大男の過去
「実は昔武士だったんですよ」
「へえ、そうだったの」
善次郎が感情をこめて言うも、忠春は素っ気なく言い返す。これには善次郎も出鼻をくじかれる。
「いやいや忠春様、もうちょっと感情をこめて言いましょうよ?」
「興味が無いものは興味が無いの!」
忠春はつまらなそうに腕を組み、毅然と言い返す。善次郎の過去など相当に興味が無いようだ。
俯き落ち込んでいる善次郎を見かねた義親が助け船を出す。
「善次郎さん、気にせず話を続けて下さい」
「義親殿、ありがとうございます」
義親に頭を下げると話を続けた。
「私は日枝神社の近くで生まれましてね、あの辺は星が岡と言って夜空の綺麗な所なんですよ」
「見かけによらずちょっと洒落たことを言うのね」
忠春は茶々を入れる。だが善次郎は意に介せず話を続ける。
「私は幼い頃から近所に住んでいた狩野先生に、今の私の全てを教わったんです」
善次郎の言葉に、義親には疑問が浮かぶ。
「狩野先生と言うことは絵を学ばれたんですか」
「いや、それが違うんですよ」
「どういうことなんですか?」
義親の素直な返事に善次郎は得意な顔になる。
「その狩野先生というのは剣客でもあったんですよ。そこで絵と武術を学びました」
「『絵師兼剣客』ねえ…… 江戸には変わった人がいるのね」
「ええ、白珪斎先生にはお世話になりました……」
善次郎は拳を握り感慨深く語る。よほど思い入れがあるのだろう、眼には見る見るうちに涙が溜まり始める。
「そして、武技とこの恵まれた体躯を買われて水野様の家に奉公していたんです」
善次郎は両手を広げ自らの肉体を誇示する。
「その水野っていうとどこの水野よ」
興味なさげに聞いていた忠春だったが、”水野”という単語にとっさに喰いつく。
「水野壱岐守忠韶様です。忠韶様には本当に色々とお世話になったんですよ」
善次郎の目からとうとう涙が溢れ出し、声をあげて泣き出した。
大男の泣き顔など何にも面白くない。忠春は冷めた目で善次郎を見つめる。
「もう行っていいかしら?」
「まあまあ待って下さい。ここからが私の人生の転機で、面白い話ですよ」
善次郎は鼻をすすり、袖で涙をぬぐった。いつになく真剣な表情になる。
「あの日は忘れもしません。私が十七の時です」
○
「文化4年(1807年)、私はこの恵まれた体躯を買われて、忠韶様の小姓を務めていました。そこに、とある男が子供を連れて屋敷にやって来たんです」
――
江戸には夏も過ぎ、秋の涼しさがやって来たある日、鍛冶橋御門脇の水野壱岐守の屋敷に大人と子供の二人組がやって来た。
「忠韶殿に会わせてくれ」
大人の方が背は低いが貫禄のある声で言う。その声には風体以上の威圧感がある。間違いなく幕府のお偉方だろう。
横に控える子供は、爽やかで端正な顔立ちをしている。良く分からないが、あの男の小姓か何かだろう。少年は善次郎の姿を見ると不敵に微笑んだ。
「承知いたしました。今お呼びいたしますので少々お待ち下さい」
善次郎は子供の笑みを不思議に思いながらも返事をし、足早に書斎に向かった。
「忠韶様に客人です」
「おお、やっと来たのか。善次郎、お前もついて参れ」
忠韶はそう言うと腰を上げ、客間へ向かって行った。
客間へと向かう廊下で、善次郎は忠韶に質問する。
「今来た方は誰なのですか?」
「あの方は水野忠成様だ」
善次郎は驚く。忠成は元はただの旗本の生まれだが、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世をし、今では若年寄を務めている。とはいえ忠韶も奏者番を務めており、役柄では引けを取らない。善次郎にはそんな矜持がある。
「くれぐれも余計なことはしないでくれよ。忠成殿は色々と面倒な人だからな……」
善次郎の不穏な雰囲気を感じたのか、忠韶が小声で念を押す。
客間に着くと、別の小姓が二人を連れて待っていた。忠成が手を広げて話しかける。
「おう、忠韶。久しぶりだな」
「これはこれは出羽守様。お久しぶりでございます」
忠韶はいつになく笑顔を繕う。
「忠成殿、あれが忠韶ですか。我が一族には見えないような冴えない男ですね」
子供の方が生意気に話しかける。
忠韶は笑顔で忠成に問う。目は笑っていない。
「この大物は誰ですかな」
「唐津藩の水野忠邦だ。忠邦、口を慎みなさい。家格は格下といえど年長者だぞ」
忠成は毅然と言う。善次郎は、噂とは違い『出来た男なのだな』と感心をしていた。だが、事実は違った。
「忠成殿、所詮は一万五千石程の者など、私が敬うに値しません。どうせ、十年もすれば向こうがこっちに頭を下げるんだ。むしろアンタが俺に頭を垂れるべきじゃないのか?」
忠邦は忠韶へと微笑みかける。礼儀知らずもここまでくれば清々しい。
忠韶も奏者番をやる程の切れ者ではある。政道もよく、藩では名君と慕われている男だ。笑顔をひきつらせながらも言い返す。
