南町奉行・大岡越前守忠春
忠春主従は、江戸城大手門手前の大名小路を歩いていた。
屋敷から大手門までは徒で来ても大した時間は掛からない。穏やかな日差しの下を並んで歩いている。
「……屋敷ではああは言ったけど、やはりここの辺まで来ると緊張するわね」
「そりゃもう、名だたる大名屋敷がこの辺りには立ち並んでいますから」
忠春は辺りを見回した。この大名小路の両隣には、本多・織田・細川と言った錚々たる大大名の屋敷が連なっている。それだけに、この辺りを歩くだけで、背筋が伸びて気の引き締まるような重厚な雰囲気があった。
そんな雰囲気とは無関係に、義親は大手門の方を向いて言う。
「しかし、遠くから見ても大きい門ですよね、忠春様」
「なによ、アンタはここの辺に来るのは初めて?」
「いいえ、何度もここの辺を通っていますが毎度そう思うのですよ」
小峰義親は大岡家の譜代の家臣だ。忠春と同い年の十七で、生まれた頃よりの無二の友人でもある。
「そう言えば、忠春様は上様をご覧になった事があるのでしょうか?」
「ええ、一度だけあるわ」
「へぇ、そうなのですか。それでどんな方だったのですか?」
「あの時は小さかったけれども立派な方だったって思ったわ。やっぱり将軍には、あんな感じの立派な方がなるのかなぁって」
忠春は感傷に浸りつつそう言った。よっぽど感慨深かったのだろう。しみじみと唸りながら頷いている。現在の征夷大将軍は徳川家斉。家康から数えて十一代目に当たる。
「……本当にそうなんですかねぇ」
しかし、義親が否定気味に言った。忠春は感慨などかなぐり捨てて即座に義親へ喰らいついく。
「なによ義親、あたしが言った事が間違ってるみたいな言い方をしちゃって」
「いやいや、忠春様、私も見た訳で無いからあれなんですが……」
「いいからさっさと言いなさいよ!」
忠春は義親の胸ぐらを掴まんとくらいに詰め寄る。義親は一つため息をついた。
「聞いた話では、上様は奏者番を連れて夜な夜な辻斬りを楽しんでいる、なんて噂を聞いた事があります。他にも日本橋の酒屋で、異常なまでの大枚を叩いて豪遊している姿を見たって話も聞きます」
「聞いた事があるって、ほとんどど風の噂じゃないの」
忠春は少し安堵した様な表情でそういう。
「というか、その話って誰に聞いたのよ」
「べ、別に、誰でもいいじゃないですか!」
義親が少しムキになって言い返す。
「何よ、ムキになっちゃって。そんな風に言い返されたら余計に知りたくなるじゃない」
忠春の悪戯心に火が付いた。義親の肩を小突きながら話しに食いつく。
「だ、誰かなんて言いませんよ」
「そんな根も葉もない噂が流れてるなんて、一幕臣としてほっとけないわ。早く言いなさいよ。言わないとあんたは切腹よ?」
観念したのか、深くため息をつき義親は白状した。
「誰って、蕎麦屋の娘ですよ」
「蕎麦屋って何所の蕎麦屋よ」
「別にどこだっていいじゃないですか、忠春様」
義親は足を速めてそっぽを向いた。
「別にいいじゃないの、言わないとホントに切腹させるわよ?」
「……分かりましたよ、もう。汐留橋にある脇坂様の屋敷の向かいですよ」
「あそこの蕎麦屋の娘さんって言うと、あの可愛い娘のこと? あんた意外とやるのね」
忠春が意地悪そうに笑いながら言う。
「ったく、別にいいじゃないですか」
義親は少し顔を赤らめながら口を尖らせた。
「長い間あんたと過ごして来たけど、しっかりとやることはやってるのね」
義親の父親は、『小峰義時』と言い大岡家の筆頭家老を務めている。義親と忠春は歳が同じだったため、西大平では遊び相手として江戸では警護役として何年も付き合ってきた。
