秋風秋葉原
草紙会が終わって一週が過ぎた。秋葉原はどこか冴えない男たちの決死の戦いは終わり、魚河岸や木場の男達が以下に貨物を早く運べるかの、一刻一秒を争う戦いが繰り広げられている。夜中には道端で秋風と共に安酒での宴会も繰り広げられるいつもの姿に戻っていた。
豊国が夜中の散策を行っていると、この日の夜中にも宴会は繰り広げられていた。「草紙会も終わったのか」。豊国にそんな風に思わせる日常の光景であった。しかし、屈強な木場と魚河岸の男達の中に混ざって、貧相な山猿に似た男が一緒になって酒を呑み交わしている。
「ここにいたのですか」
「うーい、なんだ、豊国か。俺に何の用だ?」
酒を飲んでいたのは葛飾北斎であった。北斎はへべれけに酔っぱらっている。
「今年も草紙会に参加していただいてありがとうございました」
豊国は北斎の側に座り、端正な顔を地面につけてお辞儀をする。
「今年はいつもと違って色々と楽しめたぜ。あのお嬢ちゃんは特に面白いな」
「忠春様ですか」
豊国は側にあった徳利を手に取り、北斎のお猪口に注いだ。
「ああ、そうだ。俺は政治にゃあ興味がねえが、あのお嬢ちゃんは中々やると思うぜ。江戸によぉ、なんつーかなあ……」
北斎は禿げた頭を掻き始める。何か言いたいようだが、良い表現が見つからないようだ。顔を赤らめて、頭を掻く姿は山猿そっくりだった。
あまりにウンウン唸っているので、豊国が助け船を出す。
「”風を吹かす”ですか?」
「おおぉ! てめえも良いこと言うじゃねえかぁ! そうだよ。あのお嬢ちゃんは江戸に風を吹かすのさ」
豊国の言葉にスッキリしたのか、北斎は手のお猪口を一気に飲み干し一つ手を叩くと、豊国の肩を抱き大声でゲラゲラと笑い始めた。
「……確かに私も何人もの侍の方と出会いましたが、あのような方は初めてですよ」
「だろぉ? 俺もあのお嬢ちゃんには期待してんだよ」
北斎は自分で酒を注ぎ呑みながらゲラゲラと笑っている。二人して酒を注ぎ合い、小一時間ほど呑み交わしていた。
話は絵のことから、昔話、と勢いのままに語られていたのだが、唐突に北斎が豊国に切りだす。
「そうだそうだ。なあ豊国、お前の名跡を豊重に継がせたらどうだ?」
「ちょっ、何を言い出すんだよ」
予想外の言葉に豊国は酒を口から吹き出す。北斎はケラケラと笑うと話を続けた。
「あいつは紛れもなく才能はあるぞ。悪い話じゃねえと思うんだけどな」
北斎はいつになく真剣な目で言う。
「それは俺だって知ってるが、豊重か……」
「まあ、お前らの問題だからな。お互いどうせ長くないんだ。パっと決めちまいな」
「それもそうだな」
二人して大笑いをする。
豊国は一人で酒をついでいたのだが、先程の言葉を境に北斎が黙り込んでいる。
不思議がって横を見ると、北斎は静かに寝息を立てていた。
「ったく、寝たのか……」
周りで盛り上がっていた男達も完全に酔い潰れて沈黙している。
「応為ぃ! 茶あとってくれえ!」
突然北斎は腕を振り上げて、寝言を喋り始めた。
「長生きしろよ、北斎じじい……」
北斎は赤子のような寝顔をしている。一日を思うがままに生きて、本能のおもむくままに物を言う。だからこそできる寝顔なのだろう。周りから見ればハタ迷惑なのだが、どこか憎めない。それなのに男気もある。本当に不思議な男なのだ。
そんな寝顔を見て微笑みながらそう言うと、豊国も酔いが回ったのか、その場で眠りについた。
○
翌日、辰の刻(8時頃)を知らせる鐘が鳴り響いた。奉行所内で書物の整理を行っていた政憲の元に、「客人が来ました」と門番の小浜と平梨がやって来た。
門外へと出ると、聞きなれた声が横から聞こえてきた。
「よう、呼び出して悪かったな」
「これはこれは北斎殿、どうかなされたのですか?」
平梨に呼び寄せられた政憲が奉行所の門前に出ると、北斎が塀にもたれかかっていた。
