急転直下
忠春らは昌平橋を渡り、南側一帯の歌川派の区画へと入る。歌川派の区画は相変わらず繁盛している。特に閑散としていた北斎の区画とは大違いだ。
人込みをかき分け屋台の前に着く。近くで見ると、外側は浮世絵の売り場となっているが、中央部分には暗幕が敷かれておりその中央部分に櫓台がある。
売り場にいたの売り子の一人に声をかけた。
「いらっしゃいませ。どれにいたしますか?」
売り子の男は笑顔で話しかけ、机に広げられた浮世絵を指差す。大首絵の美人画に役者絵、風景画などが幅広く並んでいる。
売り子は皺の目立つ初老の男で、どこかうだつの上がらない顔をしている。こういった仕事になれているのか、物腰は非常に柔らかい。
「浮世絵は別にいいの。南町奉行所よ。豊国に用があるんだけど会わせてくれる?」
忠春の言葉に売り子の目つきが一瞬だけ変わる。しかし、すぐ営業用の笑顔に切り替わる。
「その南町奉行所が何のご用でしょうか」
「何の用って、本当はわかってるんでしょ?」
「『わかるでしょ?』と申されても、私どもにはさっぱりわかりませんが」
忠春が言うと、男は申し訳なさそうに言う。探りを入れるが効果は無いみたいだ。
忠春は方針を転換する。
「それならいいわ。それよりも豊国に会わせなさい」
「豊国先生は多忙の身なので、お会いできる状態にありません」
「まあいいわ。中に入れさせてもらうわよ」
忠春は机をヒョイと越えて店の中に入る。義親らもそれに続き店へと入った。周りでは「何事か」客がざわつき始める。
「ちょっと、そんなことをされると困ります」
「別に何もしないわよ。ちょっと調べさせてもらうだけだから」
男は制止しようと腕を掴むが忠春が簡単に振りほどく。
すると、騒ぎを聞きつけたのか暗幕から若い男が一人出て来た。
「なんだなんだ? 何の騒ぎだ?」
「豊重さん、この人たちが押し入って来たんです」
売り子の男が忠春らを指差す。豊重は眉間にしわを寄せる。
「おいおい、勝手に入られちゃ困るんだけどなあ。さっさと出て行ってもらえないか」
「私たちは南町奉行所です。贋作の件で調べに来ました」
義親が答える。忠春らは少しは動揺すると思っていたが、豊重は顔色を全く変えず、逆に笑いだした。
「はあ? 贋作だあ? 面白い事を言うんだな。そんなもんは知らねえよ。それよりも、そんな話を店先でされちゃ俺らの評判に関わる。さっさと出て行ってくれ」
「それならば暗幕の中を調べさせてもらいます」
義親が追い打ちをかけるも、豊重は顔色は一つも変わらない。
「おいおい、今は商いの最中なんだ。また後にしてくれよ」
「いや、今させてもらいます」
義親は暗幕の中に踏み入ろうとする。すると中から堂々とした体躯の男達がやってぞろぞろと来た。
「豊重さん。外がうるさいけどなにかあったのか?」
「ああ、こいつらがふざけた噂を流して俺らのシマを荒らそうとしてるんだ。やっちまってもいいぞ」
豊重は不敵に微笑みそう言う。頭領と見られる男は金銀で飾られた見事な刀を指している。刀の柄頭には象牙細工のが装飾されている。よほどの武芸者なのか、刀を指した忠春らを見ても物おじせず、不敵に微笑んでいる。
人数は十名近い。この狭い中でこの人数さは事を起こしても不利でしかない。
「……これじゃ仕方無いわね。今回は出直すわ。義親行くわよ」
「それじゃあ夕方に来るんだな。そうすりゃ真っ当に対応してやるし、国重様にも会えるだろうよ」
「ったく、アンタ達覚悟しなさいよ」
忠春らはそう言い残して歌川派の拠点を後にした。店の周りには客以上に野次馬が群がっている。
「見世物じゃないの。さっさと消えなさい!」
忠春が言うと、客と関係の無い野次馬は我先と逃げて行った。だが忠春らは釈然としない。
○
四人は昌平橋の欄干で話し始めた。
「あの様子じゃ間違いなく何かやってるわね」
「ええ、それはだけ間違いないでしょう」
忠春の言葉に政憲は同意する。義親も。
