出立の日
そんな大望を抱いて屋敷へと帰る道すがら、忠春はふと気がついたように言った。
「ねぇ、義親」
「なんでしょうか、忠春様」
「南町奉行って具体的に何すればいいの?」
「じょ、冗談ですよね?」
「あ、当たり前でしょ? 私だって武士の端くれよ? それくらい知ってるわよ」
義親は目を細めて忠春を見つめる。
「い、いや、おさらいよ。私の下で働くってのに、仕事内容を知らないなんて、連れて来た私が恥をかくじゃない。そんなことになれば、父上や兄上にまで迷惑がかかるし、ひいては私を指名した上様にまで迷惑がかかるでしょ? そんなことになったら、なんていうか、その……」
忠春は絶え間なく言葉を続けた。汗を飛ばしながら顔を紅潮させて言いきった。誰が見ても嘘だとわかるだろう。
「……平たく言えば江戸の治安を守って、町人同士の諍い事を取り仕切るんですよ。ほら、忠春様の好きな大岡政談のアレですよ」
「つまり、奉行所の仕事ってのは白州裁きと市中警固なのね」
「まぁ、そんな感じですよ」
義親はため息をつきながら返す。さっきまでシュンとしていた忠春の背筋が一気に伸びた。
「よくできたわね。そうよ。それが正解。私もそう思ってたのよ」
「……ならなんで聞くんですか」
義親は冷ややかな目で忠春を見つめた。忠春はそんなことお構いなしに話しを続ける。
「まぁ、細かいことは気にしちゃダメよ。それと、さっきも言ったけど、明日はあんたもついて来なさい。あ、あんたは、そこそこ出来るから奉行所でこき使ってあげるから」
「はぁ……、承知いたしました」
義親は嬉しそうに話す忠春を横目にため息をつく。
「義親、明日はよろしく頼むわよ」
忠春はそう言い残し、上機嫌で自分の部屋へと戻って行った。義親は、忠移の書斎へと足を運び、忠春が南町奉行と成ったという報告をしに行った。
○
「……という事が御座いました。忠移様」
「ほう、忠春が南町奉行とな。筒井殿によろしく頼むと言っておったがまさか奉行にするとはなぁ、そこまでは考えておらなかったな」
書机越しに、忠移は頭をかきながら話す。将軍家斉に約定を取り付けて忠春を謁見に行かせた忠移にとっても想定外の話だったらしい。
「忠移様は筒井殿を御存じなのですか」
「昔の友人で色々あったのだよ。まぁ、いずれ話そうと思うがな。しかし、この事は忠春には秘しておいてくれ。あの子は、お主も知っておるとは思うが繊細なのでな」
「承知いたしました」
義親は、普段とは違う真面目な顔で語る忠移の顔を見て深く聞こうとは思わなかった。
「それで、お主も奉行所勤めを忠春に命じられたのであろう」
「何故それを御分かりになったのですか」
義親は驚いた。忠春にその事についてはまだ話してはいなかった。
「親の勘だよ。流石に何年も親をやっているとわかるものなのだよ」
「そういうものなのですか」
「ああ、そういうものなのだよ」
忠移は優しい目をしてそう語る。義親は「俺の親父もそういうものなのだろうか」なんてことを考えながら忠移の話しを聞いていた。
忠移は、一呼吸置き話を続けた。
「義親よ、あの子は色々と大変な事をするだろう。だが、しっかりと守って欲しい。あの子と共に江戸に風を吹かしてくれないか。本当によろしく頼む」
「ははっ、承知いたしました。いつ何時でも、忠春様をお支えいたします。」
「おお、そう言ってくれると信じていたぞ。では、あの子を頼んだぞ」
そう言うと忠移はにっこりと微笑み寝所へ戻って行った。
○
「忠春様、準備はどうですか?」
日を跨いだ翌日、義親は屋敷の門前で一人立つ忠春に話しかける。
「何よ義親、アンタも早いのね。気張らずに行くわよ」
「私は問題ありませんよ。なんせ普段通りの羽織袴でいいんですからね。それよりも忠春様はどうなんですか? 着なれていない装束じゃないですか」
武家の娘だった忠春は、ほんの数日前までは小袖で過ごしていた。それが、家紋入りの羽織を着て、熨でピシッと折り目が付けられた袴を穿くのだ。衣装一つにしても町人と武士は違う。
「大した問題じゃないわ。私が着てた小袖だって派手なものじゃ無かったし、着なれてないとしても、さっさと着慣れればいいだけの話じゃない」
忠春は胸を張って言った。義親は黙ってにこやかな表情を浮かべる。
「忠春、なかなかサマになってるじゃないか。二人ともしっかりとやってこいよ」
忠移は門前まで出てきて言った。温かい眼差しで奉行所へと出向く二人を腕を組んで見つめている。
「はい父上、必ずや大岡家を……」
「おやおや、忠春様に義親殿、もうお揃いですか」
忠春の言葉を遮るようにして、遠くから筒井政憲がやって来た。
「何よ、あんたも来たの」
冷たく忠春は言う。しかし、忠春の顔は発した言葉に似合わず微笑んでいた。
「筒井様、ようこそお越し下さいました」
「それでは行きましょう。忠春様、義親殿」
「ハッハッハ。忠春に義親よ、それでは風を吹かしてこい!」
そう言うと屋敷へ戻って行った。
「父上に忠相公、必ずや風を起こし、家を盛り立てて見せます」
忠春ら主従は南町奉行所へと徒を進めて行った。