応為
北斎の店の周りには閑散としていた先ほどとはうって変わり、黒山の人だかりになっている。
人込みをかき分けて店の前に行くと、善次郎が肩から血を流して倒れており、横で女性がへたり込んでいる。
「ちょっと、善次郎、大丈夫なの?」
「ああ、忠春様ですか。なんとか大丈夫ですよ」
善次郎は笑顔を見せる。その笑顔も苦痛で歪んでおり、斬り傷は深く浅黒い血がどくどくと地面に滴る。
「そんな冗談は今はいいの。義親、止血するからその辺に布は無いの?」
「忠春様、これをお使い下さい」
義親は日除けに使っていた布を細く長く破り忠春に手渡す。それを受け取ると手早く腕の付け根に巻きつける。
「ちょっと痛むかもしれないけど、我慢しなさい」
「ヘヘ、これ以上の痛みなんてありませんよ」
善次郎はまたも微笑みおどける様に言う。隣に居る女性は目に涙を浮かべている。
「あんたが泣いてたって善次郎がよくなるわけないじゃないの。さっきと同じような布を何枚も作って!」
「は、はいっ」
忠春は泣く女性を励ましながら、女性から布を受け取る。それを傷口にあてがい手のひらで押し付けた。
善次郎は表情を崩し苦痛に歪む顔ではいるが、声を出さずに必死に耐えている。そこに北斎を連れた忠愛がやって来る。
顔をゆがめる善次郎を見るやいなや北斎は忠愛から離れて善次郎に駆け寄る。
「おい、善次郎! 大丈夫なのか?」
「ああ、北斎先生っ! この通りぴんぴんしてますよ」
脂汗をかき、苦痛にゆがんだ顔で微笑もうとする。北斎は目に涙を浮かべる。
「バッカ野郎! 今はそんな冗談はいいんだよ!」
「ハハハ、すみません先生……」
善次郎は力なく笑う。北斎は気が気ではない。
「おいお嬢ちゃん、大丈夫なんだよな?」
「まあ、斬られたのは腕だけで斬り傷もそこまで深く無さそうだから、止血が済んで安静にしていれば治ると思うわよ。まあ、医者に見せた方がいいわね」
忠春は冷静に言う。
「よし、わかった。この辺に知り合いの医師がいるから呼んでくるぞ」
「ええ、よろしく頼むわ。義親、アンタは北斎さんの警固に回りなさい。狙いは北斎さんなんだろうしね」
「了解いたしました。北斎さん行きましょう!」
二人は医者を呼びに言った。
「忠春様、事件の現場を見たと思われる男がいました」
「政憲、言わなくても分かってるじゃない。後でそっちに行くわ」
「了解いたしました」
傷口を圧迫しながら忠春は政憲に微笑んで答える。
「兄上、ちょっと変わってもらえますか?」
「ん? ああ、いいぞ」
北斎を降ろしてから何もせず立っていた忠愛と止血の役目を交代する。
「あと少しで止血が完了するので、腕元に巻いた布を少しずつ緩めて下さいね」
「ああ、わかったよ」
「それではよろしくお願いします」
そう言い残し、忠春は政憲の所に向かって行く。忠愛は政憲の元に向かう忠春の後ろ姿をじっと見つめていた。
まだ幼いと思っていた妹が、無駄なく動き仕事をこなす
「俺もうかうかしていられないな……」
忠愛はつぶやく。それに気がついたのか、横で見ていた女性が忠愛に話しかける。
「何かおっしゃられましたか?」
「何でもないさ。そういえば、あんたが応為さんかい?」
「はい、そうですが……」
女性の名は応為であった。背はさほど高くないが綺麗な顔をしている。本当に北斎が父親なのか疑うほどだ。
「あんたも一部始終を見てるんだろう? はつの元に向かいなよ」
「いや、でも善次郎さんが……」
応為はそう言うと倒れている善次郎の方を見る。善次郎の事が心配なようだ。
「安心しなって。こいつは俺に任せな。もう少しすれば医者も来る。善次郎は死なないさ」
「でも……」
忠愛が言うもまだ不安そうにしている。
「あいつは天下の南町奉行だぜ? 安心しろって。少なくとも善次郎さんは大丈夫だよ」
「わかりました。よろしくお願いします!」
忠愛が微笑みかけると応為は笑顔になり、忠春の元へと向かって行った。
一人残された忠愛はまたもつぶやく。
