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女奉行捕物帖  作者: 浅井
梅雨のウェアフェリンド
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カピタン来訪

 江戸は梅雨を迎えていた。川べりを歩けばカエルの鳴き声が聞こえ、木々から雨粒が水面へと滴り落ちる。

 奉行所では、この時期になると人々はそもそも外出しないので、事件はめっきり減る。ありがたい様なありがたくない様な、何とも言えない季節である。


「そう言えば、アンタは長崎にいたのよね」


 雨の降る庭を見ながら忠春が政憲に言う。庭のアジサイは青く咲いている。


「ええ、いましたが」

「それだったら、オランダとかの向こうの言葉とかも喋れたりすんの?」

「上手くは無いですが、多少は喋れますよ」


 政憲は誇らしげに言った。


「へえ、誰に習ったのよ」

「向こうのカピタンですよ。色々とお世話になりましたね」


 政憲はどこか懐かしげに言うも、忠春にはサラッと言い放った外来語が全く理解できない。


「カ、カピ、タンってのは何なの?」

「オランダの商館長のことです。平たく言えば出島の元締みたいな感じですかね」


 忠春にもなんとなく理解できたが、いまいちピンとこない。


「……よく分からないけど、長崎奉行ってのも大変なのね。南町奉行とどっちが大変なの?」


 あまりの簡潔さに、政憲は苦笑いして言った。


「両者を比べることは出来ませんよ。でも長崎はいい街です」

「長崎ってどんなものがあるの?」


 忠春も興味を示したようだ。思えば江戸以外に行った場所と言えば京・大阪に所領の西大平・叔父の住む長島くらいだった。九州など未開の地程度の認識で、長崎の話など全く知らなかった。


