カマ
カピタン出府の前日、老中主座水野忠成と水野忠邦の両名は日本橋浜町の水野忠成上屋敷で会談を行った。
襖を閉め切り、行燈の灯も消えかかっている薄暗い奥の座敷で、両者は向かい合って酒を酌み交わしている。
「忠邦よ。明日、江戸に商館長が来るそうだな」
忠成は盃を傾け、静かに忠邦の顔を見据えている。
「ええ叔父上。今週中は滞在しているとの話です」
忠邦はそう返答すると忠成に酒を注いだ。
「と、いうことは長崎の珍品がお目にかかれるのか。硝子細工に象牙の珍品などなどか…… これは楽しみだな」
忠成は盃に注がれた酒を一気に呷ると大声で笑った。幕府の玄関口は長崎にしか無い。必然的に江戸には西洋渡来の品物は流通することはほとんどない。それを横流しすればやすやすと大金が手に入るだろう。
それを思うと忠成の顔は見る見るうちに上機嫌となった。しかし、忠邦の顔は全くの無表情だった。
「なんだ忠邦、南蛮の珍品なのだぞ? 市中に流せば大金が手に入るんだ。お前は嬉しくないのか?」
「私はそれほどではありませんね」
忠邦は心底興味なさそうに言った。
その様子に上機嫌だった忠成だが、眉間にしわを寄せた。
「忠邦よ、定信のクソ爺は否定をしていたが、結局は政治は金なんだ。金を持っていなければ何の意味も持たない。それにお前だって多額の賄賂ののし上がったんだろ?」
「確かに。叔父上の言う通りです」
上機嫌だった忠成も少々不機嫌になり、盃を開けるペースが速くなる。忠邦は空いた盃に黙って酒を注いだ。
忠成は静かに立ち上がり、忠邦の横へとすり寄って肩に腕を回し、艶のある声で耳元で囁いた。
「そうだろ? あの定信だって田沼に賄賂を贈ってるんだ。どれだけ高い志を持っていたとしても金がなきゃ上には行けん。つまらない顔をしてるんじゃねえ。もっと喜べ!」
忠成の手は自然と忠邦の下腹部へと延びて言ったが、忠邦は黙って忠成の手を振りほどいた。
「確かに仰るとおりです。それでは、私は失礼をします」
「お、おい忠邦!」
忠邦が忠成の顔を見ると不機嫌そうに睨みつけていた。しかし、忠邦はそれを意に介せずに屋敷を後にした。
○
忠邦が沼津藩上屋敷を出ると、後ろから人が寄って来た。水野忠之であった。
「あんな男好きの耄碌爺と飲み明かすなんて、てめえも大変だなあぁ。俺だったらまっぴら御免だね」
「大したことじゃない。それにアイツと付き合うのも後少しの辛抱だからな」
忠之はニヤニヤと下品に笑いながら、忠邦の肩を無理やり抱き、耳元で囁いた。
「おいおい、付き合うじゃなくて”突き合う”の間違いじゃねえのかぁ?」
「……ったく、冗談はよせ。さっさと行くぞ」
含み笑いをしている忠之の手を忠邦は腕を振り払い、露骨にいやな表情をして足を進めた。
「ただの金の亡者だ。幕府の本分を忘れている。ったく、他の幕閣連中も金だ金だと浮かれやがって、バカバカしい」
忠邦は吐き捨てるように言った。忠之はやれやれといった表情で見ているが、忠邦の怒りはまだ収まっていない。
「それに江戸では異人だ異人だと騒ぎやがって。たかが異人が何だって言うんだ。先のフランスとの戦争では国土全てを失った程度の弱小国で、江戸では賄賂の道具にしか過ぎない扱いの癖に……」
「そうは言っても、てめえもしっかり賄賂を贈ってんじゃねえか。良く言えたもんだなぁおい」
忠之はケラケラと笑い、忠邦をからかうようにいった。
しかし、忠邦は見え見えの挑発に乗らず、芝の屋敷へと足を進めながら言った。
「俺は他の連中とは違う。それに、この立場なんかどうだっていい。ただ俺は幕府の本分を取り戻すためにやっている。お前のような食いっぱぐれの浪人を無くす為だ」
静かに言う。静かなのだが、言葉に熱が籠もっている。
眼を点にしていた忠之だったが、言葉を聞き終えると大声で笑った。
「おうおうおう! 幕府中枢でも飛ぶ鳥落とす勢いの忠邦様に言われちゃ、泣けてくるじゃねぇか! ……それでどうするってんだ?」
忠邦は忠之を見つめ、仄かに微笑みながら言った。
「武士で無い癖に金を持ってる奴を潰せ。江戸を支配するのは俺たち武士だ。大丸を燃やせ。三越も長崎屋も燃やせ。私腹を肥やす商人どもは皆殺しだ! その為にはいくらでも支援してやるよ」
忠邦が口角を上げると、忠之は眼をぎらぎらとかがやせて微笑んだ。
「よっしゃ、面白れぇ! 商人の件は俺たち神祇組に任せろ。皆殺しにしてやるよ!」
忠之は肩を震わせて含み笑いをしながらそう言い残して去って行った。
○
奉行所では連夜にわたり審議が行われていた。獄吏が一晩以上尋問をしても、三左は一向に口を割らない。
報告もたいしたものが上がってこず、事件は進展がほとんど無かった。
「中々口を割らないのね。動機がいまいち読めないわね」
「前の報告にありましたが、鈴木三左は30俵持ちの三男坊だそうです。武士の仕事も中々無いので、日々の暮らしの為に襲ったのかもしれませんよ」
義親が報告をした。”三左は食いっぱぐれていたから襲った”。動機としては殆ど間違いないだろう。だが、その推理では一つ腑に落ちない所があった。
政憲もそれを感じ取ったようで冷静に言った。
「動機はその通りかもしれません。しかし、それならもっと狙いやすい所に行くでしょう。食いっぱぐれての凶行ならば、わざわざ奉行所が警固している所を狙うでしょうかねえ」
忠春も同様に思っていたようで、頷きながら喋った。
「確かにそうよね。ということはブロンホフさんのみを狙ったのかしら」
「こればかりは分かりません。それにあの男がブロンホフ殿との接点が全く見当たりません。もしかしたら誰かの指示をされたのかもしれませんね」
「指示されたって、誰にされたのよ」
この場にいた誰もが口を閉じた。食いっぱぐれの浪人と出島オランダ商館の商館長。こればかりは全く予想がつかない。
すると、義親が小さな声で言った。
「もしかしたら水野忠之らが指示をしたのでは?」
その言葉に御用部屋がざわついた。忠之の行動の真意は計り知れないが、江戸でここまでの大事を起こす様な人間は、忠之くらいのものだろう。
「いやいや、その可能性は否定しないけど、なにがなんでも忠之の仕業にするってのはどうかと思うわよ」
忠春は少しためらいながらも言った。同席している他の与力達は黙っていたが、似たような感想を持っていただろう。
しかし、政憲のみは他の連中と違って義親の意見に同意した。
「しかし、それ以外に突破点がありません。その線でカマをかけるのはいいかも知れませんよ」
政憲の答えに場にいる誰もが納得をした。カマをかけるというのも今までになかった発想だったかもしれない。
「別に推理が間違っていた所で何かあるってわけでもないしね。それで行きましょう」
忠春も納得をして答えると、政憲は静かに微笑んだ。