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女奉行捕物帖  作者: 浅井
春風一両得
35/158

財布

「もう一年なのね」


 忠春は茶をすすりながらそう呟く。


「そうですね」

「早いものね。去年の今頃は何をしてたのやら」


 忠春と義親は朝食を食べている。目刺しに味噌汁、玄米という質素な食事だ。

 忠春はふと外を眺めた。満開の桜が春の日差しで桃色に輝いている。思えば元服をした日もこんな日だった。


「政憲様と出会ったのもこんな日でしたよね」

「そう言えばそうよね。町人との喧嘩騒ぎで助けられたっけね」


 義親はしみじみと言う。父親と喧嘩をして街中に飛び出した。飛び出した先でも町人と喧嘩沙汰になった。そこで政憲に助けられた。


「あれからもう一年ですか。本当に早いですね」

「政憲で思い出したんけど、政憲と私は登城しなきゃいけないから、今日明日と奉行所を不在にするわよ」


 食事を終えた忠春は、そういうとその場から立ち上がり、登城のための用意をし始めた。


「奉行所での執務どうなさるんですか?」

「それなら衛栄と幸生に任せてあるわ」


 義親は食べ終えた食器をかたずけている。


「幸生殿というと、与力の仁杉様ですか?」

「そうよ。衛栄と幸生は奉行所でも古株だからね。私が居なくても、ある程度の仕事だったら難なくかたずけるだろうし、問題ないでしょ」


 忠春は背を向けて裃を羽織りながら言う。


「確かにそうですね。忠春様が居なくなっても問題ないと思いますよ」


 義親は笑いながら言う。しかし、忠春の動きが止まった。


「ちょっと、”私がいなくなっても問題ない”って、中々に癪に障ること言ってくれるわね」


 忠春は義親の元に詰め寄った。


「いや、語弊ですよ。別にいなくなったって言いなんて思ってませんって」


 義親は必死に忠春から視線をそらして、ごまかそうとする。


「まあいいわ。それじゃアンタもよろしく頼んだわよ」


 忠春は数秒ほど義親をじっと見つめたが諦めたようだ。


「承知いたしました」


 そう言うと、忠春は江戸城に登城した。





「やっぱり花見はいいですねえ!」

「ったく、花見じゃねえんだぞ。仕事だ。仕事」


 快晴の飛鳥山は花見客でいっぱいだ。まっ昼間から桜の下で酒を飲み交わしている。

 飛鳥山は江戸で有数の花見の名所だ。他の花見場とは違って、酒宴が許可されていた場だけあって人通りも多い。それだけにスリや強盗といった犯罪も起きやすい。

 幸生が辺りを見回し犯罪の芽を探していると、連れてきた若手の同心に花見客の男二人が歩み寄って来た。


「なあ、お武家さん。アンタも一杯やろうぜ!」

「そうだ。こんな日に仕事なんかする必要はねえだろ?」


 男二人は同心の肩を組み絡んできた。二人ともどうやら酔っぱらっているらしく、足取りもおぼつかない。


「幸生の兄貴、今日くらいは混じって飲みましょうよ!」

「今は仕事中だ。余計な口を挟むな」


 幸生が冷たく言うと、若手の同心は少ししょげた顔をした。


「悪いが俺らは仕事中なんだ。また今度にしてくんな」

「ちぇっ、乗りの悪い侍なんだなあ。まあ、仕事に励んでくれよ」


 男二人はそう言うと、トボトボとその場を離れていった。

 同心はため息をつくと幸生に毒づく。


「まったく、白けるなあ」

「志郎、自分の懐を探ってみろ」


 幸生が同心に言う。同心は不思議そうな顔をして、自分の懐をまさぐった。


「いやいや、何にも……」

「志郎、お前はスラれたぞ」


 幸生の言葉と同時に同心は悲鳴を上げた。小さな刃物で懐部分が斬られ、見事に財布が抜き取られていた。


「よし、あいつ等を追うぞ」


 幸生は駆け足で男達の後を追った。


「幸生様も分かってたなら言って下さいよ!」

「お前がふざけた事を言っていたからだ! さっさとついてこい!」





 小柄な侍二人が飛鳥山を歩いていた。

 片方の男は見るからに真面目そうな男だ。眼鏡をかけ、黒羽織袴も綺麗に熨斗がかけられてキチっとしている。

 もう一人の男は黒羽織袴を着崩し、大小の鞘や柄に金装飾を施している。一見すると渡世人にも見える軽薄な男だ。


「定謙さん、こんな仕事ほったらかして花見に混じましょうよ」

「良弼君、どれだけふざけた仕事でも、真剣に取り組まねばならぬぞ」


 真面目そうな男の名は矢部定謙さだのりで、軽薄そうな男の名は跡部良弼よしすけという。両名とも小姓組に仕える旗本だ。


「こんな陽気な日なのに相変わらずの堅物だな。少しは手を抜く事を覚えないと、後々苦労するぜ?」


 良弼は口汚くそう言った。この日は将軍家斉から小用を仰せつかっていたのだ。

 元よりあった家斉の気まぐれ癖は、毎年春になると酷くなる。

 昨年は唐突に「花見をするぞ!」と、陽の登る前から小姓廻りを連れて出かけると思いきや、飛鳥山に付いた途端に、「暗いな! やっぱ帰るぞ!」と、満面の笑みを浮かべながら帰ったという話もある。