「なんかあったらあたしに相談しなさいよ、手伝えることがあったらやってあげるから」
「だから言いたくなかったんですよ、全く……」
大手門前に着くと、門の方から二人の男女が忠春主従へと近づいて声をかけてきた。
「お待ちしておりました、大岡様。私は奏者番の水野忠邦と申します」
男の名は『水野忠邦』と言った。役職は奏者番である。奏者番と言えば、旗本の中でも、今後の幕府の中枢を担ってゆく者のみがなれる役職であった。
齢は二十七で、背は五尺七寸程の長身。身なりはつま先から袖の先まで鋭く尖っている。ほのかにお香の香りがして、顔は薄く整った美男子だった。
「ささ、大岡様。こちらでございます」
忠邦は不自然なまでに作り上げられた満面の笑みで忠春を案内する。
「ありがとう。そちらの女の子は誰なの?」
「……アンタに名乗る名は無いわ」
「は、はぁ?」
女は腕を組みながら堂々と答える。普通の受け答えも出来ないのかと、忠春の言葉にトゲが出た。
「忠春様、イラっと来るのは分かります。しかし、ここで幕臣同士の喧嘩はシャレになりませんよ」
義親は小声で忠春をなだめ、忠邦もため息をつきながら代わりに答えた。
「こちらは奏者番の鳥居耀蔵と言います。少々口が悪いのです。申し訳ございませんね」
忠邦の説明した女性は『鳥居耀蔵』と言う。忠邦と同じく奏者番である。
齢は十八で背丈は五尺三寸ほど。目を細めて忠春らを睨みつけているが、容姿は美しく、大きいのだが鋭く尖った目と、艶のある長い髪が目立った。
「……それと申し訳ありませぬが、ここから先は従者の方は入れませぬゆえ、そこの腰掛けにてお待ちくだされ」
後ろに義親がいる事に気が付いた忠邦は、わざとらしく悲しげな表情を浮かべて言う。
「そうですか。義親、そこで待ってなさい」
「承知しました。忠春様、どうかお気をつけて」
義親が礼をして忠春にそう返答する。
「では大岡様、行きましょう」
忠邦の言葉で、二人に連れられて江戸城内へと入って行った。
○
「なんなのよ、これは……」
忠邦に連れられて江戸城内へ入った忠春は愕然とした。
忠春の覚えている城内とは全く違っていた。柱は朱塗り、金具という金具には金箔で押されている。壁には西洋の絵画が立ち並び、天井には豪華絢爛なガラス張りをした西洋の行燈が並んでいる。襖と言う襖にも狩野派や長谷川派の絵が描かれる豪華絢爛なものだ。
忠春の覚えていた江戸城は天井も襖も壁も何も置かれていないのだが、ところどころに花瓶と一輪刺しのあるような、質素だが威厳のある綺麗なものだったはずだった。
「忠邦殿、この様なものはいつからあるのでございますか」
「ああ、これは上様が幕府の安定を祝して作られたものでございます。そうですね、二・三年前のことですかね」
「……そうですか」
忠春の驚きっぷりと対照的に、忠邦はなんてことのないように返事をする。
間違いなく上様は、かつての上様とは違っている。忠春はそう確信した。かつて謁見した時の家斉は間違いなく名君の気風があった。それが何故こうなってしまったのだろう。そんな事を考えている内に、忠春一行は伺候間である菊の間へ到着した。
「大岡忠春、お前はここで待ってなさい」
耀蔵が冷たく言い捨てると、二人は去って行った。
「しかし、これは困ったことになったわね……」
そう呟きながら忠春は菊の間へ入って行った。襖を開けると、見覚えのある男が声をかけてきた。
「おやおや、これははつ殿でございませぬか」
部屋の隅では筒井政憲が書を読みながら座っていた。
「筒井殿、先日はありがとうございました」
「ハハハ、礼には及びませんよ。それにしても、まさかこのような場ではつ殿と会うとは思いませんでしたよ」
