機転
日は少し傾いていた。小さかった影も斜めを向き始めており、小さな子供が影踏み遊びをしている。
三人が戻った時には善次郎の脇で北斎と義親が連れてきた医者が診断をしていた。忠春らが戻って来たのを見つけた忠愛が駆け寄って話しかける。
「はつ、どうだったか?」
「私の所は問題は無いわよ。兄上の方はどう?」
忠春は言う。忠愛は善次郎の方に視線をやる。
「善次郎さんの止血も大丈夫だ。それに医者も問題ないってさ」
「そうなの。それならいいわ」
「目撃者に話を聞いて来たんだろ? どうだったんだ」
忠愛は聞く。忠春は簡単に説明をした。
「四名ほどで襲撃に来て、その中の一人は派手な刀を指した男……」
「どうしたの兄上?」
忠愛は深いため息をついた。
「その派手な刀を指した男は豊重がアゴで使っていた男だぞ」
「ちょ、なんですって?」
「言った通りだ。さっき昌平橋を北に向かって行ったぞ。あいつは誰だか知らないが、豊重が関わっているのは間違いないな」
忠春は悲鳴に近い声を上げ、すぐさま忠愛の胸ぐらを掴み睨み付ける。
「なんでもっと早くに言わないのよ!」
「俺が悪かった。だが妙だぞ……」
忠春が血相を変えて胸ぐらを掴んでいるのだが、忠愛は妙に落ち着いている。
「何が妙だっていうのよ!」
「俺がすれ違ったのは七、八人くらいだ。他の連中はどこに行ったんだ?」
忠愛は表情を変えずに言う。
「確かにそれは妙ね……」
「だろ? とりあえずその手を離してくれないか」
「ええ、ごめんなさい」
忠春は胸ぐらから手を離した。忠愛はやれやれといった顔つきでしわくちゃになった胸元を両手で直す。すると横から政憲が話しだした。
「それは紛れもなく疑問です。しかし、襲撃者によってまた北斎殿が襲われる可能性もあります。数日の間は奉行所で保護されてはどうでしょうか?」
「政憲の言う通りね。北斎さん、それでいい?」
「ああ、応為ともどもよろしく頼むぜ」
北斎は忠春らに頭を下げる。
「それじゃ兄上と義親で北斎さん達を連れて行ってね。そしたらこの一件について人員を総動員して襲撃者を捜索しなさい」
「承知いたしました」
義親は威勢良く返事をすると奉行へと戻って行った。
「そろそろ時間ね。政憲行くわよ」
「行きましょう」
忠春と政憲は歌川派の店へと向かって行った。
○
忠春らが歌川派の店につく頃には青かった空も茜色染まった。神田川も青々としていたが夕陽に照らされて同様に染まる。子供たちの喧騒もどこかに消えた。この時間になると会場には人もほとんどおらず、各所の店では売り子が片づけをしている。歌川の店も同様で、客はほぼおらず片づけを指示する声は辺りに響いている。
さきほどの初老の男が片づけを仕切っていた。どうやら派内での地位はそこそこ高かったらしい。忠春は男に声をかける。
「そこのアンタ、南町奉行所よ。豊重を呼んでちょうだい」
「豊重殿から話は聞いております。こちらへどうぞ。それと……」
初老の男は人の良さそうな笑顔を見せる。
「『それと……』ってどうしたの?」
「後で話があります。お時間はありますか?」
初老の男は深刻そうな顔して忠春に聞く。何か思いつめているようだ。
「ええいいわ。後で奉行所に来てちょうだい」
「わかりました。もう一人連れて後で伺います」
忠春が快く返答すると、初老の男の顔はどこか和らいだ。
「それではこちらです」
初老の男に導かれるがままに暗幕の奥へと向かって行った。
○
暗幕の中はただの物置になっていた。乱雑に荷物が積まれ、
辺りを見回していると豊重がいやらしく微笑みながら忠春に話しかけてきた。
「これはこれは南町奉行様。何か怪しい点はございましたかァ?」
「別にないわ。それよりも話を聞かせてちょうだい」
「ええ、いくらでもお聞かせしますよ」
豊重の言葉をかわして忠春が冷静に答える。豊重は少々不満げな目で睨み付ける。
「さっきいた大男達はどうしたの?」
「ああ、そいつらならもう帰ったぞ。こうやって草紙会も無事に終わったからな。もう用心棒がここに居る必要は無いだろう」
豊重は答える。懐から煙管を取り出して火を付けた。
「当然そいつらの素性は知ってるんでしょうね?」
