三両
翌朝も江戸は快晴であった。しかし、風が少し強いようで、店に立てられた幟や旗が風に靡いている。それとは関係く市中は人でにぎわい活況を見せている。
定謙は城内への出仕し、時間に余裕の合間を縫って南町奉行へとやって来た。橋石町の方から時の鐘が聞こえた。どうやら四つ刻(10時ごろ)を迎えたらしい。
「すみません。届け物に参りました」
話しかけられた小浜は定謙をじっと見つめた。特段怪しそうな所も無かったので奥へと通した。
「そうなのか。とりあえず入りな」
定謙は奉行所の御用部屋へと通された。その場に座って待っていると、襖が開いて、薄汚れた服の男が応対にやって来た。
「届け物に来たそうだけど、一体なんなんだ?」
「こちらになります」
定謙は懐から巾着を取り出した。すると、男の目つきが変わる。
「お、おい、これはどうしたんだ?」
「昨日、飛鳥山を歩いていた所、男とぶつかりましてね。財布と文書が入っておりました」
定謙は淡々と述べる。男の顔を見て、何か思い出したようだ。羽織袴は汚れ、顔も砂埃塗れで最初は気が付かなかったが、ぶつかったのはこの男だった。
「いやいや、昨日はすまないことをしたな。あなたの様な実直な男がこれを拾ってくれて助かりましたよ」
幸生は定謙の手を取ると恭しく頭を下げた。
「別に気になさらないで下さい。それよりも、文書を落とすとはこれから気をつけて下さいよ」
定謙はそう言う。幸生は財布の中身を確認した。すると幸生は、またも恭しく定謙の両手を握った。
「いやいや、本当にあなたの言う通りだ。それに、3両も入っていたのに手をつけないとは、見上げた男だ。お名前を聞かせてもらってもよいですか?」
「矢部定謙と申します。聞いておりませんでしたが、あなたの名は何ですか」
「私ですか? 私は仁杉幸生と言います。そうだ。この三両はあなたに差し上げますよ。拾ってくれたお礼です」
幸生はそういうと財布から一両小判三枚、三両取り出した。しかし、定謙は表情を変えずに言う。
「いや結構です」
「え?」
「ですから結構です」
何度も幸生は定謙に渡そうとするも毅然と断る。それどころか、定謙はじっと幸生を睨みつけた。
○
「もう、朝なのね……」
朝日の差しこむ部屋で忠春は目覚めた。横を向くと散らかった食器やらが散らかっている。その奥には政憲と家斉が寝ていた。
欠伸をしながら上体を起こすと、目の前に家慶の姿があった。
「起きたのですね。昨晩は色々とお話を聞けて楽しかったですよ」
家慶はニコッと微笑みんで話した。
「いや、家慶様の御前でこの様な……」
「気にしないでいいですよ。それにしても父の気まぐれに突然付き合わせて、こんな事をさせてごめんなさいね」
「家慶様、そんなことをおっしゃらないで下さい」
忠春は家慶の姿に恐縮してしまう。
「いいのです。私も突然呼び出されてこの騒ぎでしたからね。父が一人で舞い上がって忠春も政憲も大変でしたね」
昨晩の酒宴で散らかった部屋を眺めながら家慶は言う。家斉は「お前らが話せ」と言っていたのだが、一番喋っていたのは家斉で、真っ先に酔いつぶれたかと思えば政憲や家慶に絡み始めた。それを忠春がなだめようとするも、散々に酒を飲まされて潰れてしまった。
家慶は散らかった徳利や食器を片づけながら話を続けた。
「それにしても頼もしい者達が私の配下にいたのですね。まったく知りませんでしたよ」
「頼もしいだなんて、お褒めにあずかり光栄の至りです」
忠春も散らかった食器を片づけながら言う。
「それにしても、父上の気まぐれには参ったものです。
家慶はいびきをかいて熟睡している家斉の方を向いて言う。
「上様も色々とお考えになってのことでしょう。上手く伝えられませんが、お世継ぎは家慶様です。その為の勉強のようなものかと」
忠春は必死に手を動かしながら説明しようとする。しかし、上手く伝えることは出来ない。自分で言っていることが何となく自分自身でも理解できずに、こんがらがって来る。
そんな忠春を見て家慶は軽く笑い始めた。
「本当に父上が羨ましい、そなたの様な忠臣がいてな。それに比べて私には何もない。果たして将軍職を継ぐことが出来るのだろうか……」
家慶は障子を開け、外を眺めながらため息をついた。
「家慶様には私が付いております。その様な事を仰らないで下さい」
忠春は家慶の側に寄り、手を握ってそういう。
「ありがとう。そなたの言葉は忘れませんよ」
家慶の色白い肌がほのかに紅潮してきている。
「そうだ。もしよろしければ奉行所に来ませんか。話だけでは分からない所もありましょう」