「どうせだったら、四の五も言わさずにしょっ引いちゃえばいいんじゃないですか?」
「そんなことをした所で解決するとは限らないだろ。それに無駄に犠牲が出るかもしれないしな」
「あんたも意外と
忠愛が言う。捕まえた所で何かが分かるとも限らないのは確かだ。
義親は少し不服そうに言う。
「それじゃどうするんですか?」
「夕方まで時間はあるし、北斎さんの所に行って作戦を練り直しましょう」
忠春はため息をつき答える。豊国の所に行って『後で来い』言われた以上そうするしかない。
政憲も義親も『そうしましょう』とは言わなかったものの北斎の所へ行く態勢になっていた。だが一人だけ違った。
「はつ、腹減らないか?」
忠愛が唐突に言いだす。
「兄上はいきなり何を言い出すんですか」
「いや、俺は朝からロクに何も食ってないんだぞ? お前も義親だってそうだろう?」
確かに全員朝は支度が忙しくて大したものは食べていない。それに太陽も宙天にあり昼ごろである。
「そんなこと言ったって……」
忠春は言い返そうとする。すると腹から『ぐぅ』と重低音が鳴り響く。
自分でも不意の出来事で忠春は顔を赤らめる。
「ほら、お前の腹だって鳴っているんだ。腹が減ってたらよい考えも生まれないしな」
「……わかったわよ。適当な茶屋でも探して休憩しましょう。北斎さんの所に行くのはその後ね」
もっともらしく言う忠愛に対して、仕方無さげに忠春は言う。他の面々も、軽く腹ごしらえをしてから行っても遅くは無かろう、そんな風に考えていた。
幸いにして神田界隈には商店が広がっており、茶屋を探すなど容易い話だ。忠春らは足早に昌平橋を北へと進んで行った。
「ああは言ってたけど、はつが一番行きたかったんだな」
駆けるように行く忠春を見て忠愛が呟く。他の二名もそれに続くように足早に歩いている。
忠愛の横を編み傘を目深にかぶった男数名が横切る。全員が刀を指しており、忠愛の目にふと留まる。
「ん? あいつは……」
一番後ろで突然立ち止まった忠愛に忠春が話しかける。
「言い出した張本人がそこに立ち止まってどうすんのよ。さっさと食べに行きましょう」
「ああ、すまないな」
忠春の言うことがもっともだ。忠愛は特に気に止めることはせず足早にその場を去って行った。 神田佐久間町は材木の町として栄えた所である。更に北斎の区画というのも佐久間町に近い所にあり、作戦会議場所の通り道の様なものだ。
材木の運搬の労働者で溢れかえる場所なので、安くて大盛りの飯屋が多い。さらに、体を酷使する草紙会の参加者の腹ごしらえの場所としても名高い。
「ここだここだ。ここの天ぷら蕎麦がうまいんだ。それに江戸と言えば蕎麦だろ!」
忠愛は古びた看板を指差す。古ぼけた看板には擦れた字で『きそば』とかかれている。忠春はあまりの質素さに不安を覚える。
「本当にこんな店で大丈夫なの?」
「ああ、増山の爺さんもここの蕎麦が大好物なんだそうだ。いつもは木場の人夫で混み合っているんだけど今日は仕事は無いからな」
忠愛はそんなことまで聞いていたのか、忠春は素直に驚いている。
あの遊び人がそう言うのだからその通りなのかもしれない。忠春の不安は期待へと変わってゆく。
「それじゃ早く入りましょう」
義親が店に入る。
「なんだ、アンタたちもこの店に来たのか」
聞き覚えのあるしゃがれた声が聞こえる。続いて入って来た忠春が声を上げた。
「何よ、北斎さんもいたのね」
「おう、それにしてもこの店に目をつけるとは、絵とは違って食い物には目があるんだな。少しは感心したね」
北斎が座敷席に座り勢いよく音を立てて蕎麦を食べていた。
「まあね。ずっと江戸に住んでるんだから当然よ」
忠春は調子に乗りそう言う。横にいた政憲が北斎に問いかける。
「そういえば店番の方はどうなさってるんですか」
「ちょうど休憩だ。といっても応為と善次郎が店番をやってるんだけどな」
北斎の言葉に忠春がすかさず言う。
「要はサボってるのね」
「馬鹿言うんじゃねえ。休憩するのも立派な仕事だってんだ」