「俺が知ってるのは頭領格の男だけだ。水野成之ってんだ。アンタも知ってるよな?」
煙を吐きながら遠くを見つめる。
「他の連中は何者なの?」
「俺は知らねえな。他の連中は成之が適当に集めてきたからなあ」
忠春は豊重をじっと見つめる。言っていることはあながち嘘ではなさそうだ。忠春は話題を変えた。
「そう言えば、葛飾北斎が死んだわよ」
「な、なんだって?」
豊重は愕然とし、手にしていた煙管を落とした。『北斎が死んだ』。その言葉に暗幕の中がざわつき始める。
「お、おい。どういう事なんだ」
「さっき北斎さんの店が誰かに襲われてね。店の周りでざわついていたから駆け付けたら北斎さんが死んでたのよ。ご愁傷様ね」
忠春は無表情で言う。豊重は驚愕のあまり大声を上げる。
「お、俺は何も知らねえぞ!」
「店にいたんだものね。知らなくて当然よ」
「ああ、あ、ああ…… そ、そりゃそうだよな……」
豊重は冷や汗を流しながら慌てて地に落とした煙管を拾う。平静を装って吸い始めるが、引き攣り笑いに額の冷や汗など動揺は全く隠せていない。
「まあこの話は別にいいわ。それよりも豊国さんに会わせてちょうだい」
「あ、ああ。少し待ってろ」
豊重はそう言うと暗幕の外に出て行った。豊重が出て行くのを確認すると忠春は一つため息をつく。
「あの場面でああいうとは、はつもなかなかやるんだな」
「兄上、別に大したことじゃありません」
忠愛は忠春に駆け寄り興奮気味に言う。だが忠春は冷静だ。小声で政憲に話しかける。
「それよりも今の話を聞いてどう思う?」
「色々と面白い話が聞けましたね」
政憲はしてやったりといった顔で忠春を見る。だが忠春の表情は特段変わらない。忠春は淡々と話し続ける。
「あの慌てっぷりを見ると……」
「ええ、北斎さんを襲わせたのは間違いなく豊重ですね」
忠春の言葉を遮って政憲が言う。これには忠春も同意をする。
「ええ。そう考えていいわね。それに豊重と成之がまた会うかもしれないわね」
「確かに。その可能性は高いですね」
「これが終わったら豊重をつけてちょうだいね」
忠春の言葉に政憲が小さく返事をする。そんな会話をしていると豊重が戻って来た。背後には朝方に見た渋い男が着いて来ている。
○
「彼女が先ほどお話した南町奉行の大岡忠春様でございます」
豊重はさっきの会話では考えられないほど低姿勢で豊国を案内している。明らかに年長であろう初老の売り子には全く気を使わないのだが、この師匠には頭を垂れる。よく言えば世渡り上手で、悪く言えば節操無しといったところか。忠邦といい、忠春はこういった男を一番嫌いとしている。
ヘコヘコとする豊重を忠春が蔑んだ目で見つめていると、豊国が話しかけてきた。
「あなたが御高名な大岡様ですか。お話はかねがねお聞きしていますぞ」
豊国は微笑みながら話した。遠くで見るよりも眼光は鋭く、皺も深い。
「ありがとう。あなたも近くで見るといい男なのね。下世話な話だけど、かなりモテるんじゃないの?」
「確かに下世話な話ですね。でも私の恋人はこの筆です。それゆえお恥ずかしい話ですが、契りをかわす人も出来なかったんですよね」
豊国は見た目以上にくだけた男であった。懐から絵筆を取り出して苦笑いをする。なんとももったいの無い話だと素直に忠春は感じた。こんな色男が寄ってくれば自ら股を開く女性の方が多いだろう。
「意外なのね。てっきり子沢山で世継ぎに困ってるんじゃないかなんて思ってたわ」
「あながち間違っては無いですけどね。でも実子に相続なんてバカみたいな話だと思ったんですよ。実子よりも実力のある弟子に継がせた方が歌川派の為になると考えましてね」
「それはちょっと武家には耳の痛い話ね」
嫌味っぽく忠春は言う。実子の相続が基本的には義務な武士には耳の痛い話であろう。こう柔軟な考え方な町人を羨ましく思う。
「いやいや、そういった意味で言った訳ではないではありませんよ。それと……」
豊国も笑いながら言う。すると突然表情を変える。
「当然こんな話をするために来たんじゃないですよね?」
「ええ。実はね……」
豊国の真剣な表情に忠春も冗談をやめて話しだした。