「面白そうですね。それでは案内を頼みますよ」
「承知いたしました!」
忠春は元気よくそういう。家慶も微笑んでいた。忠春も外を眺めると、橋石町の方から四つ刻(10時ごろ)を迎える鐘が城内へと聞こえてきた。
○
江戸の空は相変わらず晴れている。鍛冶屋橋を挟んだ日本橋界隈では商人達が商いの声を上げている。しかし、川を挟んだ南町奉行所では男二人が睨みあっている。
「いや、受け取って下さいって。この三両はどうせ落としたんだから無いのと同じなんだ。もらってくれって」
幸生は三両を定謙の手に握らせようとするが、定謙は必死に抵抗する。
「ですからいりませんって。そもそも金銭目的で拾った訳ではありませんので、受け取る理由なんて御座いません」
定謙はきっぱりと断った。しかし、その言葉が幸生に火を付けた。
「いやいや、アンタのお陰で俺の失態も露見せずに済んだんだ。いいからもらってくれよ」
「そんなことは知りません。別にあなたの失態を隠すために拾った訳でもないのでそれは問題にはなりません」
幸生は顔は笑っているが、徐々に笑顔がひきつって来ている。定謙も表情を変えないが、少しずつ火が付き始めているようだ。
「町人ばかりが栄えるこのご時世だ。アンタも暮らしは大変だろう。これを使ってくれって」
幸生のこの言葉が定謙に火を付けた。突然定謙は幸生の手を払い、大声で怒鳴った。
「あなたに私の暮らしを気にされる必要なんてありません。いらないと言っているんだから無理に渡すんじゃない!」
鋭い目を更に鋭くして言った。大声を聞いて、何事かと志郎が御用部屋に飛び込んできた。
「ちょっと、ちょっと、どうしたんですか?」
志郎は御用部屋を見る。向かいあう二人の足元には巾着が落ちており、何があったのか勘付いたようだ。
「ああ文書ですね。あなたが届けて下さったんですか。本当にありがとうございました」
志郎は歯を見せ笑うが、空気は凍りついたままだ。
「私、何かまずいことでもいいましたか?」
「志郎、下がってろ」
「いや兄貴、どうしたんですか?」
幸生にも火が付いたようだ。志郎が尋ねるも冷たくあしらわれる。それどころか、幸生は強引に志郎の肩を掴んで問い詰めた。
「こいつは俺がこれを届けてくれた礼に三両やると言ったら断りやがったんだ。とんだ無礼な奴だろ」
「まあ、それもそうですね」
志郎はしぶしぶ納得をした。すると、今度は定謙が志郎の肩を掴んだ。
「いや、違うぞ。こいつはとんだ失礼な男だ」
「なんなんですか?」
定謙は幸生を指差して言った。
「俺はもともと善意で届けたんだ。それをこいつは金銭目的と決めつけて、更には俺の暮らしぶりまでコケにしやがった。どっちが無礼な男なんだかな!」
「それは酷いですね。兄貴も言い過ぎじゃないんですか?」
志郎がそういうと、幸生の表情が変わった。
「おい、てめぇはどっちの味方に付くんだよ!」
幸生は志郎の胸ぐらを掴んで言う。身長はそう高くない幸生だが、力は半端じゃなく強い。馬鹿力では衛栄とタメを張れるくらいはあるかもしれない。
「いや、どっちの味方って、そういう、話じゃないでしょ!」
志郎も必死に抵抗するのだが、力量差があり過ぎて抵抗にならない。必死に腕を引き放そうとするも、ビクともしない。
定謙は幸生らの姿を見て大声で笑った。
「部下を無碍に扱って、アンタみたいなふざけた男が幕府の信用を失墜させるんだ!」
過去の経験なのか、日ごろの鬱憤が溜まっていたのかは定かではない。ただ一つわかる事がある。定謙は、たまりにたまっていた不満をここで爆発させた。そして、幸生も不満を爆発させた。
「んぁだとぉ? 上等じゃねえかぁ! 手まで出されて、ここまで侮辱されちゃ俺だって黙ってられねえな。刀を抜け。決着付けてやるよ!」
青筋を立てて怒る幸生は、掴んでいた手を離して刀を抜いた。チャキっと金属同士の擦れる音が御用部屋に響く。
「いいでしょう! あなたみたいな不良与力を切っても誰も咎めないだろう!」
定謙も表情を変えて刀を抜いた。部屋の端でせき込む志郎もこの事の重大さに気がついて、助けを呼ぼうとハッと廊下を見た。そこには義親が歩いていた。志郎はすぐさま義親の元に駆け寄った。
「ちょっと義親さん! こっちに来て下さい! あと忠景さんはいませんか!」
突然、御用部屋から飛び出しやって来た志郎の姿に義親も驚いている。
「志郎君。大声を上げてどうしたんですか、それと忠景殿は朝早くに出かけていったけど」
「そらならいいです! こっちです!」