「私もそう思います。それと、この度わたしは元服を致しまして、大岡はつ改め、大岡忠春と名乗ることと相成りました」
「おやおや、そうでございましたか。それは誠に珍重でございますね」
政憲は眼を細くして微笑む。忠春は言葉を続けた。
「それはそうとして、長崎奉行の筒井殿は如何なる用で来られたのでしょうか」
「それが、私にも解らないのですよ、ハッハッハ」
なんてことの無い会話でさえも笑って見せるような、わざとらしい笑みに忠春は不快感を覚えるも、政憲の言葉には少し引っかかった。
「……そうなのですか」
「上様の言伝は、“ただ悪いようにはせぬ”としか聞いておりませぬので」
そう言うと政憲は読んでいた書に再び目線を戻した。
政憲の答えに忠春は納得できなかったが、これ以上聞いても意味が無いと悟る。
その事について考えるのをやめ座布団を持ってきて腰を下ろした。
「そういう忠春殿は元服の参賀ですか?」
腰を落ち着けて待っていると、突然、政憲がそう聞いて来た。興味が無くなったと思えば、急に話しかけて来る。なんというか、緩急の激しい男だ。
「どうかなさいましたか? 忠春殿」
「い、いや、なんでもありませぬ。えっと、私は上様への参賀に参りました」
政憲はにっこりとほほ笑みながら「そうでございましたか」と一言そう言い、持っていた書に目線を戻した。
色々と考えを整理していると、ここに至るまでに浮かんだ疑問を思い出した。忠春は色々とぶつけてみる。
「政憲殿は上様と話された事はあるのでしょうか」
「ええ、ありますよ。しかし、かなり昔の話ですからねぇ、今はどうなっておられるやら」
政憲は忠春に視線を合わさず、書に目を通しながらそう言った。忠春はまた聞く。
「巷では、上様は酔狂な方だという噂がありますが、どう思われますか?」
「まぁ、それは今から会って話されるのですからね。上様が酔狂かどうかは、その目で判断されるのが良いと思いますよ」
書に目を通していた政憲が、急に視線をこちらに合わせながらそう言った。先程までの様なふざけた応対では無く、真剣な眼差しをした為に忠春はたじろいでしまった。
そして、政憲と忠春の会話のすぐ後、忠邦と耀蔵が戻って来た。
「筒井殿、大岡殿、上様がお待ちです。共に付いて来てください」
耀蔵はそう言う。
「私と筒井殿の二人でですか」
忠春は驚いて動けずにいる。まさか政憲と一緒だとは思っていなかった。 しかし、横にいる政憲はニヤりとし、「そうですか。承知いたしました」と言い持っている書を懐にしまう。
「忠春殿、早く行きましょう。上様がお待ちですよ」
「は、はぁ……」
政憲がそう言うと、忠春は納得は出来ないが黙って足を進めるしかなかった。
○
「ふぅ、これはまた凄いわね……」
将軍家斉の居る御座の間の前に着いた忠春は、その絢爛ぶりにまたしても驚かされてしまった。
廊下には幾何学模様のペルシア絨毯が敷き詰められ、壁も柱も襖も天井も全て金色だった。窓にはヨーロッパの物であろう色とりどりの硝子が敷き詰められ、陽の光が御座の間を乱反射させ何が何やら解らなくなっていた。御座の間の絢爛さはこの世のものとは思えないものであった。
「これも、上様が直々に?」
「はい。これらを揃えるのには結構な額は使われたそうです」
忠邦から聞かされると、忠春は城へ向かう道中に義親に対してムキになったのが非常に馬鹿らしく思った。それと同時にあの十年程で上様の身に何が起こったのか心配になった。
隣を歩く政憲の顔は相変わらずニコニコと微笑んでいる。耀蔵が襖を少し開け、忠邦が言う。
「上様、筒井政憲殿と大岡忠春殿が参られました」
忠邦の透き通った声が御座の間に響く。
