通りに縦に振っていれば、そなたの剣先を捕らえきれず、私の横っ腹に当たっていたであろう」
面の中で息を切らしながら秋は言った。
「だが、その程度の剣技では到底通用しないぞ。心して掛かって参れ!」
「……くそっ」
忠景は一歩後退し構えなおした。周作の突きも、多少手を抜いていたにしても悪いものでは無かった。しかし、秋はしっかりと弾き返して面まで打ち込んだ。
当初考えていた「気持ちよく勝たせよう」という作戦は捨て、忠景は全力でこの勝負を勝ちに走った。
剣技で勝とうとしたのだが、小手先の技が通用する相手ではないようだ。といっても負けるのも面白くない。
そうなると作戦は一つしかない。
「どうした! 早く来い!」
「……さぁ、行くぞ!」
目を据え、秋へと突進した。
「うわー、えげつねえなぁ」
ため息交じりに周作の声が聞こえてくるが、忠景は容赦しなかった。力押しに出た。
右・左・上・下・斜め下・斜め上からと、体も右へ左へと動かしながら息をつかせぬ程に打ち込んだ。十秒も掛からない間に二十合は打ち込んだかもしれない。
短い間ではあったが、秋も良く防いでいた。どこから来るのか分からない打ち込みに対して、一歩、また一歩と後退しながらも必死に防いでいた。
しかし、二人の間には体格差や腕力の差がある。秋の態勢が徐々に崩れていく。
「勝負あったな」
忠景は勝利を確信した。道場にいた三人も忠景の勝利を確信していただろう。それを示すように、秋を応援していた弥七と佐吉の表情が曇る。
秋の体勢が崩れ、あと一撃食らわせれば面が取れる。そんな場面で、ほんの一瞬だが、面越しに秋の顔が見えた。
頬を赤く染め、額から汗をかき、必死の形相で忠景の剣先を見つめていた。ここまでは普通の稽古でも浮かべそうな顔なのだが、大きくて丸く、黒々と輝いている目に涙が浮かんでいた。
秋が涙を浮かべていた、その理由は分からない。だが、あのときに土手で見せた顔と同じ顔である。
忠景がそれを見ると、何故だか胸に何か突き刺さるような痛みを感じ、それと共に竹刀を振り下ろす腕が止まった。
「……隙ありだ!」
忠景はなされるがままに、秋から鋭い突きを小手に受けた。
これで勝負ありとなった。
「な、なかなかの腕前だ。しかし、一瞬の気の緩みが勝負の鍵となるのだ。心しておけ!」
秋はそう言うと、門下生と喜びをかみしめる訳でも無く、道場の奥へ、そそくさと下がって行った。
そんなことは忠景は、言われなくとも百も承知であった。
しかし、何故かあの目を見た瞬間に腕が止まってしまったのだ。
その場で呆然と立っていると、周作が声を掛けた。
「いやぁ、小技を捨てて堂々と向かい合うってのは中々出来るもんじゃないぞ。それにしてもどうしたんだ? 石になったように固まっちまってさ」
いつもの通りケラケラと微笑みながら声を掛けるのだが、忠景は呆然としたままでいる。
周作は忠景の面具を外した。
面具の中では、忠景は頬を赤くし、顔を上気させていた。
「ははぁん。なるほどね。お主はそっちの経験も無いのか。こりゃ難儀なことになるかもしれんな」
「おい、おっさん。”そっちの経験”ってのはなんだ?」
「俺はおっさんじゃねえよ。樋口定政っていうんだ。それに、お前にゃまだ早いさ。だが、そのうちわかるだろうよ」
周作は笑顔で答えると、佐吉は不思議な顔をしていたのだが、隣に居た弥七はほのかに顔を赤くした。
だが、当の忠景は、依然、その場に立ちすくんでいた。
○
それからまもなくすると、またしても道場の扉が開いた。
「秋ちゃん、元気かい?」
扉からは5尺6寸程の恰幅の良い男がやって来た。
着物は山吹色の着流しに黒い羽織を羽織っていた。腰には大小を一本ずつ指している。
髪の毛は全体的に濃く、白髪が何本か線を引いていた。目は細く目じりには皺が何本かあり、唇は鋭く尖っていた。
男が声を掛けると、秋は笑顔で対応した。
「小十郎のおじさま。よくお越しになりました」
忠景と共に素振りの稽古をしていた弥七も小十郎に気が付いたようで、素振りを中断して小十郎の元に歩み寄った。
「父上、本日はどうなさったのですか」
「お前の調子はどうかと思ってな」
どうやら宮本小十郎と弥七は親子らしい。よく見ると、目元の鋭さはしっかりと引き継いでいる。
その小十郎は、道場内を見回すと見慣れない二人組に気が付いた。
「ほう、君たちは新しい門下生かね。名前は何と言う」
「私は柳生宗景と申します」
「上州の樋口定政と言います」
小十郎はなるほどと頷きながら二人を見定めるように見回した。
「二人ともなかなかの体躯だな。若い頃の私を見ているようだな」
「ほう、小十郎殿も剣をなさっていたのですか」
「そうだ。私も秋の父親と共に宗有先生に学んだ仲だからな。それなりの腕は持っていると自負しているよ」
小十郎は懐かしそうに語ると秋たちと話し始めた。忠景はその隙に周作に耳打ちで聞いた。
「期待せずに聞くが、この男を覚えているか?」
「ああ。まったく覚えていない」
周作は舌を出しておどけるが、忠景は無視をした。
「おじさまもゆっくりなさってください」
秋はそう言うと茶を持ってくると、奥へと下がって行った。
すると小十郎は忠景に話しかけてきた。
「そこの二人は何が仕事の口はあるのかな?」
「いや、私は小普請組なので普段は特にありませんが」
忠景は答えた。
「ほう、柳生殿は御家人でしたか。では樋口殿は何を?」
「いやぁ、私は諸国を放浪して武者修行をしております。なので特に仕事はございませんね」
「もしも働き口に困ったら私の所に来なさい。君たちの様な腕のある若者を探していてね」
小十郎は先ほどの爽やかな顔では無く、ほのかに口角を上げて言った。どこか陰の差した笑みだった。
「おじさま、お茶を持って参りました」
小躍りしそうなくらいに上機嫌な秋は、お盆に湯呑みを乗せて奥から戻って来た。
「いや、茶は結構だ。秋も頑張ってくれよ。道場主は主水の夢だったからな」
「はい。ありがとうございます」
「弥七も稽古に励めよ。それじゃあ失礼するよ」
小十郎はそう言うと、道場から出て行った。