北斎は大声で笑いながら言う。自分たちも食事のために仕事を止めているのだ。あながち間違ってはいないだろう。
そんな話をしていると、忠愛が台所から戻って来きて北斎のいる座敷席につく。
「とりあえず天ぷらそばを4つ頼んで来たぞ」
「天ぷらそばか、俺は盛り蕎麦を食ってたけど、天ぷらもいいなあ。お嬢ちゃん、食べ過ぎると太るぞ。だから俺に少し分けちゃくれないか」
「いや、余計なお世話よ。自分で頼めばいいじゃないの」
忠春が呆れながら言う。
「まあ、それもそうだな。親父、天ぷら一つくれ!」
「あいよ」
台所の方から返事が聞こえた。北斎の注文が届いたようだ。
「北斎殿の店はここから近いんですか?」
「ああ、こっからでも見えると思うぞ」
北斎が格子窓の先を指差す。忠春らも指先の方を見る。ここからではよく分からないがどうやら近いらしい。
「そう言えば、俺の店をあんた達は知らないんだよな。喰い終わったら連れてってやるよ」
「それはありがたいです」
政憲が北斎に頭を下げる。
「どうせ店に戻るんだからな。頭を下げる程のことじゃねえよ」
北斎が笑いながら言う。
「そう言えば『応為』と何度かおっしゃっていましたけど、どなたなんですか?」
「それも知らないのか。応為は俺の娘だよ。絵師をやってんだ」
「北斎さんに娘がいたんだ。知らなかったわ」
「まあ、あいつは男を知らないくせに春画を描く半端物だ。まだまだだよ。お嬢ちゃんは知ってんのか?」
北斎はそばをすすりながら言う。
「い、いや、ちょっとアンタいきなり何言ってんのよ」
「何って、男を知ってるかって聞いてんだよ。変な事聞いたか?」
唐突な話に忠春は酷く動揺する。
「何驚いてんだよ。そっちの坊主は知ってんのか?」
「え、ええ? 私ですか?」
今度は義親に話を振る。まさかの質問に同じく動揺をする。
「なんだなんだ。二人して童貞に処女か。それならいっそ……」
北斎が言いきろうとするも、途中で忠春が右拳を北斎の顔面にぶち込む。
「アンタいい加減にしなさいよ」
「ハハハハハ、冗談だって、本気にするなよな」
「ったく、北斎さんじゃなかったら死刑よ」
大声で笑う北斎に忠春はまたしても呆れた顔になる。
「注文の天ぷらそば四つに天ぷらね」
そうこうしていると天ぷらそばが四つやってきた。忠愛の言う通りの量である。天ぷらはどんぶりかはみ出るほどの大きさで、衣は綺麗な黄金色に揚げられている。種類もエビにキス、ナスにタラの芽と季節の品が取り入れられている。
この量と質に全員が圧倒される。
「これはまた凄いですね。初めて見ましたよ」
「ああ、あの増山の爺さんが楽しみにする訳だな」
政憲も目を丸くして驚いている。
「なんだなんだ、お嬢ちゃんは常連みたいな口ぶりだったけど違うのかい?」
「北斎! あんたはいいの!」
北斎は意地悪く微笑みながら煽る。
「まあ、親父の見てくれは悪いが味は日の本一だ。冷めないうちに食べな」
「ったく、北斎さんにだけは言われたかねえよ」
店の親父も苦笑いしながらそう言い返す。
忠春が天ぷらの山を崩しながら言う。
「そういえば、北斎さんの言う通り歌川派の所に行って来たわよ」
「ほう、それでどんな感じだったのか?」
北斎はタラの芽を齧りながら聞く。
「それが……」
忠春は北斎に説明をした。
○
「豊重か…… またアイツは変な事を考えてんじゃねえだろうなあ」
北斎は腕を組み考え込むしぐさを取る。
「豊重を知ってるの?」
「まあな。古い知り合いのつてでな。才能はあるんだけどな、ただアイツは努力をすることを知らないんだよ」
北斎はため息をつく。そばをほとんど食べ終えた忠愛が口を挟む。
「努力を知らないとはどういう事なんですか?」
「ああ、才能っていうのは当然だが日ごろの鍛錬の成果なんだ。いいものを持っていても磨かなければ意味は無い。そこはわかるだろ?」
「それはわかります」
忠愛が返事をする。北斎は遠くを見つめながら言う。
