南町奉行対火盗改
宣冬の「義親を火盗改にちょうだい」発言により場は凍った。誰もがそんな発言は予想していない。当の本人も顔を真っ赤にして佐嶋の元に駆け寄っている。駆け寄られた佐嶋もキョトンとする。
そんな空気を切り裂いたのは忠春であった。
「ちょっと宣冬。アンタ何言ってんのよ」
言葉には怒りとかそういうものは無く、ただただ驚きしか無い。
宣冬は佐嶋の胸元にうずくまりながら話す。
「何って、言葉どおりの意味よ。義親様は火盗改で働くの」
「いやいや、義親はうち(大岡家)の家臣だし、南町奉行所の与力なのよ? いい訳無いじゃないの」
忠春がもっともらしく言う。
「へえ、そういうことを言うんだ……」
「だったら何だっていうのよ」
宣冬はニコッとほほ笑む。
「佐嶋、本所の屋敷に行って招集をかけて来なさい」
「な、何する気なのよ」
「さっきの話は無かったことにして、刀で決着つけましょう」
話は振り出しに戻すということらしい。忠春をいつもの氷のような視線で見つめる。宣冬の表情を見る限り冗談では無さそうだ。
忠春もそれには動揺をする。それ以上に周りがざわついている。
「いやいやいや、それはおかしいでしょ」
「それが嫌なら、黙って義親様を火盗改にちょうだい」
宣冬は意固地になる。このままでは話が進まない。下手すれば江戸で血で血を洗う抗争になる可能性もある。
「その前に義親に決めてもらいましょうよ、当然アンタは南町奉行所に残るんでしょうね?」
忠春は義親に向かって手を取る。
「義親様、一緒に火盗改に来てもらえませんか?」
宣冬は両手で義親の手を握り、懇願する目で見る。鬼平とあだ名される人の目では無い。普通の恋する少女の目である。
「いや、その……」
義親はただ困惑している。どっちにつきます。なんて義親に言えるはずは無い。
だが、そんな態度を見た忠春もしびれを切らした。
「ったく、上等じゃないの。政憲、奉行所に連絡よ。火盗改を潰しましょう」
忠春も声を荒げて政憲に伝える。闘志に火を付けたらしい。
さすがにこれを見かねた政憲が二人に歩み寄る。
「まあまあ、二人とも落ち着いて下さい」
「アンタは黙ってなさい!」
忠春と宣冬は声を揃えて言う。政憲は怯まない。
「まあまあ、落ち着いて下さい。こんな所で斬り合ったって何の得にもならないでしょう。私に提案があります」
政憲は呆れながら言う。
「宣冬殿は義親君が欲しい。忠春様はあげたくない。ならこうしましょう」
「どうするのよ」
宣冬が問う。
「両名が競い合って、誰の目にも分かる決着をつけさせればいいのです」
二人は黙って聞いている。政憲はニヤリとして話を続ける。
「さきほど歌川豊国の贋作が出回っているという話がありました。北斎先生、そうなんですよね?」
「ああ、間違いねえよ」
北斎は腕を組み答える。政憲は微笑み話を続ける。
「それならば南町奉行所・火付盗賊改方の両者で、この案件を先に片付けた方が義親君を好きなように出来るというのはどうでしょうか?」
「そりゃあ面白そうだな」
忠愛が笑いながら答える。
「私は別にいいわよ。宣冬次第ね」
「私もそれでいいわ。あんた達みたいな文官に負ける気なんてしないわね」
二人とも納得したようだ。政憲は二人の答えに満足したように微笑む。江戸での斬り合いは回避された。どれだけ長く続くかは分からないが。
「私には選択の余地は無いんですね……」
義親は肩を落として呟いた。
『南町奉行と火盗改』 同じ旗本でも南町奉行(北町奉行も同じ)はあくまでも官僚で、火盗改は軍人。これが決定的な差で、両者の対立は、武官と文官の対立でもあった訳でした。それ以外にも差はたくさんあるけど、次回以降に回したいと思います。