「ハハハ、忠邦殿は口が立たれるようだ。若くしてこれ程の口ぶりとは、将来が楽しみですな」
忠韶精いっぱいの返答をする。笑顔を取り繕うも、首筋には血管が浮き出て、内では煮えくり返る怒りがこみ上げているだろう。
それを聞いた忠邦は満足げに答えた。
「それでいいんだよアンタは。それにしてもこの屋敷では客人に茶も出さないのか? 奏者番が聞いて呆れるな」
「忠邦、それは言い過ぎだぞ」
横で座っている忠成も苦言を呈す。
「忠成殿は甘いんです。忠成殿はよそ者だからって、こんな半端者に気なんか使う必要は無いんですよ。もっと堂々としないと」
忠邦はそう言うとゲラゲラと笑いだした。
忠成も呆れ顔になっている。すると、忠韶は怒りのあまり刀の柄を掴む。忠邦はそれを見逃さなかった。
「あれ? 私のことを斬るんですか? そんなことしたらどうなるか分かってますよね?」
忠邦はニヤけながら、忠韶指を指して笑う。玄関先で見せた端正な顔立ちはどこにもない。狂気を孕んだ少年の顔だ。
面前で十五に満たない子供に馬鹿にされては大人としても黙ってはいられない。忠韶は怒りに震え、刀を抜き飛びかかろうとする。
だが実際に飛び掛かったのは善次郎だった。
――
「という話なんですよ。私は絶対にあのガキを許しませんね。というよりか、武士全般が嫌いになりましたね。でも、忠春様らは違いますよ」
話を聞いた一同は呆然としている。だが、一人忠春は目を輝かしている。
「ただの変な性癖を持ったクズかと思ってたけど、忠邦をのすなんてあんたもなかなかやるじゃない」
「お褒めにあずかり光栄です」
忠春と善次郎は肩を組む。先ほどのつまらなそうな表情とは大違いだ。
「水野家では結局どうなったんですか?」
「その後、私は暇をもらいましてね。まあ、飛び出した訳が訳だったんで忠韶様からは生活の支援をしていただき、なんとか暮らして行きましたよ」
義親の問いに、善次郎は頭を掻き苦笑いしながら答える。
「それからどうなったんですか?」
「菊川英山の兄貴に出会うんです」
忠愛が興奮気味に聞く。
「菊川英山って、あの菊川英山先生か?」
「ええ、あの英山です。何度も酒を飲み交わすうちに、気がついたら私の兄貴分になってたんですよ」
善次郎は大声で笑う。
「それで英山先生はどこにいるんだ」
「それが体を壊してしまいましてね、家で休んでいますよ」
善次郎は悲しげに言う。
「うわああ、それはへこむなあ」
それ以上に忠愛は落ち込む。
「それだったら、後日私どもの家に案内しますよ。それで適当に欲しい物があったら持って行って下さい」
「ええ? ほんとですか?」
「色々とお世話になりましたからね。それくらいはいいですよ」
善次郎の返事に忠愛は大喜びし、妹と共に肩を組み跳ねまわる。
「ったく善次郎、バカやってねえでさっさと店に戻るぞ。応為に何を言われるかわかったもんじゃねえ」
「ハハハ、すみません。それじゃ、何かあったら私どもの店や家にいらして下さい。私も一介の絵師として歌川のやり方は気に食いませんからね」
北斎は呆れながらそう言うと、一人店の方へと戻っていく。善次郎は追いかけるように去って行った。
「さて、どうしましょうかね」
「とりあえず、豊国に話を聞きましょう」
忠春が言う。何事も話を聞かなければ始まらないだろう。
「そうは言っても正直に言いますかね」
「まあ、話を聞かなきゃどうにもならないし、豊国の所に行きましょう」
「それもそうですね。義親殿と国定殿は奉行所に戻って浮世絵について色々と調べてみて下さい」
「ワタクシも行くのですか?」
国定が驚いたように答える。
「お咎め無しにしてあげるんだから、これくらいは仕事をしなさいよね。もし断るんだったら……」
忠春は国定に笑顔で拳を見せる。仕事か制裁か。国定の答えは一つしかない。
「承知いたしました。全身全霊をかけてこの仕事に当たらさせていただきます」
「それでいいのよ」
国定は直立不動になり大声で答える。
「それじゃ国定、よろしく頼んだわよ」
「国定殿、よろしくお願いします」
義親は嫌がる国定を諭す。国定は奉行所へと戻って行った。
「それじゃ、私たちも行きましょう」
「はつ、俺はどうすりゃいいんだ?」
忠春は意気揚々と豊国の元に行こうとするも、忠愛は横で自らを指差し質問する。
「兄上もとりあえずついて来て下さい。多分何かの訳に立ちますから」
「おう、わかった!」
四名は豊国の元へと向かって行った。
用語解説
『水野忠韶』 みずのただてる。上総鶴牧藩(今の市原市)初代藩主。彼の正室は忠春らと同じ大岡氏で、遠い親戚に当たる。
『菊川英山』 美人画で名をはせた浮世絵師。英泉とは4つくらいしか年が変わらないので、師匠と言うよりかは悪友とか兄貴分みたいなものだったはず。