「おう、政憲に忠春か、入ってこいや」
「ははっ」
二人は声を揃えると、御座の間へと入って行った。
「お久しゅうございます。ご機嫌はいかがでしょうか」
「おお、政憲! 十年振りぐらいかぁ? まぁこれでも呑めや」
脇に酒樽を置き、手には大きな盃を持った家斉が、大声で政憲を呼んだ。家斉の顔は紅潮しきっており、完全に酔っぱらっている。
「これは、これは。上様は相変わらず御健勝でなによりです。それでは一杯いただきます」
政憲も笑顔でそれに応対する。
「……なんなのよ、この上様は」
忠春は小さくつぶやいた。この状況に全く納得が出来ない。
「しっかしよぉ、政憲も相変わらずニヤニヤしやがってよぉ、ッハッハッハ」
「元からこういう顔ですので、仕方ありません」
髷は乱れ、大紋もはだけて上半身が見えている。顔面ほどはあろう盃を持ったあの男はどう考えても「第十一代征夷大将軍」には見えない。
背後にいる忠邦と耀蔵はの二人はこの情景に慣れているのであろうか、ただ微笑みつつ下座している。
「政憲っ、お前は確か娘がいたよなぁ! 今はどうなんだよ。もしも具合が良ければ俺の側室にしてやってもいいぜぇ?」
「ハハハ、それは有り難き申し出でございます」
「ハッハッハァ! そりゃいいなぁ! ハッハッハ!」
そう言いながら家斉は、伊万里の大皿くらいの大きさのある盃を呷り、酒樽の方へ酒を酌みにフラフラとしながら戻って行った。
忠春はその光景を見ていることしか出来なかった。どう考えても、あの酔っ払いが幼少の頃に会った人間とは思えない。
そう思いつつもあの声・あの容姿はどう考えても、昔会った家斉本人である。悔しさのあまり、忠春は、酒を酌み終わり盃をあおりながらフラフラと歩いている家斉を睨みつけた。
その時、たまたま家斉と視線が一致した。
「おめぇは、あれかぁ! あんときの大岡ん所のクソ野郎が連れて来た小娘かぁ! ったくよぉ、美人に育ちやがって! 体も良さそうだしよう、俺が側室にしてやるぜぇ! ハッハッハァ!」
フラフラとしながら忠春の元に歩み寄り言い放った。
流石に上様の言葉といえども忠春は我慢が出来なかった。自分の父親をクソ野郎呼ばわりされて黙っていられるほど忠春は利口では無い。忠春はこの瞬間、完全に相手が将軍と言う事を忘れた。
「いい加減にせよっ! 無礼なっ!」
そして、義親を殴るが如く、右頬に一発拳骨を入れてしまった。
流石の将軍も黙り込んだ。忠邦と耀蔵は目を丸くして呆気にとられている。政憲もいつも浮かべている穏やかな表情に亀裂が入る。
殴った瞬間はスッとした忠春だったが、即座に状況を思い出した。
将軍を殴ったのだ。
家斉への怒りは一瞬で冷め、冷や汗がダラダラと背中を伝い体を冷やす。
“打ち首も止む無し”。その場にいた全員が間違いなくそう思っただろう。
「たた、忠春殿! 上様に何をなさるのですか!」
慌てている忠邦が背後から大声で叫ぶ。
「上様! 大丈夫でございますか」
耀蔵の悲鳴にも似た声が黄金色の部屋をこだまし、忠邦と耀蔵の両名は家斉の元に駆け寄った。
「忠春殿、気持ちはわかりますが、上様は殴るべき相手ではありませんよ」
右手を振り下ろして肩を震わせる忠春に、政憲は苦笑を浮かべる。
「その、そそその、う、上様……」
勢い余っての行為だが、完全に殴っている。目の前には頬を押さえながら尻もちをついている征夷大将軍がいるのだ。忠春はことの重大さに気がつき、へたりと腰を抜かした。
忠春以外の視線が家斉に集中する。当の家斉は目を伏せたまま動じない。
「……酒だ」
頬を押さえる家斉からポツリと漏れた。
「……え?」
「酒を持ってこい! このクソ奏者番めぇ!」