「あそこにはオランダ人もいますし、中国、朝鮮の人もいますよ。中華風の街並みの中に西洋風の屋敷があったり、橋も海外風だったりと色々と楽しい街ですよ」

「江戸以上に色々な人がいるのね。今度行ってみたいものね」


 想像をふくらましていると、小浜がやって来た。


「忠春様、城中から天文方の方がやって参られました」





 小浜に連れられて、二人組の男がやって来た。


「お初にお目にかかります、私は高橋景保、隣にいるのは弟の渋川景佑と申します。此度は南町奉行所に頼みがあり、やって参りました」


 景保は恭しく頭を下げた。肌は浅黒く、筋骨隆々で、天文方というよりも木場で働いている男の様に見える。

 背中は服を着ていてもわかるくらい筋肉が盛り上がっている。


「幕府の天文方がここに来るなんて珍しいわね。何か用なの?」

「はい。この七月の一日に長崎からカピタンが出府されます。奉行所にはその護衛を頼みたく参りました」


 忠春は頭の中で日にちを思い出す。今日は六月の三十日だ。すぐさまハッとなった。


「いやいやいや。アンタ、簡単に言うけど、七月一日ってもう明日じゃないの。何考えてんの?」


 隣では忠春が天文方に捲し立てているが、政憲は”カピタンの出府”という言葉を聞くと感慨深そうに言った。


「江戸への出府は四年振りですか。私が長崎奉行時代に一度あってそれっきりでしたから」

「そうでしたね。政憲殿は長崎奉行でしたね。これは失礼をいたしました」


 景保は手で頭を叩き「ハハハ」と笑っている。

 先程はああ言ったものの、忠春も政憲の話を聞いて、外国のカピタンは非常に興味深い話である。渡りに船といった心地だ。


「へえ、丁度いいわね。そんな客人に何かあっても悪いし私が指揮を執るわ。政憲、アンタも来なさい」

「そんな、奉行様直々に来られるような案件でもありませんよ」


 隣にいた景佑が言う。景佑は景保とは対照的に、いかにも天文方といった生真面目な学者風の男だった。

 丸眼鏡を胸に掛け、細身で色白の男。薄い胸元を見ると、数冊の天文書が覗いている。


「ったく、うるさいわね。人選は私が決めるの。アンタに口を挟まれる筋合いは無いわよ」


 その場に立ちあがり、忠春は景佑を睨み付ける。


「まあまあ忠春様。落ち着いて下さいよ。景佑殿、人選は私どもの方で決めますので、当日はよろしくお願いします」

「は、はあ……」


 政憲が忠春をなだめながら言った。





 天文方の二人が去って、少しすると、ドタドタと廊下を走る音が近づいてきた。


「聞いたよ! 長崎から唐人が来るんだよね?」


 忠春は文の情報の早さに、驚嘆して呆れている。


「文ちゃんは相変わらず地獄耳なのね。どっから聞いたのよそれは」

「いくらはつちゃんの頼みでも、情報源は秘密なの。ごめんね」


 文は舌を出し、おどけた調子で言う。忠春は無表情のままでいる。


「端っから期待もしてないし別にいいわよ。それで、何か用があるの?」

「いやいや、特別な用は無いんだけどね。私も見てみたいなあ、カ・タ・ピ・ンっ」


 文は猫なで声で忠春に迫る。しかし、大事な部分が間違っている。


「カ・ピ・タ・ンね。まあ文ちゃんも南町の同心なんだし、一緒に付いてきなよ」


 忠春は呆れ顔になりながらも素直に同行を認めた。文とカピタンの掛け合いは案外面白いかも知れない。


「ええ? いいの? やったなあ、やっぱはつちゃん大好き!」


 文は忠春に抱きついた。文の豊満な体が、線は細めだが程良く肉づいた忠春の体に吸いつく。

 忠春は少々頬を赤らめるも、何も無かったかのようにしている。


「政憲、別にかまわないわよね?」

「ええ、問題ないでしょう。ただ自重してくださいね」


 じゃれあう二人を見て、政憲は少し呆れたような顔で言う。


「もっちろん! 私だって常識くらいはあるんだからね!」


 満面の笑みで忠春に微笑みかける。もしも微笑みかける相手が普通の男だったら、私財全てを投げ売ってでもこの笑顔を守ろうとするだろう。

 文は「えへへ」とニヤニヤしていたのだが、唐突に質問を切り替えた。


「あ、そう言えば、政憲殿って長崎奉行だったんだよね?」

「ええ、そうですが」


 文の唐突の問いに少々戸惑いつつ答えた。すると、文の目の輝きが変わった。


「ってことは、カピタンの娘さんってのも見たの?」


 一瞬だが政憲の目の色も変わった。しかし、すぐさまいつもの胡散臭い笑顔に戻る。


「さすがは文殿ですね。よくご存知ですね」

「そりゃあ文ちゃんだぜ? 知ってますよそれくらい」


 文は胸を張って答えた。大した動作では無いのだが、文の豊かな胸が上下する。


「それについてはまた今度お話しますよ。それでは警固の方お願いします」

「それじゃまたその日にね。今度くらいはちゃんとした記事を作りなさいよ」

「はぐらかされた様な気がするけど、まあいいや。わかってるってっ! それじゃまたね!」


 そう言い残すと文は浮いた足取りで奉行所を後にした。





 江戸から見て東海道二番目の宿場町、神奈川宿も江戸と同じく雨だった。


「オオ、明日は江戸ですカ。江戸の町はヒサシブリですネ。四年ブリですね」


 背の高い紅毛の異人が、旅籠の一室に座り役人と話している。


「ブロホンフ殿、もうそんなになりますか」

「オンツケィンニングッ! ワタシの名は”ブロンホフ”。”ブロホンフ”ではありませんネ」


 ブロンホフは、同行している役人よりもはるかに高い背をのけぞらして大声で叫んだ。よほど名前を間違われるのが嫌だったらしい。


「こ、これは申し訳ございません。ブロンホフ殿」

「まあいいネ。それよりも上様へのケンジョウヒンは大丈夫ナノ?」


 目の前に置いてある茶をすすると、ブロンホフはすぐさま落ちきはらい、たどたどしい日本語で話した。


「雨中の移動でしたが、問題ございません」

「ソウデスカ。それならいいネ。まあカステラでも食べなさいネ」


 ブロンホフは役人にカステラ一切れを手渡した。


「い、いいんですか?」

「いいネ。いいネ。クソ長い東海道を一緒に歩いた仲じゃない。どうせケンジョウヒンじゃないし、食べてイイヨ」


 ブロンホフは白い肌を紅潮させて微笑んだ。


「ブロンホフ殿、ありがとうございます!」

「まあ、これタベタラ、あなたも休むネ。私も眠いしネ」


 大きな口を開けアクビをする。


「はい! そうさせてもらうネ!」

「あ! 私のゴビが、あなたも移っちゃったネ!」

「ハッハッハ! そうですネ!」


 役人はカステラを握りしめ、笑いながらブロンホフの部屋を出て行った。


「サテ、明日は政憲ドノとご対面ですか。久しぶりネ」


 ブロンホフは床につき、胸元に提げているロケットを親指で弾いた。中には写真があり、ブロンホフと政憲が肩を組み、その真ん中に一人の少女が立っていた。

用語解説します。


『カピタン』 オランダ商館長のこと。商館長はオランダの駐日大使で、商館は大使館のような感じ。対日外交を一手に引き受けていた優秀な人。


『天文方』 幕府の暦や地図を司る役所。今でいう国土地理院のようなもの。ここでは洋書の翻訳も手がけていて、高橋景保さんは後々大変な事に。詳しくは小説の「天地明察」がいいかも。

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