「おうアンタか。約束の物だ。受け取んな」
北斎は懐から一枚の紙を取り出し、手渡しした。
「あの時に書かれた絵ですか」
「おうそうだ。別に大事にしなくたっていいぞ。だがなあ……」
そう言うと北斎は
「なんでしょうか?」
「この笑顔だけは忘れんじゃねえぞ。それと、お嬢ちゃんによろしく言っておいてくれや」
軽やかに去ってゆく北斎の足取りをただ見ていた。政憲の顔は不思議と笑顔になっている。
「浮世絵とは違った趣向の絵ですね」
平梨と小浜が政憲の手元を覗いていて言った。
「これは油絵を真似ているんですよ。長崎で何枚か見る機会があったのですが、北斎殿も知られていたんですね」
北斎に渡された絵には油絵風に描かれた政憲の顔があった。満面の笑みをして、あの時に着てなかった裃が付けられ、鮮明な青で塗られていた。
あの線画でも十二分に北斎のうまさを見せつけられたのだが、他派の技法どころか異国の技法まで身につけていた。本当に技術に貪欲な男なのだろうと政憲は感心をしている。
「……大した男ですよ。ホントに」
政憲がしみじみに感慨に浸っていると、背後から声をかけられる。
「そこのアンタ、忠春を呼んでちょうだい」
「これはこれは……」
声をかけたのは火盗改長官の長谷川宣冬だった。
贋作の事件も決着はついた。決着についてのことだろう。
「あの時の決着の話ですよね? どうぞ中へ」
「ありがとう。佐嶋、行くわよ」
宣冬は背後に控える与力と共に、宣冬は奉行所へと入って行った。
○
奉行所の御用部屋には忠春・義親・忠愛の三名が座っていた。忠愛と義親は苦い顔をしている。
「それでは、前にした約束はどうしますか?」
「最終的にはこの南町奉行所で決着がついたんだ。これは奉行所側の勝ちでいいんじゃないのか?」
政憲の言葉に、忠愛がもっともらしく言う。忠春の気を使っての言葉で間違いは無い。
黙って聞いていた宣冬も「ぐぬぬ」と納得のいかない表情をして聞いていたが、特段おかしなことを言っている訳でもないとも感じていたのだろう。
「いや、別にいいわよ。私たちの負けよ。義親を使いなさい」
「えええっ?」
その場にいた誰もが驚きの声を上げた。宣冬までもが驚いていた。
「はつ、お前それでいいのか?」
「別にいいわよ。贋作に関しては兄上の言う通りかもしれないけど、別の一件で借りが出来たわ。それは贋作以上に大変な事件になるわ。色々と考えさせてくれたお礼よ」
忠愛が忠春の両肩を掴み問いかけるも、忠春は静かにそう言った。
「忠春様……」
義親は忠春の言葉を聞き、覚悟を決めた。
「……わかりました。私は本日から火盗改に勤めます。宣冬様、よろしくお願いいたします」
必死に涙をこらえながら宣冬の真正面に座り頭を下げ続ける。
「……によこれ」
「宣冬様?」
宣冬は小さく震えている。後ろにいた佐嶋が宥めようとするも、宥める前に暴発した。
「なんなのよこれは!」
その場から立ち上がる。突然の怒号に仕事中の他の同心や与力達が御用部屋にぞろぞろと集まって来た。
「ちょっと落ち着きなさいよ……」
「全っっっ然気持ちよくないわ! 忠春っ! あの時の約束は反故にしてあげる。感謝なさい!」
忠春も宥めようとするも、顔を真っ赤にしえ怒る宣冬には効果が無い。
「でも勘違いしないでね。私は義親様を諦めてないんだから!」
宣冬は忠春を睨み付ける。そのいつもの数倍冷たい眼光の鋭さには、忠春の腰が少々引けた。小さな子が見れば失神する程の鋭さであろう。
「義親様、必ずや義親様をお迎えに上がります。期待してお待ちくださいね」
「え、ええ、お待ちしています」
とろけるような甘い声に、先ほどとは大違いの満面の笑みを浮かべる。宣冬のこの表情は紛れもなく可愛らしいのだが、あまりの豹変ぶりに義親の腰は引け、満足な返事が出来なかった。