耀蔵も忠邦も家斉のこんな形相は見たこと無いだろう。家斉の肉親ですらこんな表情は見たこと無いかもしれない。
家斉は額にしわを寄せて顔を真っ赤にしながら忠邦らを怒鳴りつけた。
「ただちに持ってまいります!」
忠邦と耀蔵は、疾風の如く新しい酒樽を取りに御座の間を出て行った。
○
「ッハァ…… ッハァ……」
忠春は息をするのが精いっぱいの状況である。
昨晩、父に「家を復興させます!」なんて言ってから、半日も経たずにこの大失態である。忠春は何も考えられない。完全に放心状態にあった。
「上様、あの二人は去って行きましたよ」
政憲が廊下を見ながら、家斉にそう言い襖を閉めた。
「……よし、これでいいな」
家斉が普通の表情に戻る。
「あわわ父上ぇ…… わわあ忠相公……」
忠春は何も言えない状態である。うわ言をただ呟いている。
「政憲よ、少しやり過ぎたか?」
「間違いなく、やり過ぎでございます」
家斉と政憲が笑みをこぼした。
「忠春殿、しっかりしてください」
政憲が忠春の肩を数度小突くと、忠春はハっとして家斉に平伏した。
「こ、こ、この度は大変な御無礼をしてしまい、も、申し訳御座いませんでした! 何でもする故、どうかご容赦下さいませ!」
大粒の涙を流しながら平伏する忠春を見ながら、家斉は、涙でびしょ濡れの忠春の顔を家斉が睨み付けると、
「今、“なんでもする“って言ったよなぁ?」
「ハイ、なんでもします…… どうか、どうか家だけは容赦下さい、うわああああん」
そう言うと、忠春はまたしても泣き出してしまった。
「上様! 戯れはよしなされ!」
「ハハハ、冗談だよ、冗談。本気にするなって」
腹を抱えて笑う家斉を横目に、政憲は深いため息をつく。
「ただでさえ時間が無いのですから、早く済ませて下され。とりあえず、私は外を見張ってまいります」
政憲はそう言うと御座の間の外へ出て行った。
「この娘をからかうのも面白いが、まぁ、それもそうだな」
家斉が少し微笑むと、乱れに乱れた服を正して上座に戻り言った。
「……うぉっほん、大岡忠春よ、そなたを南町奉行に命ずる。更に越前守に叙勲する」
大泣きしていた忠春も、家斉の言葉を聞くと即座に泣きやみポカンとしている。
「わ、私が南町奉行ですかっ?」
「なんだ、お前、今さっき”何でもする“って言ったじゃねえか」
意地悪く微笑みながら家斉が言う。
「いえっ、まぁ、言いましたけど、でも、元服したばかりの、そんな、私が町奉行だなんて……」
忠春はあたふたしながら口ごもる。冗談にしてはタチが悪すぎる。
「ハッハッハ! 役職に歳なんて関係ねえよ。それに見合う器がありゃいいんだ」
「とは申されましても私なんかが……」
家斉がゲラゲラと大声を上げながら笑うが、忠春は俯いて小さくなる。
「おいおい、お前は大岡家の娘御なんだろ? だったらドンと構えてりゃいいんだよ。それにな。俺は思いつきで言ってる訳じゃねんだよ」
「どういうことでしょうか」
忠春の問いに家斉は答える。
「さっき政憲が言ってた通り、時間が無い。まぁ、また今度話してやるよ。それより、お前は人の上に立つ人間だ。それだけは間違いない。やってくれるよな?」
おぼつかない足で忠春に近付き、忠春の肩に手をまわして言う。
今までは、軽い調子で喋っていた家斉だが、。それにあれだけ酒を飲んでいたというのに、何のにおいもしない。ただ白檀の甘い香りのみが漂ってくる。
忠春はしてやられたと感じた。あれらの行動は、全て家斉に謀られていたのだ。そうなると答えは一つである。
「……分かりました。全身全霊をかけて職務に就きます!」
「そうだ。それでいいんだよ」
忠春は再び平伏した。