「まさかとは思うけどなあ……」
昌平橋での事が頭によぎり、ため息を吐く。
○
隣の店の脇で男が小さくなっている。政憲は一人の男に話を聞いていた。
「あなたは店の者が斬られた時、ここにいたんですよね?」
「は、は、は、はい。そ、そ、そうです……」
「……それで、あの時何があったんですか?」
「は、は、は、はい。そ、そ、そうです……」
目撃者の男そう言うも、蚊の泣く声かと間違えるかくらい声は小さい。
そこに忠春がやって来た。
「政憲、どうしたの? この男が目撃者?」
「ええ。少しは話せるようですが、この状態じゃ詳しい話は難しそうです」
男に目をやる。男は完全に怯えきっており、小さくうずくまって小刻みに震えている。
忠春と政憲は目を見合わせ、どうしたものかと思案しようとしていたところだった。
「確かにこれじゃ詳しい事は聞けそうにないわね」
「私が話します!」
忠春の背後から女性がやって来た。口を真一文字に結び、その表情からは何か覚悟が感じられる。
「あなたは……」
「葛飾北斎の娘、葛飾応為です」
忠春はそれを聞くと、重要な話が聞けると晴れた表情になる。
「あなたが北斎さんの言ってた応為さんね。あなたも横にいたんだからわかるでしょ?」
「いえ、実は私も着いた時には善次郎さんは倒れていたんです。
まさかの話だった。忠春も誰もがその場に一緒に居合わせたものと思ってた。
「ええ? 一緒にいたんじゃないの?」
「確かに一緒にいました。でも、私がちょっと厠に行って戻った時には善次郎さんは斬られていました。私が見たのは男の後ろ姿だけです」
応為が申し訳なさそうに言う。
「それで、どんな男だったんですか? 背格好とか何でも構いません」
政憲が応為に問いただす。
「全員が笠を被っていました。人数は四名ほどで、そのうちの一人は大柄で、派手な刀を指していました」
「それは間違いないのですか?」
「なんせ遠くから見たものなので、間違っているかもしれませんが……」
応為は政憲の追及に自身無さげになる。
「ありがとう。なんとなくだけど全体像が見えたわ」
「これだけですみません」
「いえいえ、これだけあれば十分よ。ありがとう」
忠春は応為に微笑みかける。
すると、うずくまり小刻みに震える男が喋り出した。
「あいつは水野忠之だ…… 手を出すと厄介だぞ……」
「ちょっと、それはどういう事なのよ!」
忠春が男の肩を掴む。
「うあああああああああああああああああ」
男は叫びながら血相を変えて走り出し去って行った。あまりの男の突飛さに何もできず呆然としていた。
「一体なんなのよ……」
「水野忠之とは誰なのでしょうかね」
二人とも水野忠之など聞いたこと無い。
「仕方無いわね、とりあえず善次郎の所に戻りましょう」
「そうですね。応為さん、行きましょう」
善次郎の元に戻ろうと応為に話しかける。応為の顔は青ざめ、黙って震えている。
「まさか奴の水野忠之だなんて……」
「ちょっと、どうしたのよ」
応為の異変に気がつき話しかける。
「忠春さん、この事件は関わらない方がいいですよ」
「いや、何を言ってるのよ」
「相手が悪すぎます。奉行程度じゃどうにもなりません!」
応為は振り絞るように言う。”奉行程度”この言葉にカチンと来る。
「応為殿、詳しく聴かせて下さい」
「いや、何でもありません……」
政憲が問い詰めようとするも、ハッと我に返った応為は青ざめて口を閉ざす。
「ちょっと聞き捨てならないけど、話したくないなら別にいいわ。それよりも北斎さんの所に戻りましょう」
忠春は怒りを押さえて言う。政憲も仕方なさそうに同意する。
「……わかりました。行きましょう」
「本当にすみません……」
応為は申し訳なさそうに言う。本人に答える気が無いのであればどうしようもない。だが忠春は納得できるはずもない。政憲も同様だろう。
(水野忠之…… 一体何者なのかしら)
忠春は一抹の不安を覚えながらも倒れた善次郎の元に戻って行った。