 今回もそういった類いの事で、野暮用をさせるために飛鳥山へと遣わされた次第であった。


「別に堅物と言われようが、苦労しようがかまいません。私は私の思う正義に従います」


 良弼の言葉を一蹴して足を進める。


「ったく正義って何だよ。訳わかんねえよ。兄上も難儀する堅物だよ。兄上もアンタは何かとつけて杓子定規の男だって文句を言ってたぜ」


 良弼は腕を組んで不服そうに言う。


「忠邦殿が何と言おうが知った事ではありません。私は……」

「私は私の思う正義に従うってんだろ? もう聞きたくねえからいいよ。しかし、桜の枝を持ってこいなんて面倒な仕事だよなあ」


 良弼は定謙の言葉を遮った。クドクドと説明されるのが嫌らしい。

 定謙は、この態度に腹を立てたのかため息をついて言った。


「そんなにやりたくなければ別にいなくなっても構いません。私一人でも十分に果たせる役目ですから」

「それじゃ定謙様にお任せしまーす!」


 良弼は表情を変えて、一目散に定謙の元を離れて行った。


「ったく、忠邦の弟だからって重用されて、あれじゃ御政道が不安で仕方が無い……」


 そう呟きながら飛鳥山の道を歩いていると、目の前から小汚い着流しを着た二人組の男が血相を変えて走って来た。


「どけええ!」


 小汚い装束の二人組とはギリギリの所でぶつからずに済んだ。

 ぶつからずに済んで、ふと横を向くと、今度は二人組の侍が血相を変えて走って来た。


「おお! そこの兄ちゃん危ないぞ!」

「ん?」


 今度はよけきれずに、大音を立ててぶつかった。


「おい志郎! 俺に構わないでさっさと追いかけろ! すぐに追いついてやるからな!」

「わかりやした兄貴!」


 ぶつかった男が大声を上げる。もう一人の男の方は一目散に走り出した。どうやら先ほどの男達を追いかけているらしい。


「いてててて。なんなんですか、あなた達は」

「すまねえな兄ちゃん。ちょっと捕り物の最中でな」


 ぶつかってきた男は、すぐさま立ち上がり着物に付いた砂を払っている。


「別に気にしないで下さい。急いでいるなら仕方あり……」

「おおそうか。本当に悪かったな。じゃあな!」


 定謙が言いきる前に男は走り去って行った。よほど急いでいるようで、周りが見えていないようだ。

 その姿を見送ると、尻に付いた砂を叩き落とそうと、下を向いた時であった。地面に巾着が落ちている。


「ん? なんだこれは」





「なんとか終わりましたね」

「まあな。仕事も終わりだ。適当に飲みに行こうぜ」


 幸生と志郎の両名は、飛鳥山で追いかけたスリ二人を小伝馬町の牢座敷へと届けたようで、安堵の息を吐きながら伝馬町の街並みを歩いている。


「兄貴! 御馳走になります! それにしても今日は羽振りがいいですね」

「あくまで仕事は仕事。これが終われば堅物のままでいる必要何かねえだろ。それに捕り物を終えた仲間には一杯奢るってのが俺の習慣なんだよ」


 志郎はなるほどといった表情になる。幸生は堅物一辺倒の男と聞いていたのだが、仕事と私用は別なようだ。こういった面倒見の良さと、仕事への熱心さで信任を得て来たのだろう。


「それにしても、兄貴が奢ってくれるだなんて、与力と言っても俸禄はたいした額じゃないですよね?」

「んな野暮ったいことを気にするなって。今回はなんたって忠春様がくださったんだよ。この文書を勘定奉行の遠山様に届けなきゃいけなくてな。その手間賃だそうだ」


 幸生は自分の懐を叩きながら言う。


「あのお嬢さんも気の効くことをするんですね」

「最初は俺もどうかと思ったんだけどな。あの衛栄も奉行に懐いているし、特に不祥事も無いし良いんじゃねえかな」


 幸生は腕を組んで感心する。かなり我の強い衛栄も忠春の言うことは素直に聞いている。そんな衛栄を手なずけた忠春にはそれなりに器はあると、幸生は考えているらしい。


「まあ、さっさと文書を届けて飲みに行きましょうよ」


 志郎がせっつかす。やれやれといった表情で幸生は文書を取り出そうと懐を探った。


「そうしようぜ。それじゃこの……」


 幸生の表情が変わった。血色のよい顔から血の気が引いて来ている。


「兄貴、どうなさったんですか?」

「無え……」


 志郎が聞き返すと、幸生はぽつりと言う。


「いや、何が無いんですか」

「文書と財布が無え……」


 幸生どころか、横でうきうきしていた志郎の顔も青ざめて行く。


「ちょっと、どうするんですか!」

「どうするもこうするもねえよ。さっさと飛鳥山に戻るぞ!」

「いや、今から行ったってどうしようもありませんよ」


 志郎は空を指差した。江戸の空はだいぶ暗くなってきており、今から飛鳥山に行っても暗くて何も見えないかもしれない。


「つべこべ抜かすんじゃねえ! これは仕事だ! 黙ってついてこい!」


 幸生は志郎の腕を掴み、駆け足で飛鳥山へと戻って行った。

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