「それと、年番方として政憲をつける。ニヤニヤして気持ち悪ぃかも知れないが、かなり優秀な奴だからな。思う存分コキ使ってやれ」
満面の笑みで家斉が言うと、廊下から大きな咳が聞こえてくる。
「ありがたき幸せでございます! 必ずやこの、不肖大岡越前守忠春、南町奉行の大任を果たしてみせまするっ!」
そう言うと、またしても忠春の目から涙が溢れた。
「まったく、よく泣く女子だなぁ。まぁ、あれだ、やよ励めよ!」
「ははっ」
やっぱり家斉公はやっぱり名君なんだ。深く平伏をしつつ、忠春は心の中でそう確信した。それから数分後、廊下をバタバタを駆ける音が聞こえた。
「ハァっ、上様ぁ……、酒樽で、ハァっ……、ご、ございます」
新しい酒樽を持って来た忠邦と耀蔵だったが、家斉は冷徹に言い放つ。
「酒樽だぁ? 何の話だ、俺はそんな物頼んだ覚えないぞ! そんなに酒が欲しけりゃその酒樽はくれてやるよ。忠邦と耀蔵でよろしくやっててもいいぞ!」
家斉の素っ気ない返答に忠邦と耀蔵はその場にへたれこんだ。上座に座っている家斉は大盃を呷り、
「っぷはあぁ、ふぅ。おし、筒井に大岡の両名よ、やよ励め!」
政憲と忠春は声を揃えて「ははっ」と声をあげ、御座の間を出て行った。
○
下城途中に忠春は政憲に愚痴をこぼした。
「全くもって大変な人ね。あの上様は」
「まぁ、ああ振舞ってますけど、色々と大変なんですよ」
政憲は宥めるも、先だってあんな事があった後である。忠春も黙っていられない。
「何が大変なのよっ! あんな風に酒呑んで客に絡んでっ!」
「忠春様は”寛政の改革“を御存知でしょうか?」
忠春はムっとした表情で答えた。
「あったり前じゃないの、あのバカ上様が真っ当な頃にやった幕府の財政改革でしょ」
「城中でよくもバカ上様と言えますね。まぁ、大体は合っています。それでは、その後のゴタゴタも御存じですね?」
政憲はニヤリとしながら続ける。忠春は不敵な笑み少々動揺したが答えた。
「え、ええ、知ってますよ。老中の松平定信殿が失脚をされたことを指してるんですよね? 確か病気かなんかで老中を卸されたとかなんとかでしょ。そ、そりゃもう当然知ってますともっ!」
忠春は必死になって言う。政憲は小さく微笑んだ。
「……まぁいいでしょう。それについては、ここで話すことでは無いので今後話すとしましょう」
忠春は政憲の笑みの中に、陰りが差したのを見逃さなかった。
とはいえ、失脚した人間の事を江戸城中で話す訳にもいかず、深くは聞こうとしなかった。
「……あんな上様でも色々とあったから、あんな風になっているのね、わかったわ」
「それさえ分かっていただければ結構です。本当にあの方は、あんな暗君の如く振舞っていては駄目な方なのです」
政憲は静かに拳を握りしめる。
「忠春様、明日からは奉行所勤めです。色々と大変でしょうが共に幕府の為に働きましょう」
「ええ。こちらこそよろしく頼むわ。南町奉行所年番方与力の筒井殿」
忠春は微笑みかけながらそう言うと二人は熱く握手をした。
「それでは、また明日お願いします。忠春様」
「ええ、また明日」
筒井政憲は去って行った。すると義親がやって来る。
「しかし、筒井殿が年番方とは百人力ですね。忠春様」
「ええ、ほんとにそうね」
素っ気なく返す忠春は、心此処にあらずといった状態であり「父上、忠相公、私は大岡の家を必ずや盛りたてて見せます」という一念しか無い。
用語解説
『奏者番』 将軍の連絡係とか、将軍が参列できない時の代理とかを務める。「私の言葉は将軍の言葉と一緒です」なんてことを素で言っちゃう人たち。かなりエリート。地味に大岡忠愛も元奏者番なんで、そんなに馬鹿じゃなかったんだね、先祖の方ごめんなさい。