「佐嶋、帰るわよ!」
「はい、宣冬様」
冷たい声で佐嶋を連れて、堂々と御用部屋を後にした。宣冬が廊下を進もうとすると、自然と部屋をのぞいていた者共はサッと廊下の中央を開けて宣冬らの歩行を妨げないようにした。忠春は火盗改の陣所の中を見た事は無いが、間違いなくこういう雰囲気なんだろうなと感じていた。
忠春を除く三名はただ呆然と座ったままでいた。他の三名は義親が去って行くのを必死に止める忠春を想定していた。それをいかにうまく収めるか、必死に考え話しあっていたのだが、全てがパーになった。
政憲、忠愛、義親の三名は「果たしてこれでいいのか」と、座したまま三様に考えていたのだが、忠春のみがすっと立ち上がった。
「それじゃ、仕事に戻るわよ。ほら、さっさと行きなさい!」
呆然と座る義親の肩を押して、市中の巡回に向かわせた。
義親は、釈然としない顔をしていたが、座っている訳にもいか無かった為、奉行所を後にした。
政憲は妙に弾んだ心地で歩く忠春を呼びとめた。
「敢えてこういう作戦をおとりになったのですか」
「作戦って何の話? 約束は約束。この一件では火盗改の強引さが功績を果たしたのよ? それは紛れもない事実でしょ?」
忠春は、政憲に向かって毅然と言い放つ。まぎれもなく本心からの言葉だろう。政憲もその言葉に納得をした。火盗改の情報提供が無ければこの一件はもっと複雑に進んでいたかもしれないのは間違いない。
政憲は勝手に納得してニヤニヤしていたが、忠春はそれよりも政憲の言葉に食い付く。
「っていうか政憲、”敢えて”ってどういうことなのよ」
「ただの言葉のアヤです。お気になさらないで下さい」
忠春はまだ何か言いたそうにしていたが、それをかわして政憲はその場からそそくさと去って行った。
○
宣冬らが帰った後、何も無かったかのように奉行所内を歩いてゆく忠春を忠愛が呼びとめた。
「義親が行かないでよかったな、はつ」
「別に大したことじゃないわよ」
忠春は素っ気なく言って見せるも、口角が上を向いており、喜びを隠せていないようだ。
「それにしても、泣きべそでもかいて引きとめると思っていたんだが、お前も成長したんだな。子供扱いして悪かったよ」
忠愛が意地悪く言うと左頬に忠春の右拳が炸裂する。
「次にへんなこと言ったらこの二倍の力で行くわよ」
「いや、冗談だって。本気にするなよ」
ニコッと笑っている忠春の姿を見て、左頬を押さえながら忠春に言う。
下手をすれば剣術ではなく、拳闘術であれば忠之をひっ捕らえられたのかもしれない。
「まあ、いい仲間に恵まれて日々成長してるんだな。俺も負けていられねえなあ!」
そう言うと忠愛は大声で笑った。
「そういえば、兄上はいつまで江戸にいるの?」
「もう江戸での仕事は済んだよ。屋敷に戻って昼には義時爺と西大平に帰るよ」
忠愛は外を眺めながら言った。
「おいおい、どうしたんだ」
「兄上、お元気で……」
忠春はそう言うと兄に抱きついた。なんだかんだでさびしいのだろう。
「まあこんなかわいい妹にひっつかれるなんて兄貴冥利に尽きるんだけどなあ、今生の別れじゃねんだからさ、もっと元気に見送ってくれよな」
泣きべそをかいてくっついてる忠春の頭を撫でた。
「頑張れよ、忠春」
「はい、兄上!」
忠春は元気よく答えた。満面の笑みの忠春を確認し、忠愛は奉行所を出て行った。
○
「そう言えば、江戸城中での役目はどうでしたかな」
「ああ、面倒なしきたりが多くて肩が凝ったよ。親父もはつもよくやるよなあ」
昼間に江戸を出て西大平へと帰る途中、もう暮れになった為に神奈川宿の旅籠”よこ濱”で義時と忠愛は一泊をとっていた。
「それが、忠移様と忠春様の仕事なのです。忠愛様もいい加減自覚を持って下さらないと」
「わかってるって爺や。ただ、西大平と違って面倒な事が多いのは事実だろ?」