「だがアイツはその努力を怠った。それに他を蹴落とすことに注力したんだ」
「他を蹴落とすといいますと?」
またも北斎はため息をつく。
「同門の奴を徹底的に邪魔し続けたんだ。あらゆる手を使ってな」
「才能があるのに勿体ない話ですね」
忠愛も言う。
「ああ。全くその通りだ。歌川といえども才能を持っているやつが道をはずして消えゆくのは見たくは無いからな」
北斎は吐き捨てるように言い、車海老の天ぷらを丸のみにする。
政憲も蕎麦をすすりながら言う。
「まあ、この一件も豊重絡みなのかもしれないな。違ってたら申し訳ないんだけどな」
「いや北斎殿の考えで合っているかもしれませんよ」
「別にどうでもいいや。あいつらが何をしようが俺にゃ関係無いからな」
尾っぽまでバリバリと噛みながら言う。
忠春も蕎麦を食べ終えたようだ。
「それにしてもこの蕎麦は美味しいわね。汐留橋の所と同じくらい美味しいわね」
「いや、その話は今関係無いじゃないですか」
忠春が義親に意地悪く言う。
「いや、私は蕎麦の話をしてるのよ。何ムキになってんの?」
「別にムキになんてなってませんよ」
「いやムキになってるわよ」
忠春と義親が言いあう。そんなやりとり見ていたを向かい側に座る北斎が、隣の忠愛に話しかける。
「アンタはお嬢ちゃんの兄貴なんだろ?」
「ええ、大岡忠愛と言います」
「忠愛さんか、あの二人は本当に何にもないのか?」
北斎が小声で聞く。忠愛も小声で返す。
「私の知る限りは何も進展はありませんが……」
「まあ、兄貴のアンタが上手く操ってやれよ。俺が見る限りあれほどお似合いの二人組は見た事無いぞ」
「北斎先生も同感でしたか、実は私も……」
正面でひそひそ話をしている姿は明らかに異様である。言い合っている忠春と義親もそれに気がついた。
「ちょっと、二人して何話してんのよ」
「そうですよ、何を話されてるんですか?」
忠春と義親の両名は北斎に問いただす。
「まあ、大した話じゃねえよ。二人で仲良くしなさいなってこった」
「別にあんたに言われるまでも無いわよ」
忠春はぶっきら棒に言う。
「それなら俺が言うことは何もねえよ」
北斎は苦笑いをする。
「それではそろそろ行きましょうか」
「そうだな。これは俺の払いにしてやるよ。年長者の仕事だからな」
「いや、それには及びませんよ……」
政憲が懐から財布を取り出そうとする。だが、その手を北斎が押さえた。
「人の親切は黙って受けるもんだ。江戸の平安を司ってもらってるお礼だって。気にすんなよ」
北斎は笑む。
「見た目と違ってよく出来た人間なのね。見直したわ」
「ったく、お嬢ちゃんは一言余計なんだよ」
「いや、あなたに言われたくないわよ」
「それもそうだな」
その場にいる全員は朗らかに笑った。
北斎が払いを済ませて表に出ると、にわかに人が集まっていて妙に騒がしい。政憲が通行人の一人に話しかける。
「どうかしたんですか?」
「北斎さんの店が誰かに襲撃を受けたらしい」
北斎が通行人の胸ぐらに掴みかかる。
「お、おい、死人は出てないんだろうな?」
「そこまでは知らねえよ。なんなんだよアンタは……」
通行人が北斎の手をほどいて、ぶつくさ文句を言いながら去って行った。
北斎は顔面蒼白となり、力なくその場に崩れ落ちる。
「とりあえず、現場に行きましょう」
「ええ、そうしましょう」
忠春の号令と共に、忠愛は北斎を抱え駆け足で北斎の店へと向かった。
『そば』 江戸のソウルフードの一つで、「天ぷら」「蕎麦」「寿司」の三つが江戸三大美味なんて言われているそうです。また、江戸には三つの有名な蕎麦屋があって今も残っているそうです。
『天ぷら』 江戸のソウルフード。江戸は港町なので、イセエビやキス、タイ、ヒラメといった食材が豊富に獲れました。それを新鮮なうちに天ぷらにするというのはごくごく自然な流れですね。ちなみに家康が食べたとされる天ぷらは、今の天ぷらと違って衣は無く、油でさっと揚げたようなモノだそうです。