忠愛が愚痴りながら徳利に手を伸ばす。店名が示す通り、窓の外は一里ほどの浜辺が続いている。海には篝火を焚いた漁船が数隻浮いている。
二人に酔いが回ったのか愚痴が続く。
「帰りも正賢の爺さんが船を出してくれたってのに、なんで陸路で帰んなきゃいけないんだよ」
「増山様になんて物言いをされるんですか、忠愛様! ここには増山様はいませんが……」
「だあよお! 今はその話じゃなくって、西大平までの帰り道の話をしてるんだよ!」
必死に諫言する義時に、忠愛も露骨にいやな顔をする。
忠愛が嫌な顔をするのも西大平では日常茶飯事であったが、酒も回っていたからのか、義時の言葉に熱が帯びる。
「そもそも、増山様に迷惑をかけるのもおかしな話なんです! それに、江戸での仕事を面倒とは、忠移様や忠春様に申し訳が立たないとは思われないのですか!」
「んだと? 申し訳が立たねえってのはどういう意味だ!」
「本来なら忠移様が西大平にいるというのに、忠愛様がしっかりしていないから、忠春様までもがかり出されて藩邸で働かれている。このようなことがあっていいのですか!」
「ふざけんじゃねえぞ! クソ爺いっ! こっち来いよ!」
「いいでしょう! 小峰義時、若い者にはまだまだ負けんぞ!」
義時の言葉も悪気は無いのだろうが、忠愛の心の琴線に触れたようで、一気に導火線に火がついた。
売り言葉に買い言葉。旅籠”よこ濱”の十四畳程の部屋は戦場と化した。
忠愛が体格差を生かして掴みかかるも、小柄ながら熟練の柔術の使い手である義時には簡単には通用しない。忠愛は逆に腕を掴まれて柱へと一直線に放り投げられる。
両者共に酔いが回っていた為、泥仕合となった。片方が馬乗りになって殴れば、すぐさま馬乗り仕返して蛸殴りにする。そんなことが延々と続いていた。
「あの、騒がれては他のお客様の迷惑となるので、どうかお静かにお願いします。騒ぎが大きくなれば、お侍様といえども出て行ってもらうことになりますが……」
隣の客が主人に苦情を言ったようで、二人の騒ぎっぷりを聞きつけた旅籠の主人が部屋に入って来た。
「いや、これは大変失礼いたしました。すぐさま静かにしますのでどうかご容赦を……」
すぐさま義時が主人に頭を下げる。横で膨れている忠愛だったが、横目で義時を見ている。
「お分かりになられればいいのです。どうかお静かにお願いします」
そう言うと旅籠の主人は「やれやれ」と言った表情のまま出て行った。
「……ふう。忠愛様、どうかお静かに」
「毎度毎度ありがとうな、爺や」
義時に殴られてボコボコの顔をした忠愛は、自らの盃を義時の胸元に放り投げる。同じく青あざを付けた義時も条件反射的に盃を受け取った。
「爺も呑めよ。あんだけ暴れれば酔いも醒めただろ?」
「忠愛様……」
義時は目に涙を浮かべ、すぐさま真正面に座りなおして忠愛に勢いよく頭を下げる。
「不肖小峰義時、ありがたく盃を承ります!」
「ったくよ、そういうのはやめろって! 黙って呑みゃいいんだよ」
忠愛は少々恥ずかしそうにしながら義時の盃に酒を注いだ。
半刻程経って、二人とも酔いで潰れかかってると、義時が唐突に話しだした。
「忠愛様、この状態では遠くまで歩くことは困難です。やはり西大平まで船で行きませんか?」
義時の突然の提案に、忠愛は義時の肩を強引につかむ。
「お、おお。おおお! 分かってんじゃねえか爺!」
「それでは、明日早くに品川へ行きましょう」
忠愛の喜んだ顔を見ると、自然と義時の顔も晴れ晴れとする。
「おお! そうだな! どうせ遠くまであるかねえんだ! もっと呑もうぜ爺や!」
「いやいや明日は早いんです。今日はもう休みましょう」
「それもそうだなあ。今日は休むぞ。爺もさっさと寝ろよ!」
忠愛はケラケラと笑うと床についた。
秋風秋葉原(完)